記事タイトル:mission 01「剣道形の素朴な疑問」を集めろ!
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お名前: Hide.
URL
to まぼまぼさん
はじめまして、管理人のHide.です(^^)
>その時に来られた8段のY先生が『長さの違う箸ではさむ」なんて訳の分からない事を言
>っておられました。いま60近くになって、それらの事が何となく「この事?」なんて気
>がして試しているところです。
う〜む、なにやら含蓄のあるお言葉ですね(^^;
今の私にはちょっと理解が及ばないところのようですが、今度小太刀をするときにその言
葉をぜひ思い出してお稽古してみたいと思います!
[2005/11/06 10:31:38]
お名前: まぼまぼ
剣道形の話がたくさん出ているので読ませていただきました。
私は田舎で仲間と独学的な練習をしている者です。
そんな私には剣道形は大事な手引書です。
決して上手に打つとか、精神をどうとかなんて事ではありませんが、
思った事を形にあてはめては考えてみるようにしています。 なかなかモノにはなりませんが、、
昔に読んだ剣道入門書(今は紛失、記憶の中ではたしか中野八十二先生の本だとおもうのですが)に、
「大刀は小刀のように小刀は大刀のように使う」とかいてあった事を思い出しています。
私の町では、いまから35年くらい前には、へき地剣道講習会(今はありません)
というのが4-5年に一回位の割合で開催されていましたが、
その時に来られた8段のY先生が『長さの違う箸ではさむ」なんて訳の分からない事を言っておられました。
いま60近くになって、それらの事が何となく「この事?」なんて気がして試しているところです。
ま、竹刀操作の事でしかありませんが、これが思ったとおりなら、そのために小太刀が剣道形に含まれているのかな?と今のところはおもっています。
違うかもしれませんが、、、挫折にはなれているし、それも楽しみの一つなので、、、、
皆様の高度な意見を勉強させて頂いております。では、、
[2005/11/05 19:11:04]
お名前: Hide.
URL
To やっぱりっぱさん
管理人のHide.です。
>和鉄は鍋釜、日本刀は和鋼。
へ〜、そういうもんなんですか(^^)
製法上どのような違いがあるものなのかお教え願えますかm(_ _)m
[2005/02/03 08:36:15]
お名前: やっぱりっぱ
和鉄は鍋釜、日本刀は和鋼。
[2005/02/02 23:53:41]
お名前: Hide.
to ギョさん
はじめまして、管理人のHide.と申します(^^)
>小太刀を解いたときの左手ってどうしたらいいのでしょう。
これは、腰にあてていた手を体側に下ろします。5歩さがった後、中段にかまえ直したと
き、再び腰にとります(^^)
[2002/03/02 11:24:21]
お名前: ギョ
突然申し訳有りませんが、ちょっと教えてください。
小太刀を解いたときの左手ってどうしたらいいのでしょう。
御願いします。
[2002/03/01 14:44:14]
お名前: Hide.
to 親馬鹿一刀流さん
>高野先生の刀が、中山先生の刀より一瞬下がっているように見えるものですから
>受け止めるではなく、すりあげているのではと思ったのです。
そうですね、たしかにさがってお受けになります。
>打ち付けるような対応かも知れませんね。高野先生の刀が止まらずに落ちている
>という仮定の上ですが。
高野先生の刀は、かなりスピードを緩めているように見受けられます。でも、「高
野×中山」は随所に「これって真剣で打ってるのでは」と思わせるような雰囲気が
漂っているのですが、この場面にもそれを感じます(^^;
その後の中山先生は、すり落としで踏み込みの動作をされてますが、力のこもった
切り下ろそうとする太刀をすり落とすのですから、やはりカラダ全体を使うという
ことで、こんな表現がよろしいのかもしれませんね(^^)
しかしその後の入身は素早いですね。高野先生はほとんど胴を打つことができませ
ん。あれなら小太刀を持っている仕太刀も安全です。
今の形は、かなりの勢いで胴を受けてしまってはいないでしょうか?(^^;
[2002/01/23 11:00:31]
お名前: 親馬鹿一刀流
多分中途半端な書き込みがあると思いますが、お許しください。
それと新トピックが出来ましたが、継続してこちらに書かせて頂きます。
to Hide.さん
>刃を少し左に傾けながら受け止めにいっているだけだと思います
が。と申しますのも右腕の動きが直線的で、すり上げのようにカーブを描いていな
いように見受けられるものですから・・・。
すいません、私のビデオは画質が悪くて、刃先がどちらに向いているかまでは見えま
せんでした。
高野先生の刀が、中山先生の刀より一瞬下がっているように見えるものですから受け
止めるではなく、すりあげているのではと思ったのです。
刃先が開いているのであれば、突き上げるというか、打ち付けるような対応かも知れ
ませんね。高野先生の刀が止まらずに落ちているという仮定の上ですが。
中山先生は、下がりながら対応していますので、やはり止めにいっていて上段からの
切り下ろしを止めきれなかった時の事を考慮しているのかも知れません。
to はやぶささん
>すぐに相手に対応できないうらみがありますね。
でもこの足さばきはどちらでもよいと思います。
なぜなら既に仕太刀は打ち勝って残心を示したあとですから、
相手が再度打ちかかってくる可能性はないわけです。
はい、了解しました。
ただ少しこだわりますと、武術的な見方と、一本一本立ち間合いに戻るまで一呼吸で
行うと聞いていますので、どうかなと思いました。
[2002/01/22 18:57:04]
お名前: 親馬鹿一刀流
刃を少し左に傾けながら受け止めにいっているだけだと思います
が。と申しますのも右腕の動きが直線的で、すり上げのようにカーブを描いていな
いように見受けられるものですから・・・。
[2002/01/22 18:29:07]
お名前: Hide.
to はやぶささん
>なぜなら既に仕太刀は打ち勝って残心を示したあとですから、
>相手が再度打ちかかってくる可能性はないわけです。
もちろん油断なきように戻る必要はあるでしょうが、打太刀も同じ足さばきで戻る
のであれば、問題はなさそうですよね(^^)
[2002/01/22 13:20:06]
お名前: はやぶさ
to親馬鹿一刀流さん
>7本目の戻る足さばき・・・
これって仕太刀が胴を抜いて、残心を示した後、相対して立ち上がって、元の位置に
戻るときの足捌きですよね。
横に半周するときに普通の歩み足だと腰高な感じがして安定が悪く、
交差する足捌きだと下半身は充実するのですが、おっしゃるように
すぐに相手に対応できないうらみがありますね。
でもこの足さばきはどちらでもよいと思います。
なぜなら既に仕太刀は打ち勝って残心を示したあとですから、
相手が再度打ちかかってくる可能性はないわけです。
[2002/01/21 23:57:34]
お名前: Hide.
to 親馬鹿一刀流さん
>はい、私も一端止めているように見ていたのですが、よく見ますとすり上げてい
>るようです。
そうですかねぇ。刃を少し左に傾けながら受け止めにいっているだけだと思います
が。と申しますのも右腕の動きが直線的で、すり上げのようにカーブを描いていな
いように見受けられるものですから・・・。
>中山先生は、太刀五本目のすり上げ面も一呼吸置かれています。すりあげに対し
>てなにか考えがあるのではないでしょうか?
そうですね、すり上げた後の中山先生の太刀は小野派一刀流では「大上段」といわ
れる形になっております。そこでいったん止まってから、おもむろに切りにいきま
すね。どういう解釈なのか、想像のしようがありませんが、親馬鹿一刀流さんは、
何かお考えがおありでしょうか?(^^)
>また、高野先生の動きは、五本目は下段まで切り下げており、小太刀三本目はや
>はりあご間での斬りつけをされているようです。
おっと、ここは見逃しておりました(^^;
今ビデオがくにさんのところにありますので、近日中に伺って確認してみましょ
う。
[2002/01/21 11:39:14]
お名前: 親馬鹿一刀流
to Hide.さん
>さらなる疑問点ですが、今は、その打太刀の正面を「すり上げ、すり落とす」と
なっておりますが、大日本帝国剣道形の解説では「受け止め、すり落とす」です。
私の記憶違いでしょうか?すりあげると書かれていたような気がしますが再度読み直して
見ます。
>事実、「高野×中山」で中山先生は「すりあげ」てはおりません。
太刀で切りかかっているものを、現在のような形小太刀ですり上げるのは不可能。
中山先生は、半歩引きながら間を見切り「受け止め」ておいででした(^^)
この方が自然と考えますヽ(^.^)ノ
はい、私も一端止めているように見ていたのですが、よく見ますとすり上げているよう
です。
高野先生は、あごまでの切り方で、中山先生はすり上げた後、一呼吸置いてからすり流
しているようです。一呼吸おくところが止めているように見えるのではないでしょうか?
中山先生は、太刀五本目のすり上げ面も一呼吸置かれています。すりあげに対してなにか
考えがあるのではないでしょうか?
また、高野先生の動きは、五本目は下段まで切り下げており、小太刀三本目はやはりあご
間での斬りつけをされているようです。
to EBICO さん
>「親馬鹿一刀流」さん
ご指導ありがとうございます!
引き続き、ニューミッションでも宜しくお願い致します
こちらの方こそ宜しくお願いします。
[2002/01/21 08:06:54]
お名前: EBICO
「親馬鹿一刀流」さん
ご指導ありがとうございます!
引き続き、ニューミッションでも宜しくお願い致します。
[2002/01/20 16:42:42]
お名前: Hide.
to EBICOさん
>剣道を始めてから、色々な方々のお稽古や、立ち会いを拝見する機会に恵まれて
>そのご様子を見取らせて頂く時、最近では足さばきのみをじっくりと拝見します。
そうですね、元立ちをされていらっしゃる先生の足さばきを拝見すると、どれくら
いの「つかい手」か見抜くことができますしねヽ(^.^)ノ
試合などで、対戦相手を観るときもまず、足と体さばきに着目するといいですね(^^)
>こちらのトピックも、だいぶ重くなって来た様ですし
>「憂うつにならずにすむ」為にも
>次なるステップのトピックを立ち上げて頂けませんでしょうか?
そうですね。ちょっと移動&分化を考えてみます(^^)
センター入試でバタバタしておりますので、もうしばらくお待ちくださいm(_ _)m
to 親馬鹿一刀流さん
>ある意味、竹刀剣道で行われる駆け引き、合い気が表現されているのではないで
>しょうか。
ハイ、その通りだと思います(^^)
何歩ではなくて、「間」と「呼吸」なんですねヽ(^.^)ノ
>「高野×中山」は一段も二段も(五段くらいかな)上の形と思います。
昨晩も「インタネプチ新年会」で、みなさんとともに「高野×中山」に何度も見
入ってしまいました。
とりあえず、アレが原点と考えて、日本剣道形の理合を再構築したい考えです(^^)
>遠間から勢い込んで斬りに行くのは仕太刀の方で、打ち太刀はその気勢、入り身
>に負けまいとしますが、気分は押されながら斬りこんで入ると解釈します。
>(先々の先に引き出されている)
今の小太刀三本目は、ほとんど「勢い込んできりにいく」という表現(動きの上で
の)をされていらっしゃる方がほとんどではないでしょうか?(^^;
さらなる疑問点ですが、今は、その打太刀の正面を「すり上げ、すり落とす」と
なっておりますが、大日本帝国剣道形の解説では「受け止め、すり落とす」です。
事実、「高野×中山」で中山先生は「すりあげ」てはおりません。
太刀で切りかかっているものを、現在のような形小太刀ですり上げるのは不可能。
中山先生は、半歩引きながら間を見切り「受け止め」ておいででした(^^)
この方が自然と考えますヽ(^.^)ノ
to 江口さん
>・・・これって「飛び込み胴」なんでしょうか?
ハイ、これは面抜き胴です(^^)
現在、我々は、
1.右足を右斜め前に出しながら、木刀を左肩に担ぐ
2.左足を出しながらお相手の胴を切る
という具合に教わり、そう打っておりますが、
「高野×中山」によりますと中山先生は、打方が振りかぶった直後、右足をわずか
に横に踏みだしながら、さっと一拍子で切ってしまっています。その後、スッと抜
けて折り敷きながら、いっぺんに脇構え残心に入っております。「節度」なんてど
こにも感じられません(笑)
その素早さと技の見事さにはほれぼれいたしますよヽ(^.^)ノ
打方の高野先生も、一瞬たりとも仕方から目を離すなんていうことはないんです。
胴を抜かれた直後には眼が中山先生を追っています(^^)
[2002/01/19 12:39:21]
お名前: 江口
To くに さん。
>打太刀はなぜいきなり斬りに行かないんでしょうか?
これはHide.さんのおっしゃっていることに“理”を感じます。私は
もうしばらく稽古を重ねたいです。スミマセン。
ただ、この七本目の仕太刀の胴技は、小太刀三本目の打太刀の胴技よりも
不自然さを感じます。どうしてだかはわからないんですが。
・・・これって「飛び込み胴」なんでしょうか?
それから余計なことかもしれないですが
竹刀剣道でない、古流といわれる剣術の胴技ってどんなもの
だったのか 知りたいです。
胴技ってあまり遣われてないような気がするものですから。
>また、仕太刀が胴を切った後、肩と平行にしたところで太刀を止め、刃先を返して脇に
>とって残身を
>示すのが今のやりかたですが、なぜいきなり脇まで切り抜けないのでしょうか?
解説書にたよるしかないんですが、七本目の「注」の(2)に
すれ違いに胴を打ち終わってから、節度をつけて残心に移る
と記されています。
この「節度」を保つ ためではないかと思っています。けど
だとしたら、キリ抜ける と「節度」が無いというコトに
なっちゃうのかしら っていうギモンも出てしまいますね。
[2002/01/19 10:44:46]
お名前: 親馬鹿一刀流
TO Hide.さん
>「高野×中山」では、打方の高野先生は三歩進んで立ち止まってから
右足から踏み込んで仕方の正面を切りにいくんです!
実は、このことは剣道形の効果に書こうと思っていた事の一つなのです。
私が書きました走りこむような足運びは、ある段階まで出来るようになった時の稽古法
の一つと捉えて下さい。
形に何歩で行うと取り決めはないと前に書きました。
「高野×中山」では中山先生の動きに合わせて(入り身になろうとした所を)斬り込ん
でいると思います。約束事で3歩目で斬るのではなく、あくまでも入り身になろうとす
る所を斬り込んでいると思います。ある意味、竹刀剣道で行われる駆け引き、合い気が
表現されているのではないでしょうか。
私が書いた稽古法としての素早い足運びは、短い得物で対する時に必要な相手を突き通
す勢いを勉強する稽古なのです。
「高野×中山」は一段も二段も(五段くらいかな)上の形と思います。
>遠間から勢い込んで斬りに来られたものでしたら、仕太刀は小太刀で簡単に受け止めら
れるものでしょうか??? このあたりが、私の現時点での疑問点なのすが・・・(^^)
遠間から勢い込んで斬りに行くのは仕太刀の方で、打ち太刀はその気勢、入り身に負け
まいとしますが、気分は押されながら斬りこんで入ると解釈します。(先々の先に引き出
されている)
TO くにさん
>「剣道形の竹刀剣道における効果必要性、五行の形の考察」楽しみにしてます。
私のつたない経験で覚えた事を書こうとしていますのであまり期待しないで下さい。
TO はやぶささん
>高野弘正先生は「小太刀の体の運用は千鳥の足運びを用いる」・・・
はい、私もその感覚を意識しています。
ところで私が学生時代に剣道形を指導して下さった先生がおられまして、七本目の構え
あってから元に戻る足は、足を交差する千鳥を使ってはいけないと指導されました。
私は太刀同士で正対している以上、また気を途切れさせないように戻る動作と考えてい
ますので、多くの方が行っている千鳥は間違いではないかと思っています。
はやぶささんはどう思われますか?
>ただこの足さばきは体が沈むため必ずしも美しくありません。・・・
「高野×中山」の剣道形を見ているせいでしょうか、自分で稽古してみた感覚でしょう
か、私も体を沈み込ませての構えの方が良いと思っています。
しかし、現在剣道連盟の講習会では、姿勢を正した形で左肩を引いた形を指導していま
す。お相手のある事ですので、分かった振りをして低く構える分けにも行かず合わせて
います。
私が考えている事が全て正しいなどとは思っていませんが、疑問を持ちながら稽古する
のはちょっとつらいのですが割り切りが必要ですね。
そういう意味では自分の考えを発表できて反論いただいたり,賛同いただけるいちに会の
HPは自分に欠かせないものになっています。
TO EBICOさん
>やっぱり剣道形は難しいんだなぁーって思います。
はい、見る目がないとかたちだけの物になりますが、見る目が出来てくるとより難しさ
を感じますね。
剣道形の効果必要性について
そもそも、剣道形は中学生の団体指導の為に作られた事を以前に書きましたが、非常に
良く出来ており、奥が深いと感じております。
各流派の特徴を出さないように制定したとはいえ、原本はさすがに各流派が工夫を凝ら
した物だと思います。
私は、竹刀剣道をやればやるほど剣道形の効果必要性を感じています。
(皆さんは竹刀剣道で擦り上げ面を払い面にならないで出来ますか?私は竹刀でも正確
に出来ないことが多いですが、木刀を使うと払い、擦り上げの違い難しさを随分感じま
す。)
今は、竹刀剣道がある程度できるようになったので、剣道形の理合を感じられるように
なったように思いますし、形の理合が分かってきたので竹刀剣道の理合いが分かってき
たようにも思います。良く言われる形は稽古のように、稽古は形のようにでしょうか?
(まだまだ分かっていない事が多いと思いますのでこれからも新しい発見が続くのだと
は思います)
形の取り組み方は、学齢、剣暦によって違って良いと思いますし、難しくやろうと思え
ばいくらでも難しくする事が出来ると思います。
例えば、少年指導で初心者の子供達を何年か指導してきましたが、素振り、空間打突も
形ですし、居合も形だと思います。
ただし、「かたち」(型)を作る形と、生きた形を作る型の違いがあります。
かなり恥ずかしいのですが、形の習得段階の例として私の経験を書きます。
1. 小学校高学年中学生時代(剣道形の習い始め)
昇段審査の為にかたちのみを覚えた。
2・高校短大に相当する学齢期(技の応用。ただし理合いは分からず)
指導者のいない学校だったので、剣道形を教科書代わりにしていた。
例えば、面返し面で足を踏み代えて左足を前にして引き面のように打つ。
四本目の足さばきを使って間合いを取るために引いたのだからこれはあり。
小手抜き面を手元をわずかに下げるだけで打たせないで、そのまま面にいく。
二本目の応用。
3. 社会人1
先々の先を分からないまま形の流れを洗練させようとした時期
4. 社会人2
斬り下ろしを意識して、いかにも斬る動作を意識した時期
何歩目で打ってこられようといつでも応じれるように意識した時期
攻め、気位を意識し始めたり、同時に速くやったり遅くやったりした時期
打ち太刀仕太刀の所作操法に疑問を感じた時期
5. 社会人3
剣道形解説書を何度も読んで、細かな所作、理合を考えた時期
自分が分かっていなかった剣道形の所作を発見する
刀の切っ先、反りを特に意識する
6. 社会人4
先々の先、後の先の理合いを考えた時期
この頃は竹刀剣道の本当の攻めとは何か、虚実とは何かを考えた
7. 社会人5
剣道形での刀の特性を使った、操作方法を改めて意識し始めた時期
太刀三本目の打太刀の動作で正確に物打ちで抑えられるか、小太刀三本目の擦り
流しを正確に物打ちで出来るか、剣先を相手から外さないで形をうてるか等
8. 社会人6
剣道形の所作、理合の妥当性を検証している
長々と書きましたが、日本剣道形は奥が深く、剣道の経験年数によって表現方法が変わ
ります。刀の操作方法がかなり取り込まれていますし、竹刀剣道に応用できる事が多く
含まれています。というか私は、剣道教科書の一つとして捉えていますので、剣道形の
応用で竹刀剣道が出来ると思っています。
事細かな効果を書き出しますとキリがなくなりますので、これくらいにしておきますが
また少しずつ書き加えたいと思います。
[2002/01/19 08:32:56]
お名前: EBICO
「親馬鹿一刀流」さんへ
剣道を始めてから、色々な方々のお稽古や、立ち会いを拝見する機会に恵まれて
そのご様子を見取らせて頂く時、最近では足さばきのみをじっくりと拝見します。
当初は、打ち方ばかりに目が行ってたのですが、暫くして体さばきに注目する様になり
最近は、どの様に足を動かしているのか?に興味津々で
足しか見ていない状態に近いです。
立会い・地稽古をされてるせんせ方や、子供達にお稽古をつけているせんせ方の
足の動かし方を拝見していると、無理無駄のない動かしかたをされている
せんせ方がたくさんおられます。
大会の開会式後に、色々な方々が剣道形をされていますが
その時も、やはり足の動かし方に注目して拝見させて頂いてます。
大概の場合、立ち位置が本目を進めて行くうちに、かなりずれていたりして・・・
???って思います。
やっぱり剣道形は難しいんだなぁーって思います。
まだまだ、ハッキリと自分成りの答えが出てはいないのですが
仰って頂けた事に気をつけて次回からの見取りは
全体を拝見しつつも、足さばきに注目して拝見させて頂く様、心がけます。
そして、実践して行ってみます。
「くに」さんへ
お説教を頂くのは、くにさんのみに限らず今まで数多くの方々から
剣道ばかりでなく、頂いてますので・・・
お説教して頂ける方々のお気持ちや、自らの行動・発言を
考える事が出来て、私自身の行動力になってます!
「しろたん」さんへ
Good Timing!っす
私は、一人仕太刀&一人打太刀を、お稽古場所のスミッコでやってます。
「Hide」さんへ、そして、みなさんへ
こちらのトピックも、だいぶ重くなって来た様ですし
「憂うつにならずにすむ」為にも
次なるステップのトピックを立ち上げて頂けませんでしょうか?
草々
[2002/01/18 18:01:26]
お名前: Hide.
to 江口さん
>どこかで読んだことがあるような気がしますが・・・。いまの自分には まだ、
>くるしい りくつです。稽古を重ねたらわかるかもしれません。
アハハ、でも、日本剣道形の中で、打太刀は随所で「マヌケな仕掛け」をしてし
まっております(苦笑) そんなに強い方を想定した形ではないんでしょうね(^^;
>わたしは カキコで「虚を衝かれ」てしまったみたいです。
「虚」でしたか? 失礼しましたm(_ _)m
to くにさん
>7本目の考察、面白いですね。打太刀はなぜいきなり斬りに行かないんでしょう
>か?
小野派一刀流にも「使者太刀(こんな字でよかったですかね、はやぶささん?(^^;)」
っていうのがあります。これは、お相手に対して「探りを入れる」太刀の使い方で
す。たぶん、七本目の打太刀の「気あたり」と称される最初の突は、「使者太刀」
と同じ目的があるのでは・・・と考えます(^^)
to しろたんさん
>わっ ここって レベル高すぎで場違いなような。。。。
いえいえ、ここはホントは「素朴な疑問」なんですよ(笑)
>今週から毎晩寝る前に「口剣道形」を言わせてます。。。
口剣道形、いいですね! 私も得意ですよ、それヽ(^.^)ノ
ほら、授業で剣道形を教えていたことがあるんですが、その時は、口で動きを説明
しながら、生徒達に動作をさせてましたからね(^^)
>みなさんは、どうやっておぼえられたのでしょうか。。。
>ここよんでいると、やっぱ精神からおしえないとね。。。。って思うんですが
剣道形に限らず、「芸事」は、まず形(かたち)を見様見まねで思えればいいんで
す。「魂を込める」のは、形(かたち=動き)がすっかり頭に入り、カラダで表現
できるようになってからやればいいことと考えます(^_-)〜☆
>さしあてっておバカが目立たない程度にしておかないと,。。
しろたんさんのキャラで、この硬直した雰囲気を和らげてくださいますと、管理人
としてもここに来るのが憂うつにならずにすむのですがヾ(・_・;)オイオイ
to はやぶささん
>姿はいいのですが、小太刀の不利を補うことができない足さばきでしょう。
おっしゃる通りですね。
「高野×中山」を見ますと、中山先生は小野派一刀流での小太刀と同じような、
グッと前傾した構えで、足こそ3歩しか進みませんが「千鳥足」です(^^)
>千鳥は一般には斜めにジグザグに進む足さばきと理解されていますが、
それは「千鳥がけ」と「千鳥足」を混同しているからですよね。
「千鳥がけ」の方がお相手の裏表の虚実を確かめながらジグザグに進む足なんです
けど、一般的に「千鳥足」というと酔っ払いのフラフラ足のニュアンスですから(^^;
>本当は足さばきも武道の技として作っていかなければ不十分なんですね。
御意ヽ(^.^)ノ
「高野×中山」の後を継いだとされている「斎村×持田」になりますと、小太刀は
とたんに「現代風」になります。
たしかに持田先生のキャラでは、身をかがめ、小太刀の刀身に身を隠して千鳥足で
進む・・・なんて表現はできなかったのかもしれません(^^; でも、それゆえに、
日本剣道形の小太刀は「意味不明」になったとも言えますので、あの世でお会いし
たらクレームをつけなきゃいけませんねヾ(・_・;)オイオイ
[2002/01/18 11:53:19]
お名前: はやぶさ
to親馬鹿一刀流さん、Hideさん
小太刀の足さばきですが、私は日本剣道形を打つときは間合いを詰める
時に普通の歩み足を使っていますが、これは大太刀を相手にした実戦では
通用しない足捌きだと考えます。
姿はいいのですが、小太刀の不利を補うことができない足さばきでしょう。
一刀流の小太刀は足さばきが違います。
高野弘正先生は「小太刀の体の運用は千鳥の足運びを用いる」(兵法一刀流)
と断言しています。
千鳥は一般には斜めにジグザグに進む足さばきと理解されていますが、
そればかりでなく「右足の前に左足を、そして次は左足の前に右足をもってきて
小走りに体を運ぶ」(同)としています。
右足の前に左足を置くときには左足のつま先を前ではなく左に向けて開き、足の底は
完全に地面にはつけません。足の外側面が軽く地面に触れるだけです。
こうすると体全体が沈みますが、すばやく動くことが可能で、下段の付けや発の形
で遠間から一気に相手の間合いに飛び込めます。
ただこの足さばきは体が沈むため必ずしも美しくありません。
日本剣道形は誰でも打てるように指導される宿命から、足さばきなども
日常の足捌きを取り入れていますが、本当は足さばきも武道の技として
作っていかなければ不十分なんですね。
[2002/01/18 11:32:51]
お名前: しろたん
わっ ここって レベル高すぎで場違いなような。。。。
息子が年末から剣道形を練習し始めました。(一本目と2本目)
ところが年末年始で2週間休んでいる間に、すっかりわすれてしまって(だれに似たのか??)
今週から毎晩寝る前に「口剣道形」を言わせてます。。。
みなさんは、どうやっておぼえられたのでしょうか。。。
ここよんでいると、やっぱ精神からおしえないとね。。。。って思うんですが
さしあてっておバカが目立たない程度にしておかないと,。。
[2002/01/18 00:23:32]
お名前: くに
to EBICOさん
生意気なことを言ってごめんなさいね。私の方が年上だから、なんか「お説教」になっちゃうんですよね。
>> EBICOさんのような方に食い下がられたら
>へっ?私ってどんな奴なんですかー?(再汗;
だって、「芸能レポーター」だったんでしょう?(笑)
to はやぶささん
>くにさんは剣道の段位は低いかもしれませんが、人間道の高段者ですね。
ははは。そんなに誉めて下さっても、何も出ませんよ〜(^_^;)
私は、剣道は再開して2年、通算しても2年半しかやってないので、剣道から得たものは、まだそんなに
多くないと思います。それまでにいろいろなことをやってきて(今でもやっていますが)得たものを、
剣道や日常でも応用させていただいていると言ったところです。
もちろん剣道を続けてこられた方は、剣道から多くのものを学んで居られることと思います。
日常に生かすこと、必要ですよね。
無刀流の組太刀、見たいですねぇ。無刀流の道場については、以前探して居られる方がいらっしゃいまして、
IZAYOHIさんかたんださんが御紹介になっておられたような…。
ビデオでも出ていませんかね。
to 江口さん
7本目の考察、面白いですね。打太刀はなぜいきなり斬りに行かないんでしょうか?
また、仕太刀が胴を切った後、肩と平行にしたところで太刀を止め、刃先を返して脇にとって残身を
示すのが今のやりかたですが、なぜいきなり脇まで切り抜けないのでしょうか?
to 親馬鹿一刀流さん
「剣道形の竹刀剣道における効果必要性、五行の形の考察」楽しみにしてます。
[2002/01/17 12:43:56]
お名前: 江口
To Hide. さん。
>互角とは、必ずしも五分五分である必要がありますでしょうか?(^^)
>「五五の十より、二八の十、一九の十で和す」のが剣道の和し方です。和した結果
>が互角なのです。
どこかで読んだことがあるような気がしますが・・・。いまの自分には まだ、
くるしい りくつです。稽古を重ねたらわかるかもしれません。
> 「なろうとした瞬間」か「なった瞬間」でなければ「虚」は
>つけませんね(^_-)〜☆
わたしは カキコで「虚を衝かれ」てしまったみたいです。
To はやぶさ さん。
山岡鉄舟の無刀流は途絶えてしまったのかと思い込んでおりました。
(通っていた道場の先輩がそう言っていたので)
奥深さを観てとれるはやぶささんもすごい と思います。「眼」は
稽古を重ねることでひらかれていくものだと自分は考えておりますが
現代竹刀剣道ではみえてこないものを思うとき、矢張り古流修行の
必要性を感じます。
[2002/01/17 11:23:52]
お名前: Hide.
to EBICOさん
>Hideさんや、くにさんに、毎回、後ろから肩をポンッって叩かれて、「ハッ!」
>と我に返ります!本当にありがとうございます!
いえいえ、私も皆さんのカキコにハッと目が覚めるような思いを何度もさせていた
だいております。お稽古も社会生活も、「お互さま」なんじゃないでしょうか(^^)
剣道の「我以外皆師」という考え方、私は大好きです。その意味を汲んだ、電剣会
の手ぬぐいができることは、たいへん意義深いことと考えておりますヽ(^.^)ノ
to はやぶささん
>私の師匠の師匠である小川忠太郎先生も生前、常に「剣道は生活に役立つ。
>剣道は道場でやるだけで終わりではなく日常生活は全部剣道なんだ。
>剣道家はそれを知らないんだ」と語っていましたが、それを実践していますね。
「剣道則日常」「日常則剣道」の教えですね(^^)
私の師匠の渡辺敏雄も、「剣理精通」と説かれておりました。学生でした私には、
先生の教えを理解することができませんでして、しょっちゅう先生に叱られており
ましたが、この歳になり、家庭を持ち人の親となったときに、少しずつ先生の教え
が染み渡るように理解できるようになってまいりました。実践にはほど遠いです
が・・・(^_^ メ)
>無刀流の組太刀は一刀流を山岡鉄舟が大悟徹底した目で改変したもので、各技の
>名称は同じですが、風格が異なります。無刀流は奥が深いですよ。
へー、そうなんですか。一度、拝見したいものですヽ(^.^)ノ
to 江口さん
>としたら、双方の気位は五分五分でなくて七分三分とか、四分六分(?)とかに
>なって、互角とはならないようにおもえるのですが・・・(←へりくつでしょう
>か?)
互角とは、必ずしも五分五分である必要がありますでしょうか?(^^)
「五五の十より、二八の十、一九の十で和す」のが剣道の和し方です。和した結果
が互角なのです。だから引きながら突いても、打太刀に「気あたり」を止めるの十
分なんじゃないですかヽ(^.^)ノ
>虚をつく・・・わかる気がします。
でしょ?(^^)
いやぁ、だってあの場合、それ以外に正面を切りにいく適切な理合が思い浮かびま
せんもの・・・(^^; だから、完全に「相晴眼」に戻りきってから打ちに行ったの
ではまずいはずです。「なろうとした瞬間」か「なった瞬間」でなければ「虚」は
つけませんね(^_-)〜☆
to 親馬鹿一刀流さん
>三本目の仕太刀の歩み方なのですが、打太刀共にある段階まで上達したならば、
>稽古方法の一つとして走り込むような早い足運びで行うのが、よりいっそう訓練
>になると思っています。
実は、小野派一刀流の小太刀では、親馬鹿一刀流さんがお書きになっていらっしゃ
るような足遣いをして間を詰めます(^^) 「大の間合から小の間合に一息に詰め
る」と表現されおります。
>打ち太刀は、入り込まれるのを嫌って静止せずに歩みながら切り込みます。(入
>り身にならんとする所)
私も同様に考えておりましたが、実はここで大きな疑問が生じているんです。と申
しますのも、「高野×中山」では、打方の高野先生は三歩進んで立ち止まってから
右足から踏み込んで仕方の正面を切りにいくんです! 中山先生はこれを受け止め
スリ落とし、高野先生の苦し紛れの胴を入身になりながら易々とすり流してしまい
ます。
もし、遠間から勢い込んで斬りに来られたものでしたら、仕太刀は小太刀で簡単に
受け止められるものでしょうか??? このあたりが、私の現時点での疑問点なので
すが・・・(^^)
>左足を開いた状態で、打ち太刀に負けない勢い、速さで入り身になるのです。
>Hideさんが良く言われる撞木足は悪いと思わない事の裏づけにならないでしょう
>か?
うーん、ここは何とも言いようがありませんね。
ただ、歩み足で進む剣道形にたいして、右足前の送り足が中心の竹刀剣道とでは、
「撞木足」のとらえ方が異なるかもしれません(^^;
>(現行の形は小中学生には難しいので、新たな剣道形の必要性も感じています。)
ご賛同いただけましてうれしく思います(^^)
>足さばき中心に書かせて戴きましたが、剣道形の竹刀剣道における効果必要性、
>五行の形の考察をまた今度書かせて戴きます。
どうぞ、よろしくお願いいたしますm(_ _)m
[2002/01/17 09:50:04]
お名前: 親馬鹿一刀流
時間が空いてしまって申し訳ありません。剣道形小太刀の足さばきについて書きます。
以前に、三本目の戻る時の足さばきについての私なりの考えを書かせて頂きました。
今まで色々な方にお聞きしたり、自分なりに考えている事を追記します。
三本目の仕太刀の歩み方なのですが、打太刀共にある段階まで上達したならば、稽古方法
の一つとして走り込むような早い足運びで行うのが、よりいっそう訓練になると思ってい
ます。
ある先生に素早い足捌きの妥当性についてお話ししましたら「鼠足」という表現があるそ
うです。
仕太刀は九歩の間合いから、打ち太刀の懐に入り込む気分で進みます。
打ち太刀は、入り込まれるのを嫌って静止せずに歩みながら切り込みます。(入り身にな
らんとする所)
仕太刀は、そこを擦り上げ擦り落とし、打ち太刀は尚も負けまいと胴に切り込みますが、
擦り流し、刷り込まれて制されます。打ち太刀は旺盛な気力で仕太刀が下がる所を更に攻
めようとしますが、剣先を付けられ何をやっても返されるのを悟り、まいったとなります。
何を言いたいかというと、先々の先の気分を表す、九歩の間合いからの素早い入り身の動
作、相手の動作に対しての途切れのない足さばきの必要性で、ここに小太刀の形の妙味が
あるのではないかという事です。もちろん打ち太刀の途切れのない攻め込みも必要です。
更に足捌きを考察しますと、半身で対峙しますので、左足の向きは相手に正対しません。
左足を開いた状態で、打ち太刀に負けない勢い、速さで入り身になるのです。
Hideさんが良く言われる撞木足は悪いと思わない事の裏づけにならないでしょうか?
