記事タイトル:学校における剣道は武道かスポーツか? 


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お名前: Paladin   
to エヌ、ケイさん
竹刀の長さは、講武所が3尺8寸を基準としたのが始まりと聞いたことがあります。

>武と言うものの解釈 武 私的な軍事的な個人的能力なのに 
武道と称するものは心身の鍛錬、技の練磨を通して人格形成を目指していますので、
「私的な軍事的な個人的能力」を求めないほうが良いでしょう。
[2007/06/07 00:24:21]

お名前: Hide.    URL
To エヌケイさん

管理人のHide.です。

もう今の時代に「斬った斬られた」もないでしょうから、まさに、剣道は「畳の上での水
泳」でしょうね(笑)

でも、その根底に流れるのは、日本人が培ってきた文化です。
できるだけ先人の英知をムダにすることなく、現代にマッチする形で高め残していくこと。
それが大切だと考えています(^^)


そも「武」とは「矛を止める」という意味。
現代にこそ必要な思想なんじゃないですか(^_-)〜☆
[2007/06/06 07:54:53]

お名前: エヌ、ケイ   
皆さんさんにお聞きしたいのですが、少しテーマからそれますが 剣道の現在競技上で行われている 竹刀の長さ また 試合場の大きさ その出来た時期 競技の時間
なぜ 正座をするのか なぜ蹲踞するようになったのか なぜ剣道が武道なのか 武と言うものの解釈 武 私的な軍事的な個人的能力なのに 剣道は昔の武であり 今の武ではない いわば畳の上の水泳みたいなところがあるように思える。どうですか教えてください。  
[2007/06/06 00:14:46]

お名前: 格闘武道マン   
今の剣道は、マッカーサのアメリカもどき流ジャパン派、撓いスポーツ競技だ、
武道ではなく、球技や、陸上競技と、モグラ叩きゲームと、同じだ。打突の当て子で、早く打つだけのポイント制は、真剣勝負から、かけ離れた、子供とお嬢さんの好む
競技だ、日本の剣技が、GHQに、骨付きにされたのか、今の剣道は、剣道では、ない
GHQの撓い競技だ。柔道のように、実践見があれば、認めるが、無理でしょう!
[2007/03/03 11:00:17]

お名前: 、おp   
そんなこと言わないで!
[2005/12/26 14:12:50]

お名前: Hide.    URL
to うりさん

管理人のHide.です。
そうですよね。もっと多くの人に、剣道の良さを認識してほしいものですヽ(^.^)ノ
[2005/11/27 06:05:34]

お名前: うり   
剣道は、痛いとか、くさいとかいわれているけど、すごく
良いスポーツだから、もっとやる人増えてほしい。
[2005/11/26 21:27:33]

お名前: 独り言   
学校の先生もひどいのいるからなぁ

生徒はくず扱い。
[2003/09/01 18:20:51]

お名前: kimi   
中学・高校の最高峰にあたる大会の目的は以下の通りです。

1,技能の向上
2,スポーツ(アマチュアスポーツ)精神の高揚 
3,心身ともに健全(健康)な生徒の育成
4,生徒相互の親睦を図る

他の種目でも共通する目的となっていますので、学校(中学・高校)現場では、剣道だからと言って、あまり特別扱いしなくて良いのかも知れません。
むしろ実情から鑑み、目的から外れている種目の方が多いのかも知れません。
[2003/08/07 13:25:31]

お名前: 越生梅林   
練習とほぼ同じ意味の言葉として稽古という言葉は存在している。しかし、スポーツ全般では練習とかトレーニングという言葉が用いられるが武道や芸道では稽古という言葉を用いるのが一般的である。技の習得と心を磨く過程を示している言葉に「守・破・離」という言葉がある。「守・破・離」とは江戸時代中期に江戸千家の宗匠川上不白が使った言葉とされ、稽古を積み重ねた段階に分け、技から心へと道を確立するものという意味を持っている。稽古という意味の学習方法、伝承方法には日本の伝統文化における道の追求の考え方が表れている。
[2003/08/01 21:58:40]

お名前: kimi   
to  ひろりん様  昔の剣道少年様

> 人生経験や、剣道の経験を積んでいくうちに、
> 自然と各人が共通の普天的な哲学的な境地に近づいていくんじゃないか
> と思っています。

究極の理念ですね!
はたして、ここに至る剣士がどれだけおられるか。

しかし、よくよく考えてみると、「普遍的な哲学的な境地」だけを望むなら、剣道に拘る
必要はありません。ボランティアや宗教、哲学を極めた方が効果的かも知れません。
やはり根底には、楽しみも含めた剣道があるのでしょうね。

剣道が競技の形態を持つ事は、「打たれない」「相手を打ち負かす」「試合に勝つ」考えが
生まれる土壌のように思われます。
また、剣道の祖たる兵法は限りなく近いものでもありました。

活人剣(初期段階では真剣不要の教え?)を発展させた理念が真に大切ならば、時代を逆
行し、修行はするが試合は行わない方向に向かうべきなのかも知れません。
しかし、これでは楽しみが半減し剣道人口は大幅に減少してしまいます。
また、それを補うために生まれた竹刀剣道でもあります。

人間の性とは不思議もので、「欲」とは切っても切れない縁にあるようです。
人が生きてゆく限り、「欲」は必要ですが、「強欲」となっては蔑まれる対象となります。
剣道でもその辺りのバランスが求められているのでしょうか?