また、半身から半身の動作が入っており、現代剣道では少なくなった足さばきが含まれて
います。(開き足を使った技)
間髪を入れない動作で形を演じようとすれば、非常に高度な技術が必要とされます。
以上のことは、竹刀剣道に非常に効果があると考えます。
小太刀の足さばきに関する私見を書かせて戴きましたが、小太刀の形そのものの必要性を
疑問視されるご意見に対するお答えにはなりませんでしょうか?
(現行の形は小中学生には難しいので、新たな剣道形の必要性も感じています。)
足さばき中心に書かせて戴きましたが、剣道形の竹刀剣道における効果必要性、五行の形
の考察をまた今度書かせて戴きます。
[2002/01/17 08:12:03]
お名前: 江口
To Hide. さん。
説明してくださって ありがとうございました。
>「打太刀は気負っている」のです(^^)
としたら、双方の気位は五分五分でなくて七分三分とか、四分六分(?)とかに
なって、互角とはならないようにおもえるのですが・・・(←へりくつでしょうか?)
>打太刀はやお
>ら振りかぶり仕太刀の「虚」を突くべく、一刀両断、体を捨てて斬り込みます。
虚をつく・・・わかる気がします。
[2002/01/17 00:36:41]
お名前: はやぶさ
toくにさん
>刀は身を守るために使うもの。竹刀や木刀もそうですが、うっぷん晴らしに使うようなことは
しても言ってもいけないと思います。
>竹刀稽古の時も、お相手を叩いているのではなく叩かせて
いただいているもの。
>「叩かせていただいて、ありがとうございました」と、終わりの礼もするように
していますが、違いますか?(^^)
くにさんの心境は高いですね。
くにさんは剣道の段位は低いかもしれませんが、人間道の高段者ですね。
だからくにさんのいるところ人の輪ができる。
剣道を竹刀のたたきあいにとどめず生活に生かしているんだなと感心しました。
私の師匠の師匠である小川忠太郎先生も生前、常に「剣道は生活に役立つ。
剣道は道場でやるだけで終わりではなく日常生活は全部剣道なんだ。
剣道家はそれを知らないんだ」と語っていましたが、それを実践していますね。
私はそんな心境にはなれませんが、社会人になってやる剣道は試合に勝つとか
打った打たれたではないことは痛感しています。
山岡鉄舟が無刀流発明のおり「心のほかに刀なし。心刀の利用
また快ならずや」と宣言し、「余の剣法やひたすらその技をこれ重んずるにあらず
その心理の極致に悟入せんと欲するにあるのみ」と喝破し、
あるいは一刀流の教えに「それ剣は人を切るにあらず。わが心の非心を切るなり」
というのがあります。
剣道はかつてこんな境地まで到達しているんですね。
それこそがテニスでもサッカーでも空手でもなく、社会人が剣道を選んで修行する
所以ではないでしょうか。
私は見ただけで自分で修行していませんが無刀流の組太刀は一刀流を山岡鉄舟が
大悟徹底した目で改変したもので、各技の名称は同じですが、風格が異なります。
無刀流は奥が深いですよ。
[2002/01/17 00:12:51]
お名前: EBICO
「くに」さんへ
> 師と仰がれる立場の方が・・・
んー
私の剣道のせんせ方では無いんです(汗;
> EBICOさんのような方に食い下がられたら
へっ?
私ってどんな奴なんですかー?(再汗;
> 電脳剣士会で面下を作りましたが、そこに書かれている文字は「皆和師(みなわがし)」。
今までは皆さんに、ご説明頂けた内容として理解していました。
「電脳剣士の間」と「小桜さん」の所にある画像をじっと見つめて
心に刻んでから、お稽古や、こちらの書込みを行います!
生憎 ◆ダウンロード禁止◆ とされて居ますので
プリントアウトは出来ませんが・・・
2月に頂けた時には、自分の目の前の壁に飾ります。
もう一本は、お稽古に使わせて頂きます。
> 日本剣道形は、機会があれば、御一緒に勉強しましょう (^_^)
ありがとうございます。頑張って勉強します。
> うっぷん晴らしに使うようなことは、
> しても言ってもいけないと思います。
心します。
Hideさんや、くにさんに、毎回、後ろから肩をポンッって叩かれて、「ハッ!」と我に返ります!
本当にありがとうございます!
「りょうさん」にも、お辛いでしょうが、ステキナお仲間のみなさんが付いてらっしゃるので
一日も早くご快癒されます様、お伝え下さい!
草々
[2002/01/16 19:36:31]
お名前: くに
to EBICOさん
ずいぶんお怒りのようですね。師と仰がれる立場の方が、そうではない振る舞いをされる。
許せない感情になってしまうということは、起こりがちですね
まぁでも、よく考えて下さい。自分がその立場に立って、EBICOさんのような方に食い下がられたら、
けっこうつらいんじゃないですか?(^^)
昔の先生は教えないと言うことを書きましたが、昔の道場では師弟関係が絶対で、どう考えても
理不尽だと思うことをやられても、強くなるためには服従せざるを得なかったようですよ。ずいぶんおだやかな
関係に、今はなってきたわけですね。
私は、社会人になって剣道を学びはじめた者にとって道場は「教えてもらう」場なのではなく、
「自ら学び取る」場なのだと思っています。
だから、所属の道場の先生に教えを仰ぐばかりでなく、電脳剣士会に参集されたみなさんからも学びます。
必要のないものは、礼を失しないように聞いて、聞き捨ててしまいますが、どんな方とやっても、
学ぶことの方が多いです。確かに模範にならない生き方を教えて下さる先生もいらっしゃいますが(笑)
電脳剣士会で面下を作りましたが、そこに書かれている文字は「皆和師(みなわがし)」。
こちらに学び取ろうという気持ちがあれば、子どもとやろうが大人とやろうが、学べることはあるはずです。
学ぶことが何もないと思っていらっしゃるなら、それは、学ぶことが無いのではなく、自分の中に
学ぶものを見分ける目がないのだと思いますよ。
日本剣道形は、機会があれば、御一緒に勉強しましょう (^_^)
刀は身を守るために使うもの。竹刀や木刀もそうですが、うっぷん晴らしに使うようなことは、
しても言ってもいけないと思います。竹刀稽古の時も、お相手を叩いているのではなく叩かせて
いただいているもの。「叩かせていただいて、ありがとうございました」と、終わりの礼もするように
していますが、違いますか?(^^)
[2002/01/16 14:21:35]
お名前: EBICO
「Hideさん」「くにさん」
ご指導ありがとうございます。
すっかり、散らかしてしまい、皆様申し訳ありません。
さるお方については「日本刀を持ち出して、ぶった斬って差し上げたい!」気分です。
その前に「剣術修行中さん」に、斬り方を教えて頂かねば・・・
[2002/01/16 12:05:41]
お名前: Hide.
to 江口さん
>むかし、剣道形制定の先生方も こんなはなし、してたんでしょうか?
>・・・するわけないですね。
アハハ、案外していたかも・・・(^^;
流派に伝わるお話ですから、それに異を唱えることはできなかったと思います
が・・・。
>仕太刀の面に隙がある(または できる)のでしょうか?七本目の打太刀と仕太刀
>のあいだに、どんなことが 起こっているのか教えてください。
おお、久々に「素朴な疑問」って感じのご質問が飛び出しました(笑)
そうですねぇ、あくまでも私の解釈ですが、「打太刀は気負っている」のです(^^)
相晴眼で突破口を見いだすべく「気あたり」で仕太刀の胸を突いてみますが、打太
刀の「気負い」を見透かしている仕太刀は少しもあわてず、スッと体を引きながら
まをとり突き返すようにして持ち支え、意に介しません。鎬を削るようにして相中
段に戻ろうといたしますが、完全に戻りきってはまた拮抗するので、打太刀はやお
ら振りかぶり仕太刀の「虚」を突くべく、一刀両断、体を捨てて斬り込みます。そ
れを見た仕太刀は瞬時に右開きから胴に変化し、折り敷き脇構え残心となり勝ちを
制しますヽ(^.^)ノ
ってこんな感じですが(^^)
to EBICOさん
>結局、翌朝も形のお稽古が出来ませんでした(悲涙;
>でも、気持ちの上ではスッキリした気持ちで、お稽古に望む事が出来ました!
そうですか、形のお稽古ができなかったのは残念ですが、気持ちのいいお稽古がお
出来になられたのこと、よかったではありませんかヽ(^.^)ノ
お稽古は一回ごとに、着実に手ごたえを感じられなければなりません。むろん、反
省点もなければいけませんですが、それ以上に、「言い手ごたえ」あるいは「次回
への明確な課題や指針」を得られたときは、充実感がありますよね(^^)
>チョット顔を出して、ご立派同然に、せんせにご指導されて!
>いい気になって写真に写るあなたは、いったい何者でしょうか?
うーん、どなたに対してのカキコかわかりませんが、あまり好ましいカキコとは思
えませんねぇ(^^;
みなさん、無限に時間があるわけではありませんので、ない時間をやり繰りしてお
稽古あるいは掲示板に来られているわけです。そうしたご事情もお汲み取りになれ
るゆとりをお持ちいただけるとよろしいのではないでしょうか(^^)
くにさんもお書きになっておられますが、昔の先生は、ホントものを教えてくださ
いませんでした。何か聞きに行くと、「床に聞け」「竹刀にお聞きなさい」「カベ
が教えてくれます」なんて禅問答のようなことを言われ、取りつく島もない(^^;
でも、次にその先生のお稽古にいくと、並んで見取り稽古をしているときに、前の
方にそれとなくやってくださったり、自分に対してやって見せてくださったり・・・(^^)
それを観て「ああだったのかな?」「こうかな?」なんて考え工夫したものです。
また、お風呂で先生のお背中をお流ししているときとか、お酒の席で先生のご機嫌
が良くなられたときに、ポロッとヒントを聞けたりいたしましたヽ(^.^)ノ そんな
わずかな教えを宝物のようにしながら、一心にお稽古に励んだものです。
今の先生は「教えすぎ」と言われますが、本来技術にしても理合にしても「盗む」
とか「体得する」といったもので「教えてもらう」ものではないと思います。その
先生が、何十年もかけて修業してきたことをお教えくださるのですから、「お教え
いただけないこと」を不満に思うのではなく、お教えいただけるよう心を尽くすこ
とが肝要と考えます。
それは、このインタネの世界でも同じと愚考いたしますが(^_-)〜☆
to くにさん
>先生だって、何でも知っているわけではないし、
>完全(パーフェクト)を期待しても仕方がないですよ。
アハハ、まったくです(^^;
私は「日本一のレッスンプロを目指す!」なんて志を立てておりますが、知らない
ことの方が多いくらいで(^_^ メ) このサイトで、みなさんから「盗ませて」いた
だいている真っ最中ですから・・・。
[2002/01/16 09:55:29]
お名前: くに
to EBICOさん
落ち着いて下さい。(^^)
昔の先生は、そう簡単に教えてはくれなかったそうですよ。
ここのように、とにかくいろいろな意見を聞けるって事は、貴重で、幸せなことなんですから。
先生に聞けなければ、自分で調べて考えればいいのです。先生だって、何でも知っているわけではないし、
完全(パーフェクト)を期待しても仕方がないですよ。
[2002/01/16 01:23:30]
お名前: 結局EBICO
結局!来ない方に何をゆってもしょうがない!
チョット顔を出して、ご立派同然に、せんせにご指導されて!
いい気になって写真に写るあなたは、いったい何者でしょうか?
皆さんの前で、こんな悪口をゆう、私とて、何者でしょうか?
[2002/01/16 00:43:31]
お名前: EBICO
結局、翌朝も形のお稽古が出来ませんでした(悲涙;
でも、気持ちの上ではスッキリした気持ちで、お稽古に望む事が出来ました!
せんせ方が休憩タイムに戻って来られるのを待って
あれや、これやと、芸能レポーターの如く、聞きまくってしまいました(恥;
せんせ方も「まぁ色々な考え方がありますから!」って仰ってました
今度は、そのせんせ方に私の方から、挑戦させて頂ける様に頑張ります!
ありがとうございました!
[2002/01/15 23:54:48]
お名前: 江口
To Hide. さん
>そもそも、そんなにあちこちに「小枝の燃えさし」があるとは考えられませんし
>ねぇ(笑)
むかし、剣道形制定の先生方も こんなはなし、してたんでしょうか?
・・・するわけないですね。
くだらないことをたずねてすみませんでした。
恥かきついでのようですが。
七本目で仕太刀が、打太刀の突きくる刀を支え 互いに相中段になって・・・のあと
(ここで双方の気位は五分五分であることが大切と教わりました。)
互いの刀が接した(膠着に近い)状態から、打太刀が振りかぶって「面」を打って
くる理由がわかりません。四本目のように切結んだ(鎬を削ると教わりました)状態
から「突き」というのは理解できる気がするのですが・・・
仕太刀の面に隙がある(または できる)のでしょうか?七本目の打太刀と仕太刀の
あいだに、どんなことが 起こっているのか教えてください。
[2002/01/15 22:53:15]
お名前: Hide.
to 江口さん
そもそも、そんなにあちこちに「小枝の燃えさし」があるとは考えられませんし
ねぇ(笑)
エピソードとしてはたいへん面白いのですが・・・(^^;
to 剣術修行中さん
>一刀流の組太刀も小野次郎右衛門以降に編纂されたものであり、一刀斉や次郎右
>衛門の小太刀と
>現在に伝わる小太刀とは随分違ったものだったのではないでしょうか?
そうですね。
私は宗家ではありませんし、宗家に教えを受けたのでもありませんので、そのあた
りについて述べる根拠をなんら持ちあわせておりませんが・・・(^^;
[2002/01/15 09:56:03]
お名前: 剣術修行中
流祖や剣豪の逸話って楽しいですよね。流儀の宣伝を多分に含んでいるのでかなりあやしい
ものも多いですけど、なかなか的を得ていておもしろい。
でも、多くは戦国時代ころの話ですから、甲冑武術の方向からも考察した方が良いかもしれ
ません。
当時の刀の使い方のメインは「鎧通し」といわれる短刀や脇差しを使った組み討ち。
甲冑に守られながら姿勢を低くして相手の懐に入り、グサリといったところ。籠手で避けたり
時には素手で相手の刀をつかむなんてのもありです。
神妙の域に達した達人の方々であれば、甲冑などつけていなくても容易だったはず。
柳生新陰流の無刀取なども「柔術」のたぐいとする考え方もあるらしいです。
一刀流の組太刀も小野次郎右衛門以降に編纂されたものであり、一刀斉や次郎右衛門の小太刀と
現在に伝わる小太刀とは随分違ったものだったのではないでしょうか?
[2002/01/13 19:49:17]
お名前: 江口
To Hide. さん。
>ま、小野派一刀流の方に語り継がれている話ですから、偏りがあると考えたほうが
>いいかもしれません(^^; 柳生新影流の方には、そんなエピソードは・・・残って
>ないか(笑)
>でも、将軍家指南役に推挙される経緯は、どこか別の資料に記されていてもおかし
>くはないですよね(^^)
根岸肥前守鎮衛『耳袋』には
・小野次郎右衛門出身の事 附伊藤一刀斎が事
・小野次郎右衛門遠流の事 附御免にて召し帰られし事
という話が載っていますが 木片の燃えさしのエピソードは
ありません・・・
中里介山の『日本武術神妙記』には載ってますが、その本のなかの
他の話には出典がついているのに、このエピソードにはついていないです。
他の本を確かめてはおりませんが やっぱり ただの“エピソード”なのかも
しれません。
>そうですか。それ以外の他流派の小太刀をご存じの方にもご意見を伺いたいですね
>(^^)
はい。お願いしたいです。
[2002/01/13 16:44:51]
お名前: Hide.
to くにさん
>私もさる図書館の司書の方と親しくなりまして、閲覧に行くと必ずおしゃべりし
>て来るのですが、講演するときなどにそちらでお聞きした話を混ぜて出すと、聞
>き手を注目させることができます。
そうですね、「聞き方のテクニック」とでも申しましょうかヽ(^.^)ノ
一方的にお話して聞きたい情報を引き出そうとしてもなかなか出てきません。うま
くお相手との間合&呼吸をはかって・・・うーん、剣道に通じるかな(笑)
to EBICOさん
>「Hide」さん更なるご指導ありがとうございました。
>私の経験不足が、みな様にご迷惑をお掛けしていました。
失礼な物言い、お許しくださいm(_ _)m
ご迷惑だなんて、そんなことお気になさる必要はありませんよ。私とて、わかって
いることは少ないんです(^^;
ただ、剣道形を否定的に観て「必要性を感じない」としてしまうのは簡単なんです
が、私達の方から「必要性を作りだしてしまう」なんていうのも面白いではありま
せんか(笑) そういった意味では、私は賛同できませんがはくどーさんの論など
はたいへん壮大でロマンがあるヽ(^.^)ノ そう信じて打てば、そういう形の表現に
なることは間違いないはずです(^^)
そういった意味からも、お一人お一人の剣道形を創作していっていいんじゃないで
しょうか。ただ、形(かたち)を追うのだけはやめましょう。形を知り学んで、そ
こに魂を入れる・・・。これが日本の「芸道」の学び方だと思いますヽ(^.^)ノ
to 江口さん
>もしかして、神子上典膳は伊藤一刀斎の真似したんですかぁ?
マネした・・・うーん、一刀斎から優れた小太刀の使い方を教えられており、それ
が柳生に通用すると判断したからでしょう。自信がなければ、そんなことをせず、
太刀で戦ったように思えます(^^)
>・・・うーん。どう考えればよいのか わかりません。つくりばなしだと
>しても、人の感受性を育てるものだと思えば ほほえましい気もしますが。
ま、小野派一刀流の方に語り継がれている話ですから、偏りがあると考えたほうが
いいかもしれません(^^; 柳生新影流の方には、そんなエピソードは・・・残って
ないか(笑)
でも、将軍家指南役に推挙される経緯は、どこか別の資料に記されていてもおかし
くはないですよね(^^)
>他流派の小太刀 として私は
>直心影流のしか目にしたことがないのですが
>直心影流の方は 日本剣道形のとは 「違う」気がしたことを覚えています。
そうですか。それ以外の他流派の小太刀をご存じの方にもご意見を伺いたいですね
(^^)
[2002/01/13 08:00:10]
お名前: 江口
To Hide. さん。
>伊藤一刀斎は神子上典膳と仕合した時に一刀斎は一尺五寸程の木片の燃えさ
>しを使ったという。
もしかして、神子上典膳は伊藤一刀斎の真似したんですかぁ?
・・・うーん。どう考えればよいのか わかりません。つくりばなしだと
しても、人の感受性を育てるものだと思えば ほほえましい気もしますが。
> 他流派の小太刀を知らぬ
>身には限界がありますが、きわめてに通った動き&理合であることは間違いのない
>ところですヽ(^.^)ノ
他流派の小太刀 として私は
直心影流のしか目にしたことがないのですが
直心影流の方は 日本剣道形のとは 「違う」気がしたことを覚えています。
[2002/01/13 00:57:09]
お名前: EBICO
水を被って、頭を冷やして来ました。
「Hide」さん更なるご指導ありがとうございました。
私の経験不足が、みな様にご迷惑をお掛けしていました。
でも
こんな初心者でも、真剣にお相手頂き
みなさま、ありがとうございます!
PS:本日のお稽古で
本当は形のお稽古をしたかったのですが
時間が押してしまいましたので、出来ませんでした。
明朝のお稽古の後半には、必ずや
仰って頂けた事を頭に思い浮かべて、形をお稽古致します!
でわ
[2002/01/13 00:03:51]
お名前: くに
to 剣術修行中さん
>私もどちらかというとズケズケ聴いてしまう方なんで、いろいろとくだらないことまで知っていたりするのですが。
それは大変にいいことですね(^^)
私もさる図書館の司書の方と親しくなりまして、閲覧に行くと必ずおしゃべりして来るのですが、
講演するときなどにそちらでお聞きした話を混ぜて出すと、聞き手を注目させることができます。
>ただ、やはり古流は古流ですよ。宗家のお師匠様が古武道協会のいろいろな会合などに参加してきた話しなどを聴くと、いろ
>いろな問題を抱えているようです。信頼してお話いただいているので、ここでベラベラと話すわかにはいかないんですが。。。
そうでしょうね。ここでは出来ませんね。いつかお目にかかる機会があれば、ないしょでお聞きしたいですね(笑)
>たとえば、一子相伝とは言わないまでもお世継ぎ問題。多くの流派で宗家の高齢化問題が深刻
になっております。
>加えて人材難。宗家は決して名誉職などではなく、何百年続く流儀を正しく残していく必要があります。…
この辺は、仰有るとおりですね。茶道・華道…みんな同じでしょう。
まぁただ、盛っている流派はけっこうオープンにしているように思います。
[2002/01/12 23:28:35]
お名前: Hide.
相変わらず、賑わってますねぇ(笑) さぁ、今日も張りきっていきますか!
to たんたんさん
>あのぅ〜格調高いお話の中に書き込むのはなんなんですが・・・・(^_^;アセアセ
>あたしもちょっと違う質問したいんですけど。
アハハ、遠慮なさらずに、「素朴な疑問」をおかきください(^_-)〜☆
>三歩進む時と五歩下がる時は左手の刀の鍔のおさえ方はおなじなんでしょうか?
私がご指導いただいた範囲&文献などで読みました範囲でものを述べさせていただ
きますと、剣術修行中さんと同じく、前進も後退も、「鯉口を切る」形でいいと思
われます(^^)
to はやぶささん
>Hideさんは剣道の実践家であると同時に指導者、教育者なのですね。
そんな偉そうなものじゃありませんがね(^^;
>だから初心者に剣の理合いを教育するための形というのであれば、
>Hideさんの意見に異を唱えるものではありません。
ご賛同いただけましてうれしく思います(^^)
>そこで日本剣道形ですが、これは不十分ではあるが、役に立てようと思えば
>役に立つというのが私の答えです。
そこはまったく、私も同意見です。
「役に立つように剣道形を打つため」に、こうしたトピを立ててみなさんのお知恵
を拝借しているわけなんですヽ(^.^)ノ
>もうひとつ、小太刀は現代剣道ではやらないという設問は設問自体が間違いで
>す。だれが竹刀剣道で小太刀で稽古してはいけないと決めたのでしょう。
>私は昔、小太刀で稽古したりしましたよ。(ただし、相手の許可を得て)
これは盲点でしたね! 正直、驚きました。長さの上限は決められてますが、下限
はありません。小太刀でお稽古してもいいんですよね!ヽ(^0^)ノ
でも、「面・小手・胴・突」を打突しあう競技である剣道を小太刀で勝負するの
は、かなりの難しさが想像されますね。小野派一刀流組太刀の小太刀でも、竹刀剣
道に応用できそうな技はありませんね(^^; 合小太刀の方は使えそうですが・・・。
>形とは離れますが、現在の剣道界は思考停止の高段者がだめにしていますね。
>彼らは8段になることがすべてで、8段に受かりやすい剣道、
(・・・中略・・・)
>それ以外にも多様な剣道が評価されてもいいのではないでしょうか。
御意ヽ(^.^)ノ
私も剣道はもっと自由度の高いものだと考えております(^^)
to EBICOさん
>あくまで約束の上に成り立っている形をいくら打っても
>先々の先についての習得は無理では無いでしょうか?
たいへん失礼な物言いをお許しいただきたいのですが、それは形のやり込みが足り
ないからです(^^;
「先々の先」の技と「後の先」の技は、決められた動きの中にあっても全く異なる
ものです。その理合を理解し、心までも表現できるようにすることが、形稽古の目
的なんですよ(^^)
「決められた動き」を決められた通りに演ずるのは「形のための形」でそれこそ形
骸以外の何物でもありません。そのために、こうしたトピを立てて「理合の検証」
を試みているわけです(^_-)〜☆
>実践の中で編み出した必勝の太刀筋が、採用されなかったばかりでなく
>何故、現在に至るまで、異議を唱える者が出て来なかったのでしょうか?
それは、ご自身が習い覚えた「流派の形」の中にそれを見いだしていたからだと思
います。ことさら「日本剣道形」にそうした部分を求める必要がなかったのでしょ
う。
かく言う私も、日本剣道形に目覚めたのは、小野派一刀流の組太刀を勉強してから
です。それまでは、日本剣道形を「形(かたち)」としてしか理解しておりません
でした。しかし、小野派一刀流を学んだことによって、「動きには意味(理合)が
ある」ということにはじめて思い至ったわけでして・・・。
制定に関わった先生方にとって妥協の産物だったとしても、それはご自身の流派に
はなんら影響を及ぼさない。中山先生が「日本剣道形」を不満に思っていたという
ことは明らかになっておりますが、先生ご自身は「日本剣道形」以外におやりにな
れることがたくさんあったから、ことさらそれにこだわる必要もなかったのだと思
いますが・・・(^^)
>仮に私が、お勧めの通り小太刀(短い竹刀の意ですよね?)
>でお相手に向かったとして、本当に剣道を深く理解できますでしょうか?
さぁ、それは実際に経験してみなければ結論の出せないことだと思いませんか?(^^)
to 江口さん
笹森順造著「一刀流極意」の179ページに「小太刀の史実」という一文がありま
すので、参考までに引用させていただきます(^^)
伊藤一刀斎は神子上典膳と仕合した時に一刀斎は一尺五寸程の木片の燃えさ
しを使ったという。神子上典膳が柳生但馬守と仕合した時も典膳は一尺五寸程
の木片の燃えさしを使ったという。これは一刀流の小太刀にあたる。
(・・・後略・・・)
とありますので、はやぶささんは「与太話」と一蹴されてますが、あながち間違い
ではないのかもしれません。
>小野派一刀流の小太刀に上記のことをうかがわせるような形はあるのでしょうか?
まぁ、どこの流派にのあるのでしょうが、一本目の左開きから左鎬のすり流し、二
本目の右鎬のすり流しは、小野派一刀流では「下段之附」「左右之払」に同じ動き
を見ることが出来ます。
また、三本目の打太刀が右胴を払いに来るところを仕太刀が小太刀を立てて受け流
して止め、腕を取り刃を右に返して鍔元まで摺り寄せる動きも、「左右之払」の中
に出てまいります(^^)
これをもって、「小太刀の原形」と断じていいかどうか、他流派の小太刀を知らぬ
身には限界がありますが、きわめてに通った動き&理合であることは間違いのない
ところですヽ(^.^)ノ
[2002/01/12 10:41:49]
お名前: EBICO
「はくどー」さんへ
性急過ぎましたかー
こちらのお題って、ついつい熱くなってしまうのです
水を被って、頭を冷やして来ます!
ご丁寧なご指導をありがとうございました。
[2002/01/12 10:14:26]
お名前: 江口
To はやぶさ さん
やっぱり、つくりごとでしたか・・・
>それを佐久間先生のような方が
>検証もせず先師の話としてもっともらしく書いて恥じないところが剣道家が社会から
>まともに相手にされない一因のような気がします。
佐久間先生といえば持田盛二先生に師事なさった方ですよねー。
「形も持田先生に教わった」と書いてらっしゃてますし。
あー。ようやく さっぱりしました!訊いてみて良かった。
剣道に限らず、芸道の世界って 「つくりばなし」が
多いのかも知れません。だから 困っちゃう。
>あえていえば小太刀の左右の払いの形が
>日本剣道形小太刀3本目に似てるかなってとこですか。
小太刀三本目のどこでしょうか?
もいちど ビデオをみてみることにしましょう・・・
> 流祖伊藤一刀斉はもともと中条流の流れを汲む鐘巻自斉の門人でしたから、当然、
>小太刀も深く学んでいたはずです。
“鐘巻自斉”ってどういうひとなんだろう・・・おもしろそうです。
[2002/01/12 09:32:32]
お名前: はくどー
URL
EBICOさん
お気持ちは分かりますが、それは性急に過ぎますよ。
自分が「攻め」たのに、相手が反応しないからといって相手を責めるのは筋違いです。
答えやすい話題から答えてゆく場合も有りますし、丁寧に答えようとすれば、時間が
かかる場合もあります。
こういう場での交流は、相手に自分の立場・都合を押しつけないように気遣いましょうよ。
[2002/01/12 08:49:11]
お名前: EBICO
再度「はやぶさ」さんへ
ご指導して頂けた、お話を私なりに解釈し(時間は掛かりましたが)
それに対するお答えをお書きして差し上げたにも関わらず
何故(なにゆえ)、今回のご自身の直前の書込みにしか(江口さんすみません)
お答え頂けなかったのでしょうか?
私は、あなたが、こんな素朴すぎる疑問に対して、お答えが頂けたので
必死に、そのお言葉を読み取り、そのお答えを返したつもりでしたが・・・
[2002/01/12 04:05:56]
お名前: はやぶさ
to江口さん
その話、論評するのもはばかられる与太話ですね。
巷談のたぐいだと思います。
それを佐久間先生のような方が
検証もせず先師の話としてもっともらしく書いて恥じないところが剣道家が社会から
まともに相手にされない一因のような気がします。
一刀流の小太刀は流の元をたどれば重要性が分かります。
もともと一刀流は中条兵庫之助が興した中条流がルーツです。
中条流は小太刀を体系化したもので鎌倉時代には「8か条、16か条、30か条」の教えが
あつたようですが、その形は失伝して現存しません。
流祖伊藤一刀斉はもともと中条流の流れを汲む鐘巻自斉の門人でしたから、当然、
小太刀も深く学んでいたはずです。その小太刀に自らの工夫を加えて
一刀流を創生するときに小太刀として配したもののようです。
日本剣道形の小太刀が一刀流のそれから創出されたかどうかは知りませんが、
あまり似たような動作はありませんよ。あえていえば小太刀の左右の払いの形が
日本剣道形小太刀3本目に似てるかなってとこですか。
[2002/01/12 02:23:29]
お名前: 江口
To Hide. さん
To はやぶさ さん
以前買った剣道の本に、日本剣道形の小太刀三本の原型として記されていることで
ながいこと気になっていながら誰にたずねればよいのかわかりませんでした。
神子上典膳吉明(小野次郎右衛門)が柳生宗矩の道場を訪ね、
試合したときのことなのですが、
・・・・・永く待たされた後に漸く宗矩が出てきて、太刀を抜いて近寄って
「当道場の掟として宗矩に試合を申込む者は悉く手打に致すのだ。どうだ挨拶を
しろ」と言うと、典膳は先ほどから周囲を見廻して道場の一方の戸のあいた屋外に
偶々薪の燃えさしの中に一尺六寸(50?)ほどの手ごろのものがあったのを認めて
いたので、矢庭に飛びのき、これを取り上げて場に戻り「これにて挨拶いたそう」
と立ち向った。・・・宗矩は最初は甘くみていたが打つたびに燃えさしの薪で
打たれ顔や衣服は炭だらけ、そこでひどく感動し、「あいや、暫く待たれい」と
いってそのまま大久保彦左衛門を訪ね、実はこれこれしかじか「この武士を用いれ
ば徳川家のお籠脇は至極安泰でござる」と推せんした。
という史談が記載され、そのあとに
“日本剣道形の小太刀三本はこのとき次郎右衛門がつかった技を基礎として
組み立てたものであると先師から承りました。”
と記されています。
[佐久間三郎(大正元〜平成九)著 『剣道の手順』昭和59年]
小野派一刀流の小太刀に上記のことをうかがわせるような形はあるのでしょうか?
それともただのつくり話なのでしょうか。
[2002/01/12 01:51:02]
お名前: EBICO
「はやぶさ」さんへ
ご丁寧にありがとうございます。
◆日本剣道形が実際の竹刀剣道に役立つかについてですが
剣道形を審査で行う場合に
数組が同時に行い、他に遅れる事なく
所定の動作を如何に正しく行えるかを審査してますよね?
(正しくの辺りは色々な考えがあって、それを皆さんが論議している訳ですが)
審査する側も、その心栄えの様なものまでは見ていないと思うですが?
初めからお互いの動作が決められているのに
先々の先を取って打つなんて事は出来ませんよね?
打太刀が打ってくるのに合わせて仕太刀が動作を起す。
「くにさん」の所で拝見した
高野・中山、両先生がされていた剣道形で
そのナレーションのうろ覚えですが
「お互いにこれが試合であると思っていて・・・」
「思わず形にない打ち込みを繰り出したが、平然とかわし・・・」
この様な環境で打てれば、あり得るのかなぁ?とは思いますが。
あくまで約束の上に成り立っている形をいくら打っても
先々の先についての習得は無理では無いでしょうか?
やはり、Hideさんの仰る様に
『打たねばならぬ形なれど、理合を図りて形を打つ』とゆう気持ちです。
また、ご自身が仰っている様に
実践の中で編み出した必勝の太刀筋が、採用されなかったばかりでなく
何故、現在に至るまで、異議を唱える者が出て来なかったのでしょうか?
その辺りについての、お考えをお聞き出来ましたらありがたいです。
◆小太刀について
仮に私が、お勧めの通り小太刀(短い竹刀の意ですよね?)
でお相手に向かったとして、本当に剣道を深く理解できますでしょうか?
なるほどと頭では理解できても、やはり竹刀に持ち替えた場合
半身になる必要は無いですし・・・
小太刀で立ち向かわれる事も無いと思いますし・・・
うーむ
でわ
[2002/01/11 23:33:58]
お名前: はやぶさ
to Hideさん
Hideさんは剣道の実践家であると同時に指導者、教育者なのですね。
わたしも剣道は35年もやっていますが、少年や初心者指導をしたことがなく、
生涯一実践者なので、形に関してHideさんのような発想が出てこないのです。
私にとって形や組太刀はある程度錬度がある剣士がさらなる上を求めて
取り組むものだからです。
だから初心者に剣の理合いを教育するための形というのであれば、
Hideさんの意見に異を唱えるものではありません。
to EBICOさん はじめまして
EBICOさんの疑問の要点は日本剣道形は実際の竹刀剣道に役立たない。
とりわけ小太刀に至っては現代剣道でやらないのだから意味がないのでは?
というあたりでしょうか。
これって率直過ぎて答えるのが難しい質問ですね。
一度、身近の高段者の先生に聞いてください。
私は終始一貫して主張しているように日本剣道形だけでは不十分で
本物の剣道を追及したければ古流をやるのが近道という考えです。
でもそれでは答えにならないでしょう。
全ての剣士が一刀流などを学べるわけではないし、大半の剣士はたった10本の日本剣道形
ですら消化不良というのが実態なのですから。
そこで日本剣道形ですが、これは不十分ではあるが、役に立てようと思えば
役に立つというのが私の答えです。
日本剣道形は実戦の中で編み出した必勝の太刀筋を
流祖が後日、整理して体系化した実践型ではありません。
その意味ではすぐに剣道に応用できないでしょう。
しかし、あえて言えばこれを練ることで剣道に必要な間合いや気合、錬体が練習できます。
日本剣道形は本当に真剣に双方が合わせようとすれば適切な間合いはある一点だけです。
少しでも遠くても近くてもうまくいきません。
また剣道必勝の要諦は「相手を動かしてから打つ」ことですが、
日本剣道形はすべて、動作上、後から動く仕太刀が勝つようにできています。
それは先々の先といもいえますし、後の先ともいえますが、これを竹刀剣道でも
心がけることがすなわち形の実戦への応用なのではないでしょうか。
もうひとつ、小太刀は現代剣道ではやらないという設問は設問自体が間違いです。
だれが竹刀剣道で小太刀で稽古してはいけないと決めたのでしょう。
私は昔、小太刀で稽古したりしましたよ。(ただし、相手の許可を得て)
一度自分でやられれば分かりますが、小太刀だと普通の竹刀でやるときよりも
間合いに気をつけますし、出るときは捨て身の覚悟が必要になります。
半身、入り身なくして相手に対抗できないこともすぐ分かります。
剣道が深く理解できるような気がします。
私思うんですが、現在の剣道界は思考停止状態ではないかと。
稽古は先生や高段者の指令どおりにやるものではなく、自分で工夫思慮するものだと。
相手に失礼でなければ何をやってもいいのです。
その点で、ニ刀を使っているはくどーさんやりょうさんには敬意を表します。
日剣はそうでもなさそうですが、まだ大半の道場ではニ刀には偏見があるでしょう。
特に高段者の間では。
形とは離れますが、現在の剣道界は思考停止の高段者がだめにしていますね。
彼らは8段になることがすべてで、8段に受かりやすい剣道、
つまり、中段で遠間から相手の中心を攻めて面を決めるーーこれ以外の剣道を受け入れようと
しないところがあります。
もちろんこれは武徳会の流れを引く現代剣道の到達した素晴らしい剣道のありかたですが、
それ以外にも多様な剣道が評価されてもいいのではないでしょうか。
[2002/01/11 18:20:32]
お名前: 剣術修業中
to たんたん さん
たんたんさん、ナイスタイミング!
ほとんど私のせいであらぬ方向へいってしまって申し訳ありません。
ここはやはり「素朴な疑問」について議論しなければいけないですよね。
私は剣道の先生ではないので、本当のところは剣道家の先生のお答えを待った方がよいですが
もし、木刀が刀だったら?
刀は「ハバキ」という部品で鞘でしっかりとまっているので、基本的には指をかけなくても
いいんですが、どうかすると抜けてしまうこともあります。だから、普通指をかけるのです
が、鯉口を切るとき親指でグッと押しますけど、この押す前の状態の押さえかたで、前進も
後退もすればよろしいかと思いますが。
[2002/01/11 17:00:58]
お名前: たんたん
あのぅ〜格調高いお話の中に書き込むのはなんなんですが・・・・(^_^;アセアセ
あたしもちょっと違う質問したいんですけど。
形の初めにはお互いの礼をして三歩進んで蹲踞して刀を抜き合わせます、形の終わりに
は蹲踞して刀を納めて五歩下がり礼で終わりますけど、三歩進む時と五歩下がる時は
左手の刀の鍔のおさえ方はおなじなんでしょうか?なんか進むときは鯉口を切るために
親指をかけるけれど、下がる時には刀が抜け出さないように人差し指で鍔を押さえるって
聞いたことがあるようなそんなような気がしたもんですから。。。
恥質の方がよかったかしら。
[2002/01/11 10:42:32]
お名前: Hide.
あり? そんなにサボっていたつもりはないけど、なにやらカキコがいっぱいだ
ぞ。みなさん、ホントご熱心ですねぇ(^^;
to 剣術修行中さん
>古武道界全体が公開、保存の方向にあるのは当然知っていますけど、
>古流の形を残していくのと同じくらい、現代にはミスマッチと思えるような「思
>想」もかたちのうえだけでも残していくべきと思うのですが。
おっしゃることは良くわかります。
でも、そうした情報を知りえなければ、その流派に対する興味関心も生まれないわ
けでして(^^; そういった点では、笹森順造先生が「一刀流極意」著わされたこと
は大英断だったと思いますし、これによって数多くの人が小野派一刀流を学ぶ手だ
てが出来たのですから、素晴らしい功績だと思いますけどねヽ(^.^)ノ
>でも、両先生に限らず、多くの剣道家がこんな感じだったんではないでしょうか?
>こうした方々が考えた「剣道形」って実際のところどんなだったんでしょうか???
「高野×中山」の剣道形は、何度観ても飽きませんね。それは、私どもが今打って
いる剣道形とあまりに違うからです。しかし、あの方がもっともルーツに近いは
ず。その部分から、今打っている剣道形の理合を類推したいというのが、私の狙い
だったのですが、どうも、このトピは私の意図した方向へ進んでいきませんで(笑)
>「払捨刀」は一刀流の肝心要な部分なので、根ほり葉ほり聞くのはやはり失礼か
>なあ?と思って遠慮したんですが、
アハハ、すでに笹森先生の「一刀流極意」で明らかですし、宗家が打っておられる
ビデオにも収録されておりますので、そのようなご心配はご無用かと存じます(^^)
to はくどーさん
>文部省の指導要領に明確に記されなかった理由は、上記の通りと考えてみてはい
>かがでしょうか?。やっぱりこじつけだと思いますか?(笑)
そうですねぇ。であるなら、戦後民主主義の時代になったとき、その思想的な部分
をご存じの先生方がキチンと制定の経緯をお話しくださっているはず。どなたもそ
うしたことを語られなかったのは謎ですよねぇ。もう隠す必要がないばかりでな
く、むしろ「日本剣道形」を積極的に広めていくために、「理念や思想の公開」は
必要なことだったように思われますが(^^)
>ま、これから続いてゆく、電脳剣士会「剣道形の会」のテーマの一つとして、挑
>戦してみるのも楽しく意義あることかもしれませんね。(^^)
ご賛同いただけてうれしく思います(^^)
>いずれにしろ、「大日本帝国剣道形」は、純粋な意味の「剣術形」ではない「別
>の形」であるという認識が、制定委員の間にあったのではないかと私は推察しま
>す。
なるほど。なぜ「剣術形」ではなく「剣道形」なのかという点については、何か秘
密があるように思われますねぇ。この件に関しては、このトピの下の方ではやぶさ
さんがおっしゃっていることと関わりがあるように思われます。
>形は成り立ちで次の2つに分かれます。
>?流祖が生死を賭けた戦いの中から必勝の太刀筋を整理し、後日体系化した実践形
>?流儀に必要な錬体、気合、間合いなどを養成・習得するするために編んだ形
という部分ですね。
「理念や思想がなかったのでは」という疑念については再三述べてきた通りです
が、「剣術形」ではなく「剣道形」とされた理由については、教育現場用に編まれ
た形であったから「殺しの技術ではない」としてそうしたネーミングが採用された
のではないでしょうか(^^)
江口さんが引用してくださった「高野佐三郎剣道遺稿集」でも、そのあたりがはっ
きりしているような気がいたしますが・・・。
to EBICOさん
>何故、小太刀の3本が必要なのか?
>剣道形そのものが剣道を上達する上で本当に必要なのか?
>が、私自身で納得出来ていないんです。
アハハ、無責任な物言いをお許しいただければ、そんなもの私にだってたいしてわ
かってなんかおりませんよ(^^;
ただ、我々は、好むと好まざるとに関わらず、日本剣道形を打たなければならない
のです。であるなら、必要性云々よりも「どのような気持ち(理合)で打つのがベ
ストか」ってことを考えるほうが発展的ではありませんか?
発祥ついてもこれだけ喧々諤々やってもはっきりしたことは闇の中です。
ただ、もし小太刀の必要性を簡潔に言い表すなら「入身」の考え方とその稽古で
しょう。「入身」や「付け込み」は、竹刀剣道でも大切な要素です。太刀の形六本
目にも出てきますが、それをさらに強調して学べるのが小太刀です。
さらに、「右半身から右開き(小太刀一本目)」「右半身から左半身(小太刀二本
目三本目)」などの「体さばき」や「運足」、「受け流し」「すり落とし」「すり
込み」など太刀の形にはない技も学ぶことが出来ます。
「小太刀であるからこそ、より強調してつかわなければ出来ない技術」です。故
に、実際打ってみてたいへん難しいのですが・・・(^^;
いずれも竹刀剣道のお稽古で役に立つ技術だと思いますが、この程度の「必要性」
では希薄ですか?(^^)
to くにさん
>私も体験してみたいですね。←藁束切り(^^)
実は、昨年11月に西村先生の主催で行われた「軽井沢剣道談義」では試し斬りの
プログラムが組まれていおりまして、参加者のみなさんはそれぞれ巻き藁きりに挑
戦されました。でも私は斬りませんでした。私の技術は「ものを斬る」ために磨い
てきたのではありませんから(^_-)〜☆
to 江口さん
>論文を目にしたときには、一見、
>もとの教育大系のひとなのかなあ
>なんていう印象を持ったのですが、
>違ったんですね。
いえいえ、あってますよヽ(^.^)ノ
彼は私とともに早稲田大学に推薦を受けて入学しながら、「自分の求める剣道はこ
こにない」ということで1年生の5月に大学を中退。2浪して筑波に入り直した変
わり者です(笑)
to はやぶささん
>ただ、ひとつ気になるのですが、竹刀剣道に役立つような新しい形を作るという
>のはあまり気が進みませんね。
>竹刀を前提にした組太刀は竹刀の構造などの制約からそうとう薄っぺらな形にな
>りそうです。
アハハ、そうでしょうか(^^;
たとえば子供に面抜き胴という技を教えるとき、私はこのような方法を用います。
1.打太刀と仕太刀が向かい合う
2.打太刀が大きく振りかぶり送り足にて一挙動で正面を打つ
3.仕太刀は間髪を入れず、右足から右斜め前に体をさばきつつ、打太刀の胴を
送り足にて打つ
なんていうやり方です。
すりあげ技や返し技にしても同様の形で実施できます。これを何度もくり返させた
後に、今度は元立ちが踏み込んで打突していくところに技を仕掛けるといった稽古
に発展させていくのです。
これは一種の形稽古と考えますがいかがですか?
このようなものが作れれば(別に木刀でやる必要もないのです)、「基本的な技や
攻めの習得」に役立ちはしないでしょうか?(^^)
[2002/01/11 10:40:42]
お名前: 剣術修行中
to くに さん
お気持ちとてもよくわかります。私もどちらかというとズケズケ聴いてしまう方なんで、
いろいろとくだらないことまで知っていたりするのですが。
ただ、やはり古流は古流ですよ。
宗家のお師匠様が古武道協会のいろいろな会合などに参加してきた話しなどを聴くと、いろ
いろな問題を抱えているようです。信頼してお話いただいているので、ここでベラベラと話す
わかにはいかないんですが。。。
たとえば、一子相伝とは言わないまでもお世継ぎ問題。多くの流派で宗家の高齢化問題が深刻
になっております。加えて人材難。宗家は決して名誉職などではなく、何百年続く流儀を正しく
残していく必要があります。このあたりの苦労は常人には考えられないレベルで、一度へんな
人に宗家を渡してしまったら、返してくれとは言えないんですね。信頼されて先代から引き継
いだのに、自分の代で失伝させてしまうことにもなりかねない。技術的にも人間的にもしっかり
とした人物を選び、それをほとんど同格の師範でかためていく、これが理想ですが、師範さえ
も揃わない。みんなで仲良く保存会的なやりかたでは責任の所在があいまいになり、これも
結局のところ失伝してしまう可能性があります。
こんな感じなので、人間性というものがとても重視されることになります。現代感覚からは
ばからしいような「しきたり」も守らなければいけない面もあるんですね。
まだ、古武道はお金にならないから、真に取り組もうとする人しか集まらない(残らない)
私はよく知らないのですが、茶道とか、華道とか、他の古典芸能の世界ではどんな感じなので
しょうか?
。。。でもやはり、他流派の方にはそれなりに気を遣います。
[2002/01/11 08:24:03]
お名前: EBICO
「はやぶさ」さんへ
ご自身が最後に登場された後に、登場したEBICOと申します。
さて、その後登場した私が、お話させて頂いている素朴な疑問に対して
お答え、ご指導が、頂ければ有難く存じます。
誠に勝手なお願いで恐縮致しますが
是非お願い頂きたく、宜しくお願い致します。
草々
[2002/01/11 02:43:49]
お名前: はやぶさ
しばらく見ない間にずいぶん盛り上がっていますね。
新年会やなにやらでじっくり読む暇がありませんでした。
はくどーさんの日本剣道形解釈はユニークですが、
あまりに高邁すぎるのではないでしょうか。
3本は当時の文部省が制定を企画したにしろ、実際に委託されて形を編んだ当時の剣道家が
そんな高邁な理想を形に込めたとは思えません。
江口さんが書いているように3本は剣道の代表的な構えである
天(上段)、地(下段)、人(中段)を配しただけでしょう。
だから、追加形を編むときに4本目に5方の構えの中で登場しない脇構えと八双が
取り入れられたと思いますね。
とはいえ
日本剣道形をきっかけにこれだけ議論が出るというのは嬉しいですね。
ただ、ひとつ気になるのですが、竹刀剣道に役立つような新しい形を作るというのは
あまり気が進みませんね。
竹刀を前提にした組太刀は竹刀の構造などの制約からそうとう薄っぺらな形になりそうです。
そんな形を打つよりは竹刀で面や小手・面などの基本打ちを十分やったほうが十力アップには
はるかに役立ちそうです。
どうしてもというのであれば警視流の形のように各種古流から竹刀稽古のも
役に立ちそうな形を抜粋して編むのがいいでしょう。
歴史の流れのなかで今日まで生き残ってきた古流は人類の叡智の結晶ですから、
現在の天才ひとりが考えつくどんな形よりも内容が濃いはずです。
形の精妙さは日本刀の使用が前提だからというものが多いのではないでしょうか。
たとえば一刀流のなかで私が好きな刃引きの形は「表のすり」「裏のすり」「すり込み」
「すりあげ」・・・・などとなっていますが・これは日本刀の鎬を100%生かしてこそものの見事に形が生きるのであって、竹刀などでは考えつかない精妙さがあります。
[2002/01/11 02:07:08]
お名前: EBICO
「剣術修業中」さん に質問です!
まず始めに、お忙しい所わざわざ私の為にお時間を割いて頂きまして
ありがとうございました。
さて
当初「はくどーさん」に対して失礼な態度を取ってしまい
その後、皆さんのお話に圧倒されて、なんと自分に理性・知識の無い事かと反省しました
しかし自分なりにも勉強をし、知識を深め、皆さんがお考えになっている事から
自分の疑問に対する答えを見つけ様としているところです。
仰っている「剣道そのもの」を今後も続けて行く為に、剣道形は本当に必要なのか?
とゆうことが私は知りたい、更には納得したいのです。
そもそもは、殆どが一刀で行われる剣道の中で
なぜ小太刀の形が入っているのだろう?とゆう素朴な疑問から
徐々に剣道形に対する疑問が広がってきました。
「必要性の無いものに時間を費やす意義があるのか?」
「実際には使えない形を、何故学ばなければならないのか?」
そこで多くの皆さんがお考えになっている事をチョットでも理解できれば
その疑問に対する答えが見つかるのではないか?と思っているのです。
そして
居合道の場合はどうなんだろう? とお聞きしたのがはじまりです。
ご自身からも試斬専門の流派が・・・
Hideさんからも居合道の方々を・・・
とご案内があったのですが
木刀や、袋韜を持っての型稽古で修練した技が
刀を用いて行った場合に、本当に斬れるのだろうか?
とゆう疑問を、剣道形を学んで、剣道の上達につながるのか?
とゆう事に置き換えてお聞きしたのです。
そこで、仰っている道場破りの例に置き換えて、お伺いしました
本当は、訳の分からぬ流派の方の道場破りではなく
真剣に、おのが流派の技とか奥義を熟達された方々同志の試合(死合)と
とらえて頂きたかったのですが、うまく伝わらず申し訳ありませんが
その場合を想定されて、もう一度読み返して頂ければ幸いです。
その後、もう一度
何故、先人達の残してくれたものを守り後世に伝える事を旨
としているのか?とゆう辺りをお伺い出来ますでしょうか?
> 古流は撃剣ができるまで、基本的に試合はしなかったんですよ。
については、私の宿題にさせて頂きます。
こそっと教えて頂くと嬉しいのですが・・・ボソ
でわ!
[2002/01/11 01:15:13]
お名前: くに
to 江口さん
う〜ん。相当勉強なさってますね。これはやっぱり、4月の「形の会」においでいただいて、「法定の形」の解説をお願いしたいな〜。
「一円相」や「翳し」なんて、解説がないとわからないでしょう?
もう一人解説をお願いできそうな方がいらしたな…。はやぶささん、お元気ですか?(^^)
to 剣術修行中さん
>「払捨刀」は一刀流の肝心要な部分なので、根ほり葉ほり聞くのはやはり失礼かなあ?と思って遠慮したんですが、
>こうした所でみんなで、ああでもない、こうでもないと楽しく議論するのはいっこうに構わないと思いますよ。
そういうことですか。仰有る意味が分かりました。また、同じ考えであることもわかって、安心しました。
そうですね、「秘中の秘極意払捨刀」ですものね (^^)
>かたちだけでもいいので、剣道、剣術をやるときぐらいはそうした古来からの礼節を重んじてはいけないでしょうか?
仰有ることはわかります。ただ「とりあえず一番厳しいほうにあわせておいた方が無難」という考え方
には反対です。
私は、剣道を20数年ぶりに復活して2年ほどしか経ちませんが、別の分野ではそれと反対の行動をとって
道を開いてきました。関係するのは数百年前の古典籍だったのですが、所蔵されているのは皆名だたる
図書館で、紹介者のないものは一切相手にしないと思われていた所もありました。もともと趣味ではじめたことですし、
「だめもと」で閲覧希望の手紙を出し、熱意と誠意を示して、多くの資料を目にすることが出来たのです。
もちろん、それでも閲覧を拒否される所もありました。しかし、そうしたところの調査も、やがては
出来るようになってくるものです。
はじめから自分で敷居を高くしないで、何にでも切り込んでいって見ませんか?剣術修行中さんが
何の流派を学ばれているかわかりませんが、他の流派の剣術にも興味が湧かないわけはないと思うのですが…。
え〜、長くなったので、はくどーさんに返し技をくらわないうちに終わりにします。
[2002/01/10 23:22:08]
お名前: 剣術修行中
もう一つお答えしなければいけなかったですね。なんか急に忙しくなっちゃって。
to EBICOさん
>剣道の実践って、面・小手・胴・突き、を如何に打ち込むかってゆうのが実践ですよね
これって実践というよりは、剣道そのものじゃないですか?
>剣術のそれも、実践的でないとお考えであるならば
そんなことは言っていませんよー!
剣術はとても実戦的です。例えば剣道形一本目では抜き面で打太刀が負けてしまいますが、
この抜き面を捌いて逆に勝つ方法なんて随分といろいろあります。直接お見せ出来ないの
が残念ですが。。。
あと私がお答えできそうなものでは、「道場破り」についてですが、
古流は撃剣ができるまで、基本的に試合はしなかったんですよ。試合の勝敗よりは流派を守る
ことの方が数百倍大切ですから。
仮に道場破りがあったとしても、時代劇のようにかっこよくはいかず、みんなでよってたかって
ボコボコにしたみたいです。
その流派の技を知りたければ入門すれば良いではないですか?なにも命までかけなくても。
それに、命がけでその流派の技を知ったとしても、周囲にはわけのわからぬ技を使う流派は
ゴロゴロ。焼け石に水ですね。
こんなところでよろしいですか?
[2002/01/10 20:55:02]
お名前: 剣術修行中
to くに さん
すみません。書き忘れました。
「払捨刀」は一刀流の肝心要な部分なので、根ほり葉ほり聞くのはやはり失礼かなあ?
と思って遠慮したんですが、
こうした所でみんなで、ああでもない、こうでもないと楽しく議論するのはいっこうに
構わないと思いますよ。
[2002/01/10 20:16:19]
お名前: 剣術修行中
to くに さん
ちょっと無愛想な返答で失礼いたしました。
私もなんでもオープンにすることは大賛成だし、もっといろいろ聞きたい、知りたいです。
しかし、実際問題として一子相伝の流派も現実にあるようですし、全部といわないまでも
一部の形が失伝してしまっている流派などは随分あると思います。
古流全体の動きとしては保存の方向にあると思いますが、やはり、いろいろな考えかたの方
がおりますし、古流の礼節をどこまで重んじる必要があるのかは私も皆目わかりません。
とりあえず一番厳しいほうにあわせておいた方が無難。(なんて日本人の悪い習性ですね。)
しかし、一方、かたちのうえだけでもいいからこうした礼節を残しておきたいなあと思う面も
あります。
今でこそ、お稽古事でもしなければ礼儀作法は習えませんが、昔は武士、町人、お百姓に限らず
すべての日本人が知っていたものだと思うんですよ。ただ、日常的に武器を携帯する武士に
とっては特別な決まりが必要だった。たとえは悪いですが道交法の歩行者と運転者の様なもの。
国語はあまり得意ではないですが、こうした武士の生活から多くの美しい日本語も生まれまし
た。
「鞘当て」ってみなさんご存知でしょうか?
現代と違い、御刀はとても高価なもので、転じて武士の魂にまで高められていきました。
自分の愛車に疵がついたらとても嫌だと思いますが、御刀は代々引き継いでいくものでその大切
さは自動車の比ではありません。だから、もし武士の差す刀にうっかりぶつかり、鞘に疵でも
つけようものならただごとでは済みません。そうした事故を未然に防ぐため日本では左側通行
がすでに江戸時代から確立していました。
そうした語源の意味が忘れられるどころか、説明しても実感としてさえわからなくなっていま
す。
だから剣道においても、木刀は「刀」と同じですから、さげてあるくとき、そこら中へコツコツ当ても平気でいる方が時折いますが、やっぱりどうかなあ?と思ってしまいます。
かたちだけでもいいので、剣道、剣術をやるときぐらいはそうした古来からの礼節を重んじて
はいけないでしょうか?
[2002/01/10 20:00:26]
お名前: 江口
EBICO さん。
>やっぱり、原因はこちらだったのですねー?(冗談です!
おぉ、嗅ぎとられてしまいましたか・・・!
夜行性、というより、もともと いつでもどこでも
平気で眠れるタイプなんです(←自慢している)
>夜更かし、し過ぎると明日が辛いですよー!
ええ、ごもっともです。それに もうトシですから
・・・今夜はぐびーっ!と爆睡の予定です。
>寒い毎日が続きますが、お体に気をつけて下さいませ!
ありがたいお言葉、深謝(^_^)
To Hide. さん。
>サイトを開いている木寺英史は僕の高校時代の同級生で、同じチームの副将大将の
>間柄だったんですよ(^_-)〜☆
>彼も独自の剣道の道を歩いています(^^)
論文を目にしたときには、一見、
もとの教育大系のひとなのかなあ
なんていう印象を持ったのですが、
違ったんですね。
To はくどー さん。
>ここで江口さんがおっしゃっている「制定形」というのは、「武徳会剣術形」のこと
>をさしているのですよね。
わかりづらかった言い回し、スミマセンでした。「制定形」とは
「武徳会」ではなく「文部省」制定の形のことです。
内藤高治の講話録を読んでもまた、高野佐三郎(文部省側の責任者ですね)
の遺稿を読んでも、やっぱり「技術」の基になるものとはなにかということを
知覚せしむるための「形」であるとしかとらえることができません。
内藤高治の方は別のトピで引用済みですが、高野佐三郎の方は
形について、
〈高野佐三郎剣道遺稿集(スキージャーナル社)〉p.98
形
剣道の形は、剣道の技術中、最も基本的なるものを選んで組み立てた
ものであって、之によって姿勢を正確にし、眼を明らかにし、技癖を去り
太刀筋を正しくし、動作を機敏軽捷にし、撃ち方を正確にし、間合を
知り、気位を高め、気合を練る等、甚だ重要なるものである。
初めから道具を着けて互角の試合を試み、勝負を争う時は、姿勢動作を
乱し、気合、間合を測らず、撃ち方も正確を欠き、多くの技癖を生じ、
上達も遅い。故に昔は、先ず形から入って仕合に至るを順序としたので
ある。
形を演ずるに当たっては、十分に真剣対敵の気合いを込め、寸毫の油断も
なく、呼吸と雖も苟もせず、剣道の法則に従い、確実に演練すべきであ
る。
形に重んずべきは単に其の動作のみならず実に其の精神であって、気合い
が充実せず、精神に慎重を欠くならば、如何に軽妙に之を演ずるとも、
一つの不器用な無踊(ママ)と撰ぶ所はないのである。
と、記しています。ここで「精神」という言葉は使われて
おりますが、いかがなものでありましょう?
この言葉に精神思想がこめられているとみることは可能かもしれません。
が、それよりも わたしには、さきの内藤高治にしても、
高野佐三郎にしても やはり、姿勢だとか刃筋とか呼吸とか、
技以前のことがらについてくりかえし話しているという
印象の方が強いのです。竹刀剣道によって
おざなりにされてきたこと、乱れてきたことを矯正することが
形の目的であったとも考えられましょう。
(“精神”も、刀をつかうのと竹刀をつかうのでは違ってしまった
はずです。)
[2002/01/10 18:27:39]
お名前: くに
to 剣術修業中さん
誤解の無いように申し上げておきますが、技術的な質問に対する答えが「これ以上は口伝なので言えない」
でもいいのです。ただ、質問すること自体が失礼だと言うことになると、論議は一切出来なくなってしまいます。
流派によっては、奥義をかなり公表しているところもあります。公開しているものに関しては、論議しても
質問してもいいでしょう?私などは、どの流派がどの程度公開しているのかさえ知らないので、かなり
失礼なことをしているのかもしれません。
いま、一子相伝のようなことをやっていると、不慮の事故などで絶えてしまうことは充分考えられるので、
できるだけオープンにしていただきたいとは思いますが、剣術修業中さんがおっしゃるように、例え
絶えても、古いスタイルは守るべきだという主張があってもいいとも思います。
こうした場に、かけられるものだけでも、かけていくことはできないでしょうか?
to EBOCOさん
私も体験してみたいですね。←藁束切り(^^)
to はくどーさん
はくどーさ〜〜ん…(T_T)
[2002/01/10 18:26:10]
お名前: 剣術修業中
戦前の剣道の気風を知る参考になりそうなものがありました。
高野佐三郎先生
剣道雑誌の切り抜き(雑誌名がわからなくなってしまって)にあったんですが。
高野先生が北辰一刀流の剣客岡田五郎先生との試合に敗れた試合の展開について、昭和14年
発行の「刀と剣道」創刊号の中で、
私は得意の片手上段にとって、三、四本ぱちりと打ち込んだ。上段にとったのが相手を
怒らしたのか、いくら撃っても参ったと言わない。撃ち込んでいく所を、特に削って来た
先を鋭くした竹刀で私の鯨の胴から喉笛迄裂くように突き上げて来る。ごらんなさい。
これがその時に受けた傷です。(中略) 私は相手の目をつぶしてたらうと思って、
幸いに先の折れて竹のばらばらになった竹刀で劇しく面鉄の所を突くが、がらがらと
面鉄にあたって音を立てるだけで、中々面の中には入らぬ。(後略)
このあと、復讐を誓って故郷を出奔し、山岡鉄舟のもとで修業をやりなおしたと先生は
述べています。明治9年とも12年頃とも言われています。
次は刀剣誌にあったもので、長いので私なりの要旨のみですが。
中山博道先生
江戸時代、武士は自分の刀が切れるかどうかということに興味を持ち、刀の切れ味を調べる
商売までありました。その方法は。。。
斬首になった罪人の体の方を払い下げてもらい、その胴を斬って切れ味を試すのですが、
例えば、胴を2つ重ねて見事裁断した場合、その刀の中心(なかご)に「二つ胴裁断」
なんていう銘を象嵌します。
こうした刀は「大業物」といって武士たちに大変もてはやされ、その刀を打った刀工の刀
にはべらぼうな値段がつけられたそうです。
時代は下がって、戦前の頃、新作刀剣展覧会で「昭和の大業物」を決めようというイベント
が行われることになりました。さすがに人体は斬れませんので太い巻藁で。
この試斬の役をやったのが中山先生。
刀を仮の柄に仕込み、一振ずつ試斬を始めたのですが、次の刀を柄に仕込み直すのに時間が
かかってしようがない。そのうち中心に布を巻き付け、次から次ぎへと斬っていきました。
その結果、全部終了し、無事、昭和の大業物を決めることができたのですが、
後日、ある刀工からクレームがついた。刀というものはきちんと拵えてその機能を発揮する
もので、布を巻き付けて斬ったのでは、本当の実力はわからない。。。
両先生ともなかなか豪快ですね。
でも、両先生に限らず、多くの剣道家がこんな感じだったんではないでしょうか?
こうした方々が考えた「剣道形」って実際のところどんなだったんでしょうか???
[2002/01/10 14:49:46]
お名前: EBICO
「剣術修業中」さんへ そして居合道の方々へ
> 剣道で試斬はやらないでしょ?試斬で斬るように打ったら痛くてしょうがない。
剣道の実践って、面・小手・胴・突き、を如何に打ち込むかってゆうのが実践ですよね
> 居合にしても、剣術にしてもそれぞれに考えがあってやっているのであって
> 試斬がすべてではないですから。
試し斬りに例えてしまったのがまずかったのかも知れませんが
門外不出で、口伝により伝授されてゆくとすると
例えば、別の流派の方がその奥義に挑戦に来られたとします。
でお相手した場合に
指とか手首とかを切るのみで、お相手の戦意が無くなり「まいりました」となったら
そのお相手の方は「しめしめ、これであの奥義は見切ったゾ!」となって
次にお相手した場合、返り討ちに合ってしまいませんか?
再度挑戦に来ないまでも、より上をゆく技が開発されてしまいませんか?
他の流派に挑む位ですから、決死の覚悟で挑んで来ると思いますし
最終的には絶命させて、冥土の土産として、挑んだ流派の奥義を見せてあげる
って事ではないでしょうか?
ん?なんか変かな?(自問です)
何が言いたいのかってゆうとですね
↑に書いた事を防ぐ為にも、腕を斬り落としたり、頭をかち割ったり出来る
技が剣術でゆうところの実践的って事ではないのですか?
> 剣道をやっていく上ではそんなことは考えなくてもいいんじゃないでしょうか?
おっしゃる通りなんですが
剣道も、剣術も目指す所は違うのでしょうが
剣道形が、剣道を学ぶ上で実践的では無いのでは?って思っているので
何故、その実践的でない剣道形が必須になっているのか?
剣術のそれも、実践的でないとお考えであるならば
何故、先人達の残してくれたものを守って行くだけなんでしょうか?
ってあたりをお聞かせ頂けると
何故、剣道形が必要なのかが分かってくるのかなぁ?って思うんです。
如何でしょうか?
「Hide」さんへ
> ただ、このトピックの目的は、「日本剣道形に関する疑問」を集約し、その理合を
> 考察し、日本剣道形を打つときの一助にしようという考えです。
何故、小太刀の3本が必要なのか?
剣道形そのものが剣道を上達する上で本当に必要なのか?
が、私自身で納得出来ていないんです。
なのに、いきなりその理合を考えましょうって仰られても
まずその必要性が分からないと、その先を考える上では素直に理解して行けない
と思うんです。
「はくどー」さんへ
小泉メールで、拝見しました。
千利休のいた時代(安土桃山でしたか?)の頃って、十進法だったんでしたっけ?
干支や、刻限などによる十二進法だったのではないんですかー?