これまで底辺に対して理念、理念と強調するがあまり、肝心の指導者に対する教育をなお
ざりにしたつけが廻って来たのかも知れません。
「何処の世界も一緒だよ」「今も昔も変わらないよ」との声も、チラホラと聞こえて来そ
うな気配ではありますが・・・。
[2003/07/23 18:37:09]

お名前: ひろりん   
ども、クリスチャン剣士のひろりんです。

剣についての考え方感じ方というのは、人それぞれですし
また各人の年齢やその人生を通して練り上げられた
価値観等によって自由に解釈されていいと思います。
ただこの「自由」というのは「都合の良い」解釈とは違いまして、
なんというか…、人生経験や、剣道の経験を積んでいくうちに、
自然と各人が共通の普天的な哲学的な境地に近づいていくんじゃないか
と思っています。

ただただ「打たれない」「相手を打ち負かす」「試合に勝つ」ようなことばかりを
考えているようでは、技術的にはもちろん、何より大切な精神的成熟に
支障をきたしてしまうでしょうし。
剣道とは自分とお相手が剣を通じて語り合う場だと思っています(会話と同じですね)。
「自分のこと」あるいは「相手のこと」しか考えていないようでは、コミュニケーションは
上手くいきません。相手の立場に立って考えてみることが大切だと思います。
これは剣の指導についてもあてはまるでしょう。
昔の剣道少年さんが言っておられるような「試合に負けたから生徒をはりたおす」ような
指導者は結局のところ「相手の粗」や「自分のこと」しか考えていないのでしょうね。

どこかで「剣道は“打って反省、打たれて感謝”」という言葉を聞きました。
この言葉に全てが集約されていると思います。

以上、スレ汚し失礼しました。
[2003/07/21 22:35:54]

お名前: りんご   
この前、中学生の子が言っていました。英語で「野球をする」は「play baseball」だけど
剣道や柔道をするのは「do kendo」と言うのだそうです。知ってました?私は知りませんでした。恥ずかしながら。
剣道や柔道はゲーム性の強いスポーツとは一線を画しているのかなと思いました。
まあ柔道なんかはスポーツ化していると言われて久しいですけど。
[2003/07/19 21:23:15]

お名前: kimi   
to 酒井 紫 様

如何なる競技においても、理念・目的は「・・・をもって人間(人格)形成を図る」などとなっ
ているのですかね〜。
点を付けたり、勝敗を決するする競技である限り、勝ち負けに拘ってしまうのが人の常なのでし
ょうか・・・。
本当は、勝負に拘る遙か先の方に境地が見えているのでしょうかね〜。
[2003/07/19 18:45:33]

お名前: 酒井 紫   
学習指導要領では現在の武道教育は「技能」と「態度」と「学び方」
から構成されている。
態度の内容は単に勝敗の結果を目指すのでなく、技能の習得などを通して
望ましい自己の形成を重視するという武道の伝統的な考え方を理解し、
それに基づく行動の仕方を尊重する
[2003/07/19 15:42:07]

お名前: Hide.    URL
剣童さん、カキコありがとうございますm(_ _)m

私たち一人一人は、けっして胸を張って「人格者です」とはいえないような人間かもしれませ
ん。しかし、剣道を通じての人間形成を模索していることは間違いありません。
中には、志の低い方もおられ、そうした方が「悪目立ち」して「指導者はけしからん」とお叱りを
いただくことはたいへん情けなく、悲しいことですね。

私たち剣道を学ぶものの使命は、先人が命を削るようにして築いてくださったすばらしい「文
化としての剣道」を、より高め、後世に伝え残すこと・・・これ以外にありません。それが、先
生や先輩方のご恩に報いる唯一の方法だろうと考えます(^^)

昔の剣道少年さんにおかれましても、剣道界の将来を危惧されるだけではなく、そのすばらしい博学と見識を持って、心栄えの正しい指導者として、また、正しい剣道の伝道者として、ご
自身におできになる活動をなさっていただきたく存じます(^_-)~☆
[2003/07/18 09:25:31]

お名前: 剣童   
昔の剣道少年 様

レスが遅れてしまい申し訳ありません。文才がありませんので、的外れになっていれば
申し訳ありません。

「今の剣道は正しい方向性を見失っている。」とよく言われますが、私が師事している
先生や、剣道仲間、講習会などでの先生のお話は、「正しい剣道を伝えられるようになれ。」
というものがほとんどです。
また、皆さん口を揃えて「勝敗がすべてではない。」とおっしゃいます。

そして、戦前の高名な先生の指導を受けられた先生が、まだお元気に稽古されています。
そのお姿を拝見したり、お話を聞いたりする機会もあるわけですが、「剣道の教え」を
そのまま体言されているようで、勉強させられ、参考とするべきことが山のようにある
と感じています。

その中には、御自分が間違っていたことを、「師匠に起こられた。」とわざわざ反面教師
のように教えていただくこともあります。

剣道にはこうした語り継がれ、受け継がれる伝統が脈々と生きていると思います。
こういった生きた伝統が続く限り、剣道がまちがった方向に進むことはないと、
私は思っています。(^^)


hide さん
>ほとんどの指導者が勝つことよりも、子どもが剣道を通じて正しい社会人になって
 くれることを臨んで指導にあたっておられると、少なくとも私は確信しております(^^)
私の周りもそんな指導者ばかりです。
逆に責任も重いわけで、身の締まる思いです。
[2003/07/17 16:59:13]

お名前: Hide.    URL
管理人のHide.です。

昔の剣道少年さんのカキコがあまりに長文なため、どこから切り込んでいいか考えるのに
時間がかかってしまいました(笑) その間に、若い世代からも書き込みがあり、心強いか
ぎりです(^^)


何度も読み返したのですが、結局、昔の剣道少年さんは、現代剣道のどの部分にたいして
「矛盾」を感じておられるのか、その要点をつかみ取ることが出来ませんでした。読解力
がありませんで申し訳ありませんm(_ _)m

いくつか断片的には理解できるのですが、それが話の大筋とどう融合していくのか・・・、
剣道における教育や指導者のあり方というよりも、最後の方は教育論そのものになってし
まっていますし・・・。


なお、「剣道の場合、他の競技よりも押し付けが強い」とのご指摘もあるようですが、こ
れは当然ですよね。礼法や作法など、他の競技(スポーツ)にないものが競技そのものよ
りも大切と考えられているからです。
現代では、家庭におけるしつけ教育がほとんどなされていないといっても過言ではありま
せん。指導者はどうしてもこの部分に力を注がざるを得ないのが現状です。学校教育にお
いても「先生とタメ口」なんて当たり前の世界ですから・・・。でも、そんなことでは困
りますでしょ? この部分をすっ飛ばして剣道を教えるわけにはまいりません。これは、
全剣連の「剣道の理念」「剣道修練の心構え」に沿った指導だと思われますが・・・(^^)


ただし、剣道の指導者とはいえ、その方も剣道という険しく高い山の頂を目指して上って
おられる一修行者にしか過ぎません。そのすべての方に完ぺきを求めるのは無理というも
のです。
でも、ほとんどの指導者が勝つことよりも、子どもが剣道を通じて正しい社会人になって
くれることを臨んで指導にあたっておられると、少なくとも私は確信しております(^^)


さらに、現代でも剣道の技術書ばかりでなく、剣道や武道のあり方や精神性に関する書籍
が多数発売されております。書店では購入できませんが、専門誌などに広告が多数出てお
ります。ぜひご覧ください(^_-)〜☆
[2003/07/17 11:29:54]

お名前: kimi   
まずタイトルについてですが。
終戦直後GHQにより一旦禁止された剣道ですが、撓い競技(ズボンとシャツの上に軽快な防具
を着け袋しないを使うなど、より競技性の高いスタイル)と形を変えて再出発したそうです。

現在の形になったのは、昭和27年に全日本剣道連盟ができてからです(その後も若干の変遷は
あるようですが・・・)。
学校における剣道教育は、昭和28年の文部省通達により復活し、翌29年からは高校総体が始
まりました。
当初は撓い競技(軟式剣道とも呼ばれた?)と現在の剣道(硬式剣道と呼ばれた?)でスタート
しましたが、数年後からは硬式剣道に一本化され現在に至っているようです。

このように、戦後の剣道は競技性の高い形からスタートした経緯があります。
特に学校剣道ではその傾向が顕著で、今現在も脈々と受け継がれていると考えられます。
功罪は色々あるのでしょうが、多くの剣士が生まれた事もまた事実です。

ところで、少年の剣道人口は年々減少し、中高年は最近になって若干増加しているようです。
昭和30〜40年代(私が幼少の頃)のように、全国何処の学校でも剣道を学べ、人気種目とな
る時代は再び訪れるでしょうか?
関係者には、公に剣道をできなかった時代を思い、剣道をできる喜び、教える立場にいられる喜
びをかみしめ、剣道を盛り上げていただきたく存じます。

一剣道ファンからの一言でした。
[2003/07/16 11:18:33]

お名前: だい   
その高校の先生のレベルで武道かスポーツかきまるでしょう。今の父兄はみなスポーツと勘違いしています!!一種の軍隊的な要素があるのが正しいとおもいます。先生は絶対であり、先輩は絶対なのである。体罰などに賛成はしないが、上下関係はしっかりしたほうがよい。その関係に親が口を出すから部がおかしくなるのである。剣道は古来から伝わってきた武道!大衆化にしたいからってスポーツ化はまずいとおもいます。今大学二年生です。夢は高校の顧問です。絶対にインハイにだす!!
[2003/07/16 09:19:30]

お名前: よーへい   
名古屋の高3です☆
何と言うか、高校から始めた自分にとって先生の教えは全てであり、先生の教えの中から自分の個性を求めていくのが自分の剣道スタイルだと思います。
大袈裟だと思われるかもしれませんが初心者の自分が二年と数ヶ月でここまで出来る様になったのは先生の熱心な指導と日々の稽古、努力からだと思うんです。
先生に怒られたことは数知れず。しかし先生がおっしゃられるやっちゃいけない事をきちんと守れば試合でも勝てましたし、自分がポカをして負けるときは先生の教えを守らなかったときなんです。
これは学校生活でも私生活でも同じなんです。ですから自分は先生に押し付けられたりだとか思った事は一度も無いんです。
先生の教えを守れば必ず自分にとって良いものとなって吸収されると思うんです。
先生の下僕になってるつもりはないんですがね〜・・試合後は先生、もしくはコーチの元へ行き指導を頂くのが教えを請う者の礼儀ではないでしょうか?
自分は大学、その先もずっと剣道を続けると思います。その中で高校の時自分に剣道の楽しさ苦しさ全てを教えてくれた先生の教えは自分の基礎となり
もし自分が指導する立場となっても自分なりに先生と同じようなやり方で指導するでしょうね。
・・と自分なりに書き込ませて頂きました。
[2003/07/15 20:11:59]