「くに」さんへ
又々長文、失礼しました(汗;
[2002/01/10 14:29:01]
お名前: はくどー
URL
to 江口さん
> まず、「天・地・人」ですがこちらは“思想”というよりも
> 観念というべきものではないでしょうか。
> (江戸時代の百科事典にも「和漢三才図会」としてなど
> 「三才」という言葉はつかわれています。)
> また私は剣術形の根幹をなすもの またはそれに先立つものは
> 思想であるとは思えないのです。
そうですね。
「剣術形」に関して言えば、そこに込められているのは「思想」より「観念」という
表現の方が妥当かもしれません。
> 申しませんが、制定形は「技術」の基となるものを修業者に
> 知覚せしむることを目的としたものであったのだと いうふうに
> とらえています。
>
ここで江口さんがおっしゃっている「制定形」というのは、「武徳会剣術形」のこと
をさしているのですよね。
私が言いたいのは、「文部省制定形」の方は、「技術」の基になるもの(私の考察で
は「間合」と「正中線」と「中心攻め」)に加えて、思想的なもの(これも、私の考
察では「正仁勇」の思想・理念のようなもの)を含んでいるのではないかということ
です。
> はくどーさんは「戦争へとひた走る」頃であっただろうということを
> 考慮したうえで推察されたのではないかとも思いますが、だから文部省は
> 思想教育を体育に重ねようとしたのではないか とお考えになるのは、
> 無理があるように感じます。
これについては、私の書き方が足りなかったようです。
もちろん、当時の文部省のお役人は、「形」の中に精神思想を込めようなどとは考え
なかったと思います。
「文部省制定形」に精神思想を込めようとしたのは、正確に言えば、文部省ではなく、
その制定に携わった、高等師範学校の校長であった嘉納治五郎氏や同じく高等師範学
校の教授であった高野佐三郎先生など、当時の良識ある武道家であり教育者であった
方々だったのではないかと私は推察します。
そして、その精神思想は、当時の時代の流れには全く逆行した「平和思想」ではなか
ったかということです。
明治28〜9年頃の日清戦争の勝利が、当時の日本人に大きな自信を持たせ、維新以
来の西洋主義一辺倒の気風を打破して、武術などの日本古来のものが見直されること
となり、その結果として撃剣や柔術が学校教育に採用されるに至ったと想像できます
が、ここでの武術採用の目的は、「西洋列国に勝ち」「アジアで重要な地位を占める」
ための、いわば「戦いに勝つ強い日本人」を育成するための手段であったと思います。
しかし当時制定の中心となった高等師範学校の教育者でもあり武術者でもある嘉納先
生や高野先生は、武術に求められる「戦い」の技法だけではなく、武術が行き着く究
極の精神である「平和思想」までをも盛り込もうとした。しかしながら、当時の情勢
にあって「戦いを避けて敵を傷つけないという思想」は、とうてい政治的指導者層に
受け入れられるものではなく、そのために「形」に含まれた思想・理念は奥深くに秘
されたまま、「形」の「かたち」だけが公開された。と私は考えました。
武術を良く知らない当時の文部省のお役人にとっては、武術採用に伴う「形」の制定
は、それが戦意高揚につながる「かたち」だけ満たしていれば、それで良かったので
はないでしょうか。
そうした、二つの矛盾した思惑の狭間で作られた「文部省制定形」であったために、
これは「術の形」として見れば、余りにも中途半端で意味不明な「形」になってしま
ったのかもしれません。
しかし、高野先生などは、おそらく真の剣術家であれば、この「形」の修練を積んで
ゆけば、この中に含めた精神思想をも読みとることが出来るはずだから、敢えて公開
の必要も無いとも考えたかもしれません。
まあ、あくまで私の想像ですがね。
そして、この高野先生らの考え方は、その後に作られた「大日本剣道形」制定に際し
ても、強く影響力を持ったものと思われます。
ただ、中山博道先生あたりは、「形」本来の目的、すなわち「術の形」としての色彩
をもっと色濃くすべきだというようなことをかなり主張されたようですね。
しかし、「術理」の部分を突き詰めてゆけば行くほど、今度は各流派の考え方の違い
が際だってきてしまってまとまらず、結局は「術の形」としての特色はあまり出さず
に、各流派に共通する剣道の精神や理念を漠然と表現する「精神形」あるいは「理念
形」というべき方向へ落ち着いたのではないでしょうか?。
以前にも別のトピに引用した記憶がありますが、中山先生は「大日本帝国剣道形」の
「術形」としての完成度にはだいぶ不満を持っていたようで、その後も高段者の審査
等では、それぞれの古流の「剣術形」も審査の対象にすべきだ。というようなことを
再三武徳会に対して進言していたようですが、結局受け入れられなかったというよう
な意味のことが、先生の口述集に記されております。
to Hide.さん
>どちらが上で下ということはありませんが、「剣術形」と「剣道形」の成り立ちが
>異なり「剣道形」が教育的効果を狙ったものとして「分けられるべき」と制定委員
>が考えていたのなら、文部省の指導要領には必ずやそれを明らかにしたはずです。
>しかしそれがないのでは、机上の空論と考えざるを得ないというのが私の見解です(^^)
文部省の指導要領に明確に記されなかった理由は、上記の通りと考えてみてはいかが
でしょうか?。やっぱりこじつけだと思いますか?(笑)
>実際、国士舘大学の鶴川校舎では馬場欽司先生のご指導で、部員達に形の創作をさ
>せているようですし、全剣連でも「現代剣道形の制定に着手している」との噂も耳
>にします。我々も一丁、考えてみますかヽ(^0^)ノ
ま、これから続いてゆく、電脳剣士会「剣道形の会」のテーマの一つとして、挑戦し
てみるのも楽しく意義あることかもしれませんね。(^^)
>と考えますに、「剣術形」から「剣道形」への名称変更に、はくどーさんがおっ
>しゃるような「形に込められた理念」というものが関わっていたとは考えにくく
>なってきましたが・・・(^^;
そうでしょうか?。
IZAYOHIさんの資料によると、警視総監西久保弘道の講話は大正3年、その後
「剣術」を「剣道」に改めるべきという気運が盛り上がったものの、大正8年に同氏
が武徳会副会長兼武術専門学校長に迎えられることになって、ようやく具体的な動き
になって、更に学校教育の場で「剣道」という名称が用いられたのは大正15年以降
ということです。
「大日本帝国剣道形」の制定は、西久保講話の2年以上も前のことですから、この時
期にそれまで通常用いられていた「剣術形」という名称ではなしに、敢えて「剣道形」
という名称を用いたことは、何かそれなりの意味があったとは考えられないでしょう
か?。
ここで、「剣道」という言葉の意味するところについて考えてみます。
現在「剣道」という言葉を「剣術」という言葉と比較する場合、西久保氏の主張にあ
るような「武なるものは決して技術でないと云ふ観念を明ならしむるため」という意
味合いで理解する場合が多いと思います。
しかし、大正元年の制定時に、上記のような考え方があったかどうかは疑わしく、む
しろ中山博道先生が主張したように、この「大日本剣道形」は、剣の「術理」を正し
く「形」に表しているものとは言えない。単に剣の理念・概念・思想のようなものを
「剣のかたち」に表しているもので、それじゃそれとして意味はあるが、純粋に「剣
術形」とは言えないので、例えば「剣"道"形」のような名称にしたらどうか?。とい
うような議論がされたのではないでしょうか。
特に資料はなく、あくまで私の想像ですが。(^^ゞ
いずれにしろ、「大日本帝国剣道形」は、純粋な意味の「剣術形」ではない「別の形」
であるという認識が、制定委員の間にあったのではないかと私は推察します。
[2002/01/10 13:16:36]
お名前: 剣術修業中
to Hideさん、くに さん
>>そうすると、古流の技については相変わらず門外不出になるわけですか…。
>>口伝が絶えればジエンドというのは、残念なことのように思いますが。
>そうですね、私もその部分にレスをつけようかどうしようか悩んだのですが、くに
>さんが言ってくださってよかったです(^^) 情報公開の時代ですし、流派の極意が
>他に流れたからと言って流派の存亡の危機となったり、それが元で命を失うような
>ことにはなりはしないでしょうから(^_-)〜☆
。。。困ったなあ。ヘタなこと言えないなあ。
古武道界全体が公開、保存の方向にあるのは当然知っていますけど、
古流の形を残していくのと同じくらい、現代にはミスマッチと思えるような「思想」もかたち
のうえだけでも残していくべきと思うのですが。
まあ、いいです。
to EBICOさん
もし、誤解させてしまったのでしたら申し訳ありませんが、私が言ったのはあくまで「試斬」
のお話です。
剣道で試斬はやらないでしょ?試斬で斬るように打ったら痛くてしょうがない。
居合にしても、剣術にしてもそれぞれに考えがあってやっているのであって試斬がすべてでは
ないですから。
刀は刃物ですから、なにも一刀両断しなくても切先をサッとあててあげれば斬れます。相手の
指とか手首とかを斬れば、それで戦闘能力を失う訳ですから、なにも、腕を切り落としたり、
殺したりしなくてもいいんです。この方がよっぽど実戦的ですよね。
また、刀など持たない時代に何が「実戦」かという問題もありますね。剣道をやっていく上
ではそんなことは考えなくてもいいんじゃないでしょうか?古流の場合には先人達の残して
くれたものを守っていかなければならないので、実際にはあり得ない実戦を想定して修練する
ことも必要かとは思いますけど。
[2002/01/10 10:59:04]
お名前: Hide.
to 剣術修行中さん
>払捨刀って組太刀だったんですか?知らなかった!!
>てっきり多人数との対戦を想定した連続技だと思っていました。
ハイ、伊藤一刀斎が多人数に襲われた経験をもとに編んだ組太刀と記されておりま
す(「一刀流極意」笹森順造著)(^^)
to EBICOさん
>剣道形や、剣術の組太刀ってゆうのは、精神修業の為のものなんですね?
むろん、そういったものもあるでしょうが、多くは「術理を体系化したもの」だと
思います。方そのもの味「思想」まで盛り込んであるものは、逆に少ないと思いま
すけど・・・(^^;
>子供ばかりで無く、それぞれの熟達の度合いに応じての、剣道形があっても
>良いのでは無いでしょうか?
おっしゃる通りです(^^)
ただ、全剣連に所属しているかぎり、全剣連が提唱し「必要」と認めた日本剣道形
を「剣道愛好家が当然できる古流の形」と考えなければいけないでしょう。
そのうえで、現代剣道にマッチした「新剣道形」を考えていくことがあってもいい
と思います。
>逆に、今までのみなさんのご経験から
> この場面では、この様な対処の仕方があるから
> この様な形で表現し修練すればいいのではないか
> この形のここは、もっとこうしたら効果的なんだ
>ってゆう議論に持っていってもいいのではないでしょうか?
ごもっともです(^^)
ただ、このトピックの目的は、「日本剣道形に関する疑問」を集約し、その理合を
考察し、日本剣道形を打つときの一助にしようという考えです。「新剣道形」ある
いは「現代剣道形」については、その気運が盛り上がれば、別項を立てて考えてい
きたいと思いますヽ(^.^)ノ
>剣術又は、居合の場合はどうなんでしょうか?
知り合いの居合道の方のご意見ですが、今の居合は「風格」などが重視され、「切
れる」居合かどうかには疑問が残る・・・とのお話でした。
なんなら、居合道の方をこちらに呼んできましょうか。拙サイトにも数名いらして
くださってますので(^^)
to はくどーさん
はくどーさんのお考えは良く理解できるのですが、「剣道形」と「剣術形」の名称
に違いにこだわるくらいであれば、その思想的背景も明らかにされているべきであ
り、術理を説くべき「意解」にも、一切そのことが触れられていないのは妙です。
どちらが上で下ということはありませんが、「剣術形」と「剣道形」の成り立ちが
異なり「剣道形」が教育的効果を狙ったものとして「分けられるべき」と制定委員
が考えていたのなら、文部省の指導要領には必ずやそれを明らかにしたはずです。
しかしそれがないのでは、机上の空論と考えざるを得ないというのが私の見解です(^^)
>そしてこの「形」によって、剣術本来の理合に基づきながらも現代剣道に即した
>体裁きや太刀筋などをきちんと学べるようにすれば、剣道の技術が試合一辺倒の
>方向に崩れてゆくことを防ぐことが出来るのではいかと思っています。
「理合」「攻め」は大事だとされながらも、それを系統だてて学ぶ手だてを我々は
持っておりません。本来は、そういったものを「形稽古」が補ってくれるべきはず
です。「まず、形稽古ありき」ですね。
30本もの形が作れるかどうかはわかりませんが、試みてみるのは悪いことではな
いと思われますヽ(^.^)ノ
実際、国士舘大学の鶴川校舎では馬場欽司先生のご指導で、部員達に形の創作をさ
せているようですし、全剣連でも「現代剣道形の制定に着手している」との噂も耳
にします。我々も一丁、考えてみますかヽ(^0^)ノ
to くにさん
>そうすると、古流の技については相変わらず門外不出になるわけですか…。
>口伝が絶えればジエンドというのは、残念なことのように思いますが。
そうですね、私もその部分にレスをつけようかどうしようか悩んだのですが、くに
さんが言ってくださってよかったです(^^) 情報公開の時代ですし、流派の極意が
他に流れたからと言って流派の存亡の危機となったり、それが元で命を失うような
ことにはなりはしないでしょうから(^_-)〜☆
>途中から入ってきて申しわけ有りませんが、長くなりすぎていませんか?整理す
>るか、項を改めてもいいかと思いますが…。
アハハ、「素朴な疑問を集めろ」ってなトピではなくなってしまいましたね(笑)
この展開では、「素朴な疑問」をお持ちの方も書きにくくなっちゃったかもしれま
せんね(^^;
さて、次はどういう展開がいいでしょうか? 「剣道形の理合を考察しよう」なん
て感じですかねぇ(^^)
to IZAYOHIさん
>やっと以下の記述を発見しました!
>参考にしてください。
>「術」から「道」への道
ありがとうございます! IZAYOHIさんが「やっと」とおっしゃるのですから、こ
の資料を探しだすのにたいへんなご苦労がお有りだったことでしょう。感謝に堪え
ませんヽ(^.^)ノ
と考えますに、「剣術形」から「剣道形」への名称変更に、はくどーさんがおっ
しゃるような「形に込められた理念」というものが関わっていたとは考えにくく
なってきましたが・・・(^^;
to 江口さん
> 見えないものが見えてるものを輝かせるということでしょうか?たぶん自分は
>その謎や奥深さ
>に惹かれている自分に気づきながら 素直になれないでいるのかもしれないと
>思います。だから「むつかしい」といって誤魔化そうとします。
私もそうですよ(^^;
こうして自分のサイトでこういう論議が起こらなければ、真剣に考えようとはしな
かったはずです。皆さんに感謝ですヽ(^.^)ノ
>最近、ここのリンク、「剣紫堂」というサイトを覗いたら・・・
サイトを開いている木寺英史は僕の高校時代の同級生で、同じチームの副将大将の
間柄だったんですよ(^_-)〜☆
彼も独自の剣道の道を歩いています(^^)
[2002/01/10 10:06:44]
お名前: EBICO
「江口」さんへ
あっらー?私と一緒で夜行性なんですかー?
そいえば何か重苦しい雰囲気を感じましたので、再度登場したのですが
やっぱり、原因はこちらだったのですねー?(冗談です!
夜更かし、し過ぎると明日が辛いですよー!
私は、ほんの休憩モードのつもりが、長くなってしまいました(汗;
寒い毎日が続きますが、お体に気をつけて下さいませ!
でわ
[2002/01/10 03:12:15]
お名前: EBICO
「はくどー」さんへ
> Hide.さんのおっしゃるように、新たな「形」を制定すべきという意見には私も賛成
> で、たとえば「現代剣道基本剣術形」というようなものを、修行段階に応じて各10
> 本づつ、三段階で合計30本ぐらい作っても良いのではないかと思います。
> そしてこの「形」によって、剣術本来の理合に基づきながらも現代剣道に即した体裁
> きや太刀筋などをきちんと学べるようにすれば、剣道の技術が試合一辺倒の方向に崩
> れてゆくことを防ぐことが出来るのではいかと思っています。
これって直前で私がお話した事と同じ事を仰ってるんですよね?
[2002/01/10 03:05:57]
お名前: 江口
To EBICO さん。
>遥か上の方をお登りなんですねー
違いますってばー!!
EBICOさんが背中になんか重たいものを感じたら
それが江口です。(やばー、それじゃ背後霊だ・・・)
To Hide. さん。
>簡単に種がわかってしまう手品は面白くありません。ものすごいイリュージョンを
>見せられると、その謎や奥深さがあるがゆえに、見えているものの面白さや楽しさ
>が引き立つのだと思います。
見えないものが見えてるものを輝かせるということでしょうか?たぶん自分は
>その謎や奥深さ
に惹かれている自分に気づきながら 素直になれないでいるのかもしれないと
思います。だから「むつかしい」といって誤魔化そうとします。
To はくどー さん。
レスありがとうございました。感謝してます。
>「天地人」という思想が「正仁勇」の思想に変えられたと見るよりも、武術家の作っ
>た外形的思想の剣術形に対して、教育的思想を付け加えようとする試みが為されたと
>考えてみる方がよいのではないでしょうか?。
なるほど・・・とは思うのですが・・・
まず、「天・地・人」ですがこちらは“思想”というよりも
観念というべきものではないでしょうか。
(江戸時代の百科事典にも「和漢三才図会」としてなど
「三才」という言葉はつかわれています。)
また私は剣術形の根幹をなすもの またはそれに先立つものは
思想であるとは思えないのです。もちろん思想がないとは
申しませんが、制定形は「技術」の基となるものを修業者に
知覚せしむることを目的としたものであったのだと いうふうに
とらえています。
はくどーさんは「戦争へとひた走る」頃であっただろうということを
考慮したうえで推察されたのではないかとも思いますが、だから文部省は
思想教育を体育に重ねようとしたのではないか とお考えになるのは、
無理があるように感じます。
日本では「体育」という教育は まだ始まったばかりで(剣術は文部省に
なかなか認めてもらえなかったそうです)教授法さえ模索の頃です。
>教育的思想を付け加えようとする試み
がなされる状態であったかどうかについてはもう少し考えたいと
思います。
最近、ここのリンク、「剣紫堂」というサイトを覗いたら・・・
ここで考えていることがらに関連してると思われる論文が
あるのですね。(おくればせながら)少々驚いています。
(感謝してます)
[2002/01/10 02:54:42]
お名前: EBICO
「剣術修行中」さんへ
ご自身は、剣術をされているのですか?
かなり↓の方で、どちらかの流派の居合道の先生がされていた演舞
で、私が人を切れるのか?に対するお答えで
本人の実力による、とのお答えだったのですが
形を極めれば自然と斬れるのではなく
斬り方を学ばなければ斬れないって事ですよね?
さて、私は剣道形は、竹刀剣道の実践には役立たないのでは?
と繰り返し疑問をなげかけていますが
剣術又は、居合の場合はどうなんでしょうか?
更には試斬専門の流派があるとも仰っていたのですが、そちらの流派の場合はどうなんでしょうか?
いづれの場合においても、形の為の形になっていて
やはり実践には役に立たないのでしょうか?
もし、その様にお感じになっているのでしたら
直前に私が提案させて頂いた様に
先人たちが残してくれた材料を研究し極めるの考えから一歩前に進んで
前述した『いちに会剣道形』の様に『いちに会剣術組太刀』の様な
より実践的な形について考えてみるって事は、いけない事なのでしょうか?
[2002/01/10 02:46:55]
お名前: IZAYOHI
URL
以下一刀流と剣道の考察抜粋です。こちらにもはっておきますね。
元はURL参考にねがいます。
北辰一刀流では元来の一刀流の技術の中から、習得困難な部分を思い切って簡略化
しているところに特徴があります。たとえば即位付、下段付といった技術ですが、
これらは理合いがむずかしい上に習得が困難なことは確かです。その代わりに追加
されたのが鍔迫り合いであり、組太刀における即位付の部分は、この時に鍔迫り合
いに代替になっています。今日の剣道に於ける鍔迫り合いの技術は、ここで初めて
生まれたと言っても、基本的に間違いではないでしょう。そして竹刀に於ける試合
稽古の方法論として、組太刀の技術を分解して単体とした、竹刀剣術六十八手を考
案しています。これは現在も北辰一刀流で行われていますが、それを見れば、剣道
に於ける試合の技術の大半は、実はこの時に醸成されたことがわかります。
[2002/01/10 01:49:33]
お名前: IZAYOHI
やっと以下の記述を発見しました!
参考にしてください。
「術」から「道」への道
『近代剣道史』から抜粋
大正3年、時の警視総監西久保弘道は、警察訓練所において「武道講話」と題する
講話を行い、武術の名称は「術」ではなく「道」でなければならない理由を講じた。
これが『警察協会雑誌』に連載され、また単独の著者としても出版されたことから、
(『警察協会雑誌』171〜178号、1914〜1915年。
西久保弘道述『武道講話』警察協会北海道支部、1915年。
岡本学編『西久保氏武道訓』良書刊行会、1916年。
その理由は、「武の目的が体を鍛え肝を練る」ということにある以上、武本来の
目的に適合した名称でなければならない。また、「武道の稽古は神聖にして侵す
可らざるものである」から、単に技術が上達すればよいとか、「武道の稽古に
おいて八ヶ間敷い礼儀」は無用という考えが起きるような「術」という名称は
よくない。「武なるものは決して技術でないと云ふ観念を明ならしむる」ため
にも、「術」ではなく「道」でなければならないと主張した。)
講道館「柔道」の先例にならって、「剣術」も「剣道」にし、総称としての「武術」
も「武道」とすべき気運がもり上がった。大正8年1月29日、西久保は、武徳会
副会長兼武術専門学校長に迎えられると、さっそく名称変更を主張した。同年5月
15日、常議員会で「武術」専門学校を「武道」専門学校に校名変更する件が認め
られ、さらに、同年8月1日、文部省にも認可されたことをうけて、これ以後、
「剣術」「柔術」「弓術」は「剣道」「柔道」「弓道」と称し、その総称としては
「武道」という名称を、用いることが各支部に通達された。もいろん、それ以外の
種目は旧称の「術」のままであった。また同年9月2日、文部省へ「武道科の独立」
並びに「撃剣・柔術の名称を剣道・柔道とすべき」請願を行った。前者は時期尚早
ということもあって実現されなかったが、後者は大正15年の「改正学校体操教授
要目」に取り入れられ、これ以降この名称が一般化するようになるのである。
[2002/01/10 01:34:24]
お名前: くに
みなさんこんばんは。今日やっとこのトピ読み終わりました。
面白かったけど疲れますね…。
とてもみんなにレス付けられないので、ちょっとだけ。
to 剣道修行中さん
>いけません、いけません。他の流派の方に技の質問はとても失礼。武士にあるまじき行為でした
そうすると、古流の技については相変わらず門外不出になるわけですか…。
口伝が絶えればジエンドというのは、残念なことのように思いますが。
to はくどーさん
長文は、私のように途中から入ってきた者には残酷です。(T_T)泣きましたよ
できればもう少しコンパクトにお願いします m(_ _)m
to Hideさん
途中から入ってきて申しわけ有りませんが、長くなりすぎていませんか?整理するか、項を改めても
いいかと思いますが…。
[2002/01/09 23:11:45]
お名前: はくどー
URL
to 江口さん
> で、 おうかがいしたいのは天・地・人=宇宙万物という考えがどんな理由で
>>天孫降臨にまつわる「正仁勇」のような思想
> に変えられたのかということなんです。
「天地人」という思想が「正仁勇」の思想に変えられたと見るよりも、武術家の作っ
た外形的思想の剣術形に対して、教育的思想を付け加えようとする試みが為されたと
考えてみる方がよいのではないでしょうか?。
「武徳会剣術形」は、いわゆる当時の武術専門家の手によって、数ある諸流派の剣術
形を一つにまとめようとした試みになる「剣術形」ですが、一方の「文部省制定形」
の方は、当時武術に携わっていた教育者の手によって、中学生教育を目的として作ら
れた「形」であるという違いがあると思います。
そして、誤解しないでいただきたいのは、先に書いた「正仁勇」の思想という解釈は、
私が考察を進める上での私個人の勝手な解釈であって、ある面でこじつけです。
実際の制定にあたって「正仁勇」という言葉自体が明確に議論されたかどうかは不明
です。
ただ、私が言いたいことは、「文部省制定形」に限って言えば、純粋に剣術の理合を
追求した古流剣術形の集大成と言うよりは、学校教育を目的とした「思想教育形」と
いう側面の方がと強いのではないか?ということです。
そして、その教育的思想というのを、私は「正仁勇」になぞらえて見ましたが、ほか
の言葉であったとしても構わないと思います。
いずれにせよ、1本目から3本目の形を見て行けば、「敵の命を奪っても、勝たなけ
ればならない境地」から「敵の命を奪わずに勝つ境地」そして最後は「傷つけずに勝
つ境地」へという、武術家としてのみならず、人間として目指すべき境地の精神思想
が明確に込められているのは見て取れると思います。
そして、この思想は、その後の武徳会制定形にも強く影響しているようです。
小太刀の形3本は、まさにこの「文部省制定形」と同じような構成ですよね。
to EBICOさん
今日のニュースの中に面白いのがありましたね。
昨日還暦の誕生日だった小泉総理大臣が、番記者からお祝いの色紙をプレゼントされ
た際に、「一から頑張る」という気持ちを込めて、千利休の「稽古とは一を習いて十
を知り、十を習いて一を知る」という言葉を紹介されたそうです。
剣道形10本の制定の際にも、小泉首相のような方がいらっしゃったのではないでし
ょうか?。(笑)
to Hide.さん
>うーん、このあたりが私と見解を異にするところなのだと思います。
>といいますのは、私が最近思い至っておりますことは、「形稽古こそ基本」だった
>(なの)ではないかということです。
>はくどーさん自身もお書きになっておられる通り、「まず形ありき」だったので
>す。形を保管するために木刀での打合いが竹刀剣道(撃剣)へと形を変えていっ
>た。
いわゆる「剣術形」に関していえば、確かにベースに「形」があり、その先に竹刀
(撃剣)があったと考えられると思います。
そして現代においても「剣道」はそうあるべきだと私は思っています。
しかし「剣道形」に関しては、はっきりとこれは「剣術形」ではないと私は思います。
「剣道形」は、その制定の経緯を見る限り、剣道の基礎となる「刀法の理合」を具体
的に教える「剣術形」として作られたと見るよりは、学校教育への「竹刀剣道(撃剣)」
導入にあたって、その補完教材として作られた「思想形」であると見るのが妥当では
ないか...というのが、そもそもの私の考察のスタートです。
そして、この考え方の影響を強く受けて制定された「大日本帝国剣道形」が、当時ま
だ武道という言葉も一般化していない時代に、あえて「剣術形」と区別して「剣道形」
と名づけたのは、当時制定に携わった人たちの間にも「剣術形」ではないという認識
が有ったのではないかと思うわけです。
ここで誤解しないでいただきたいのは「剣術形」と「剣道形」のどちらが上、という
ことではありません。
ただ、私個人の理想を言えば、「本来の剣道」というのは「剣術形」と「竹刀剣道」
の両方の修練を基礎として、その上に「剣道形」の精神思想を加えて「人間形成への
道」を探るものであるべきだ。というものです。
ところが、現在の剣道界は「剣術形」が失われてしまった上に「剣道形」の位置づけ
があやふやで、更にはこの「剣道形」を、その精神思想を抜きにして、かたちだけの
「剣術形」として教えようとしてしまう場合があるために、ますます混乱してしまう
のではないかと思います。
Hide.さんのおっしゃるように、新たな「形」を制定すべきという意見には私も賛成
で、たとえば「現代剣道基本剣術形」というようなものを、修行段階に応じて各10
本づつ、三段階で合計30本ぐらい作っても良いのではないかと思います。
そしてこの「形」によって、剣術本来の理合に基づきながらも現代剣道に即した体裁
きや太刀筋などをきちんと学べるようにすれば、剣道の技術が試合一辺倒の方向に崩
れてゆくことを防ぐことが出来るのではいかと思っています。
[2002/01/09 22:59:51]
お名前: EBICO
剣道形や、剣術の組太刀ってゆうのは、精神修業の為のものなんですね?
それぞれの形に、どの様な意味が秘められているかを研究し考えて極めて行く為の
先人が残してくれた、ひとつの材料なんですよねー?
とするならばですね、その様にお考えの方々が
必ずしも実践的で無いと思いながらも、修行のひとつとして極めて行けばよいでしょうし
剣道をする者の全てに、その必要性があるのかどうかは、疑問に思うのです。
「Hideさん」も仰ってましたが
子供ばかりで無く、それぞれの熟達の度合いに応じての、剣道形があっても
良いのでは無いでしょうか?
そもそも、私がこちらにお書きした
何故一刀で行う剣道に、小太刀の形が必要なのか?
現在の日本剣道形10本の全てが剣道を上達する上で本当にに必要十分なのでしょうか?
「それが分からないから、それぞれの形の持つ意味を考えましょう!」
って仰られてしまうと、そうですねとしか言えないのですが
逆に、今までのみなさんのご経験から
この場面では、この様な対処の仕方があるから
この様な形で表現し修練すればいいのではないか
この形のここは、もっとこうしたら効果的なんだ
ってゆう議論に持っていってもいいのではないでしょうか?
その様にして完成した『いちに会剣道形』を電剣形の会ででも
披露して、実践してみるなんてのは面白いと思うのですが
如何でしょうか?
[2002/01/09 22:48:40]
お名前: 剣術修行中
to IZAYOHI さん
コメントありがとうございます。
なんか、ここでのお話って剣術にもとても役に立ちますね。
剣術専門の問答コーナーがあればなあ。
to Hide さん
>しかし、「払捨刀(としゃとう)」という組太刀は十数本ありますが、これはすべ
>て仕方が脇構えからはじまっておりますが、先をとるのは打方です(^^)
払捨刀って組太刀だったんですか?知らなかった!!
てっきり多人数との対戦を想定した連続技だと思っていました。
やっぱり、刃(やいば)の下を右へ、左へとかいくぐり、脇や手首や胴を薙いでいく技なので
しょうか?。。。って いけません、いけません。他の流派の方に技の質問はとても失礼。
武士にあるまじき行為でした。文面をおもしろくするための戯れ言とお受け流し下さい。
[2002/01/09 20:00:50]
お名前: IZAYOHI
横レスです。
私も剣術3流派してますが、仕太刀から打ち込みするのは神道夢想流剣術
に数本あるくらいで他の2流派にはほとんど(全く?)ありませんね。
脇構えは前述の3流派の一つに二天一流山東派一刀太刀(虎振)にあります
がやはり打太刀からですね。
もっとも全ての流派をしっているわけではないので他流には仕太刀から
打ち込む形が多いのかもしれませんね。
[2002/01/09 19:24:51]
お名前: Hide.
to 剣術修行中さん
>>でも、なぜか、小野派一刀流では見当たりませんが・・・(^_^ メ)
>これ、本当ですか?あれだけ本数があってすべて打太刀から始まるのですか?
おっと、うっかりいたしました。
落ち着いて考えてみましたら、「打ち落とし系」の技などで仕方から仕掛けるもの
がいくつか存在しました。申し訳ありませんでしたm(_ _)m
>現在習っている剣術では仕太刀で脇に構えたときなどすべて仕太刀から打ち込み
>ます。それで脇構えは攻撃の構えと理解していたんですが。
ハイ、たしかに、組太刀の中の「脇構之打落」「折身」は、脇構えから仕方が打ち
込んでいく技でした。
しかし、「払捨刀(としゃとう)」という組太刀は十数本ありますが、これはすべ
て仕方が脇構えからはじまっておりますが、先をとるのは打方です(^^)
[2002/01/09 17:35:50]
お名前: 剣術修行中
to Hideさん
>でも、なぜか、小野派一刀流では見当たりませんが・・・(^_^ メ)
これ、本当ですか?あれだけ本数があってすべて打太刀から始まるのですか?
私の現在の流派(2つ)以外に知人にさわり程度に習った流派とか、その他いろいろな流派を
見たところ、仕太刀から打っていく形もある程度あたりまえにあると思っていたのですが、
現在習っている剣術では仕太刀で脇に構えたときなどすべて仕太刀から打ち込みます。それで
脇構えは攻撃の構えと理解していたんですが。
小野派でないとは。。。盲点でした。
もう一度根本的に勉強し直さなければ。
[2002/01/09 13:43:05]
お名前: Hide.
おやおや、忙しさにかまけていたら、またまた読みきれないほどのカキコが(^^;
腰を据えていかなければなりませんね(笑)
to 剣術修行中さん
>剣術の組太刀においても、仕太刀から仕掛ける形があります。というよりは、そ
>の方が多いかもしれません。
へー、そうなんですか。それは存じ上げませんでした。
でも、考えてみれば妙ですよね。剣術修行中さんは「剣術の極意は後の先」とおっ
しゃっておられましたが、「攻撃は最大の防御」ですし、古来日本の剣術には
「ディフェンス」という考え方が存在しなかったわけでしょ? 「肉を切らせて骨
を切る」という「捨て身」の思想こそ、日本剣法の基本的な姿勢だったように考え
ております。
それから類推しますと、仕太刀から仕掛けて攻撃一方で終わる形(組太刀)があっ
てもしかるべきですし、剣術修行中さんがおっしゃる通り「むしろ多い」のも納得
がいきます(^^)
でも、なぜか、小野派一刀流では見当たりませんが・・・(^_^ メ)
>刀の分類について
>剣道の小太刀はあくまでも剣道用語であり、刀剣収集家などの前で言ったらとて
>もバカにされ (・・・後略・・・)
いやぁ、たいへん勉強になりました。ありがとうございますm(_ _)m
to 親馬鹿一刀流さん
>よく言われる、各流派の良いところを集めたのではなく、極力各流派の特長を出
>さないように作られたとの事です。
まぁ、一流一派の形を国で採用ということになれば、それこそもめ事の原因になるでしょうからねぇ。当時の日本には、まだまだ有力な流派が多数残っていたでしょ
うし・・・(^^;
>例えば、太刀二本目、打ち太刀の小手斬りは、袈裟切りが当たり前のはずなの
>に、なぜ小手か?
袈裟斬りがあたりまえかどうかは不明ですが、私は理合が「先々の先」であること
を前提にしまして、「小手に隙があった(仕太刀が小手に誘いをかけていた)」と
いうのが本当のところではないかと考えております(^^)
>また、四本目は八双の構えから上段に振りかぶるが、真陰流ではそのまま切り込
>むとも聞いています。私は、脇構えからなぜ上段に振りかぶるのか、下から切り
>上げるのが自然ではないかと思っています。
そうですね、脇構えからでしたら、「下から」張る、切るなどの技が普通ですね。
「高野×中山」を見ますと、仕太刀の中山は右足と左足を入れ違えて面に合わせて
おります。つまり、仕太刀は自ら進んで切りにいってはいない。打太刀の本気では
ない切り(仕太刀の剣の長さに恐れ迷い、声を発することなく間合でないところか
ら打ちにでてしまった)ものを、間を見切りながら安全な距離で合わせて「いさめ
た」という感じなのではないかと愚考いたしております(^^)
>小太刀の足さばきこれはまた今度にします。
楽しみにいたしておりますヽ(^.^)ノ
to EBICOさん
なんか、バタバタされているようですが、大丈夫ですか?(笑) 形の内容を考え
ているうちに、その陰に隠された壮大な理念のようなものまで出てきてしまいまし
たが、EBICOさんはEBICOさんの「疑問」をそのままカキコしていってくださってい
いんですよ(^_-)〜☆
私だって、その理念まではなかなか思い至らないし、それに対する明確な意見を述
べる能力を持ちあわせておりませんで、けっこう苦戦してるんですから(笑)
>そもそも、大日本帝国剣道形(でしたか?)を制定された方々が
>何故?10本としたのか?が疑問です。
私は単純なもので、「単にキリが良かったから」なんじゃないかって考えてます
が。はくどーさんも書かれておられますが、専門家のためのマニアックな形として
生まれたわけではありませんので、せいぜい7本から12本くらいの範囲が限度だ
と思うんですよ。太刀とのバランスも考慮し、あんな本数になったのではないで
しょうか・・・ってなお答えではダメかなぁ(笑)
>じゃー何故昇段審査では、その使えないものを
>どなたも異議を唱えず、継承されているんでしょうか?
それは、昭和天覧試合でも「剣道を代表する形」として何度も演武されております
し、「剣道を学ぶ者はすべからく勉強したほうがいい」っていう位置づけだったの
だと思います。昇段審査の課題になったのは、戦後のことなんじゃないですか?
どなたかご存じの方はいらっしゃいませんかねぇ・・・(^^;
私なんかは、古流としては意義深い(かもしれない)が、現代剣道に役に立たない
のだから、少なくとも子供が理合や間合、呼吸、運足などを学べる「少年剣道形」
の必要性を15年以上前から提唱しているくらいでして(^^)
>形の為の形になっていて、剣道を初めて間もない者にとって
>試験を受ける為の必須科目のひとつみたいな感じがしてならないのですが・・・
おっしゃる通りです(^^)
どうせやらなければならない形であるならば「形のための形」にしたくない。そう
いう思いから、こうしたトピックが立ち上がっているわけですヽ(^.^)ノ
>私の昇段審査で、私が終えた後に、形を審査している先生方の様子を拝見してい
>たのですが見て居られる先生方が少なかったと思いますが、これって本当に重要
>視されて無い!って事ではないでしょうか?
アハハ、現行の昇段審査では、「知らない」か「よほどの大間違い」でもないかぎ
り、形の審査で落ちるっていうことはないと思いますよ(^^; もっとも、形の内容
云々を審査できる審査員なんて、そんなに多くはないはずですけど(^_^ メ)
to 江口さん
>そうかもしれません。
>「むつかしい」でなく「それを たのしむ」と
>いえるようになりたいと思います。(←強がりを言っている)
いやぁ、難しいからこそ楽しいんじゃないでしょうかヽ(^.^)ノ
簡単に種がわかってしまう手品は面白くありません。ものすごいイリュージョンを
見せられると、その謎や奥深さがあるがゆえに、見えているものの面白さや楽しさ
が引き立つのだと思います。
剣道も、名人・達人と呼ばれる方々の素晴らしい剣さばきや、その方の持っておら
れる人間的な深みに触れることで、あこがれや尊敬、そして少しでもそういうもの
に近づきたいっていう動機が生まれてくるのではないでしょうか(^^)
>くわしくは知らないのですが、当時の「体育」の教育は
>「体操」というような意味合いのものだったということを
>耳にしたことがあります。
そうですね、私も20数年前、体育学で学んだので定かではありませんが、教育の
三本柱として「知育」「徳育」「体育」と分けていたわけで、「体育」は主に身体
活動(運動)のことだったはずです。しかし軍事教練などと結び付き「お国のため
になる立派で健康な心身を養う」という感じのものでありました。
今の「体育」はスポーツが中心ではなはだ「レクリエーション的」になっておりま
すが・・・(^^;
そう考えましても、剣道の専門家でない中学生に手ほどきする剣道形に、あまり大
きな思想的内容を持たせたとは考えにくく、むしろ基本修練の一助にしていたので
はないかと思われますが・・・。
to はくどーさん
>竹刀だけの修練だけでは学び得ないことを補完するために「剣道形」があるとい
>うように考えられます。
うーん、このあたりが私と見解を異にするところなのだと思います。
といいますのは、私が最近思い至っておりますことは、「形稽古こそ基本」だった
(なの)ではないかということです。
はくどーさん自身もお書きになっておられる通り、「まず形ありき」だったので
す。形を保管するために木刀での打合いが竹刀剣道(撃剣)へと形を変えていっ
た。
もちろん、奥義や極意を秘する形もあったでしょうが、まず入門者には、初伝の形
を稽古させた後、徐々にレベルアップしたものを授けていったはずです。その延長
線上にあったのが、自由に打ちあう形式ではないでしょうか(^^)
そう考えますと、たかが中学校の成果として、剣道を知らない生徒に教えるべき形
の中に、壮大な理念を盛り込むわけもなく、盛り込まれていないからこそどこにも
その情報が残っていない・・・。こんなところが真実ではないのでしょうか(^^;
ま、ロマンのないつまらないヤツだと言われそうですが(苦笑)
>文部省主催の講習会の最高責任者は、かの柔道の創始者、嘉納治五郎先生であっ
>たと聞きます。
私は講道館流の柔術の形というものはおろか、現在行われている柔道の形をまった
く知らない人間ですが、もし、それらにもそうした理念が含まれているのであれ
ば、はくどー説を信じるにたる材料となりますが・・・(^^)
>この辺は、意見の分かれるところかもしれませんが、あくまで「剣道形」を
>「術」ではなく「道」を学ぶ形としてみた場合、全体の流れから、一本目は「命
>を奪って勝つ」、二本目は「戦闘力を奪って勝つ」、三本目は「闘争心を奪って
>勝つ」というように捉えた方が自然な気がします。
自然かどうかはわかりませんが、形の動きを解析しますとそう読み取れますね。
ただし、私見ですがやはり一本目打太刀は「絶命していない」のです。斬り殺さな
かったからこそ、その後の残心の動作が生きてくる考えられます(^^)
いくら明治時代とは言え、教育現場で「殺すこと」を教えないでしょうし。
[2002/01/09 11:17:55]
お名前: 復活EBICO
「はくどー」さんへ
> なぜ7本や12本でなく10本なのかということになれば、
> 当時の詳しい経緯は計り知れないのですが、おそらく、例えば
>「一を知りて十を知る」とか言うような、古来からの諺なんかが・・・
本当に諺などが考慮されてたのでしょうか?