お名前: まんぽー   
>要は、押し付けない。子供の自発に任せる。自発を誘発させる。これが、教育であると
>思います。剣道の場合は、他のものより押し付けが非常に強いと思います。
それは理想はそうかもしれませんが、子供だって「易きに流れる」わけで、きちんとした
方向付けをしてあげることも大事だと思います。今、ゆとりだとか、自主性に任すだとか、
奇麗ごとばかりいってきた結果が今の状況ではないですか?悲しいことだと思いますが。
それに剣道だけが押し付けが強いとは私は決して思いません。他のスポーツ、芸事でも
大差ないと思いますが。それと、剣道の指導者は子供たちを試合に勝たせるという行為によって
自分が利益を得ているというようなニュアンスの発言がございますが、これは多くの指導者の方
たちに対して失礼でしょう。指導者の多くの方は、現代の忙しい時間の中で自分の時間を
やりくりしながら、熱心に指導をしています。なにも試合に勝たせて名声を上げようとか、
そんなこと考えずにただ子供たちに少しでも上手になってもらいたい一心で指導している
人だってたくさんいるんですよ。ただ、学校教育に関わる仕事についているわけではない私が
外からみて勝手なことを言わせてもらうとすれば、学校の剣道は勝負に走りすぎていて、
もっと大事な本質を忘れていると感じる部分が多々あること、指導者としての資質を疑いたく
なるような言動をとる指導者も多いことは貴方の意見と同じです。そのあたりは今後剣道が
より発展していくためには絶対に改善していかなければならない。
 剣道は人間形成の道であるという理念がありますが、もともとは武術・武芸、つまり術であり
芸ごとである以上、技術の伝承は欠かすことのできない要素です。ここが、精神修養を専らの
目的とする仏教の修行と異なるところだと思いますが・・・(私は禅などの修養はやったことが
ないので、全くの素人考えです。間違っていれば失礼しました)技術の伝承が必要である以上、
指導者からの指導は不可欠なのではないでしょうか?確かに現代の指導が技術的なもの、勝負に
こだわったものに傾きすぎているのではというのは私もそのとおりだと思いますが、だからと
いって、試合の剣道は「道」に値しないといって切り捨ててしまうのはおかしいのではないでしょうか?
試合の中から学ぶこと(技術的なことのみならず、精神的な面も含め)もたくさんあるはずで、
それを真摯に受け止めることで成長の糧とはならないでしょうか?

剣道に守・破・離という言葉があるように、最初は言われたこと(貴方の言う
「押し付け」かもしれません)を守っていても、そのうち自分で考え、自発的に発展させていくわけですよね。
貴方のいう「自発」を促すには各個人がただ易きに流れるのではない、判断基準を養う必要が
あるのではないでしょうか?
  ・・・なんか支離滅裂な文章になってしまいましたが、私が言いたいのは
「剣道には確かに矛盾はある」ということ、しかしそれを今後いかに解決していくかが大事で
あって、矛盾点があるからといって「道」に値しないということは決してないはずだ、ということ、
さらに剣道の指導者の多くが、剣道の技術、精神を押し付けているわけでは決してない、ということです。
[2003/07/15 12:48:23]

お名前: 昔の剣道少年   
僅か、半日のうちで、沢山のご意見を戴きありがとうございます。

最初の書き込みで、自己紹介をしていませんでしたので、簡単に紹介させて戴きます。
私は、少年時には、剣道を3年ばかり、そして、高校生時には、ブルース・リーブームも
あって空手を自習、大学に入ってから護身も含め、拳法を習い、大学でも週一程度、剣道
をしておりました。そして、就職してから空手の道場へ通いました。
(尚、柔道も相撲も好きです、昔の遊びは相撲ぐらいしか出来ませんでしたので・・・野
球のボールや、バットなど、買ってもらえませんでした。バットは、父親が、杉の木の太
い枝を持ってきて、その場で、ナタを使って、器用にバットを作ってくれました)、格技
は基本的に好きな方です)

また、余談ですが、家には真剣があって、小学生の頃、父親に隠れて、立ち木の枝を切ろ
うと、刀を振っていましたが、全く切れませんでした。父親にその光景を見られて、ひど
く怒られました。鞘で叩かれたほどでした。そのとき、鎌の方が断然と切れるのにと不思
議に思っていたほどです。

暫らく、仕事の関係でそのような余裕もなく、数年前から、再び剣道を始めました。
それと、その暫らくしてから杖もしております。

よって、ほんの少しですれども、武術、そして、武道、剣道についての見識はあるつもり
です。さらに、家は仏教の家柄ですので、仏教についての知識もあるつもり(月に一度は
お寺へ参拝し、禅のように、1〜2時間は正座・・・できない時は、半カふざ(いわゆる
るアグラです)しています)です。
そのうえで、数年前から、剣道に関する文献(夜船閑話、師範室閑話、百回稽古、剣道読
本(野間亘)、剣道(高野佐三郎)、私の剣道修行機△修梁勝砲魏砲気┐△譴弌入手し
剣道の技術的な事から、精神的な事、先達者の方々の考え方や、剣道の歴史、そして小川
忠太郎先生の一言で決定付けられた程の、「剣道の理念」、さらに剣道の「道」にいたる
る道程など、自分なりに(勝手に・・・)解釈しています。しかし、私の考えが誤っているのであれば、即座に改めるつもりでおります。

葉隠、不動智神妙禄?、世阿弥の??などは、まだ読んでいません。

さらに、宮崎正裕選手の、試合剣道と、本来の剣道(昇段試験における剣道も含めてと、
思いますが)とは、別物であり、割り切っています。と言うような記事が剣道雑誌に載
っていた事も知っております(正確ではありませんが)。私は、さすがな人だ、と関心し
ておりました。宮崎正裕選手は、非常に謙虚な方だと伺っております。
しかし、さらに、高段者即人格者でない、事も人づてに聞いております。

私の考えは、殺し合いの中で、剣(つるぎ)が出てきて、それを有効(殺し合いの)に使
うため、剣術としても研究があちこちでなされ、今の流派になっている事は、周知の通り
です。さらに、沖縄空手にしても、剣を使う事を禁じられていた為、農機具や身近な棒を
使う護身術が考案されて、現在に至っています。そのような事は、世界各国でも見られま
す。

そして、その剣術が、剣術家達が生き残る為に、そして兵の養成の為など、また国体を
維持する為など、様々な、新国家の維持と需要と供給のバランスなどから、その必要性
が認められ、国技として現在に至っています。特に、柔術や空手や拳法の類は、世界各国
に軍隊等にそれが必要であるとされています。

剣道の歴史を説法するつもりはございませんが、剣道に至った事実を改めて認識し、その
至った過程を無視する事はできないと思うからです。

恐らく、剣術が剣道に至った大きな要員の一つは、山岡鉄舟のような方々の影響が多分に
あると思います。
それは、山岡鉄舟(他、西郷隆盛、勝海舟、高橋泥舟など)、が島田寅之助?あるいは、
白隠禅師や沢庵など、禅を取り入れ、日本の宗教や習慣風土と剣術との融合を剣道として、
取り入れてきた事かと思います。
私は、この事は非常に優れた事かと思います。
(日本には、武士道という言葉もありますが、西洋には騎士道、中国や韓国にも、それと
同じような言葉なり、その伝道者のような方たちもおります)

しかし、多寡が(叱られるかも知れませんが、)、明治に入ってから世に広まった考え方
(武術と禅(仏教の教えや悟りの境地など)の融合を日本古来からの考え方だとして、
している事は、正しい歴史を認識していない事ではないのかと、思います。

その証拠に、剣術では見られなかった、黙想(その際には、殆どが膝の上で、両手で輪
を作って、そして両の親指を合わせています。これは法界(ほっかい)の印、といいます、
宗派によっては、言い方が異なると思いますが)などが仏教を取り入れたところです。

武の道、剣の道などの「道」という言葉は、仏道からきている事は、ご理解下さい。

その背景で、剣道というのもを、小川忠太郎先生やその他の優れた先達者のおかげで、剣
道をしているのです。
(小川忠太郎先生は、大学、中庸、そして禅を学んでおられた事は、周知の事かと思いま
す、尚、儒教や中庸、大学は日本の考え方ではなくて、中国や韓国から伝来している事も
その通りかと思います)

現在の、剣道はそのような道程の中で生まれたものである事からすれば、当然、尊重も
尊敬もしなければ、いけない事だと思いますし、さらに、そのような深いものだからこそ、
「剣道」として、老年になってもできうるものですし、求めていけるものだと、思います。
(「求める味」という本を探しているのですが、中々見つかりません・・・)

しかし、その強要は全く別のものであると断言したいと思います。その事は、教えられて
も、強制されるものではないからです。
現代剣道は、武道としての剣道を生涯に渡って、楽しむ人もいれば、スポーツとして楽し
む人もいます。
生活が豊かになって、気楽に竹刀を買える、防具を買える、という時代だからこそ、様々
な考え方の人がいて、剣道の普及になっている事かと思います。

私が子供の頃は、先ほども書いたように、野球のバットでさえ、買ってもらえませんでし
た。剣道を始めたのは、経済的に成功した方から、剣道をしてみればと誘われ、竹刀を
分けてもらったからです。竹刀が、ダメになったら、それ以上はできませんした。
その頃、剣道着などは当然の事ながら、着装している人も殆どいませんでした。
体育の白いズボンと、白い下着で剣道をしていました。

剣道や柔道は、特に「礼に始まり、礼に終る」と他のスポーツにないとして、発言される
方も多く見受けられます。野球でもラグビーでも、外国式の挨拶をしていますね。
「礼に始まり、礼に終る」は別に、武道や、剣道、柔道だけでなく、我々の普段の生活の
中でさえ、普通に行っている事です。
「礼に始まり、礼に終る」と強いて言われるのは、どこを指して言われるのでしょうか。
両手をついての挨拶なのでしょうか。そうではないと思います。
礼儀にしても、人から物を貰ったりすれば、お礼を言います。ごく当然のことですし、幼児さえも、大体は言えると思います。

日本の国は、仏教が普及し始めてから、仏教の作法(特に禅の作法)が国民に浸透して
いきました。私どもの年齢(中年以降)の方たちは、良くご存知の事かと思います。
特に、私の祖父は、職業軍人だったので、その躾には、今考えると、目を覆うような事が
良くあって、今では、児童虐待とばかりに訴えられそうな環境でした。

例えば、膳(ご飯を食べる)を取っているときに無駄口を叩く事は許されず、その時には、
祖父から、木で作られた、箸箱で頭を叩かれ、箸箱が割れてしまう事も多々ありました。
しかし、いい事があれば、祖父は、大変喜んでくれ、ご褒美のおやつも内緒でくれた事は
良い思い出です。また、どうしても、ご飯が食べられないときには、翌朝に再び食べる事
や、ご飯のお椀にお湯を注いで、ご飯のかすまでも綺麗に掃除しながら、本当に最後まで
食べていました。それが当り前だと思っていました。

剣道の指導者は、あたかも、子供やその父兄さん達から、先生と言われています。
当然の事ながら、先生にはそれなりも尊敬の念を以って接している事は、子供も父兄も、
同じです。

試合が終ったあと、指導者の方に行く事は、何ら異議を挟むものではありません。
しかし、大きな掛け声で気合を入れて試合をしている真横で、面を被った子供には、先生
の声が聞こえるとは思えません。当の私でさえ、面を被ったまま、稽古の最中に先生達か
ら指摘を受けても、よほど注意していないと聞こえない事は事実です。
子供に聞いてみると、私が思ったいた通り、全く聞こえない、先生が何かしゃべっている
から、それに合わせて頷いている、と何回も聞きました。

有声から、無声にいたる、気合とは声を出していようが本来関係のない事で、聞いている
周りの人たちは、「ウン、声が出ている、気合が入っている」と納得できるもので、周り
の方たち(子供を評価する方)の自己満足の方が強いように感じられます。


当然も事ながら、先生が座っているから(椅子に座っている事も座るという)、子供達も
座って話を聞くことは礼儀です。しかし、試合の中で、本来、剣道の道たるところの話
などあり得るものでしょうか。否だと思います。
私も少年剣道の試合に引率した事がありますが、試合の中味について、色々とアドバイス
をした事がありますが、皆さんが仰る剣道の事は、一言も言えませんでした。