私も10本になった経緯について探してみますので
しばしお待ち下さい。
> 昇段審査で「形」を打つのは、試合規則のもとで行う「競技剣道」における技術の巧
> 拙を審査するばかりではなく、そういった「道」としての剣道が出来ているかどうか
> を、「形」を通して審査するという意味があるのではないかと思います。
これも分かる様な気がするのですが・・・
>(現在の形審査の状況が、実際にそうであるかどうかは別にして)
私の昇段審査で、私が終えた後に、形を審査している先生方の様子を拝見していたのですが
見て居られる先生方が少なかったと思いますが、これって本当に重要視されて無い!
って事ではないでしょうか?
「剣術修行中」さんへ
小太刀に関する雑学はなぁるほどって思います。
> 刀で切れるかどうかということは、剣道、居合というよりも本人の実力によります。
> 試斬専門にやられているような流派もあるので、私の説明よりもそういった方の説明を受けた方が・・・
修行中さんは、試斬専門にやられて無いんですか?
流派のお名前をご存知でしたらお教え頂きたいのですが?
[2002/01/09 03:09:55]
お名前: 再度EBICO
ったく私は何を考えてるんでしょうか(自戒
「江口」さんへ
申し訳ありませんでした。
遥か上の方をお登りなんですねー
頑張って走っても追いつけそうにありませんです。
でもお言葉ありがたく頂きましたー。
[2002/01/09 01:32:36]
お名前: EBICO
「江口」さんへ
ありがとうございます。
もし、お近くを登られていたら頑張って走って追いつきます!
そして、一緒に声掛け合いながら頑張って登って行きましょうネー?
しかし、未だに脳味噌の消化不良は続いている訳で・・・
もうチョットお時間頂けますか?
自分なりに、知識を補わないと、お話になりませんもの
単にお伺いしてばっかりじゃ、観客になってしまいますので・・・
[2002/01/09 00:41:50]
お名前: 江口
EBICO さま。
>申し訳ありませんです。
え〜ん。そんなこと、言わないでくださいよー。
江口なんて、いつも 自分から訊いておきながら
何が知りたかったのか 自分でもわかんなくなっちゃうくらいなんですから・・・
恥かきどおしですよー。たすけてー!って言いたい!!!
To はくどー さん。
あいかわらずの 分からず屋で、心苦しいのですが
もう少しギモンさせてください。
文部省制定の一〜三本目についての、
はくどーさんの
一本目:正
二本目:仁
三本目:勇 というお考えについて・・・
武徳会の一〜三本に対して、そのあとの文部省の一〜三本は
内容的には否定されたものでありながら、外形としては
(『構え』の点で)武徳会の「天、地、人」と称せられたものと
同じものです。また「天・地・人」は“三才”といわれ、転じて
宇宙間の万物、と とらえられていたとうかがっております。で、自分は
ばくぜんと
天・・・・・上段(一本目)
(天と地のあいだにある)人・・・・・中段(二本目)
地・・・・・下段 (三本目)
という構成を理解しているつもりでおりました。
残り四本と小太刀三本は、大正元年、それらを新たに制定することで
東京高師(文部省サイド)と武徳会との間に妥協が成立したのだと
いわれています。(剣道事典・島津書房)
で、 おうかがいしたいのは天・地・人=宇宙万物という考えがどんな理由で
>天孫降臨にまつわる「正仁勇」のような思想
に変えられたのかということなんです。
「正仁勇」も、「天地人」も大切な事項とは思うのですが
前者は人間社会においての思想を、後者は(何といっていいものやら・・・)
宇宙の摂理(のようなもの)を感じ取らせようとする、というふうな違いが
あるように思えます。
また、それとは別に、文部省の考えていた
「教育的意義」ということについては、もう少し
その当時の「体育教育」と併せて考えてみることが
必要なのではありませんでしょうか。
くわしくは知らないのですが、当時の「体育」の教育は
「体操」というような意味合いのものだったということを
耳にしたことがあります。
[2002/01/09 00:25:33]
お名前: 追伸EBICO
みなさまへ
私の以前の『心無い書き込み』のせいで
なぁーんか、堅苦しい雰囲気になってしまったみたいで・・・
申し訳ありませんです。
やっぱり、楽しく気楽に、考えて行ける雰囲気が無いと、苦しくなってしまいますよねー
もちろん、奢らず、礼をつくし、感謝の気持ちを持って、論議を進めて行くつもりです。
[2002/01/08 22:10:50]
お名前: EBICO
「江口」さん ありがとうございます。
「はくどー」さん ありがとうございます。
「剣術修行中」さん ありがとうございます。
「そのほかのみなさん」ありがとうございます。
一緒に考えましょう!って仰って頂けて、うれしんですが・・・
私の脳味噌が消化不良起こしてます。
読ませて頂くのが精一杯で、仰って頂く事をとても理解する所まで辿り着けません。
「はくどーさん」がどちらかのHPで仰っていた、山を登るお話で申しますと
みなさんは既に高い所まで登られておられて、私はやっと登山口を見つけて
さぁーこれから登るゾ!って所です。
焦らずにしっかりと登って行きますので、見晴らしの良い所辺りで待ってて貰えますか?
否、後発を待ってたら皆さんが頂上へ辿り着けなくなっちゃいますね?
みなさんが、残して行ってくれた足跡を探しながら
一歩一歩登って行きますので、宜しくお願いします。
足跡が見つからない時には、携帯電話(?)でお話をお伺いさせて頂きますので
その時には、宜しくお願い致します。
草々
[2002/01/08 19:28:59]
お名前: 剣術修業中
to はくどー さん
度重なるご指導ありがとうございます。私のわがままでいろいろとお手数をおかけしました。
ご説明については本当は最初から重々承知しております。今後ともよろしくお願いいたします。
小太刀の書き込みをしていて気が付きませんでした。お返事が小太刀の後になってしまったこと
お詫び申し上げます。
[2002/01/08 17:08:23]
お名前: 剣術修業中
ちょっと時間がありましたので、小太刀に関する雑学を2〜3。ちょっと一息にどうぞ。
小太刀の構えについて
剣道の先生方はそれぞれにいろいろと教えてくれますが、私の剣術流派ではこう構えます。
まず、同じような背格好の方に太刀で正しく中段に構えてもらいます。その横に並び、小太刀
を持った右腕を前に差し出し、半身に構え、小太刀の切先と太刀の切先が同じ長さになるように
して、構え全体のバランスを整えます。イメージ的にはかなり前に腕を差し出さないと同じ長さ
になりません。こうして、長さについてはハンデを克服します。
しかし、小太刀は腕を差し出しているので小手を狙われやすいこと、広い場所では間合いを切
られたら対処できないなどの欠点がありますが、狭い場所や屋敷の中で絶大な威力を発揮する
ことはご存知のとおりと思います。しかしながら、新撰組のように長い刀で突いてきたり、
突きが失敗すると直ちに横薙に払ってくるような戦法をとられたら、苦戦すると思います。
刀の分類について
剣道の小太刀はあくまでも剣道用語であり、刀剣収集家などの前で言ったらとてもバカにされ
ることになります。刀剣でいう小太刀は武将が腰に刃を下に向けて履く太刀の短いものであり
剣道で使う小太刀は刀剣分類上「脇差」になります。さらに細かく分類すると、刃の長さ2尺
以上を「刀」、1尺から2尺を「脇差」、1尺以下を「短刀」といいます。(登録上は何cm
で決められています)
また、幕藩体制により武士の差す刀の長さまで規定され、およそ2尺3寸から3寸5分を「定
寸(じょうすん)」といい、これに満たない長さの刀を「定寸割れ」などということもありま
す。脇差についても、長さによって更にいろいろな呼びかたがあり、だいたい1尺8寸以上
のものを「大脇差」といいます。
なぜ、こんな説明をしたのかと申しますと、「定寸割れ」や「大脇差」は戦闘には非常に有用
だったらしく、長い刀の両手打ちよりも、これらの刀で片手打ち、半身に構えれば刀と脇差し
の両方のメリットを受けることができます。道場の中では長い刀は有利ですが、起伏のある
野山を自由に駆け回り、戦闘を行うには、片手打ちの方が便利だったようです。
to EBICOさん。
刀で切れるかどうかということは、剣道、居合というよりも本人の実力によります。
剣道6段、7段の方でも、初めて巻き藁を斬った場合、十中八九斬れません。私が実際に道場
でやったところ、居合の方でも斬れませんでした。これは剣術でも同じこと。
ただ、基礎的な操刀法のトレーニングができていることから、居合、剣術、剣道の順でより
短期間のうちに斬れるようになると思います。しかし、あくまでも本人次第。
竹刀による打突で柄の握り方を「雑巾で絞るように」とよく言いますが、このイメージでは
まず斬れません。右手の親指と人差し指の間の手の甲を前に押すように、左手の小指を手首
に向けて強く引き、右手と刀が一直線になるようなイメージで斬ると良いようです。試斬専門
にやられているような流派もあるので、私の説明よりもそういった方の説明を受けた方が
よりよろしいかと思います。
[2002/01/08 17:01:13]
お名前: はくどー
URL
to 剣術修行中さん
剣術修行中さんのおっしゃるとおり、日本剣道形の1本目〜3本目のは「かたち」の
上では「後の先」の技です。それぞれ技としては、
1本目、「相手が面を切ってくるのに対して、抜き面」
2本目、「相手が小手を切ってくるのに対して、抜き小手」
3本目。「相手が突いてくるのに対して(入れ突きに萎やしての)、返し突き」
という術理です。
しかし、これを「先々の先」の位で...とする理由は、仕太刀は、打太刀が打って
来るのを待って対処しているのではなく、「打ち太刀が打って来ないなら、こちら先
をかけて打つぞ!」という気位で、先手を取っての「攻め」を見せてゆくからなので
す。
一方の打太刀は、この仕太刀の「攻め」に抗しきれなくなって、思わず先に打って出
てしまうので、仕太刀に打たれてしまうわけです。
しかし、実際は打太刀は師ですから、弟子であるはずの仕太刀の「攻め」にそう簡単
に抗しきれなくなるはずがありません。ですから打太刀は仕太刀の「攻め」が十分に
熟すところ、ちょうどスプリングが十分に伸びきって、もうこれ以上は伸びないとい
うというところを見計らって、パッと手を離してやるような気持で、スッと切って行
ってあげるわけです。これが「機を見て」ということです。
すると、仕太刀ははじかれたように技を出します。
この時、仕太刀自身が「打太刀が打ってきてくれたので自分は対処した」と感じるの
ではなく、「打太刀は、自分の「攻め」に抗しきれなくなって、やむなく打ってきた
のだ。」すなわち「打太刀を自分の攻めによって打たせたのだ」と思えるほど、微妙
なタイミングで打ってあげなければなりません。
ですから、打太刀は難しいわけです。
このようにして仕太刀は「先々の先」の気位を学んでゆきます。
これは、実際の竹刀剣道の稽古でも良く行われていますね。
子供と稽古していて、子供の心技体が充実し、機が熟したところで、フッと面を見せ
てやれば、子供は気持ちよくスパーンと打ってきます。
そして、その子は、自分が打たされたとは思わず、自分の技量で打ち込んだと思って
います。すると剣道が楽しくなって、ますます上達するんですよね。
[2002/01/08 16:23:10]
お名前: はくどー
URL
to EBICO さん
お気遣い、ありがとうございます。
これからも、一緒に剣道形の勉強を続けて行きましょう。
というわけで、早速ですが、
>そもそも、大日本帝国剣道形(でしたか?)を制定された方々が
>何故?10本としたのか?が疑問です。
IZAYOIさんによるところの制定の経緯を見ますと、もともと明治39年に制定した「天
地仁」を眼目とした「武徳会剣術形」と呼ばれる3本の「剣術形」があったようです
が、文部省主催の講習会では、これは不評で採用されず、新たに「文部省制定形」の
3本が作られたということになるようです。
そして、このあと、前述の「武徳会剣術形」そのものを見直そうという動きが出て、
結局「文部省制定形」の3本に付け加えるかたちで、太刀7本+小太刀3本ができあ
がり、大正元年に「大日本帝国剣道形」として発表されたと言うわけですね。
なぜ、10本かという話になれば、まあおそらく「文部省制定形」3本だけでは、剣
道専門家のための形としては不十分だし、かといって一刀流のような50本もの形に
すると、多すぎて煩雑になってしまうということで、せいぜい7〜12本程度のとこ
ろで落ち着いたのではないでしょうか?。更に、なぜ7本や12本でなく10本なの
かということになれば、当時の詳しい経緯は計り知れないのですが、おそらく、例え
ば「一を知りて十を知る」とか言うような、古来からの諺なんかが多少は考慮された
のではないかな?くらいしか、私には想像できません。
この辺の経緯に関する資料等をご存じの方がいらっしゃれば、嬉しいですね。
>じゃー何故昇段審査では、その使えないものを
>どなたも異議を唱えず、継承されているんでしょうか?
これも、Hide.さんに対するご質問の横レスになってしまいますが、
「剣道形」を、竹刀剣道で使う技や術を教える「形」、いわゆる「剣術形」だと理解
してしまえば、竹刀で使えないものを「形」として教えるのは不合理ということにな
ってしまいます。
しかし、「剣道」という言葉を、現代の竹刀剣道という狭義ではなく、「剣道」は
「剣」の修行を通して人間として目指すべき「道」へ至るための「人間形成の道」で
あるという広義にとらえれば、竹刀だけの修練だけでは学び得ないことを補完するた
めに「剣道形」があるというように考えられます。
例えば、剣道形の太刀三本目や小太刀三本目は、現代剣道の審判規則では、決して有
効打突にはなり得ません。しかし「人間形成の道」としての「剣道」ならば、相手を
傷つけずに勝つという教えは、とても大事なことです。
この教えを「競技」を主体とした竹刀剣道で教えるのはなかなか難しいために、「剣
道形」に託して教えたと考えてはいかがでしょうか。
小太刀の形も、競技主体の竹刀剣道では、得物の長さを同じにしなければ公平がはか
れませんが、本来の「剣道」を学ぼうとしたら、自らの不利を敢えて有利に転ずると
いう考えは非常に大切なことで、この理念を「形」に託して教えようとしたと考えら
れます。
昇段審査で「形」を打つのは、試合規則のもとで行う「競技剣道」における技術の巧
拙を審査するばかりではなく、そういった「道」としての剣道が出来ているかどうか
を、「形」を通して審査するという意味があるのではないかと思います。
(現在の形審査の状況が、実際にそうであるかどうかは別にして)
to Hide.さん
>極めて長文のカキコ、感心しながら、かつ、楽しく拝読させていただきました(^^)
ありがとうございます。m(_ _)m
>うーん、本当にそんな大それたことを考えて作られた形なのでしょうか?(^^;
>もしそんな大それた理念があるのなら、なぜ、キチンとした形で伝えられなかった
>のでしょうか。どこにも秘密にするいわれはない。むしろ、積極的にこの剣道形の
>効用と思想を説き、多くの人に真剣に学ぶことを奨励したはずではありませんか?
>お話としてはスケールが壮大で楽しめるのですが、これまで語られなかった経緯を
>考えますと、ちょっと疑わしい感じがいたします(^_^ メ)
文部省主催の講習会の最高責任者は、かの柔道の創始者、嘉納治五郎先生であったと
聞きます。高等師範学校の校長や、大日本武徳会、高等教育会の役員、国際オリンピ
ック委員、大日本体育協会会長など、武道界のみならず、教育界や体育会の要職にあ
った方ですから、むしろこれぐらいの精神思想を、この「文部省制定形」に込めよう
とする努力は為されたのではないかと、私は思いました。(^^ゞ
一方で、現代の私たちの目からは壮大なスケールのようにも思えますが、当時にとっ
て、天孫降臨にまつわる「正仁勇」のような思想は、その内容の深さに程度差こそあ
れ、ごく一般的な道徳観念の延長上にあったのではないかと思います。
ですから、この思想を盛り込んだとしても、誰もが「当たり前」のこととして、こと
さらに大仰に説明しようとはしなかったのかもしれません。
更に、この「文部省制定形」に盛り込まれた「正仁勇」の思想は、私の考察があたっ
ているならば、究極的には「他人と争わない」平和の思想です。
嘉納治五郎先生の武道に対する思想の中にも、おそらく「争わない」という考えがあ
るのではないかと思いますが、(このあたりのことに詳しい方はいらっしゃいません
か?)、残念ながら、当時の歴史の流れは、戦争への道をひた走りに走り続けていま
した。
せっかく、嘉納先生や当時制定委員であった高野佐三郎先生らの「剣道形に込めた思
想」も、結局は軍の政治の思惑で、剣道は武技高揚の道具としてのみ扱われてしまっ
たのではないかと思います。
>うーん、少なくとも小野派一刀流の組太刀の中には「倒れたことを示す所作」とい
>うものは存在しません。また、おそらく他流派にもそのようなものはないと考えら
>れます。
この辺は、意見の分かれるところかもしれませんが、あくまで「剣道形」を「術」で
はなく「道」を学ぶ形としてみた場合、全体の流れから、一本目は「命を奪って勝つ」、
二本目は「戦闘力を奪って勝つ」、三本目は「闘争心を奪って勝つ」というように捉
えた方が自然な気がします。
とすれば、まだ「生きている」二本目、三本目に対して、一本目だけは、確実に「死」
を表現しなければなりません。
しかし、形の上ではその場に倒れるわけにも行かず、苦肉の策の表現が、打った体勢
のままで二歩下がるというものになったのではと、私は考えました。
[2002/01/08 12:51:32]
お名前: 江口
To Hide. さん。
>だから剣道は宗教や哲学的要素をもちながらも実証
>主義でしか悟ることが出来ず、「死ぬまでが修業」ということにならざるを得ない
>のだと考えますが( -o-) フゥ
そうかもしれません。
「むつかしい」でなく「それを たのしむ」と
いえるようになりたいと思います。(←強がりを言っている)
To EBICO さん。
>試験を受ける為の必須科目
とのお考え、私も同様でした。形のなかの技の内容を
吟味できる能力ももちあわせていませんでしたし。(今だに そう)
ただ、続けてみて
直接実戦にというものではなく
なにか間接的に、自分の竹刀剣道に影響するものが
あるような気がしています。その 間接的にはたらく何か、って
何なのか知りたくて、みなさんのおっしゃることから
ヒントを得られるのではないかと思って拝見させていただいています。
[2002/01/08 01:31:53]
お名前: EBICO
「Hide」さんへ
そもそも、大日本帝国剣道形(でしたか?)を制定された方々が
何故?10本としたのか?が疑問です。
「小を以って大を制すの精神で・・・」
「・・・竹刀剣道で使えない様な構えや技・・・」
って仰りますが
じゃー何故昇段審査では、その使えないものを
どなたも異議を唱えず、継承されているんでしょうか?
「剣術修行中」さんへ
ご案内頂いた書籍については、改めて図書館へ出向いて探して来ます。
本屋さんで購入する勇気が無いので、お借りして読んでみます。
> 日本武道の本質は変わらないという信念・・・
変わらない信念をお持ちの方々が全てであれば、こちらで論議する様な事には
なって居なかったと思うのは私だけでしょうか?
以前、居合道のどちらかの流派の先生が、演舞(でよろしいのでしょうか?)を
ご自身が所属される道場(剣道です)の記念大会でされていたのですが
初めての事で、びっくりして、拝見していたのですが
見ているうちに「本当にあの様な振り方で人は切れないのでは?」って思いました。
合気道は確かに実践的ですが
剣道形や、居合の形は、実践的では無いと思うのですが・・・
如何でしょうか?
さて、みなさま
剣道形の太刀の形ですら、実践的では無いと思ってらっしゃるのに
小太刀が更に加えられているのは何故なのでしょうか?
お話を頂くと、なんとなく理解が出来る様な気がするのですが
形の為の形になっていて、剣道を初めて間もない者にとって
試験を受ける為の必須科目のひとつみたいな感じがしてならないのですが・・・
[2002/01/07 20:31:39]
お名前: 親馬鹿一刀流
あけましておめでとうございます。
なかなかカキコ出来ずタイミングを逸した内容になるかと思いますが、前にお約束した事
と、私の私見を書かせていただきます。
剣道形の成り立ち
皆様が既に書き込まれているように、明治44年から検討を始めて制定されています。
それで、私が書きたかったのは、社会体育指導員の講習会で説明を受けた内容なのです。
講師の先生の説明によれば、中学校の正課に剣道を取り入れるにあたり、団体指導の教本
となるべきものを作らなければならないために制定されたのだそうです。
よく言われる、各流派の良いところを集めたのではなく、極力各流派の特長を出さないよ
うに作られたとの事です。
私見
ですから細かい所で疑問が出るのも当たり前と思います。
残念なのは、どのような技術を習得させる目的で一本一本が作られたのかの説明文が残っていない事です。あるのは指導上の留意点ですね。(だからこのトピックがあって皆さんが考察しているのですが。)
そうは言っても、各流派の形を参考にしたのは間違いのない事ですし、源流と照らし合わ
せて勉強されている方もいらっしゃるようです。
例えば、太刀二本目、打ち太刀の小手斬りは、袈裟切りが当たり前のはずなのに、なぜ小
手か?裏小手を斬りに行っているのではないか?いや、小手から突きに渡る北辰一刀流が
原型だからではないかと伺った事もあります。
また、四本目は八双の構えから上段に振りかぶるが、真陰流ではそのまま切り込むとも聞
いています。私は、脇構えからなぜ上段に振りかぶるのか、下から切り上げるのが自然で
はないかと思っています。この件に関しては、各流派を勉強されていて、この技から取っ
たのではないかという考察をお書きくださる方を待ちたいと思います。
あと個人的には、Hideさんが書かれている、<形は良く「真行草」に打つなどといわれます>を実感しています。私も上達に従って解釈が変わってきました。
小太刀の足さばき
これはまた今度にします。
[2002/01/07 20:17:33]
お名前: 剣術修行中
to はくどー さん
お説、とってもごもっともと思います。
しかし、一方で詳しく説明いただくほど、自分がいままで気がつかなかったことに気づき、
それがまた疑問となってしまいます。
これは決して反論という意味ではなく、より多くの方に考えていただくための情報として
書き込みますので、ぜひお読みください。
>そこで、この「攻め」を確実なものとするため、その習得法として利用されたのが、
>防具を着けて竹刀で打ち合うという現代剣道の原型、いわゆる「竹刀剣術」「撃剣」
>だったのではないかと考えます。
について、なるほどと思いついたのですが、剣術の組太刀においても、仕太刀から仕掛ける
形があります。というよりは、その方が多いかもしれません。
私の流儀でも、仕太刀上段から青眼の打太刀の剣を打ち落とし、面撃2回、打太刀が反撃に
出ようと振りかぶったところを突き。なんて攻撃一方の形もあります。
いわゆる「刃斬合(はきりあい)」という形の一群も実戦形といわれております。
明治時代頃になって撃剣が盛んに行われるようになってさえ、実戦形の修練で十分とし、撃剣
をとりいれなかった流派もあります。
とはいえ、最初に習う基本の形は「後の先」、また、私はそこまで至らないのでわかりません
が、最終的な到達点も基本の形の中にあるとよく言われます。
これを剣道にあてはめて考えるに、剣道形に実戦形はありません。これは「術」→「道」
から考えて当然のことであり、そのかわりといっては語弊がありますが、撃剣の部分が残って
おります。
よって、剣道の原点は撃剣+基本形ということになりますから、剣道形は「後の先」そのもの
という私なりの結論に達するのですが。。。
説明不足な点もあるかと思いますが、一つの意見としてお考えいただければ幸いです。
to EBICOさん
私も、頭の中ではあれも言いたい、これも言いたいと思うのですが、人に説明するために
文章にするのが苦手でご迷惑をおかけします。
小太刀の本当の存在意義は、はくどーさんはじめ、剣道家の方々のご意見をお待ちするのが
賢明かと思います。
私の場合、様々な日本武道に興味を持っており、いろいろと本を読んだり、調べたりして
おりますが、そうこうするうち、日本武道の共通点のようなものが見えてきます。
私がはくどーさんやHideさんのご意見をごもっともと思いつつも、なお食い下がっていくのも
剣道がいくら「術」から「道」に変わろうとも、日本武道の本質は変わらないという信念が
あるからです。もちろん、私の考え過ぎということも十分にあるとは思います。しかし、
議論はとても大切な事で、遠慮していたのでは何の進歩もない。議論の結果、自分の考えが
間違いとわかれば、それはそれで良いと思っています。
だから、わからないことをわからないと聞くのははずかしいけれど、相手が先生であろうと
なかろうと、教えてくれる方がいればすすんで聴く、そして、その多くの情報を自分なりに
整理して、考えとしてまとめていくのが私のやり方です。
物知り博士にもなれますし、豊富な話題で飲み会で主導権を握るのもたやすくなります。
けっこう社会生活でも役に立つんですよこれが。。。
と、前置きが長くなりましたが、「合気道」って実際にやったことはないのですが、関連
図書を読むにつけ、古武道を非常によく研究し、現代風にまとめあげています。
吉丸慶雪氏は「合気道の科学」をはじめいくつかの著書があり、本屋さんで容易に入手可能
です。その中で「刀で斬るように投げる」というような表現があります。これは合気道が
剣術から来ている為であり、逆に考えれば剣術は剣がなくとも護身術として使えるという
ことです。ここで重要なのは剣術の運歩法を始めとする体の運用です。これは残念ながら
竹刀剣道の動きからは得られません。剣道形、特に小太刀の動きが剣術の動きをより良く
残していると考えたからです。
よって、私の小太刀の説明は実用上からのものであって、剣道形の真の考え方とは全く
違うものだと思います。
[2002/01/07 16:49:08]
お名前: Hide.
うわぁ、遠征でルスにしている合だに、ここのカキコが盛り上がっちゃってます
ね。こりゃ、読むのがたいへんだぁ( -o-) フゥ
to 江口さん
>わたしも栗きんとんなんて年にいちどくらいしか
>つくりません。でも おもしろいですよ。
>つくり方なんかは亡母のやりかたより、ずいぶん変えてしまってますが。
まぁ、栗の産地でもないかぎり、年に一度しか食べる機会がないのが一般的なん
じゃないですか(笑)
私は甘いものが苦手なもので、お節料理の中に栗きんとんはおろか黒豆も必要な
いって人でして(^^; 面白いのかもしれませんが、興味は湧きませんねぇ(笑)
>剣道をめぐる言葉はいつも、抽象的で、自分なりに
>とらえた と思ってもすぐ、くすんでしまったりして
>むつかしいです。
>たとえば “先”というコトバの意味にしても、自分のなかで、
>自身の剣道の発育段階に応じて変わってきているように思えます。
それはしかたがないことなんじゃないですか。書物を読み、先達から話を伺い、自
分なりに考えをめぐらせても、やはり現段階の自分の修業レベルに合わせた理解し
か得られないのは当然ですよ。だから剣道は宗教や哲学的要素をもちながらも実証
主義でしか悟ることが出来ず、「死ぬまでが修業」ということにならざるを得ない
のだと考えますが( -o-) フゥ
to EBICOさん
>では、何故、剣道形には小太刀3本があるんでしょうか?
>実際の試合とかお稽古で、小太刀だけで立ち向かう場面って無いですよねぇ?
アハハ、たしかにそうですねぇ(笑)
小野派一刀流の組太刀の中にも小太刀があるのですが、「小をもって大に対し勝ち
を制する秘訣は小の不利を心と体と技で補い、小の利をもって大の不利を制するこ
とにある」とあります。
定かなことはわかりませんが、これらを学ぶことによって、太刀での戦い方にも深
い理解が得られるからではないでしょうかねぇ(^^;
ま、太刀の形でも、竹刀剣道では使えないような構えや技がたーーーくさん出てく
るわけですから・・・(^_^ メ)
to 剣術修行中さん
>まず、剣道は竹刀稽古と形稽古から成っていますが、この2つは相互に補完し合
>いますが、どちらか一方のためだけに存在するのではないこと、2つ併せて「剣
>道」であることを前提条件として認識する必要性があります。
このご意見意は全面的に賛成させていただきますヽ(^.^)ノ
>合気の「入身」は小太刀の形そのものであり、小太刀の左右の動きなども太刀の
>形に比べると非常に「実戦的」・「剣術的」です。
太刀同士の形よりも、間が近く至近距離ので斬り合いを想定して組まれたわけです
から、より実践的にならざるを得ないのかもしれませんね(^^)
>しかし、Hideさんの説明も何度も受けましたが、どーしても納得できない点があ
>ります。それは「先々の先」の考え方。
(・・・後略・・・)
そうですね、この件に関してははくどーさんがご説明くださっている通りと考えま
す。技的には、「後の先」の不確実性をより高める術が「先々の先」なのでしょ
う。そして最終的には、「戦わずして勝つ」というレベルにまで高められていくの
ではないでしょうか。「剣術の極意が「後の先」」というのは剣術を知らない私に
は理解できないことですが、剣道の極意は「先々の先」にあると私は考えておりま
すが(^^)
to はくどーさん
極めて長文のカキコ、感心しながら、かつ、楽しく拝読させていただきました(^^)
>進学率のまだ低い時代にあって、中学に進む者は、いわば日本の将来を支えるエ
>リートたちであったはずです。)に対して、日本国家統治の理念である「正」
>「仁」「勇」の考え方を剣術の形に託して教え、それによって日本国民、日本人
>としての在り方、生き方を教育しようとしたものではなかったと考えてみました。
うーん、本当にそんな大それたことを考えて作られた形なのでしょうか?(^^;
もしそんな大それた理念があるのなら、なぜ、キチンとした形で伝えられなかった
のでしょうか。どこにも秘密にするいわれはない。むしろ、積極的にこの剣道形の
効用と思想を説き、多くの人に真剣に学ぶことを奨励したはずではありませんか?
お話としてはスケールが壮大で楽しめるのですが、これまで語られなかった経緯を
考えますと、ちょっと疑わしい感じがいたします(^_^ メ)
さて、理念はさておき、内容に関する反論なのですが、
>そこで、私は、打太刀が仕太刀に打たれたあとに、そのままの姿勢で小さく1歩
>引くのは、理合上は切られてその場に倒れたということを表現するための「形の
>上での所作」ではないかと考えます。
うーん、少なくとも小野派一刀流の組太刀の中には「倒れたことを示す所作」とい
うものは存在しません。また、おそらく他流派にもそのようなものはないと考えら
れます。
大方の形は、「残心を示したところで一本が終了となり、互いに構えあい、一定の
所作をもってもとの位置に戻る」という構成です。日本剣道形だけ、それまでの形
を無視するような編成をするはずもなく、同様に考えるならば、仕太刀が左上段に
とった段階で形が終了ですから、打太刀が2歩小さくさがるのも「倒れた」「絶命
した」のではなく、別な理由があるからと考えるのが普通ではないでしょうかねぇ
(^^)
[2002/01/07 15:23:10]
お名前: 改めまして、EBICO
「剣術修行中」さんへ
自らを卑下するような書き込みで申し訳ありませんでした。
仰って下さった事柄に関する知識が私にはありません
もし、宜しければ、関連の書籍などについて、ご案内頂けましたら
有難く存じます。
「はくどー」さんへ
未熟な者を売り物にした、お願い頂きたい、教えて頂きたい
ばかりで、本当に申し訳ないです!
仰って頂けました様に、私も頑張って勉強し、考えます!
末席に加えて頂けて、ありがとうございます。
心して掛からせて頂きます!
[2002/01/07 14:15:22]
お名前: 反省!EBICO
「はくどーさん」そして、みなさまへ
度重なる失礼な書き込みをしてしまいました。
未熟者のたわごとと、笑って許して下さいませ。
「くにさん」にお会いできた後、舞い上がってました
「くにさん」の所へおじゃまして、剣道形のビデオを拝見していて
そーいえば、変だよなー?って思ったのでした。
お忙しい上に、夜中にまで、ご迷惑をお掛けして
本当に申し訳ありませんでした。
これじゃぁNさんと同じですよねー
本当に軽率でした。
どうかお気を害されません様に
そして、これからも、おバカなEBICOを宜しくお願い致します。
草々
[2002/01/07 11:32:18]
お名前: はくどー
URL
to EBICOさん
>「はくどー」さんへ
>お忙しい中、私の様な、おバカな疑問にお答え頂けず
いやあ、なんかお気を悪くさせてしまったようですね。(>_<)
申し訳有りません。m(_ _)m
実は、とりあえず太刀3本目までの自分自身の考察を書き進めるので精一杯で、今月
に入ってからの記事をまだ全部読んでいなかったんです。
これから、前に戻ってじっくり読ませていただこうと思っていたところでした。
しかし、無視するようなかたちになってしまって、本当に申し訳有りませんでした。
心からお詫び申し上げます。m(_ _)m
さて、なぜ小太刀3本が、剣道形に入っているかというお話ですね。
これも、今後考察を進めてゆかなければならない問題だと思うのですが、正直に言っ
て、現時点で私の考えはまだまとまっておりません。
4月の電脳剣士会の「剣道形の会」までには、まとめたいと思っています。
ただ、言えることは「日本剣道形」を剣の「術」のかたちを教えるものだと捉えれば、
小太刀で試合することのない現代剣道において、小太刀の形は不要ということになっ
てしまいます。
すると、同じ理屈で、上段や突き技が禁止されている、小中学生に対して、「日本剣
道形」の1本目や3本目を教えることも、不合理きわまりないことになります。
そのため私は、自らの考察を「日本剣道形」は、剣の「術」のかたちを教えようとし
ているものではなく、剣士として人間として学ぶべき「道(目標)」を、剣術のかた
ちに模して教えようとしているのではないかというところからスタートさせました。
そして、ようやくに太刀3本の形についての考えをまとめてみたところです。
小太刀3本の形も、それを「剣術形」としてみれば、現代剣道においては不要な形に
なるかもしれませんが、「剣道形」という観点で見直せば、そこから我々に教えよう
としている何かをつかみ取ることが出来るのではないかと思います。
とりあえず、今の段階では、短い小太刀が長い太刀に勝つということで、一見不利に
見える者が、有利に見える者に勝つ理合い、言い換えれば「不利を転じて有利と為す
理合」、こういったことを教えようとしているのではないかと思っていますが、まだ
完全にはまとめ切れておりません。
今後、多くの方々と意見交換をしながら剣道形の考察を進めるに当たって、EBICOさ
んも、私たちと一緒に、このことについて考えていってくださればありがたいと思い
ます。
返す返すも、この度は失礼なかたちになり、申し訳有りませんでした。
[2002/01/07 01:33:47]
お名前: EBICO
「剣術修行中」さんへ
最後の「剣道は決して私闘に使ってはいけない」と
「剣術の極意中の極意「逃げるが勝ち!」」については良く分かったのですが・・・
前節の部分については、なんとなく感じてはいるのですが
どうも、わたしのおバカな頭では
何故、「竹刀剣道」に、小太刀3本が必要であるのかが
理解出来ませんでした。
すみません、おバカで・・・
「はくどー」さんへ
お忙しい中、私の様な、おバカな疑問にお答え頂けず
以前、挑まれたお稽古・・・
実名が潔いと思っている・・・
最後までお相手しなければ・・・
「はくどー」さんのお起てになったトピックに
おバカな素朴すぎる疑問で、お邪魔してしまい申し訳ありませんでした!