長崎の五島列島の馬場武雄さんの道場に通っていた方の話では、試合をさせてくれなかっ
たと述懐していましたが、馬場武雄さんの、剣道たる剣道に素直に行くと,その気持ちは
良くわかるような気がします。ご存知のように、馬場武雄さんに習った方には、広島の
藤原先生、馬場欣司先生などがいらっしゃいます。
そして、内藤高治先生なども、試合の優劣によって決めることから、本来の剣道は終った
、と何かで読んだ記憶があります(正確ではないかも知れません)。

私は、目の錯覚かと思った事は、中学の練習試合を見ていて、全国大会へも出場した事の
ある中学校の先生が、椅子に座ってみていて、子供に対し、足で胴の胸のあたりを蹴っ
ている光景を見たときには、唖然と致しました。
その事から考えると、一つの方程式が見えてまいりました。この事は、剣道ばかりでは
ない事を、付け加えておきたいと思います。子供は物でも畜生でもありません。人間です。

それは、自分のところの子供が、剣道の試合に強い、また、優勝する。全国大会にまで
行く。すると、誉められるのは、子供も誉められますが、指導者の方がもっと、価値の
ある、そして、実利のある事が分りました。その指導者が他校へ転勤になっても、当時
の子供達が誉められるのではなく、その指導者が誉められる。そして、各剣道連名の中
でも有名になってくるし、発言権が出てくる。些細な事件を起こしても、もみ消しても
らえる。誰も意見を言うような人は出てこない。
と、言うような、指導者にとって、非常に都合の良い事がある事が見えてまいります。
つまり、剣道の試合に勝たせることは、子供の為ではなくて、指導者の為であるかのよう
な錯覚に陥ってしまいます。

(皮肉ですが、「人の為」という字をくっつけると、「偽り」という字になりますが、
非常に注意しなければならない事かと思います)

特に、プロ選手にでもなれるような、競技の場合は、その指導者や先生には、思わぬ大金
が様々なところから、入ってきている事は、周知のことと思います。

全ての指導者でない事は理解していますが、安きに流されることは人間として当然の事です。

武道たる剣道は、またその修行は、その辺を戒めるための人間形成であり、国家形成に
つなげる手段であると理解しています。けっして、他の人たちの道具や利用されるべき
ものではありません。

井上正孝先生の「正しい剣道?」はまだ読んでいませんが、他の剣道に関する指導書の中
には、太平洋戦争の特攻精神は、剣道でいうところの身を捨てて(本来は剣道の言葉では
ない)、よく似ているところがあって、非常に戦争の中に取り入れ易い要素が多分にある
から、注意をしなければならない、と読んだ事があります。

今現在、学校での剣道教育をみていると、そのような戦争に向かっての啓蒙思想の植付け
の感がしないでもありません。(現在の日本の政治やアメリカ擁護の考え方を見たり、
あるいは、原子力発電所の施設の放射能の管理運営を見たりすると、考えすぎでなんで
しょうか?)

教育とは、考え方や思想を容易に植え付ける事ができます。

大人の方達から見ると、非常に喜ばしい光景があります。
それは、試合場に入るときや、そこから帰る時、そして、皆で旅館や食事を取るときなど
です。

全員で、お願いしまーす。ありがとうございました。
全員で、合掌(これも仏教でいうところの印です)して、戴きまーす。ご馳走さまでした。
本当に、喜ばしい光景です。
しかし、何に対して、誰に対して、お願いしまーす。ありがとうございました。と言って
いるのでしょうか。
何に対して、誰に対して、戴きまーす。ご馳走さまでした。と言っているのでしょうか。
非常に曖昧です。先生方、指導者の方達は、指導者らしく、その範を示し、一人の時でも
そのように、しているのでしょうか。
私は、人に対しての、お礼はいいますが、物に対して言うほど、人間ができていません。
極自然に、犬畜生にまで、お礼が言えるほどになれば、人間が形成された、と思います。

特に、仏道を修行されている方は、トイレへ行って、不浄な物を排泄したからといって、
トイレでも合掌しております。誰が居ようと居まいが関係なく、頭の下がる思いです。

剣道でも、よく自得以外にない、という言葉が出てきたり、また、物事を説明する際には、
色々な意見もあると思いますが、という前提で話をされている剣道の先生方がいらっし
ゃいます(剣道時代などから)。非常に物事をわきまえた話し方をされていると思います。

かなり、長くなりました。言葉足らずのところがありますが、
要は、押し付けない。子供の自発に任せる。自発を誘発させる。これが、教育であると
思います。剣道の場合は、他のものより押し付けが非常に強いと思います。

宮崎正裕選手のところで書きましたが、武道としての剣道もあるし、スポーツとしての
剣道もある。そして、ポイント制の試合としての剣道もあるという事です。
そのどちらも、正しいと思います。しかし、選ぶのは、指導者や先生でなく、子供達で
あるという事です。

それらの様々な剣道が現実としてあるにも拘らず、それらの剣道を一緒くたにしている
ところに矛盾が出てきているのです。そして、その弊害が、知らない子供に及んでいるの
です。

剣道の経験者、指導者や先生の方々にもお子さんがいらっしゃると思いますが、本心で
は剣道をして欲しい、続けて欲しいと思っている事と思います。かく言う私もそうです。
しかし、そのお子さんの中には、涙をのんで、剣道の世界が嫌になって止めて行ったお
子さんも知っています。

なお、色々な剣道の書籍をみると、剣道の技術的な事が書かれているものが、殆どです。
これは、間違いのないところです。しかし、剣道のあり方や、武道のあり方を紐解いてい
る本は、余程探してもありません。
さらに、ある程度の経験と知識や見識がないと読めないものが殆どです。
昔は、そのような本など皆無に近かったと思いますが、現在に至っても、その辺は変わ
らない事かと思います。

ですので、師を探す。師を選ぶという事は、大変なことであり、また、師と仰ぐ事さえも
大変な事かと思います。

何か、とんでもない文章になってしまいました。
そして、中途半端な形で終りますが、素直な感じた事を、書き込みました。
しかし、現在の剣道における問題としては、大きいものかと思います。
誤字、脱字、そして、説明不足、誤解され易い表現もあったかと思いますが、
ご容赦願います。それでは、失礼致します。
[2003/07/15 04:50:02]

お名前: サラリーマン剣士   
こんにちはサラリーマン剣士です
昔の剣道少年さんのお気持ちはよく理解できます。
厳しい礼法、修行を強制する先生方もいれば、子供に対しても主張とか権利を認めようとする風潮もあり、どちらのあり方が本当に正いのか多いに議論の余地があると思いますが、私は前者の方に利があると思えます。
台湾前総統の李登輝氏が武士道解題と言う本を日本の若者向けに出版しましたが
その中で日本の武道精神は世界を救う秩序と成り得るとまで高評価されています。
日本人が主張すれば右翼と批判されます。
クラーク博士が一切の礼法を札幌の農学校で簡略化した時に
型に捕らわれなくとも、日本の学生は自ら紳士足りえるという確信があったからだと
いう逸話がありますが今の子供に紳士足りえるような資質があるとは思えません。
話しは大幅にずれますが、一般的な日本人はアメリカや社会主義国の
歴史の浅い国の影響をまともに受けて、(思想的な冷戦が日本にあった)なにが一番正しい社会あり方を見失ってるように思えます。自分の子供にそう言った制約の多い環境で、型を学ばれるのは将来、無秩序な社会環境にほうり出された時、貴重な糧になると思えますが、しかし愛のある先生につかないと子供が可哀想なのも事実ですね
[2003/07/14 13:57:53]

お名前: まんぽー   
こんにちは
私もどちらかというと試合の終わった直後に指導者のところに聞きに行くのは
あまり賛成できないなあ、と思っています。(団体戦の場合)
ただそれは、先生が偉そうとか、正座をしているのがどうとかいうのとは理由が違います。
私は団体戦の場合、自分の試合の後は自分の座り位置にもどって次の人の試合を見るのが
正しいと思います。試合の残像が鮮明なうちにという気持ちはわかりますが、一人が終わっても
まだ試合中な訳ですから。熱心な指導者の方ほど、すぐにアドアイスを、と思われますでしょうが、
そこは全ての選手の試合(つまり団体戦1試合)が終わってからまとめてアドバイスをすれば
よいと思います。

さて、剣道は武道かスポーツかというお話ですが、私はあくまで剣道は武道であると思っております。
剣道から武道の精神・・・礼に始まり礼に終わる、相手を尊重する、など要素をとってしまったら、
それはただの竹の棒でのひっぱたきあいです。西洋で現在スポーツとされているものでも、フェンシングなどはいまだに「騎士道」の精神を大切にしています。やはりフェンシングも騎士の
殺傷技術から確立されたものだからだと推測します。
武道とスポーツの最大の違いは「そこに礼法があるかないか」だと思うんです。高校野球などでは
試合の開始・終了時にお互いに礼をしますが、あれはもともと学校教育の一環として、武道の
礼法をスポーツに取り入れたものだそうです。
そういう意味でも剣道の武道精神は決して学校教育に不安をもたらすようなものではない、
というかむしろ指導者も含め、各人がその精神を十分に理解していくことで礼儀だとか、
相手を尊重する心だとか、そういったものを育てていくにはいい教材になりうる、と考えます。
まあ、そのよい教材をどう生かすか、というのは難しい話であり、傍から見ていて
(ほんとに指導者かよ!?)っていう方も一部におられることは否定しませんが・・・
(ちなみに私は教職員ではありませんので、第三者的に見た勝手な見解です・・・)
[2003/07/14 13:15:03]

お名前: 剣童   
失礼します。

昔の剣道少年 様
「剣道は武道かスポーツか?」
よく言われることですが、最近の先生達や全剣連も含めて、「剣道は武道という文化である」
というとらえ方をするようになってきていると思います。
「日本人の歴史や精神文化を、剣の修行をとおして体得する。」こんな感じでしょうか(^^)

私もどちらかと言うとこの考え方です。
まずは「武道」と言う日本の考え方を、欧米中心の「スポーツ」と言う感覚に無理やり
当てはめるのがおかしいと感じています。
「スポーツ」は語源が楽しむことから発生しているようですが、「武道」のように、
精神性や歴史・宗教といった文化まで含んだものではないと感じています。
件の辞書の解説は、ここら辺のことがちょっと違っていると思います。(^^)

>各選手が、対戦を終えると、必ず、指導者か、先生の所へ行って、正座をしているのです。
最近ほんとに多いですね、私もあまり感心できないんです。
誰が始めたんでしょうね・・・(^^;
試合が終わった直後!の効果もあると思いますが、負けた選手を怒鳴りつけたりしている
時もあって、あそこでやらなくてもいい光景だと思います。
誉めたり、適切なことを指導されたりしている先生も大勢いらっしゃいますが、
「あの光景」だけを見て、保守的だ伝統の弊害だと悪く仰る方も多いですから・・・
(昔はやっていませんでしたから、伝統でも何でもないと思うんですが・・・(^^))
やはり試合が全部終わってからがいいと思っています。
[2003/07/14 12:10:36]

お名前: Hide.    URL
管理人のHide.です。

戦後、GHQに武道禁止令を出されまして、大日本武徳会も解散。剣道は実質的に滅んで
しまいます。しかし、その後、関係者のご努力で「剣道は民主的なスポーツ」ということ
で学校教育の場を中心として復活いたしますのはご存知の通り。