ありがとうございました。
[2002/01/06 23:40:29]
お名前: はくどー
URL
to 剣術修行さん
だらだらとした長文、お読みいただきありがとうございます。
どうも回りくどくて簡潔に書けないところが私の欠点なのですが、おおよその主旨は
読みとっていただくことが出来たようでほっとしております。
さて、「先」の話ですが。
剣術修行さんのおっしゃるとおり、「剣術形」修行の主眼は「後の先」の習得にある
と私も考えています。
「敵がこう来れば、こう対処する」
剣術形は、過去の戦闘の経験から得たあらゆる対処パターンを整理し、体系化し、後
代に伝えようとした、一種のカリキュラムで有ると思います。
ですから、本来は「剣術形」の習得なくして、剣道そのものの修行はあり得ないもの
と考えます。私の好きな中山博道先生も、その口述集の中でそのような意味のことを
おっしゃっています。
ただ、真剣を持っての戦い、いわゆる実戦においては「後の先」の技の完全習得のみ
では「必勝」を確約できません。なぜなら自分の流派の想像し得ない技、自派の流儀
を越えた技で向かってこられたら、対処できない場合があるからです。
もちろん修行が進めば「応用」によって、ある程度の対処は可能です。しかし、この
「応用」すらも、相手の更なる「応用」によって打ち破られる可能性があります。
これでは、やはり「必勝」を確約することは出来ません。
そこで、「先」に対する考え方の転換が求められます。
「敵がこう来れば...」ではなく
「敵がこう来るので...」 そして、そこから更に
もう一歩進んで、
「敵にこう来させて、こう対処する」
という発想です。
これなら敵の行動が事前に予測できるので、完璧な対処が出来、「必勝」を確約でき
ます。
「敵にこう来させて...」というのは、自らの行動によって、敵の行動を引き出す、
導き出す行為です。これが「攻め」です。この「攻め」を持って、敵の行動を自分の
思うとおりに繰ることができれば、常に「必勝」が確約されます。
しかし、自らの「攻め」が、必ずしも自分の思うとおりに相手の行動を引き出させる
ことが出来るとは限りません。
そこで、この「攻め」を確実なものとするため、その習得法として利用されたのが、
防具を着けて竹刀で打ち合うという現代剣道の原型、いわゆる「竹刀剣術」「撃剣」
だったのではないかと考えます。
このため、現代剣道においては、先ず自ら「攻め」ることが重要視されます。
「攻め」がないまま、「後の先」で単に応じるのは「待剣」と称されて忌み嫌われま
す。
また、「攻め」が功を奏して、相手の行動を引き出せれば、現代剣道では、その大部
分の目的が達せられていますので、その後にどこを打つかということは、高段者にな
ればなるほど、あまり問題視されなくなります。むしろ「面と見せて小手」というよ
うな大仰な動作によって、打突の成否にばかりこだわれば、それは「品のないフェイ
ント技」として嫌われます。すなわち、剣道は、あくまで「打って勝つのではなく、
勝って打つ」境地が求められるわけです。
これにより、剣道では「後の先」より、先ず「先々の先」の気位を学びます。
あらゆる生活の場面において「状況の変化に応じて的確に対処する」。これは非常に
大切なことだと思います。しかし、これは「後の先」の考え方です、
より積極的に人間として行動するならば、状況の変化を待つのではなく、むしろ自ら
の行動によって状況を変化させ、その状況の変化に自らの更なる行動を重ね合わせる
ことによって、また新たな状況の変化を自らの意志によって作り上げてゆく。こうい
うことを繰り返してゆくことが、大切なのではないかと考えます。
これが、剣道における「先々の先」の気位という考え方だと思っています。
しかし、もう少し考えを突き詰めてゆくと、「後の先」と「先々の先」は表裏一体で
あることにも気づきます。
「後の先」の技を成功させるには、「先々の先」の気位が必要です。そして「後の先」
の気位は、次の「先々の先」の技へと発展してゆきます。
たとえば、一日の仕事が終わったら終わった仕事を片づけるだけでなく、翌日に備え
て次の仕事の書類や道具を整理しておく。家に帰ってきて、玄関で靴を脱いだら、脱
ぎっぱなしにしないで、出るときのことを考えてつま先を外に向けて揃えておく。夜
寝るときに服を脱いだら、翌朝に着る服を枕元に畳んでおいておく。
「後の先」の行動の延長上に、「先々の先」の気位が必要であることが分かります。
これを学び、知ることによって、やがて剣術が単なる護身術ではなく、人間を生かす
道としての「剣道」に昇華していったものだと私は考えるのですが、いかがでしょう
か。
[2002/01/06 21:39:21]
お名前: 剣術修行中
to はくどーさん。
お説拝見させていただきました。とてもご研究されていること、頭が下がる思いです。
私も一本目の残心がなぜ前に出るのかとても不思議でした。
なるほど、そうかもしれないという思いがいたします。
また、他の多くの方の書き込みを拝見するたびに、見た目の事象からしかものを言わない
自分がとても単純に思えてしまうこともあります。
しかし、Hideさんの説明も何度も受けましたが、どーしても納得できない点があります。
それは「先々の先」の考え方。
私の頭の中にある、「剣術は護身術である」、「剣術の極意は「後の先」」の考え方を抜きに
して中学生レベルの「形」は考えられないのではないかという疑念です。
護身術であるから、こちらから攻撃することは基本的にありません。また「後の先」は弱者
必勝の理。
剣の修行は一生のものです。しかし、護身術であるからには短期間のうちにある一定のレベル
までは持っていかなければ役に立たない。
その両者を両立する理が「後の先」。
そうした意味から中学生レベルの教育に必要なのは「後の先」であって、7本の形すべては
「後の先」なのではないかということです。
それでは、なぜ打太刀が打ち込むのかということになりますが、これは竹刀稽古の場合と全く
逆であって、返されるとわかっていながらも、師の位として相手のレベルに合わせ、シビアな
線をねらってあえて打ち込む。そこに稽古としての「形」の意味合いが出てくるのではない
かと。。。
「先々の先」というのはちょっと高度で難しすぎると思えてなりません。
というのも、私自身いくら剣術の修行をしても、未だ「先々の先」の領域には達しません。
どうしたら「先々の先」がとれるのかどうしてもわかりません。やはり、修行の道は長く
厳しいということでしょうか?
[2002/01/06 18:32:55]
お名前: はくどー
URL
あけましておめでとうございます。
こちらのトピに書かなけりゃ...と思いながらも、昨年末からのどたばたに紛れて
ご無沙汰してしまいました。申し訳ございません。m(_ _)m
さて、昨年は何かと暗い話題ばかりでしたが、そんな中にあって皇太子ご夫妻に愛子
様がお生まれになったことは、とてもおめでたく嬉しいことでありました。
しかも、ご誕生当日のその時刻に、東北電脳剣士会として仙台市の「愛子」という地
名の場所でHide.さんたちと稽古していたのも、また奇遇な縁、不思議な偶然に思え
てなりません。
ところで、お生まれになったのが女のお子さんであったことから、巷では早速皇位継
承に関する法改正の問題が取りざたされております。私も仕事柄、これらに関する資
料等を集めておりましたが、その中で面白いものを発見致しました。
天皇家には、代々伝わる皇位継承の証として、三種の神器というものがあるそうです
ね。
これは日本神話の天孫降臨に際して、天照大神から授けられた三つの宝物(神器)の
ことで、八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、草薙剣(く
さなぎのつるぎ)の三種だそうです。
そして、これら三種の神器は、天皇が国を治める上で大切なこと、すなわち日本国の
政治理念として、鏡は「正」の象徴、玉は「仁」の象徴、剣は「勇」の象徴と言われ
ているそうです。
これを知ったとき、ふと思い出したのは、私の好きな中山博道先生の何かの本で「剣
道修練の意義は「義」「仁」「勇」の三つにほかならぬ」というのを読んだことがあ
ったことです。
ここで「義」というのは「人として行うべき正しいこと」という意味で、まさに「正」
と同義語ですから、先に述べた「正」「仁」「勇」ということと同じなわけですね。
大日本帝国憲法下では、天皇は国家元首ですから、その当時の中山博道先生が三種の
神器にまつわる話を知っていたのは当然と思われますので、上記のお言葉は、このこ
とを踏まえてのことと考えられます。
つまり、中山博道先生は「剣道修練の意義は日本国の政治理念に通じるものである」
というようなことをおっしゃっているわけですね。
実は、「武蔵会」の二刀の教えにも「一胆、二小、三大」というものがあり、これは
一番に大切なことは何事にも動じない不動の心=「ハラ」、二番目に大切なことは相
手を包み込む慈悲仁愛の剣=小刀、そして三番目が敵を真っ向両断する正義の剣=大
刀、という意味です。表現は多少異なりますが、上記に通じるものがあると思い、な
るほど「武蔵会」の二刀剣は、日本国統治の剣、王者の剣なのだなと、ひとり悦に入
ってしまいました。σ(^^)
まあ、自画自賛の余談はこれくらいにしまして(^^ゞ、本題の「日本剣道形」の話に
戻しましょう。
私が「日本剣道形」を考えるに当たって、先ずひとつの前提にしたいことは、先に江
口さんやIZAYOHIさんが書かれていた、「日本剣道形」の原型になった「大日本帝国
剣道形」と、それに先だって行われた文部省主催の講習会に採用されたという三本の
形(以下便宜上「文部省制定形」と呼ばせていただきます。)の制定の経緯です。
IZAYOHIさんらのお話を簡単に総合すれば、明治44年に、当時の中学校の正科に「撃
剣」が加えられることになり、その指導目的や指導方法を統一するために、同年の11
月に文部省主催の講習会が開催され、その場で制定されたのが「文部省制定形」の3
本であり、その後に大日本武徳会がこれに4本目以降を加えて、太刀7本、小太刀3
本の計10本としたものが「大日本帝国剣道形」として大正元年に制定され、更に昭和
56年にこれを現代語に書き改めたのが、現在の「日本剣道形」であるということにな
ります。
つまり、分かり易く書けば、
「文部省制定形(太刀3本)」+「武徳会制定形(太刀4本、小太刀3本)」=「大日本帝国剣道形(太刀7本、小太刀3本)」
であり、この現代語訳版が「日本剣道形」ということですね。
そこで、これを踏まえて、とりあえず「日本剣道形」の1本目から3本目までについ
て考えてみます。
上記の経緯により、現在の「日本剣道形」の1本目から3本目までは、明治の末期に、
当時の中学生に対する正科としての剣道指導の目的のために、文部省が作ったもので
あるということが言えます。すなわち、この形の指導対象は、当時の一般中学生であ
り、決して剣道専門家に対するものではないこと。そして文部省が作ったものである
以上、そこに何らかの教育的意義が盛り込まれているであろうこと。このことを抜き
にしては考えられないと思うわけです。
では、当時の文部省が一般中学生に対して求めた教育的意義とは何だったのか?。
いくら各流各派の剣術形の寄せ集めとは言え、少なくとも、数ある剣道の基本技の中
から、中学生を対象に「相上段からの面抜き面」「相中段での小手抜き小手」「相下
段からの突き返し突き」という固有の技の「かたち」だけを教えているものでは無い
はずだということは分かります。
それなら、なぜ中学生に教える剣道形の1本目が相上段なのか?。
ここで、先に書きました天孫降臨にまつわる「正」「仁」「勇」の教えに着目してみ
ました。
今でこそ「天孫降臨」などという話を学校教育の場に持ち出すと「お前は右翼か?」
と日教組やPTAから袋だたきに遭いそうですが、当時大日本帝国憲法下で国家元首
とされていた天皇と、その天皇による国家統治の理念が、学校教育における剣術形の
理念として、そこに持ち込まれるのは、むしろ当然のことと考えてよいのではないで
しょうか?。
つまり「文部省制定形」3本は、当時の中学生(蛇足ですが、当時の中学生は義務教
育ではなかったと思います。進学率のまだ低い時代にあって、中学に進む者は、いわ
ば日本の将来を支えるエリートたちであったはずです。)に対して、日本国家統治の
理念である「正」「仁」「勇」の考え方を剣術の形に託して教え、それによって日本
国民、日本人としての在り方、生き方を教育しようとしたものではなかったと考えて
みました。
以下、こういう観点から、1本目〜3本目を検証(考察と言うべきか?)してみます。
○「1本目」
上段に構えるのは「正」の象徴です。
古来より「戦い」は「正義」と「正義」のぶつかり合いです。
自分が「正義」を主張して戦うならば、相手も相手なりの「正義」を主張して挑んで
きます。農耕民族である日本人にとって領土の拡張は「正義の行為」でした。互いに
領土を拡張してゆけば、やがて境界線でのぶつかり合いが生じます。ここで勝てば勝
った方が「正義」であり、負けた方は領土を失います。これが「正義の戦い」です。
「正義の戦い」に勝つためには、敵を知り、己を知り、その相互関係を常に知る必要
があります。このことを1本目の形は、剣術における「間合い」の見切りと「先々の
先」の気位を通して学ばせようとしています。
師の位である打太刀は、仕太刀が互いの「間合い(関係)」を見切る観察眼と相手の
動向を見逃さず常に先手を取って対処できる「気位」が充実したのを見て取れば、こ
れを「機」とみて、大きく踏み込みながら仕太刀の両拳と柄もろとも真っ向両断にす
る太刀筋で、結果として打太刀の剣先が届くその最大の「間合い」を仕太刀に教えて
やります。
仕太刀は打太刀の打ち込みとその太刀筋を瞬時に、そしてぎりぎりの見切りでかわし、
そこから踏み込んで自らの太刀が打太刀の頭蓋を割る「間合い」を学びます。
常なる「先々の先」の気位と正確な「間合い」の見切りにより、敵の攻撃に瞬時に対
応して撃退し「正義の戦い」に勝利した瞬間です。
頭蓋を割られた打太刀は、理合上はその場に倒れます。
Hide.さんの解釈や、AAAさんによるところの全剣連解釈では、打太刀はだらだら
血を流しながらその場に立っていることになりますが、そのような状態でありながら、
打太刀が打突直後の剣先を下ろしたやや前屈みの姿勢を保ったままで1歩、2歩と引
くのは、やや不自然さがあります。まだ絶命しておらずに反撃のために後ろに引くと
いうならば、まずは剣先を上げ体を起こすのが自然ではないでしょうか。
そこで、私は、打太刀が仕太刀に打たれたあとに、そのままの姿勢で小さく1歩引く
のは、理合上は切られてその場に倒れたということを表現するための「形の上での所
作」ではないかと考えます。よくチャンバラの芝居などで、切られ役が主人公に切ら
れると、その切られたままの姿勢で後ずさりしながら舞台の袖に消えてゆくというの
を見ることがあります。芝居のお話上では、切られた者はその場に倒れ伏すわけです
が、それでは切られた人間が舞台のそこら中にゴロゴロしていることになり、次の芝
居のじゃまになってしまうために、切られると同時に舞台の袖に引っ込んでゆくわけ
ですね。
観客は、切られ役が舞台の袖に逃げ込んだのではなく、切られてその場で死んだのだ
と解釈して芝居を見ています。
これと同じようなものだとは考えられないでしょうか?。
頭蓋を割られた打太刀はその場に倒れ伏しますが、それを形の上では切られたままの
姿勢で1歩下がるという所作によって表現します。
しかし、倒れただけで絶命しているかどうかは分かりません。
もしかするとまだ息が残っていて反撃してくるかもしれません。
そこで、仕太刀は倒れた打太刀に剣先をつけて「油断のない残心」を示します。
本来なら倒れた打太刀に剣先を向けるのですが、形の上では打太刀は立ったまま1歩
引くだけなので、その顔面に剣先をつけることによって、この「油断のない残心」を
表現します。つまり「かたちの上」では顔面に向けてほんの少し剣先を下ろすだけで
すが、「理合の上」では、倒れた打太刀に油断無く剣先をつける心持ちで行います。
そして、打太刀はここから更にもう1歩、そのままの姿勢を保ったままで後ろに下が
ります。これは打太刀の絶命、いわゆる「死」を表現した所作では無いでしょうか。
打太刀の死を確認すれば、もう反撃される恐れはありません。
そこで、仕太刀は上段に振りかぶります。
この上段にはどのような意味があるのでしょうか。
打太刀は既に死んでいるのですから反撃に対する備えの残心であるはずがありません
し、仮に「備え」ならば下段につけるべきです。
私は、これは「正義の戦い」に確かに勝ったことを表現し、なおかつ自らの正義を改
めて確認するための、いわゆる「勝ち名乗り」の姿勢であると解釈しました。
しかし、先日ある機縁を得て、静岡の井上義彦範士にお会いした際に、井上範士から
は「単なる勝ち名乗りではない」と教えられました。
たとえ「正義の戦い」であっても、人が人を殺すということは悪行である。人間なら
ば、「正義のため」とはいえ、やむを得ず殺人を犯してしまったことによる「懺悔」
の気持ちが必ずなければならない。従って、仕太刀が最後に上段に取るのは、「懺悔」
の気持ちと、奪った命を天に返す「祈り」の気持ちを表現しているのだと教えられま
した。そして、この「懺悔」の気持ちがあるからこそ、2本目の理念に繋がってゆく
のだということです。
さて、その2本目です。
○「二本目」
中段の構えは「仁」の象徴。
「仁」とは、他人を大事にする気持ち。いわゆる慈悲仁愛の心です。
1本目が、互いに正義を主張して、勝利こそ唯一の是とする「戦い」の姿勢で臨むの
に対し、二本目の中段の構えは、1本目で学んだ「間合い」を大切にし、相手との相
互関係を更に重視した、ある意味で防御の構えです。自ら進んで戦いに赴くのではな
く、出来れば戦いを避けたい気持ちが構えには表れています。
しかし、決して「守り」や「逃げ」の気持ちではありません。
構えは静かであっても心は常在戦場。常に相手の動向を注視し、いったんことが起こ
れば、直ちに機先を制して敵を撃破する「先々の先」の気位です。
水に浮かぶ水鳥の身体は構えで足は心という感じですね。
この中段の構えが、剣道の常の構え、基本の構えとされる所以もここにあると思いま
す。
さて、師の位の打太刀は、仕太刀のこの中段の構えと気位が充実したところを見計ら
い、そこを「機」と見て、仕太刀の小手を切りに行きます。「仁」の理念を持つ2本
目の技には、1本目のような殺人の太刀筋はありません。仕太刀が未熟なら腕1本を
切り落とすぞという太刀筋です。
ですから、1本目のような下まで切り下ろす「斬りおろし」の刀法ではなく、腕を切
り落とせばそれで十分という「斬りつけ」の刀法になります。
また、2本目の打太刀を厳密に「小手切りの術」としてみた場合、打太刀は身体を左
に捌きつつ踏みだし、仕太刀の鍔を避けて、斜めから小手に対してより直角に近い角
度で切り付ける方が合理的です。しかし、2本目の形では、打太刀は真っ直ぐに前に
出て、仕太刀の刀身沿いにぎりぎりに小手を切ってゆきます。これでは術理上は仕太
刀の鍔に当たってしまう可能性が強くなります。
そこで私は考えました。
2本目の打太刀の太刀筋は、必ずしも小手切りの太刀筋を教えているものではないの
ではないか。ならば、打太刀はどこを切っているのだろう?。
実は、打太刀は自らの「正中線」を切って見せているのではないでしょうか。
「正中線」というのは、自分のあるべき位置、向いている方向、相手との関係におけ
る前後左右の間合い等の、その全ての基準となるべきものです。
相手のあるべき姿の基準を知ること、そして自分自身の今ある基準を知ること。これ
を知ることが、真に「敵を知り己を知る」ことになります。
打太刀は自らの正中線を切ってみせることで、仕太刀に正中線の位置と役割とその大
切さを教えます。仕太刀は打太刀の正中線切りを身体を斜めに捌くことによって、相
手の正中線から外れたところに身を置くことを学びます。しかし同時に自らの正中線
上から相手を外さないことも同時に学びます。
1本目のように、力と力の真正面からのぶつかり合いの戦いでは、力の勝る方が相手
を殺さなければ勝利を得ることが出来ません。しかし自らの正中線を保ったままに、
相手の正中線を外した位置に立てれば、この時点で圧倒的優位に立つことが出来ます。
この体裁きこそが、武術の基本中の基本とも言えるものです。
正中線を利用した体裁きによって、相手より優位に立てば、そこに心の余裕が生まれ
ます。1本目で生じた「懺悔」の気持ちが、心の余裕に伴って「慈悲仁愛」の心とな
ってよみがえります。
これが「仁」の理念です。
一般的な剣道の基本技では「小手抜き面」が当たり前なのに対して、剣道形二本目が
「小手抜き小手」となっているのは、そこに「仁」の理念、慈悲仁愛の心があるから
です。
面を切って、1本目と同じように相手を切り殺す体勢を作りながらも、面を切らずに
小手を切り落とすのみで勝負を終えます。
相手は死なずにその場に立っていますので、小手を切った体勢のまま「油断のない残
心」を示します。剣先を顔面につけたり上段に振りかぶったりする無駄な動作は必要
有りません。
また、仕太刀の小手切りは、実は仕太刀自らの正中線切りでもあります。
打太刀が教えてくれた正中線を正確な体裁きによってかわし、今度は自らの正中線を
切ってみせる。その結果が「小手切り」という技になります。
更に、1本目が「戦いに勝つための術」を教えている形だとすれば、この2本目は
「術から剣道本来の道に進む」その入り口を教えているとも言えるかもしれません。
術から道へ、剣道の修行は、この2本目の形の修練を通って、剣道本来が目指すべき
「道」へ向けた3本目の修行へと入ってゆきます。
○「三本目」
下段の構えは「勇」です。
「勇」というのは、気力が体中に満ちあふれた状態で、何事にもおそれずひるまず当
たってゆく強い心です。
しかしその「強い心」を表に現してしまえば、それはただの蛮勇になってしまいます。
真の勇「大勇」は、いかなることにも心を動かされず、冷静沈着に対処できる「不動
の心」です。
下段の構えは「構え有って構え無し」とされる「有構無講」の構えと捉えられます。
「戦う」とか「戦わない」とか、「勝つ」とか「負ける」とか。そういうところに一
切とらわれない、「無心の構え」「自然の構え」を表現しています。
心は全く動かない「不動心」です。しかし、心が止まった「止心」ではありません。
相手の心の動きを的確に捉え、刻一刻と変化する周囲の情勢に対して、瞬時に、しか
し静かに決してあわてたり先走ったりすることなく自然に対処してゆく「無心」の心
です。
間合いに接した打太刀は、仕太刀の「不動の心」を試すべく、剣先を静かに上げてゆ
きます。仕太刀はこれに自然に反応して、打太刀の動作にピタリと追従します。
ちょっと余談ですが、剣道形を打つに当たって、打太刀は師の位、仕太刀は弟子の位
ということで、打太刀の動作が先、仕太刀の動作が後ということがよく言われます。
そして、このことから「仕太刀はやや遅れて...」という表現を持って、打太刀と
仕太刀の動作に時間差を持たせるように指導してくださる先生がいらっしゃいます。
しかし、これは違うのではないでしょうか。「仕太刀が後」というのは、仕太刀が打
太刀に先走ることがないという意味で、打太刀より遅れるという意味ではないように
思います。仕太刀の動作が打ち太刀の動作より遅れたら、物理的に言って、仕太刀が
打太刀に勝つことは出来ません。
「仕太刀が後」というのは、ちょうど物体本体とその影のような関係と見ればよいの
ではないでしょうか。マンガアニメでもない限り、影は決して本体より先に動くこと
はありません。しかし本体に遅れることもありません。
打太刀の動作に、まるで影のように追随して対処する。振り払おうとしても決して遅
れることなくピタリとついてくる。こういう状態だからこそ、それが「仕太刀の攻め」
として、活きてくるのではないかと私は思っています。
さて、話をもとに戻します。
中段まで剣先を上げてきた打太刀は、仕太刀の心が全く動じることなく自然に追従し
てくるのを見取った上で、そこを「機」とみて、仕太刀のその「不動の心」を真っ直
ぐ突いてやります。ここで仕太刀の心が動かされ、無駄な動作を見せてしまえば、仕
太刀の未熟です。
しかし、仕太刀は全く動じることなく、打太刀の剣先の届く間合いを的確に見きった
上で、「軽く」入れ突きに萎やすと同時に、仕太刀の心を突き返します。
仕太刀の心を動かすつもりで突いた打太刀の心が逆に動かされ、打太刀は左右自然体
の構えでかろうじて仕太刀の剣先をしのぎつつ後ずさりします。しかし仕太刀の心と
剣先は全く不動のまま打太刀の心と中心を攻め続けます。
位詰めに攻め込まれて、顔の中心にピタリと剣先を付けられた打太刀は完全なる敗北
です。本人ばかりではなく、誰が見ても完璧なる仕太刀の勝利です。しかし、打太刀
の身体はどこも傷つけられておりません。
またまた余談ですが、ここで3本目の形を剣道の試合に見立ててみます。
もし皆さんが審判だとして、3本目の仕太刀の技に旗を上げることが出来ますか。
1本目、2本目ならば、迷うことなく仕太刀の技に旗を上げることが出来ますよね。
しかし3本目では、明らかに仕太刀が勝っているにもかかわらず、現在の剣道競技の
ルールでは旗をあげることが出来ません。
ここが、競技スポーツとしての剣道と武道としての剣道の境目なのではないでしょう
か。
時折、ここやヤフーなどの掲示板で、剣道は武道かスポーツかという論争がわき起こ
ることがありますが、私はこの3本目の形を持ってして、「剣道は人を生かすための
武道である」と言いきれると思っています。
1本目、2本目の修行を通して至った「不動」の境地。その不動の心を持って決して
中心を外さない攻めを見せれば、相手を殺さずとも、傷つけずとも勝利することが出
来る。これが相手を生(活)かして勝つ「活人剣」。
これこそが真の「勇」であり、剣道の修行はここを目指すべきだと言うことを、この
剣道形3本目は教えているのではないでしょうか。
以上のように、大日本帝国憲法下で、当時の中学生教育のために作成された「文部省
制定形」3本は、大日本帝国の国民としてというより、武士として人間としての有る
べき姿、目指すべき境地を教えようとした、とても崇高なものであったように思いま
す。
ところが、歴史の流れは、この剣道形に盛り込まれた「崇高な精神」をないがしろに
して、剣道のその格闘精神ばかりが強調され、闘争心高揚の手段とする戦争への道具
として利用されていってしまいました。
後年、中山博道先生が「剣道形が正しく伝わっていない。今の剣道は形の心がない形
無しだ」と言って嘆いたのは、このようなところにも原因があったのではないかと愚
考します。
さて、ここまで、剣道形1本目から3本目までに関する、私の個人的考察を書いてき
ました。やや強引なこじつけかなと思うようなところもあるかもしれませんが、この
ように考えることによって、私が一番最初に書いた「剣道形に関する数々の疑問」に
対して、ある程度の答えが出せるのではないかと思いましたし、剣道形制定の経緯に
も踏み込むことが出来たのではないかと思います。
はなはだ長文になって申し訳有りませんが、皆様のご意見を賜れば幸いです。
そうそう、最後になりますが、先日ある八段の先生にこのお話をしましたところ、
「正」「仁」「勇」に関する解釈が逆なのではないか?とのご指摘も頂きました。
先生おっしゃるには、「剣」が象徴する「勇」こそが、とにかく勝たねばならないと
言う一本目の理念。そして、「鏡」が象徴する「正」「義」の心が、敵を自らの鏡に
写してとらえる三本目の理念。ということです。
私の解釈は、実は「武蔵会」の教えになぞらえたものだったのですが、なるほど、そ
ういう考え方もあるのかと、改めて再考しているところです。
このあたりのことについても併せてお考えもお聞かせ願えれば嬉しく思います。
[2002/01/06 15:16:40]
お名前: 剣術修行中
to EBICOさん。
剣道形に剣術の利を持ち込むな!なんてご意見の方もおありのようで、これは私の個人的意見
であり、剣道連盟の見解ではないことをはじめにお断りいたします。
まず、剣道は竹刀稽古と形稽古から成っていますが、この2つは相互に補完し合いますが、
どちらか一方のためだけに存在するのではないこと、2つ併せて「剣道」であることを前提条件
として認識する必要性があります。
剣術が護身術であること、剣道と剣術の関連性などについては「剣道談話室」での議論の方を
ご参考に!
竹刀稽古が実戦で使えないことはよく議論されているところです。ここで言う実戦とは刀での
斬り合いという意味ではなく、私たちが日常遭遇するであろう事件・事故のたぐいですね。
「剣術」・「柔術」といった古流武術は見たことがないとなかなかイメージとしてとらえにくい
とは思いますが、剣術の動きから「剣」をとったものが柔術の基本であります。比較的新しい
武術として「合気道」があります。
合気柔術の達人である武田惣角氏の名前くらいは多くの方がご存知かと思いますが、合気道の
吉丸慶雪氏はその著書や講演会で武田惣角氏が小野派一刀流をはじめとする剣術の達人であった
こと、剣術の技(動き)、特に小太刀について研究し、合気にとりいれていったことをを述べ
られています。
前置きが長くなりましたが、合気の「入身」は小太刀の形そのものであり、小太刀の左右の動
きなども太刀の形に比べると非常に「実戦的」・「剣術的」です。
打太刀を電車の中で因縁をつけてきたヨッパライ、小太刀を手刀にみたててイメージしてみて
下さい。ヨッパライの繰り出すパンチを手刀を使って右へ左へと捌き、懐へ入って制する。
喉へ手刀の一発でも入れようものなら、過剰防衛で自分がお縄になりますが。。。
しかし、最近は小学校へ不審者が侵入したり、不穏な事件が多いですからね。
ただ、くれぐれも、剣道は決して私闘に使ってはいけないということ、また、剣術の極意中の
極意「逃げるが勝ち!」をお忘れなく。
以上、とても変わった剣道形小太刀論でした。
[2002/01/06 08:51:13]
お名前: EBICO
みなさま、はじめまして、本年も・・・もう聞き飽きましたよねぇ!
恐る恐るお邪魔します、EBICOです!
「はくどうさん」やその他(すみませんひとからげで)多くの方々には申し訳ないのですが
大体においての剣道をされていらっしゃる方々は一本の竹刀(太刀で)されてますよねぇ?
では、何故、剣道形には小太刀3本があるんでしょうか?
実際の試合とかお稽古で、小太刀だけで立ち向かう場面って無いですよねぇ?
あまりにもおバカな質問で申し訳ないのですが
うーーーーーっむ!わからん!って思いますので
どうかお教え頂ければって思います。
お話の状況を考えもせず
突然割り込みまして申し訳ないのですが・・・
[2002/01/06 00:46:46]
お名前: 江口
To Hide. さん。
そうでした!ココはおせちの愚痴こぼしてる場じゃ
ありませんでした。
>私もたいがい料理好きなのですが、残念ながら、栗きんとんを作ったことがありま
>せんで(^^;
わたしも栗きんとんなんて年にいちどくらいしか
つくりません。でも おもしろいですよ。
つくり方なんかは亡母のやりかたより、ずいぶん変えてしまってますが。
>「形のように」というのは、
> 1.形のように理合正しく
> 2.形のように姿勢正しく
>と言うことではないでしょうか(^^)
いちばんたいせつで、あたりまえのことが
見えなくなりそうでした。うーっ、いかんっ!!
To はやぶさ さん
寒そーですねー。
東京で のそのそ暮らしてるわたしには
そちらの 猛吹雪、
ほんのすこし うらやましい気もします。(叱られそうだけど)
早速ですが・・・
>つまり形は原則、後の先ですし、適切な間合いを取らないとうまく打てませんよね。
>形の理合は竹刀稽古に十分活用できますね。
>現代剣道でも気が満ちた状態で相対した場合、先に出た方が負けですよね。それはいわば自殺>行為に近い。簡単に返されたり乗られちゃいます。相手を引き出して後の先で決めるのが一番>安全な必勝法ですが、これは形の理合そのものではないでしょうか。
おっしゃること、痛いくらい ずっしりきます。
それに、それは自分の稽古のうえでの課題でもあり、
悩みでもあるものですから。
剣道をめぐる言葉はいつも、抽象的で、自分なりに
とらえた と思ってもすぐ、くすんでしまったりして
むつかしいです。
たとえば “先”というコトバの意味にしても、自分のなかで、
自身の剣道の発育段階に応じて変わってきているように思えます。
・・・それはそれとして、
日本剣道形について、自分は一〜三本目までは「先々の先」であると
教わってきましたし、理解したくて、こだわってもおりました。(“疑う”能力も
ないですし) けど、いまなんとなく千葉周作とその弟子であった高坂昌孝の問答
を思いだしました。(この話 こういう「問答」でなくても千葉周作の語ったこと
として他にもあるようですが) ・・・引用の野暮、お詫び・・・
○昌孝問テ云フ、他流ニ先々ノ先ト申シ教フルコトアリ。右ハ此ノ方ヨリ
打タン突カント思フ処、返ツテ向フヨリ其ノ先ヲ掛ケ打チ来リ処ヲ、
此ノ方ヨリ又ソノ先ヲ掛ケ打ツコトナリヤ。
師答テ曰ク、全ク左様ノコトニテハ無ク、此ノ方ヨリ打タン突カント思フ
処ヲ、向フヨリ其ノ先ヲ掛ケ打チ来リ又突キ来ルヲ、受ケ或ハ払ヒ或ハ
切落シナドシテ先ノ気ヲ失ハズシテ、後ノ先ニテ勝ツヲ云フコトニテ、
決シテ此ノ方ヨリ打タント思フ処ヲ向フヨリ其ノ先ヲ掛ルヲ又此ノ方ヨリ
其ノ先ヲ打ツナドト云フ六ヶ敷キコトニテハ無ク、全ク後ノ先ト云フル
ナルベシ。〈『千葉周作先生直伝 剣術名人法』明治17年・高坂昌孝著〉
コトバの迷路にはまってしまうのがこわく、
考えることを避けてきたことが自分にはたくさんあります。
“先”というのもそうですし、いいえ、それどころか自分は
“理合”というコトバからも、逃げてはホッとしてるん
ですからしょうもないですよね・・・。
>「形は稽古のごとく稽古は形のごとく」とはよく年配の高段者の先生がいうセリフですね。
>出典は知りませんが、これを私は形の理合で竹刀剣道をやりなさいということだと理解してい>ます。
とんでもないことを云うようですが
理業ハ車ノ両輪ノ如シ。というコトバに
近づける気がします。
・・・理ヲ味ハヒ考ヘテハ稽古ヲ為シ、
稽古ヲ為シテハ理ヲ考ヘ・・・でありたいと
思いますけど、
「理」がわからないー!!
>わたしがかつて所属した道場では(いまは休会中)、稽古は原則一刀流の組太刀と、応用とし>ての3尺4寸の竹刀を用いた切り返しばかりでしたが、たまに地稽古になるとみんな動きは現代>剣道になってしまうんですね。
>飛び込み面と突きだけの迫力のある、ただし単調な稽古でした。
井戸の中の蛙みたいな自分には
やっぱり、うらやましい気もします。
左足のところでは根無し草だし
こちらではカエルだし・・・
先が思いやられますなー。
[2002/01/05 14:26:34]
お名前: Hide.
to 江口さん
>はぁ。失敗の理由としては、
(・・・後略・・・)
私もたいがい料理好きなのですが、残念ながら、栗きんとんを作ったことがありま
せんで(^^; かような細かい点を列挙されましても、コメントのしようがありませ
ん。申し訳ありませんでしたぁm(_ _)m
>実はわたしも行った記憶がありません。
>あのパンフレットは亡父が行った時のものだと思います。
今年はご一緒しませんか?(^^)
> 「稽古は、かた のようにやれ」という意味の
>言葉を目にしたことがあるのですがどういうふうに
>理解すれば よいのかわからなくなってきます。
「形のように」というのは、
1.形のように理合正しく
2.形のように姿勢正しく
と言うことではないでしょうか(^^)
>が無しって なんだか、
>下ごしらえをサボったわたしのおせちみたいじゃないデスカ。
コメントのしようがありません(笑)
[2002/01/04 21:57:09]
お名前: はやぶさ
あけましておめでとうございます。
正月明けで戻ったら新潟市は猛吹雪でした。ブルッ!
to江口さん
「形は稽古のごとく稽古は形のごとく」とはよく年配の高段者の先生がいうセリフですね。
出典は知りませんが、これを私は形の理合で竹刀剣道をやりなさいということだと理解しています。つまり形は原則、後の先ですし、適切な間合いを取らないとうまく打てませんよね。
ところが竹刀剣道ですとこうした基本原則をある程度無視しても当たることはあるんですね。
でもそうした剣道では不老の剣には到達できないし、生涯運動としての剣道を楽しむこともできないんじゃないかと。
「稽古は形のごとく」でよく陥る誤解は「形を打つような動き方で竹刀剣道もすべきだ」というものではないでしょうか。
はっきりいってこれ無理ですね。
形はあくまで3尺2寸で重さが1キロある日本刀を使って、屋外など、どんな環境でも練るように編まれていますが、現代剣道は3・9の軽く長い竹刀を使ってスプリングの利いた平らな床の上でやりますから質的に同じ動きになりえない。
わたしがかつて所属した道場では(いまは休会中)、稽古は原則一刀流の組太刀と、応用としての3尺4寸の竹刀を用いた切り返しばかりでしたが、たまに地稽古になるとみんな動きは現代剣道になってしまうんですね。
飛び込み面と突きだけの迫力のある、ただし単調な稽古でした。
古流を重視した道場でもこうですから、竹刀剣道だけの道場では形のような動きで稽古をすることは不可能でしょう。
ただし、形の理合は竹刀稽古に十分活用できますね。
現代剣道でも気が満ちた状態で相対した場合、先に出た方が負けですよね。それはいわば自殺行為に近い。簡単に返されたり乗られちゃいます。相手を引き出して後の先で決めるのが一番安全な必勝法ですが、これは形の理合そのものではないでしょうか。
[2002/01/04 18:01:36]
お名前: 江口
To HIDE. さん
>今年のお節ちは、栗きんとんなしだったのでしょうか?(笑)
はぁ。失敗の理由としては、
さつま芋はやっぱり「金時」を使うべきでした。
年末の整理を兼ねて、残ってるのを使っちゃおーと思い
その、残っている「紅あずま」(金時は紅あずまより
値段も高いのですよ)を使ったのですが、
くちなしの実2コも割り入れて水煮したのにぜんぜん
こがねいろにならなくてがっかりでした。
できあがりがあおぐろきいろいのになって、大変頭にきたので
ウィスキーをかけて元旦に出しました。
なんとか(?!)味は おいしかったですよ。色は悪いままでしたが。
夫はぶーぶー言いましたが、ウィスキーに負けたようです。
あともうひとつの失敗の理由はさつまいものあく抜きの時
お水を一回しかとりかえなかったことかも・・・
やっぱ、仕込みって大切だわ
と思いました。
↑
(毎年同じことを言っているのでした)
> 今年は2月10日に日本武道舘で開催されるようですね。
>こうした関係の議論が盛んになっておりますので、今まで一度たりとも見に行った
>ことがなかったのですが、ビデオカメラを担いで勉強に行こうかと考えております
実はわたしも行った記憶がありません。
あのパンフレットは亡父が行った時のものだと思います。
>>補助訓練体系
>>のひとつ(であるべきもの)として
>>竹刀打ち込み稽古を・・・というふうには
>>考えられませんでしょうか?
>うーん、ちょっと難しいですね。というより、少なくとも今の日本剣道形を巡る状
>況はそういう土壌にはありません。そうだとするならば、竹刀剣道に沿った新しい
>剣道形の制定が必要になるのではと考えます(^^)
ええ。なんとなくですが わかります。
けれど、(だとしたら、と言ってよいのかどうかも
わからず)教えていただきたいのですが・・・
どこかで(間違えだったらお詫びします)
「稽古は、かた のようにやれ」という意味の
言葉を目にしたことがあるのですがどういうふうに
理解すれば よいのかわからなくなってきます。
それにしても
>補助訓練体系
が無しって なんだか、
下ごしらえをサボったわたしのおせちみたいじゃないデスカ。
[2002/01/03 20:01:55]
お名前: Hide.
「剣道形の素朴な疑問を集めろ」トピにお集まりのみな様、あけましておめでとうございます!
今年も、剣道形について、このトピを通じてさらにさらに深く考えていけるよう、
みな様の多くのご意見や疑問等をお寄せいただければうれしく存じますヽ(^.^)ノ
to AAAさん
>「打方は師の位、仕方は弟子の位」という定義付けで、根本原則ではありません。
ははぁ、そう言うものですかねぇ。師の位の者が、正しい理合にて打ち込むものを
理法にしたがって勝ちに行く術を学ぶのが「形稽古の根本原則」と考えておりまし
たが・・・(^^;
>また、Hideさんの考え方からすると、むしろ逆に師の暗黙の教えを弟子は無視し
>て良いことになりませんか。それとも弟子の位だけを学べば事足りるとお思いで
>しょうか??
とんでもない! 私の記述がそのように読み取れたとしたならば訂正しなければな
りませんね(^^)
弟子たる仕方に勝ち方を教えるためには、当然打方はしっかりとした運足・呼吸・
間合・理合というものを理解している必要があるのは自明の理です。それがあっ
て、弟子たる仕方が正しい勝ち方を学ぶことが出来る。
日本剣道形にしても、それが素晴らしく引き締まった形になるかどうかは、打太刀
の技量にかかっているといっても過言ではないと思います。まさに、AAAさんが
おっしゃるように「師と弟子が一本の糸のような関係」を保って打たれるべきもの
です。「格調は高いがつながりが感じられない形」というのを数多く目にしました
が、まさにこの部分においての打太刀の力量不足がそのほとんどと思われました
が・・・(^^)
>また、1本目の仕太刀は下がっているのではありませんよ。応じているのです。
アハハ、むろんそうでしょうが、形の上ではさがっています。でも「手繰り打ち」
という理ではない。意解はあくまで「先々の先」です。もし、相上段においてさが
らないことを教えようとすることがポイントならば、「形(かたち)の上でもさが
らない形(かた)」にした方がよかったかもしれませんね(^^)
>ですから、「利がある」から「理になる」とはなりません。むしろ、理法は利に
>優先する、といっても過言ではありません。また、剣道形のどの解説書の文言に
>も利の内容的なものは出てまいりませんし、先人から正しくそのように伝えられ
>たこともありません。
>Hideさんの先師である渡辺先生はそのようにおっしゃっておられたのですか??
ちなみに、渡辺先生は先師ではありませんで現在も私の師匠です。亡くなっており
ますが・・・(^^)
先生はそうしたことを言葉で私にお示しになりませんでしたし、現在お尋ねするわ
けにはまいりませんので、先生のお考えが如何ばかりであったかにつきましては残
念ながら明言することは出来ません(^^;
あくまでも私の意見ですが、「理法」は「利」を追求した結果導きだされた法則で
あり、「理」のない「利」は存在しないはずです。最初に「理法」が存在したので
はなく、「利」が存在した。この世に存在するすべての公式定理は、アルキメデス
もピタゴラスもまず目に見える現実がありそこから導きだされたものでしかありま
せん。
形稽古にしても、先人が命のやり取りという「利の追及」の中からまとめ上げたも
のでして、「利」を「理」よりも低く観ることは先人の命を懸けた修業を軽視する
ことにはなりはしませんでしょうか?(^^)
したがって私は「利にも心は存在する」し、「利」を正しく学ぶことが「理」につ
ながり、ひいては剣道の理念という大道に沿った修業に通じるものと愚考いたしま
すヽ(^.^)ノ
>古流の流儀を持ち出して、剣道形へのあてはめをすれば、先人
>が口で伝えてきた部分を変えてもよいということなのでしょうか。
その、「剣道形の口で伝えられてきた部分」っていうのがわからないからこそ、こ
のトピで考えているわけです。剣術を勉強されていらっしゃる方や居合道を学ばれ
ている方のご意見は多いに参考にすべきと考えますが(^^)
>あなたの剣道形には、はたして偏りがないと言い切れるのでしょうか??
私見ですが、剣道形にも「守破離」は存在すると思います。「守」の段階では解説
書通り、足さばきやカラダの動きを間違えないように学ぶのがよろしいでしょう。
「破」の段階では動きとらわれず、形に含まれた理を考え打つのがいいでしょう。さ
らに「離」の段階では独自の解釈で「自分らしい日本剣道形を打つ」ことが望まれ
てもいいのではないでしょうかヽ(^.^)ノ
形は良く「真行草」に打つなどといわれます。書でいうところの楷書・行書・草書
と同じでしょうか。形の理を楽しみ、打太刀仕太刀渾然一体となった形の世界を表
現する。そんな楽しみ方をしたいと私は考えておりますが(^^)
>他のカキコをみるにつけ、こうした気持ちから、先に総論、各論とわざわざ分け
>て、挙げかかったわけです。分け方はともかくとして、その内容は言葉で詳細は
>伝わらずとも、研究熱心な方々ばかりですので、その大方の趣旨は読めてとれる
>と思います。宜しくお願い致します。
そうですね、たいへん興味深く拝読させていただきました(^^)
重ねてお尋ねしますが、これは、どこかに出展があるものなのでしょうか? それ
とも、AAAさんがお師匠さまからお教えを受けられたことをまとめられたものなの
でしょうか?
出展があるものでしたら出展先をお示しいただきますとうれしく思います。
また、AAAさんが口伝をまとめられたものであれば、もう少し分かりやすく書いて
いただきますと、その趣旨も多くの方に伝わりやすいのではと思われます(^^; 剣
道や形について文章で表現するのは恐ろしく難しいことであるのは重々承知です
が、表現が抽象的すぎて理解できない部分があり、ROMされていらっしゃる方も戸
惑っておられる方が少なくないと思われます(かくいう私がそうなものですから(^^;)。
さらに、6本目以降、小太刀についてもカキコいただけますとうれしく思いますヽ(^.^)ノ
to 剣術修行中さん
>まず、剣術をはじめ、多くの日本武道では仕太刀から学ぶのは鉄則。剣道も例外
>とは考えにくいのですが。
そうですねぇ。私もこのご意見に同感です(^^)
剣道も今でこそ集団一斉指導の形態をとることの方が多くなってしまいましたが、
本来は師匠と弟子の間で一対一による分習法が主流であったはずです。形稽古はそ
の最たるものと思われます。
それが、昇段審査の課題になったあたりからおかしくなってきた。同じ技量同志の
ものが形を打ちあうのだから、「師」とか「弟子」が置き去りにされて来てしまっ
たというのが現状なのではないでしょうか・・・(^^;
>「形(かた)」におけるみかけの「形(かたち)」は本来何の意味もなささいの
>ではないでしょうか?みかけは相上段ですが打太刀は中段でも、八相でもかまわ
>ない、要は「見切り」と仕太刀上段にとったときの「気構え」を教えていると素
>直に考えるのが普通な気がします。
おっしゃる通りです。
ただ、それでは形稽古にならない。打太刀仕太刀決められた構え&動きの中から、
形に込められた「理法」を学んでいく努力が必要なわけですね(^^)
>その「剣道形」を皆で無い知恵を絞り合いよい方向へ持っていこうのいうのがこ
>のコーナーの趣旨ではないでしょうか?
解説書に書かれていない部分の考察をするのがこのトピの目的です。解説書は万人
に剣道形の方法を正しく伝えることを目的に書かれているようですが、残念なが
ら、私も含め、ここにお集まりのみなさんの疑問を解決するには至っておりません
(^^; その本来口伝であったであろう部分を考察し、より日本剣道形の真実の姿に
迫れればと思っておりますヽ(^.^)ノ
>剣道形は解説書と全剣連の講習会に従って打てば間違いはありません。
アハハ、そんなふうに結論づけちゃったら、このトピを立てた意味がなくなっちゃ
います。剣術修行中さんには、剣術を勉強している方の視点で、「剣道形かくある
べし」というようなカキコをお願いしたいんですから(^_-)〜☆
to 江口さん
>この暮れの大掃除で本棚の整理をしていたら
>昭和58年2月13日に開催された (財)日本武道館・日本古武道協会 主催
>第六回全日本古武道演武大会の時のパンフレットが出てきました。
今年は2月10日に日本武道舘で開催されるようですね。
こうした関係の議論が盛んになっておりますので、今まで一度たりとも見に行った
ことがなかったのですが、ビデオカメラを担いで勉強に行こうかと考えております
(^_-)〜☆
>補助訓練体系
>のひとつ(であるべきもの)として
>竹刀打ち込み稽古を・・・というふうには
>考えられませんでしょうか?
うーん、ちょっと難しいですね。というより、少なくとも今の日本剣道形を巡る状
況はそういう土壌にはありません。そうだとするならば、竹刀剣道に沿った新しい
剣道形の制定が必要になるのではと考えます(^^)
>(今、栗きんとんを失敗したところ)
今年のお節ちは、栗きんとんなしだったのでしょうか?(笑)
[2002/01/02 15:13:09]
お名前: 剣術修行中
to AAAさん。
いろいろと申し訳ありません。
剣道形は解説書と全剣連の講習会に従って打てば間違いはありません。
その他のコメントも剣術を基準に考えた私の間違いです。
剣道形は私のような剣術家からは予想もし得ない崇高なものなのですね。
[2001/12/31 15:15:49]
お名前: AAA
to 剣術修行中さん並びに Hide.さん
まずもって、先の「(大きくでられましたね!(^.^))」いった部分等々に対し、お詫び申し上
げねばなりません。大変失礼いたしました。平にお許しください。m(__)m
to 剣術修行中さん
>その「剣道形」を皆で無い知恵を絞り合いよい方向へ持っていこうのいうのがこのコーナー
>の趣旨ではないでしょうか?
趣旨は十分わかっております。
正しく戻すことには同感です。ただし、剣術修行中さんのおっしゃる「よい方向」とはいったい
どういうものなのでしょうか。古流の流儀を持ち出して、剣道形へのあてはめをすれば、先人
が口で伝えてきた部分を変えてもよいということなのでしょうか。お尋ねします。
>んー。どうもAAAさんのおしゃっていることは少し偏っている気がしてなりません。
では、何が偏ってないのでしょうか。私には、このお言葉からは、「私がやる流儀を基にした
剣道形は正しいが、流儀に基づかないあなたの剣道形は間違っていますよ。」とも受け取れ
ます。あなたの剣道形には、はたして偏りがないと言い切れるのでしょうか??
>「剣の理法」についてもいろいろと抽象的なことを言われている割には、最初の書き込みの
>各論で言っていることはやたらと実戦的。
ともいわれておりますが、抽象的、実践的ではよろしくない、ということでしたら、どう書け
ばよろしかったのですか??
でしたら、このサイト上で、あなたの偏りのない剣道形をもうすこし、具体的、実践的にお
示しいただけたら幸いです。
>AAAさんだけに限りませんが、「解説書」のようなものを持ち出して「ここに書いてある」
>という方がおられますが、「解説書」はいわば「伝書」に過ぎないと思います。「伝書」で
>言う「口伝」の部分、これは流儀を秘密にする意味もありますが、文章では表現しきれない
>直接手取り足取り教えなければ伝えられない部分。それが解説書には当然ですが記述されて
>おりません。口伝を正しく引き継ぐ方がいない以上、手厳しく言えば「失伝」していること
>になります
剣術修行中さん、もう一つお尋ねします。
剣道形における口伝は、このサイト上でどのように表現したらよろしいでしょうか。
これは、口伝だ、これは、そうじゃない、と区分する判断基準がおありのようですから、
示していただきたく存じます。そうすれば、こちらもそれに従って記述し直します。
また、
>「解説書」はいわば「伝書」に過ぎないと思います。
ということですが、解説書はいつから伝書扱いになったのでしょうか??
我々は、この解説書と全剣連の講習会により形を打っているのではなかったのですか??
それと、もう一つ、
>四本目の相打ちですが、私は当初、打太刀が強く打ち、それを仕太刀が受け止めると考え、
>そうすれば形が引き締まると思ったのですが、よくよく考えると強い打ち込みに対しては
>この状況では切り落とせばよいわけで、わざわざ受け止める必然性は見あたりません。
とありますが、これは口伝でしょうか?教えてください。
>まず、剣術をはじめ、多くの日本武道では仕太刀から学ぶのは鉄則。剣道も例外とは考
>えにくいのですが。師がすべきことを先に覚えるというのはどういうことでしょうか?
私は、「師がすべきことを先に覚える」とはいっておりません。それと、あなたのいう、仕
太刀だけから学べば、打太刀はどうでもよい(?)というのが「鉄則」とは、考えにくいの
ですが...。かたくなに仕太刀のみにこだわる理由は、少なくとも剣道形の上では存在
していない、とおもわれますがいかがでしょうか??
>次に、「理念」という言葉にとらわれすぎていませんか?
>「理念」はいわば「到達すべき目標」に過ぎません。剣術400年の歴史に比べれば剣道
>はまだ赤ん坊同然。まして剣術全盛の明治時代に現代と同じ考え方をしていたとも思えま
>せん。
>当時は剣術の延長線上にあったと考えるのがごく自然ではないでしょうか?
私には、その辺のところは、すみませんが、わかりません。
>一本目の「対上段戦」とは何か?
>「形(かた)」におけるみかけの「形(かたち)」は本来何の意味もなささいのではないで
>しょうか?みかけは相上段ですが打太刀は中段でも、八相でもかまわない、要は「見切り」と
>仕太刀上段にとったときの「気構え」を教えていると素直に考えるのが普通な気がします。
表面だけにかたくなにこだわらず、私心を入れず、素直な気持ちで自分の尊敬する師の教えを
受け入れることも大切であろうかと思います。「見切り」と仕太刀上段にとったときの「気構
え」のみとする考え方ですと、形の内容も浅く、抽象的なものとなり、先に書いた形本来のポ
イントからずれてしまい、形本来の「伝えたいこと」が伝わってこなくなります。そうすると、
剣道形は内容が希薄だとか、剣道形はやっても意味が無い、おもしろくないなどという話が出
て参ります。
このことは、私自身も非常に残念でなりません。
>二本目の「二段三段の技」というのも「理」なのですか?
私は、先にも述べておりますが、「理」とは申し上げておりません。「ポイント」としております。これらの「ポイント」は、形を打つ上で非常に大事なものばかりでございます。
ここ最近、古来から伝わる学習上の「ポイント」を抜きにして、これが全てだと、剣道形全体
を語ってしまうのは非常に残念でなりません。他のカキコをみるにつけ、こうした気持ちか
ら、先に総論、各論とわざわざ分けて、挙げかかったわけです。分け方はともかくとして、
その内容は言葉で詳細は伝わらずとも、研究熱心な方々ばかりですので、その大方の趣旨は
読めてとれると思います。宜しくお願い致します。
[2001/12/31 13:13:55]
お名前: 江口
この暮れの大掃除で本棚の整理をしていたら
昭和58年2月13日に開催された (財)日本武道館・日本古武道協会 主催
第六回全日本古武道演武大会の時のパンフレットが出てきました。
パラパラめくってみると
(特別演武)として、「五行の形 剣道」・東京高師五行の形
というのがあったようです。
解説には、
演武者 打: 範士九段 中野八十二 仕: 範士八段 小森園正雄 とあり、
由来として、
高野佐三郎範士が東京高師体育科剣道主任教授在任中
小野派労(ママ)流組太刀を教えやすく、学びやすいように
研究・工夫・創成して発表され教授されたものである。
特徴 この形は気の働きに重点をおき、足の運びなどについては
とくに定められたものはなく、相手との関係を真に活かす
相互作用の生きた使い方に生命があり丸く角ばらず、柔らかいが
内に強いものを含んだ極めて荘重にして迫力のある使(ママ)い方を
するところに特長がある。
と記され、演武の写真が2つ掲載されています。
そんなに珍しいものではないのでしょうが、自分は
初めて知りました。これが AAAさんがおっしゃっていた、
また、IZAYOHIさんが左足のトピ(でしたっけ?)で
おっしゃっていた東京高師五行の形なのかなぁと
思ったのですが・・・。
(『近代剣道史』はもっていないので まだ確かめては
いなかったのであります。)
To はやぶさ さん。
>それに私は新聞記者なので相手が誰でも気軽にお会いしてお願いできる特技がありま
す。
>どんな偉い人にも物怖じしませんから(笑い)。
はやぶささんのご職業をうかがって、
もとは新聞記者であった小説家
子母澤 寛 を思い出しましたよ。
彼は、多数の作品を生みましたが、直心影流ゆかりの人々
(勝海舟は有名ですが榊原鍵吉、島田虎之助、 男谷精一郎、
そして、彼の尤も愛した海舟の父、小吉 など)をも描きましたよね・・・
あの小説の数々の魅力は、作者が、彼と同時代の剣道(剣術)家(たとえば
山田次朗吉)たちとわたりあうこと(こーゆーのがスゴイ!)によって
醸し出されたものといってよいのではないかと思います。
自分は槍術の高橋泥舟を描いた『逃げ水』が
大好きですけど・・・。あー、これは余計でした。
>その点、日本剣道形はただ形を打つだけで、補助訓練体系がありませんから、これだけ
>やっても
>あまり役立たないのではないでしょうか。
そうかもしれません。けど、
>補助訓練体系
のひとつ(であるべきもの)として
竹刀打ち込み稽古を・・・というふうには
考えられませんでしょうか?
>今度、東京に戻ったら法定を修行しなおそうと思っています。(いま私は新潟に赴任中
>で普通の剣道しかやっていませんので)
直心影流ゆかりの人々の旧跡も 東京には
いくつもありますよー。
To Hide. さん
>江口さんも、そんなふうに、日本剣道形を「新しく感じてみる」という試みをされ
>てみてはいかがでしょうか(^^)
はい。
↑
(江口、ここでも居着いている。)
あ、勝手にこの場をお借りして・・・(ちゃっかり)
みなさま、素敵な新年をお迎えください!
来年もよろしく お願いいたします。
(今、栗きんとんを失敗したところ)
[2001/12/31 13:04:26]
お名前: 剣術修行中
んー。どうもAAAさんのおしゃっていることは少し偏っている気がしてなりません。
まず、剣術をはじめ、多くの日本武道では仕太刀から学ぶのは鉄則。剣道も例外とは考えにくい
のですが。
>私はむしろ、師と弟子が一本の針と糸のような関係を保ち、師が弟子に負ける形をとること
>で、あらゆる術理を暗黙に教授していると考えております。
>確かに、打太刀は仕太刀のように先々の先こそとりませんが、理論的裏付けのもと、きちん
>と打つべき時、所に思慮し、打突していますよね。
とご自分でも書かれていますが、師がすべきことを先に覚えるというのはどういうことでしょ
うか?
次に、「理念」という言葉にとらわれすぎていませんか?
「理念」はいわば「到達すべき目標」に過ぎません。剣術400年の歴史に比べれば剣道は
まだ赤ん坊同然。まして剣術全盛の明治時代に現代と同じ考え方をしていたとも思えません。
当時は剣術の延長線上にあったと考えるのがごく自然ではないでしょうか?
「剣の理法」についてもいろいろと抽象的なことを言われている割には、最初の書き込みの
各論で言っていることはやたらと実戦的。一本目の「対上段戦」とは何か?
「形(かた)」におけるみかけの「形(かたち)」は本来何の意味もなささいのではないで
しょうか?みかけは相上段ですが打太刀は中段でも、八相でもかまわない、要は「見切り」と
仕太刀上段にとったときの「気構え」を教えていると素直に考えるのが普通な気がします。
二本目の「二段三段の技」というのも「理」なのですか?
AAAさんだけに限りませんが、「解説書」のようなものを持ち出して「ここに書いてある」
という方がおられますが、「解説書」はいわば「伝書」に過ぎないと思います。「伝書」で
言う「口伝」の部分、これは流儀を秘密にする意味もありますが、文章では表現しきれない
直接手取り足取り教えなければ伝えられない部分。それが解説書には当然ですが記述されて
おりません。口伝を正しく引き継ぐ方がいない以上、手厳しく言えば「失伝」していることに
なります。
その「剣道形」を皆で無い知恵を絞り合いよい方向へ持っていこうのいうのがこのコーナーの
趣旨ではないでしょうか?
そのための議論は議論で大いに結構ですが、
>(大きくでられましたね!(^.^))
なんて言い方はあまい良いとは思えません。
[2001/12/31 09:12:06]
お名前: AAA
to Hideさん
>打方は師の位、仕方は弟子の位とした剣道形の根本原則(?)から外れているように思わ
>れますね。先々の先で読みきっていて、なおかつ「相上段はさがらず」の気位を教えるの
>であれば、前に出て勝つ形にするべきと思われますね(^^)
>ということは、これも「打太刀から学ぶ」という考え方になっているのでしょうか?(^^;
>私はたの古流を存じ上げませんので、それらと比較することは出来ませんが、そうしたも
>のを下敷きに編纂された大日本帝国剣道形が「打太刀の技から学ぶ」という考え方をもて
>いるとは考えにくいのですが・・・(^^;
一本目だけでなく、二本目も打太刀から学ぶべきことは確かにありますね。
そもそも、Hideさんのおっしゃる「打方は師の位、仕方は弟子の位とした剣道形の根本原則」
は、「打方は師の位、仕方は弟子の位」という定義付けで、根本原則ではありません。
(大きくでられましたね!(^.^))
また、Hideさんの考え方からすると、むしろ逆に師の暗黙の教えを弟子は無視して良いこと
になりませんか。それとも弟子の位だけを学べば事足りるとお思いでしょうか??
ここら辺りをもう少し、Hideさんにお尋ねします。
私はむしろ、師と弟子が一本の針と糸のような関係を保ち、師が弟子に負ける形をとること
で、あらゆる術理を暗黙に教授していると考えております。
確かに、打太刀は仕太刀のように先々の先こそとりませんが、理論的裏付けのもと、きちん
と打つべき時、所に思慮し、打突していますよね。
また、1本目の仕太刀は下がっているのではありませんよ。応じているのです。
>本当にそういう概念が存在しないといいきってしまっていいのでしょうか? また、言い
>きる根拠は如何なるものなのかお示しいただけると幸いです(^^)
>さらに、「強く」「弱く」・・・などを「利」とされておりますが「理」があってこその
>「利」と思われますが、いかがでしょうか?(^^)
>「利がある」から「理になる」と考えることは間違った推論方法なのでしょうか?
>もしそうであるならば、私も自分の「剣道形ストーリー」を根本から考え直さねばなりま
>せん(^^;
当時の剣道形制定にあたった高野佐三郎氏も著書『剣道』のなかで、二天一流の『五輪書』
を随所に引用し、理論立てて説明しておられるようですが、その原典となった『五輪書』風
の巻に、「利」と「理」の相違をはっきり説明しております。
利は相対的、流動的であるのに対し、理法は絶対的、固定的です。だれがやっても、どこで
やてっもその法に従えば、必ずそうなるものが理法で、逆に、利は身長が高い者の方が、低
い者に比べて有利であるとか、長い竹刀の方が、短い竹刀より有利であるとか、重い竹刀の
方が軽い竹刀に比べて有利であるとか、強く打った方が、弱く打った方より有利であるなど、
挙げればきりがありません。これらは、全て相対の次元のもので、明らかに理法とは、比べ
ものにはなりません。レベルが違います。
ですから、「利がある」から「理になる」とはなりません。むしろ、理法は利に優先する、
といっても過言ではありません。また、剣道形のどの解説書の文言にも利の内容的なものは
出てまいりませんし、先人から正しくそのように伝えられたこともありません。
Hideさんの先師である渡辺先生はそのようにおっしゃっておられたのですか??
お尋ねします。
>全剣連が制定した「剣道の理念」は、大日本帝国剣道形が編纂されてから半世紀以上たっ
>てから作られたものですので、その当時にそうした思想が形に込められていたかどうかは
>はなはだ疑問です。
とのことですが、理念制定との時間差は否定できませんが、理法を理念として掲げている以
上、疑いをはさむ余地はないものと思われます。
理念とはいわばピラミッド上の頂点を示す根本原理です。この下位に先論をはじめ、懸待一
致論などがあり、さらにその下位には、術理があり、さらに、これらの有機的関連を図るた
めのメソッドとして修行論(稽古法)があると考えております。
ですから、利という相対的な問題は、ひとそれぞれでことなるもので、こうした次元の異な
るものを剣道形に取り込もうとすると、先人の意思が不明瞭になるばかりか、誤った道に迷
い込む危険性が生じてくるわけです。利に心は存在しません。心を明らめる道から外れない
よう祈るばかりです。
Hideさん、よろしいでしょうか??
[2001/12/31 03:01:57]
お名前: Hide.
to 江口さん
>そして、日本剣道形の稽古のなかでこんなふうなことを
>感じたことが、わたしには、まだ、ないのです。
同感です。多くの剣道愛好家が、江口さんと同じような思いを抱いていると思いま
す。私も大学時代に小野派一刀流を学ぶまでは、日本剣道形にさほど深い魅力を感
じませんでした。つまり、私の拙い竹刀剣道の経験などでは、日本剣道形の「動
き」から「理」を考えることなど思いもつかなかったわけです。
しかし、小野派一刀流の組太刀を勉強したおかげで、私ははじめて「形の動きに俳
味(理)がある」ということを知ることになります(笑) そこが私の日本剣道形
への目覚めです。どうしたら動きが本物(らしい)ものになるのか・・・その心を
考えながら形を打つうちに、自分の中で「剣道形ストーリー」が出来上がってき
た。
そして今回、くしくも自分のサイトでこうして日本剣道形について考えることが出
来たことは、私にとりましてたいへんうれしいことなんですヽ(^.^)ノ
江口さんも、そんなふうに、日本剣道形を「新しく感じてみる」という試みをされ
てみてはいかがでしょうか(^^)
to AAAさん
>?仕太刀からではなく、打太刀の動作から学びましょう。
うーん、打方は師の位、仕方は弟子の位とした剣道形の根本原則(?)から外れて
いるように思われますね。先々の先で読みきっていて、なおかつ「相上段はさがら
ず」の気位を教えるのであれば、前に出て勝つ形にするべきと思われますね(^^)
>先の取り(先々の先)は応じ技だけでなく、仕掛け技にもあることは、
>Hide.さんも攻めのセオリーなどで既にご存知のはずです。
ということは、これも「打太刀から学ぶ」という考え方になっているのでしょう
か?(^^;
たしかに小野派一刀流でも、打方の動作を中心に組太刀の名前が決められているも
のがなくはありません。前の方からいくつかご紹介すれば、「鍔割」「下段の霞」
「上段霞」「拳之払」・・・などなど。しかし、大方のものは仕方の勝ち技に対す
るネーミングです。勝ち方を教えるために編纂された形ですから、当然といえば当
然なのですが。
私はたの古流を存じ上げませんので、それらと比較することは出来ませんが、そう
したものを下敷きに編纂された大日本帝国剣道形が「打太刀の技から学ぶ」という
考え方をもているとは考えにくいのですが・・・(^^;
>東京高師 高野佐三郎氏です。
>何かと疑問がおありのようですので、剣道指導体系をご覧になるのも一つの方法
>ですね。
この「剣道指導体系」なるものは、高野佐三郎先生がかかれたものなのでしょう
か? 現在でも手に入るものですか?(^^)
>剣道形には、強く当てる、弱く当てる、受け止める、切り落とすなどという概念
>は存在しません。さらに、強く、弱く、長い、短い、軽く、重くは「利」の問題>であり、「理法」の問題ではありません。
うーん、本当にそういう概念が存在しないといいきってしまっていいのでしょう
か? また、言いきる根拠は如何なるものなのかお示しいただけると幸いです(^^)
さらに、「強く」「弱く」・・・などを「利」とされておりますが「理」があって
こその「利」と思われますが、いかがでしょうか?(^^)
>理念には、「『剣の理法』の修練による人間形成の道」とあります。
>ですから、剣道形では、ただひたすら相手を制することのみです。問題は、相手
>を切り込んで制するか、または、切り込まずに制するかの違いでしょう。
うーん、全剣連が制定した「剣道の理念」は、大日本帝国剣道形が編纂されてから
半世紀以上たってから作られたものですので、その当時にそうした思想が形に込め
られていたかどうかははなはだ疑問です。
と申しますのも、「高野×中山」は、多分に実戦を感じさせる形に映りますもので
すから(^^)
>他の古流の「利」を持ち込んでも何の問題解決にもなりません。
うーん、我々には他に考える手だてがないんですよ(笑) 「利がある」から「理
になる」と考えることは間違った推論方法なのでしょうか? もしそうであるなら
ば、私も自分の「剣道形ストーリー」を根本から考え直さねばなりません(^^;
to はやぶささん
>江口さんが古流に比べて日本剣道形に物足りなさを覚えるのはひとつにはこうい
>う訳があると思います。
>つまり、古流は一刀流であれば組太刀のほかに、ひたすら相手と切り落としを繰
>り返す打ち込み練習や走りこんでの切り落としなど基本訓練がありますし(形の
>稽古よりこちらのほうがはるかに時間をかけます)、法定も形を打つその前に息
>を止めての運足、上段からの運足を伴う打ち込みなどに時間をかけます。
なるほど、それはありそうですね(^^)
たしかに日本剣道形を勉強するにあたって必要な補助訓練体系というものは存在し
ませんね。逆に言うと、学校教育の中でばらつきが出ないように編纂された形とい
う宿命があったからこそ、特殊な補助訓練体系を必要としない形が組まれたとも考
えられはしませんか(^^)
to 剣術修行中さん
>強く打つように見せながら軽く当て、相手の反応(強く打ってくるかどうか)を
>見て次の攻めに転じる手法は古流でよく見かけます。
この切落しに部分は、「互いに五分」とありますが、「高野×中山」を見ますとど
うもそうではありません。打方が面に打ち込んでくるのに対し、仕方の中山先生は
右脚と左足を入れ違えて相打ちに合わせています! したがって、間合が適性に保
たれております(^^)
この動作から「理」を考えてみますと、仕方は剣術修行中さんがおっしゃった通
り、「軽く合わせ相手の反応を伺う」というのが一番当てはまっているように思わ
れますヽ(^.^)ノ
[2001/12/30 23:36:55]
お名前: AAA
氏名は、aではなく、AAAの誤りです。すみません。
[2001/12/30 12:27:11]
お名前: a
to 剣術修行中さん
>四本目の相打ちですが、私は当初、打太刀が強く打ち、それを仕太刀が受け止めると考え、
>そうすれば形が引き締まると思ったのですが、よくよく考えると強い打ち込みに対しては
>この状況では切り落とせばよいわけで、わざわざ受け止める必然性は見あたりません。
>ここではやはり、互いにサッと剣を交える程度に軽く当てるのが良いのでしょうか?