しかし、剣道にはその発祥から脈々とつながる日本人の精神性や民族性をまったく排除す
ることは出来なかったわけです。まぁ、当たり前のことですね。もともと「楽しみのため
に生まれたスポーツ」と「人を殺傷する技術→武士の表芸として技術だけではなく哲学を
も兼ね備えた武道」とは同じ道標には上がりえなかったのだと思います。

全剣連は昭和50年に「剣道の理念」と「剣道修練の心構え」を発表し、剣道はスポーツ
とはっきりと一線を画したものとして位置づけられたと認識いたします。さらに、学校教
育の中でも「格技」の中に入れられていたものが、今は「武道」というカテゴリーに入っ
ていますね(^^)

しかし、試合剣道の「あてれば善し」という風潮が、剣道のスポーツ化に拍車をかけてい
るのは間違いないことです。試合剣道は剣道という大きな山の中のホンの一部に過ぎませ
ん。学んでいく過程でそうしたところも通り抜け経験しておくことも大切と考えますが、
いつまでも「勝ち負け」にとらわれていたのでは剣道の理念が求める「人間形成の道」に
はなかなかたどり着けません(^^;


さて、昔の剣道少年さんがおかしいと書かれておられる光景ですが、これは、中学や高校
スポーツでもよく目にする光景ではありませんか? バレーやバスケット、野球などでも
集団スポーツですから一人ひとり指導を受けにいくということは少ないでしょうが、同じ
ように先生や監督の話を聞きますよ。
正座をして話を聞くのは監督の先生が座っておられるからでしょ? 座っている人に対し
てたって話を聞くのは礼法上失礼ですよね(^^; それに剣道では床の上に正座することは
けっして特殊な姿ではありませんね。これが、バレーボールやバスケットボールなど外来
のスポーツやグラウンドでする野球でしたら「かなり奇異な光景」と見ても差し支えない
と思いますが・・・(^^;


>何か、指導者の下僕になって、先生がいかにも、偉いんだというような光景が見受けら
>れます。

これは捉え方が違っているように思われます(^^;
彼らは指導者のコメントを聞きたがっているのです。けっして指導者がそれを強要して
「偉そうぶっている」訳ではありません。


>このように、考えるのは、私だけでは、ないと思いますが、何か非常に、今後の事が、
>剣道の事、教育の事などを思うと、将来が心配になってきます。

何がどのように「将来が心配」なのか、差し障りなければご意見を伺いたいのですが(^^)


>剣道の世界の矛盾を垣間見てしまったようです。
>そして、その矛盾が、子供の教育の場に直接関係している事を思うと、何か非常に心配
>です。

ここでおっしゃっておられる「矛盾」とはいかなるものなのでしょうか? 昔の剣道少年
さんの文章から読み取れませんので、ぜひぜひご教示くださいますようお願いいたします
(^o^)


なお、関連するトピがこの掲示板にありますので、ぜひ、ご覧くださいm(_ _)m
「剣道は武道かスポーツか」
「剣道は、武道、武術でしょうか?」
[2003/07/14 11:57:57]

お名前: 浜納豆   
私も、試合の勝ち負けに特化してしまうあまり、「武道」としての有り様を踏み
外してしまうことがあれば、それは誤った認識だと思います。

でも、「対戦後の先生の前での正座」がおかしな光景かというと、どうでしょう?
対戦直後に先生からアドバイスを頂くということは、記憶が鮮明なうちに行う
という意味で非常に有効ですし、そもそも先生がお座りになっている前では相対
して正座するのが礼儀ですよね。素人さんも書かれていますが。
ま、先生が立っているにもかかわらず、その前で正座してる(させられてる)っ
ていうのであれば話は別ですけどネ。(^^;
[2003/07/14 11:56:09]

お名前: 素人   
何がいけないのかな〜?
「先生がいかにも偉いんだという光景・・・」んー、思い描いているものが違うのかな。
なにせ、試合を1回しか見たことがないから。むしろ、私は感銘しました。
強い試合は違うのかな??
正座をして教えを請う、結構じゃないですか!
剣道は前からそうでしょ!?
周りが変わりすぎたので違和感を覚えるんじゃないのかな。
[2003/07/14 09:52:23]

お名前: 昔の剣道少年   
こんにちわ、皆さんのご意見を賜りたく、書き込みいたします。

学校(中学、高校など)における剣道(体育の時間や部活動)は、武道なのでしょうか?
それとも、スポーツなのでしょうか?

ある試合の大会の開会式に、試合上の規則の説明がありました。
保護者として、その大会に行き、聞いていたところ、「武道として、云々」、
そして、「剣道人らしく、云々」を話をされていました。

辞書などを、紐解いてみると、剣道は、剣術から発展した、室内スポーツ、とハッキリ
かいてあります。
よって、私は、スポーツ化した、剣術(つまり、面、小手、胴、突への打突のみ有効な)だと
認識しております。
特に試合などは、それが、顕著であり、昇段審査とは、別の次元であると思っております。

さらに、おかしな光景が、試合中に、いたるところで、見受けられるのです。
それは、各選手が、対戦を終えると、必ず、指導者か、先生の所へ行って、正座をしているのです。
恐らく、試合の中での、いい所、悪いところの話だと、思いますが、
何か、指導者の下僕になって、先生がいかにも、偉いんだというような光景が見受けられます。
このように、考えるのは、私だけでは、ないと思いますが、何か非常に、今後の事が、剣道の事、
教育の事などを思うと、将来が心配になってきます。

剣道の世界の矛盾を垣間見てしまったようです。
そして、その矛盾が、子供の教育の場に直接関係している事を思うと、何か非常に心配です。

何か、ご意見など、ございましたら、お聞かせください。
[2003/07/14 02:41:14]

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