>強く打つように見せながら軽く当て、相手の反応(強く打ってくるかどうか)を見て次の
>攻めに転じる手法は古流でよく見かけます。AAAさんの説かれる攻めの失敗や予測し得ない
>事態とは考えにくいのですが。。。
剣道形には、強く当てる、弱く当てる、受け止める、切り落とすなどという概念は存在しま
せん。さらに、強く、弱く、長い、短い、軽く、重くは「利」の問題であり、「理法」の問題で
はありません。
理念には、「『剣の理法』の修練による人間形成の道」とあります。
ですから、剣道形では、ただひたすら相手を制することのみです。問題は、相手を切り込ん
で制するか、または、切り込まずに制するかの違いでしょう。
剣術修行中さん、あなたにも古来から正しく伝わる剣道形を正しく後世に伝える責務があり
ます。他の古流の「利」を持ち込んでも何の問題解決にもなりません。
また、四本目は、互いに十分な気勢で相手の正面に打ち込むもので、相手の刀に当てにいく
ものではありません。斜め打ちにならないよう、遠間から、まっすぐ正面を一拍子で打ち下
ろします。(切り結びの交差点は、互いの眼の高さです。)
しかし、双方が同じ気位であるため、相打ちとなります。
その後、「互いの刀身が鎬を削るようにして」、自然に中段となるわけです。(中間の攻防動作)
このとき、仕太刀は、ただ中段に返ったように思われがちですが、実はこここそが「後の先」
=コマ体になっている状態です。間合いもつまり、もはや次の相手の出方が読めない状況に
なっているわけです。体はやわらかく、出方に応じて千変万化できる体でなければいけませ
ん。
見てから、頭で考えて、ああこうか、では間に合いません。「おい」、「はい」という間に髮の
毛一筋も入れない、禅気、即座の対応が要求されてくるのです。
「ここにいきますよ〜。」「はいわかりました〜。」では遅いわけです。
よろしいでしょうか??
to はくどーさん
全剣連より1本目の残心の時点では、相手はまだ絶命しておらず、血をだらだらながしなが
ら、最後の力を振り絞って、いつ反撃されてもおかしくない状態なので、残心も含め、最後
まで気を緩めず、しっかり付け込んでから(打太刀の顔の中心を突き刺すように気勢で圧し
ながら)残心を取るように、という回答をいただいております。
よろしいでしょうか??
[2001/12/30 12:25:27]
お名前: 剣術修行中
四本目の相打ちですが、私は当初、打太刀が強く打ち、それを仕太刀が受け止めると考え、
そうすれば形が引き締まると思ったのですが、よくよく考えると強い打ち込みに対しては
この状況では切り落とせばよいわけで、わざわざ受け止める必然性は見あたりません。
ここではやはり、互いにサッと剣を交える程度に軽く当てるのが良いのでしょうか?
強く打つように見せながら軽く当て、相手の反応(強く打ってくるかどうか)を見て次の
攻めに転じる手法は古流でよく見かけます。AAAさんの説かれる攻めの失敗や予測し得ない
事態とは考えにくいのですが。。。
[2001/12/29 23:59:35]
お名前: はやぶさ
to江口さん
江口さんはいまは亡きお父さんを本当に好きなんですね。そんな気がします。
さて、古流の師弟関係ですが流により、人によりさまざまではないでしょうか。
ただ、その流派の高弟を目指す直弟子は結構厳しい関係、つまり師への奉仕が必要でしょう。
技を習うというより、人格の薫陶を受ける覚悟がないと本物は受け継げないでしょう。
私の場合、一刀流も法定ももともと、それ自体を学ぶというより、自分の現代剣道に役だてたい、というのが入門の動機で、やっているうちに良さに気づいただけです。
それに私は新聞記者なので相手が誰でも気軽にお会いしてお願いできる特技があります。
どんな偉い人にも物怖じしませんから(笑い)。
一刀流は20年前、警視庁のk先生について5年間学びました。先生は笹森順造師の免許皆伝です。初め剣道をお願いしていたのですが、先生が一刀流の木刀で切り結びをやっているのを見て
お願いしました。毎週1,2回、昼間仕事の合間にマンツーマンで走りこみの切り落としを相手していただきました。
その後は縁あって禅の師家の先生に一刀流の組太刀と法定を教えていただいています。この方は小川忠太郎先生から一刀流の皆伝を受けています。
江口さんが古流に比べて日本剣道形に物足りなさを覚えるのはひとつにはこういう訳があると思います。
つまり、古流は一刀流であれば組太刀のほかに、ひたすら相手と切り落としを繰り返す打ち込み練習や走りこんでの切り落としなど基本訓練がありますし(形の稽古よりこちらのほうがはるかに時間をかけます)、法定も形を打つその前に息を止めての運足、上段からの運足を伴う打ち込みなどに時間をかけます。
その点、日本剣道形はただ形を打つだけで、補助訓練体系がありませんから、これだけやっても
あまり役立たないのではないでしょうか。
法定についてはあまり偉そうなことをいう資格はないのですが、これをやると身体中の呼吸が入れ替わったようで実に気持ちいいですね。無声で呼吸法がない一刀流より稽古後の気分ははるかに優れています。特に4本目の長短一味は呼吸を踵まで下げる形ですから本当に素晴らしい。
今度、東京に戻ったら法定を修行しなおそうと思っています。(いま私は新潟に赴任中で普通の剣道しかやっていませんので)
[2001/12/29 17:11:47]
お名前: AAA
>「総論」はともかくとしても、「各論」は疑問の残るものが少なくありません。
>たとえば一本目ですが、
・・・・・・・・・・・(省略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>とありますが、隙がないのに打ち込む「理」が不明です。また、
「対上段戦では、まず下がることなく、逆に、相手を相打ちの気持ちで切り崩しに
かかることを教える。」
>とありますが、仕太刀はさがって抜いております。形はさがっているが、気持ちは
>さがらないということなのでしょうか? 疑問が残ります(^^)
?(1本目)打太刀は、本来でしたら胴でもどこでも打っていけるはずですが、仕太刀
の激しい気迫に押され、打っていくことができません。さらに、仕太刀は3歩目で先
々の先を取りにいき、面に誘ってくるわけです。そこで、打太刀は両拳もろとも切り
崩しにかかろうとするわけです。この切り崩し方、相打ちの精神をまず学びましょう。
この相打ち=捨身=あずけることがすすめていかないと、技の稽古もすすめていけま
せんよね。
?仕太刀からではなく、打太刀の動作から学びましょう。
>また、二本目(三本目にもありますが)ですが、
>二段三段の技、(小手の誘いと面の誘いの攻めによる)応じ技全般の習得。
>とありますが、どの部分が「二段三段の技」なのか不明です(^^;
二段三段の技〜先の取りを入れて、小手ー面の一拍子の打ちなど。
先の取り(先々の先)は応じ技だけでなく、仕掛け技にもあることは、
Hide.さんも攻めのセオリーなどで既にご存知のはずです。
>三本目には、
>*日本剣道形の習得後は、五行の形を学ぶこととされている。
>ですが、誰によってどのようにそう「された」のかをご存じでしたらお教えくださ
>い(^^)
東京高師 高野佐三郎氏です。
何かと疑問がおありのようですので、剣道指導体系をご覧になるのも一つの方法ですね。
剣道観そのものが全く変わり、世界の奥深さと広さが改めて感じられることと思います。
[2001/12/29 15:14:31]
お名前: 江口
To はやぶさ さん。
>それと剣道界って大先生には、(とくにこちらが無名で段位が低い場合)、気楽にものを
>聞きにくい雰囲気がありますしね。
現在の 古流の師弟間の雰囲気はいかがですか?
とても興味があります。
わたしは実際に古流に入門して習ったということは
皆無なのですが直心影流修行していた亡父から、
昔(ほとんど無理やり というかんじで)
法定の真似ごとをさせられ、
また、先輩から、ほんのすこしですが
小野派を稽古させて(ちょっぴりです)
いただいて、感じたことが、ずっと頭から
はなれないままでおります。
技については忘れてしまったのですが
(いいかげんなヤツなのであります)
法定には四つのうちの 最初のハッソウハッパ
(「八相発破」でした)という中に
「諸腕」という印象的なものがありました。
打太刀が水平に差し出す剣を仕太刀が上段から
“打ち”下ろす というもの。
「天地を真っ二つにするつもりでやれ」といわれました。
(これが、わたしはぜんぜんできないままでした。)
このとき打太刀は仕太刀の手の内を試しているのだと
聞かされた記憶があります。また、これは振り上げ振り下ろしの
確かさを試されているものでもありましょう。
亡父との思い出を思い出すと「法定」は
技の理合以前のことを教えている気が
しております。まず「法定」から始まるとともに、
「とう」とか「刃挽き」とか・・・「丸橋」にいたるまで
結局はそれらの基本であり、それらの質を左右するものと
いえるのではないでしょうか。
「法定心得」の五箇条の最後に
・・・後来習態の容形を除き
本来清明の恒体に復する・・・というコトバを
みつけたのは ごく最近なのですが、気が重くなるような・・・
どうでもいいけど ピュアになれってことでしょうか?
また、小野派の組太刀では
やっぱり最初の「一つ勝」というのの
“切り落とし”で 「刃筋」の大切さを
思い知らされた記憶があります。
「刃筋」が正しくなければはじまらないんだとか
それを左右する体の備えとか手の内、e.t.cを意識させるものが
形のなかに、「最初に」あるということを感じ、
竹刀剣道では気づかなかったことを新たに知らされた
思いがいたしました。
そして、日本剣道形の稽古のなかでこんなふうなことを
感じたことが、わたしには、まだ、ないのです。
[2001/12/29 11:14:59]
お名前: Hide.
to AAAさん
はじめまして、いちに会の管理人のHide.といいます。よろしくお願いします(^^)
長文のカキコ、恐れ入ります。たいへん興味深く拝読させていただきましたヽ(^.^)ノ
>ここに、昔から伝わる剣道形の大綱を書きとどめておきます。(表現方法は違い
>ます。)
(・・・後略・・・)
なるほど、「昔から伝わる」ということは、このカキコには何か出展がお有りなの
ですね。もし出来ましたら、出展をお教え願えますとありがたいのですが(^^)
「総論」はともかくとしても、「各論」は疑問の残るものが少なくありません。
たとえば一本目ですが、
>打太刀:どこにも打ち込む隙がない為、仕太刀の攻めにより、両拳もろとも、一
>刀両断する。
とありますが、隙がないのに打ち込む「理」が不明です。また、
>対上段戦では、まず下がることなく、逆に、相手を相打ちの気持ちで切り崩しに
>かかることを教える。
とありますが、仕太刀はさがって抜いております。形はさがっているが、気持ちは
さがらないということなのでしょうか? 疑問が残ります(^^)
また、二本目(三本目にもありますが)ですが、
>二段三段の技、(小手の誘いと面の誘いの攻めによる)応じ技全般の習得。
とありますが、どの部分が「二段三段の技」なのか不明です(^^;
三本目には、
>*日本剣道形の習得後は、五行の形を学ぶこととされている。
ですが、誰によってどのようにそう「された」のかをご存じでしたらお教えくださ
い(^^)
その他、挙げればまだまだ疑問は尽きないのですが、とりあえずAAAさんの次のカ
キコを拝見してからにしたいと思いますヽ(^.^)ノ
[2001/12/29 10:19:45]
お名前: AAA
横レスですいません。
ここに、昔から伝わる剣道形の大綱を書きとどめておきます。(表現方法は違います。)
〈総論〜剣道形の体系的学習〉
1 剣道形は、修行の段階に応じて、大きく2段階あります。
(前提)まず、互いに「おおよそ九歩」の間合いを前進3歩、後退5歩を正確に、同じ
歩幅で、最後の足まできちんと引き付ける練習。
ここで、まず歩幅の「数合わせ」を学びます。
(第一段階)
【太刀の形】有形の先々の先〜これは先の気位で前進の3歩めを大きく取り、かつ、
剣先の動きをもって、攻めて、溜めて、相手を崩して打突します。
後の先〜自分の体軸を中心にコマ体をつくり、相手の動きに間髪を入
れずに、反応し、もって後天的反射神経に磨きをかける学習です。
【小太刀の形】「入身(有形の攻め)=仕種」をまず、学んだ後、「入身とならんとす
るを=気配(極小化=無形の攻め)」を学習します。1本目を今の2
つに分けて学習すると良いでしょう。(大日本帝国剣道形と日本剣
道形の違い)
これらが荒々マスターできましたら結構です。
気配の学習?(1本目のみで説明。)3歩目は左足をゆっくり引き
付け、かつ、剣先でゆっくり相手の右拳に付け込みにいきます。
(第二段階)
【太刀の形】無形の先々の先〜これは先の気位で前進の3歩めを大きく取り、かつ、
気攻めをもって、攻めて、溜めて、相手を崩して打突します。
構え=攻めとなるよう極小化を図り、かつ、後の先と表裏一体の関係
作りを目指します。
【小太刀の形】気配の学習?(1本目のみで説明。)3歩目は左足を素早く引き付
け、かつ、剣先でゆっくり相手の右拳に付け込みにいきます。
(各論〜個々の学習)
構え、残心には、攻め(付け込み)が内蔵されており、かつ、精神面を浄化させるためにも、
非常に大事なものですが説明は省きます。
1本目〜主として、対上段戦での鉄則を教授。
ポイント:打太刀:どこにも打ち込む隙がない為、仕太刀の攻めにより、両拳
もろとも、一刀両断する。
対上段戦では、まず下がることなく、逆に、相手を相打ちの気持ちで切り崩し
にかかることを教える。
対中段戦も同様、「捨身=相打ち=あずける」鉄則を教える。
2本目〜主として、先の取り方(勝機の捉え方)を教授。
ポイント:仕太刀、機を見て抜き小手を切る。
二段三段の技、(小手の誘いと面の誘いの攻めによる)応じ技全般の習得。
3本目〜主として、位詰めを教授。
ポイント:仕太刀、入れ突きに萎やし、位詰め。
気攻め、体攻め、動作の攻めの一致により攻めの充実を図り、かつ、二段三
段の技の習得を目指す。(一本打ちで終わらない=「気をつなぎ、体をつなぐ。」)
*日本剣道形の習得後は、五行の形を学ぶこととされている。
4本目〜主として捨身、コマ体を教授。
ポイント:相打ちの後、返して面
捨身は前述のとおり。コマ体は、攻めの失敗と打突後の失敗など、予測でき
ない事態に即座に対処することで、相打ち直後の打突や下がる相手が反撃に
出たときの打突や攻めたときの相手の予想外の攻撃への打突(対応)の反復
学習。(後天的反射神経の練磨)
5本目〜主として、対上段戦での構え方、攻め方の基本、摺り上げ技、面の基本打突
を教授。
ポイント:平晴眼の構えと攻め、摺り上げて面
平晴眼の構えと攻めの基本の習得。摺り上げ技の習得。基本の面打ちの習得。
疲れたので、また、こんどにさせてください。では。
[2001/12/29 04:54:29]
お名前: Hide.
to 親馬鹿一刀流さん
>いえ、晴眼にあわせずに打ち太刀は剣先を下げた状態、仕太刀は晴眼の形になっ
>てから元に戻ります。ただ一端停止するのではなく流れるような動きをイメージ
>しています。
なるほど、了解しました(^^)
>2本目は斬りつけているので残心を示して元に戻る。
>3本目は斬りつけていないので残心ではなくいつでも突けるぞという姿勢を見せ
>てギリギリまで、相手を制しながら元に戻る。
ハイ、この考え方はなかなか説得力がありそうですねヽ(^.^)ノ
私の「重心説」よりもいいかもしれません(^^)
to 凪さん
>Hideさん 間違えました。高倉清?ではなく、斎村五郎?とのでした。
なるほど。「斎村×持田」の日本剣道形はあまりに有名です。あの、妙に風の強い
日に撮影されてるやつでしょ(^^)
>タイトルは 達人の秘術と剣聖の心 です。他に、美と栄光の剣士たちの心?
>や、鬼の剣士?というか誰かの剣道の日記みたいなのもありました。
「達人の秘術と剣聖の心」はたぶん私が持っているやつだと思います。「美と栄光
の剣士たちの心」「鬼の剣士」はわかりませんねぇ(^^;
あ、もし、27日にくにさんのところに来られるなら、サングラス持ってきてくだ
さい(^_-)〜☆
to はやぶささん
一本目に関しては、私がこの掲示板ではくどーさんにご説明申し上げている理合で
はご納得いただけませんでしょうか?(^^)
四本目はおっしゃる通り、脇構えから打太刀を誘い出すわけです。しかも、刀身が
隠れて長さが良く見えません。最初に観ているはずとは行っても、真剣勝負で間合
に接したとき打太刀はどうしても疑心暗鬼になり、それで不十分な間合から声も出
さず打ちに行ってしまうのです。もし、仕留めるつもりなら、最初から掛け声をか
けて斬りにいっているはずですから(^^)
>日本剣道形は一見、入門形に見えて実はかなり難解な形なのではないでしょう
>か。そして一番問題は形そのものよりもそれを正確に解釈して教えられる先生が
>少ない(竹刀の打ち合いが強い人はたくさんいますが)ことのように思えます。
まさにしかりですね。
「方法」を教えてくださる方はたくさんいらっしゃいますが、「理合」を解説し
「なぜ?」に答えてくださる先生は皆無です。きっと、こうした思索が行われてい
ないからだと思われます。
みなさんからの様々な見解をいただきまして、少しずつ「なぜ?」が少なくなって
くるといいと考えておりますヽ(^.^)ノ
[2001/12/26 09:37:52]
お名前: はやぶさ
Hideさん、江口さんレスありがとうございます。
調子に乗って日本剣道形についてもう少し書かせてもらいます。私が日本剣道形について最初に感じた疑問は(相当前なのでいつだったか忘れましたが)一本目の「面抜き面」の理合なんです。
打ち太刀左上段、仕太刀右上段の相上段から間合いに入るや、打ち太刀が仕太刀の面を地軸まで真っ二つの勢いで切り下ろすと、仕太刀はこれを少し後ろに余してすかさず抜いて面を打つ。
面抜き面は私の剣道人生の中で一度も決めたことも(小手抜き面はかつて良く使った)、人が決めるのを見たこともない技なんですね。なぜこれが一本目なのか?長いことこれが最初にして最大の疑問でした。
一歩譲ってこれが必勝の太刀筋を配した形ではなく、機先を制して打つ機会や間合いの感覚を練る形だと理解しても疑問が残るんです。それは相上段同士の立会いでは物理的に面に隙はなく、通常は相手の左小手をどう捕らえるかがすべてだからです。私自身、昔、試合ではよく上段を取ったのでそう確信していました。
この疑問については後年、井上正孝先生が雑誌で「打ち太刀は直接、仕太刀の面を切るのではなく、仕太刀の左こぶし越しに面を切る」と解説しているのを見て少し納得しましたが、それまで誰からも納得のいく説明を聞いたことがありませんでした。
4本目の仕太刀の脇構えの理合も同様です。これは隠剣とも言いますが、私が受けた説明は「相手に自分の太刀の長さを隠し迷わすため」の構えというものでした。しかし、真剣勝負の場合、9歩の間合いから始まるとは限らず、それ以前に相手の姿を捉えた時点で武器は観察しているはずですからこうした解釈は苦しいと思っていました。
脇構えの理相いは自分で小野派一刀流をやってみてすぐわかりました。脇構えは自分の左肩を相手にさらしておびき出す捨て身を示す構えなんですね。高上極意5点の「妙剣」は脇構えから青眼で出てくる相手の打ち込みを引き出して、張って乗って制する技です。通常、剣道では双方が互角の気で相対している場合、我慢できず先に打っていったほうが負けですから、脇構えは相手を引き出す都合のいい構えなんです。でもどの先生からもこうした納得のいく説明がなかったんですね。
まあこれは私の日本剣道形体験の一部ですが、日本剣道形は一見、入門形に見えて実はかなり難解な形なのではないでしょうか。そして一番問題は形そのものよりもそれを正確に解釈して教えられる先生が少ない(竹刀の打ち合いが強い人はたくさんいますが)ことのように思えます。
それと剣道界って大先生には、(とくにこちらが無名で段位が低い場合)、気楽にものを聞きにくい雰囲気がありますしね。
[2001/12/26 02:23:47]
お名前: 凪
Hideさん 間違えました。高倉清?ではなく、斎村五郎?とのでした。
タイトルは 達人の秘術と剣聖の心 です。他に、美と栄光の剣士たちの心?
や、鬼の剣士?というか誰かの剣道の日記みたいなのもありました。
いずれも一万円くらいです。
[2001/12/25 23:15:43]
お名前: 親馬鹿一刀流
TO Hideさん
>互いに晴眼で合わせてから元の位置に戻るとした考え方ですね。
いえ、晴眼にあわせずに打ち太刀は剣先を下げた状態、仕太刀は晴眼の形になってから
元に戻ります。ただ一端停止するのではなく流れるような動きをイメージしています。
>しかし、それだと同じような体勢にありながら小太刀二本目では「右足から」の説
明がつきません。このあたりはどのような見解をお持ちでしょうか?(^^)
2本目は斬りつけているので残心を示して元に戻る。
3本目は斬りつけていないので残心ではなくいつでも突けるぞという姿勢を見せて
ギリギリまで、相手を制しながら元に戻る。
と捉えています。
[2001/12/25 08:25:02]
お名前: Hide.
to 親馬鹿一刀流さん
>まず、剣道形には何歩という決まりは無いと習っております。
そうですね、私もとくに「どちらの足から」とか「何歩」とかといったことにこだ
わる必要がないと思うんです(^^)
ただ、初心者に教えるにはあまりアバウトだと間合と呼吸がまったく合わなくなっ
てしまいますので、便宜上決められているのだと思います。ですから、間合・呼吸
があっていれば、足の細かい間違いなどを鬼の首を取ったように言い立てる必要は
ないと思うのですがねぇ(笑)
>つまり左半身で剣先をつけてから、体を開いて右半身になるまでは刀は相手から
>離れません。
つまり、互いに晴眼で合わせてから元の位置に戻るとした考え方ですね。それは私
もはくどーさんへのレスで試みている考察です。
しかし、それだと同じような体勢にありながら小太刀二本目では「右足から」の説
明がつきません。このあたりはどのような見解をお持ちでしょうか?(^^)
>道場破り(一手ご教授願うの立場)と師範代です。
>道場破りは一本目から七本目までことごとく負けるのですが、「まだまだ」と
>言って負けを認めません。
(・・・後略・・・)
うーん、これは新解釈に基づくストーリーですねぇ。面白いことは面白いのです
が、やはり「師弟の位」が逆転しているので、私にはちょっと馴染みにくいです
ね(^^;
>剣道形の成り立ちと足運びについては、また今度書かせていただきます。
ご期待申し上げておりますヽ(^.^)ノ
[2001/12/24 10:27:41]
お名前: 親馬鹿一刀流
最近忙しくROMもままならない状態でやっと最後まで読みましたのでカキコします。
剣道形については年々新しい発見がありまだまだ勉強が足りないと自分で思っています。
未熟者ですが、習ってきたものと私の考えとを合わせて書きます。
まず、剣道形には何歩という決まりは無いと習っております。
剣道形の解説書にもどちらの足から進むとか戻るとは書かれていますが、切り込むのは
間合いに接したらというような表現だったと記憶しています。
例えば一本目も2歩目で打太刀が切りかかっても良いと考えています。
師匠は、弟子に教える訳ですから、歩数ではなく打ち間に入ったら切り込まれる事を教え
弟子はいつでも対応できるように修行するわけです。
先々先の先で攻めを効かせれば、かなわないと思った相手はいちかばちか捨て身で切りか
かることもあると解釈します。
小太刀3本目の足の事ですが、解説書の原文通りとしたで正解と思っています。
理由は、仕太刀が戻るときに前足になっている左足から戻るのは、剣先(刀)をつけたま
ま相手を制し続けるためと理解しています。
つまり左半身で剣先をつけてから、体を開いて右半身になるまでは刀は相手から離れませ
ん。(2、3歩でとありますので2歩で止まった場合は説明しにくいですが、剣先をつけ
るときに左足を前にだすのだと思います。足を交差したままとは思えません。)
打太刀は仕太刀が左足を引き終わるまで動けず、これ以上抵抗できないと観念して形が終
わります。
ストーリーを創作してみました。
道場破り(一手ご教授願うの立場)と師範代です。
道場破りは一本目から七本目までことごとく負けるのですが、「まだまだ」と言って負け
を認めません。
師範代は「まだ頑張るか」と言って「それでは小太刀で勝負してやるから、それでも勝て
なかったら修行しなおして来い。」と言います。
さあ小太刀との勝負です。
結果は皆様ご存知の通り、最後は剣先を突きつけられて精も根も尽き果て、傷だらけ血だ
らけで「参りました」となります。
剣道形の師匠と弟子の位と逆のようですが、この師範代は長年自分の大師匠から稽古をつけられてきたことを実践しただけだったのです。
そして道場破りは、直ぐに弟子入りして、仕太刀の技を修行します。
さてここで大事にしたいのは、小太刀三本目の解釈です。
私は短い得物でも、技、気力で制し、斬らずとも相手に「参った」言わせられるだけの修
行を積みなさい。最後は無手でも相手が出来るようになりなさいという事と解釈していま
す。
竹刀での稽古でも、叩き付けるのではなく、Hideさんが言われる相手よりちょっと強くと
上の方には、打つ前にかなわない事を悟った上で、自分の稽古の為に返されるのを覚悟で
打ち込む稽古をしたいです。
剣道形の成り立ちと足運びについては、また今度書かせていただきます。
[2001/12/21 20:45:35]
お名前: Hide.
to はやぶささん
>形は成り立ちで次の2つに分かれます。
>?流祖が生死を賭けた戦いの中から必勝の太刀筋を整理し、後日体系化した実践形
>?流儀に必要な錬体、気合、間合いなどを養成・習得するするために編んだ形
>私の見るところ?の代表が一刀流、?の代表が法定です。
なるほど、そういう見方もあるんですね(^^)
>日本剣道形と同じ生い立ちに警視流の形がありますが、警視流は鞍馬流など古流
>各派の形をほぼそのまま採用し、10本にまとめたものです。個々の形には独自の
>風格があります。
>その点、日本剣道形は各派の形を協議で修正して編んでますので、個性に乏し
>く、全体を貫く思想が見えにくいのです。
フムフム、「基本の技」の編纂されたものとしてもなんか妙な感じを受けるのはそ
のためでしょうか・・・。
>中山博道は自らが編集に参加しながら日本剣道形には不満だったらしく、後年、
>自ら新しい剣道形編成を試みましたが、やはり流祖が命がけのなかから発明した
>古流各派の形には及ばないといって断念しました。
ホホウ、そういう事実があったのは知りませんでした(^^;
>私自身は以上の疑念を持ちながらも日本剣道形はよく練習していますが、この形
>だけで満足していては本物に迫れないのではとも感じています。
おっしゃる通りです。
日本剣道型が辿ってきた不幸な生い立ちが、古流にその流れを汲んでいながら中途
半端な産物になってしまったことは非常に残念です。
しかし、現代、我々は現実にこの形を打たねばなりません。どうせ打つからには
「審査のための形」にはしたくないとだれもが考えているのではないでしょうか。
むろん、はやぶささんがおっしゃるように、専門家や高段位になれば己の教養とし
ても古流を学ぶ必要性もありましょうが、一般の剣道愛好家は日本剣道形をやるし
かありません。であるなら、どのように「日本剣道形の理合を考え実践していく
か」という思索がなされてもいいのではないでしょうか。それが、我々のこうした
話し合いの出発点でもあります(^^)
どうか、はやぶささんの長年にわたる小野派一刀流の勉強の成果を、「日本剣道形
の理合を考える」ということにもご活用いただけると、私どももうれしく思いま
すヽ(^.^)ノ
to 凪さん
>持田盛二、高倉清の屋外での演舞のビデオもありましたが、一万なものでしばし
>見送りです(^^;
うーん、その組み合わせの剣道形は見たことがありませんね。
なんというビデオに収録されているかご存じですか?(^^)
to 江口さん
>結局、鎬あるものを どう使っていいものか、自分は
>わかっていないのでしょう。
いやぁ、それは私も同じことですよ(^^;
名人達人は、丸い竹刀を「鎬があるかのごとく扱う」などという話を伺いますが、
私もそんな域に達したいとは思いますが、ムリだろうなぁ・・・( -o-) フゥ
>>虚実を確かめながら攻め入る足
> とはどういう足なのですか?
右、左に歩みを進めながら、お相手の裏・表、あるいは、虚と実を見分け攻め揺さ
ぶりながら間合を詰めていく方法です。ちょっと、酔っ払いの千鳥足に似たような
感じなので小野派一刀流では「千鳥がけ」と呼ばれておりますが・・・(^^;
>ただ、困るのは 道場で、後輩である子供らに教える時です。
私が「日本剣道形ストーリー」を作りだしたのもそのせいなんです(^^) ただ形
(かたち)だけ教えても、授業の生徒達は覚えてくれませんでしたから(^^;
>が、今は、疑問に対してできるだけ正直に向き合おうとすることが
>“ホンモノとはどういうものだろう”と考えるきっかけになるのでは
>ないかと思っています。
御意ヽ(^.^)ノ
私とて手探り状態です。これまでの自分の経験とわずかな資料を手がかりに、みな
さんに必死で食らいついていっているっていうのが現状です。ホント、能力を問わ
れます。辛いですよ(笑)
でも、せっかくはじめましたから、最後まで食らいついていこうと思ってます。
みなさん、ヨロシクですぅぅぅヾ(^-^)ゞ イエーイ
[2001/12/21 13:35:39]
お名前: 江口
To Hide. さん。
太刀の形四本目もそうですが
こちらの 小太刀三本目
「(受け止め)すり上げ→すり落とし」についても、自分は
はじめから 考え直し あらためてくりかえさなければ
ならない と 思いました。
結局、鎬あるものを どう使っていいものか、自分は
わかっていないのでしょう。
ところで
>虚実を確かめながら攻め入る足
とはどういう足なのですか?
To はやぶさ さん。
初めまして。江口と申します。
失礼ながら・・・
>私には日本剣道形が中途半端な形という感じがぬぐえません。
同感です。
その理由についてもまた、同感です。他に 私事ながら
亡父が直心影流修行していたということもあり
(私は古流はいたしませんが)子供のわたしの眼にも 法定やとうの形、小太刀の形
などと比べると、日本剣道形はなんだか うつろに見えたものでした。
けれども やってみると 自分の身体は思うようには働かないもので、
うまく出来ないながらもあれこれくりかえしてみるうちに、
こういう経験(日本剣道形を稽古する)も悪いものではないな と
考えるようになりました。(形の内容は別として)
ただ、困るのは 道場で、後輩である子供らに教える時です。
「習わざるを伝うるか」という言葉が、自分にとって
プレッシャーとなります。自分に正直でない気がし、
「人間形成の道である」とかいう理念に対して恥ずかしく
なってしまうのです。
とはいっても、もうオバサンですからなんとなく自分を
誤魔化してはおりますが・・・。
剣道形の問題は、はじまったらキリがないと思います。
問題を理解したり、結論をだすには かなりの経験や積み重ね、
能力を問われるものでもありましょう。
いっぽう、ギモンを問いかけたり、たとえ、自分なりの考えであっても
語るということによって、自分達の現状が顕わになる ということも
あると思います。これは 少しばかり、苦々しいしいことでもあります。
自己のレベルが顕わになるのは、時に 苦しいことですから。
それに 本来、かた というものにたいしては われ をなくす という
ことが求められるのではないでしょうか。そのことを考えると私達は、
身の程もわきまえず、我・われ ばかり ならべたてては さっぱりしようと
しているのではないか とも受け取れます。
が、今は、疑問に対してできるだけ正直に向き合おうとすることが
“ホンモノとはどういうものだろう”と考えるきっかけになるのでは
ないかと思っています。自分を啓く道として古流を選ぶ方も出てくる
ことでしょう。そういう意味で意義あることと考えております。
これまでわたしは 剣道形への疑問を口にすることは
なんとなく、タブーなのではないかと思ってきたものですから
あえてこういうトピックを立ててくださった
Hide.さん、はくどーさんに 感謝しております。
タイヘンそうですけど。
[2001/12/21 01:14:07]
お名前: 凪
Hideさん 回答ありがとうございます。
日本剣道形についてなのですが、明治40年か44年頃にそれまで無数にあった各流派の
を集めては選定したものが原点だそうです。持田盛二、高倉清の屋外での演舞のビデオも
ありましたが、一万なものでしばし見送りです(^^;
[2001/12/20 23:21:29]
お名前: はやぶさ
日本剣道形について日ごろ感じていることをカキコします。個別形については議論がでているようですが、私には日本剣道形が中途半端な形という感じがぬぐえません。
私が修行した一刀流、直新影流法定と比較しながら議論を進めます。
形は成り立ちで次の2つに分かれます。
?流祖が生死を賭けた戦いの中から必勝の太刀筋を整理し、後日体系化した実践形
?流儀に必要な錬体、気合、間合いなどを養成・習得するするために編んだ形
私の見るところ?の代表が一刀流、?の代表が法定です。
一刀流では切り落しや迎え突きはそのまま実践に使えます。(ただしマスターすれば)
直新影流の法定は竹刀剣道には直接役立ちませんが、獅子の気合や呼吸を足下に下げる効果が
期待できます。
こうした観点から日本剣道形をみると?と?のふたつが混在しているようです。
例えば一本目の「面抜き面」などは実践に使える太刀筋ではありませんが、5本目の「面すりあげ面」などはそのまま実践形となります。
だから日本剣道形を?と考える人には内容がそぐわないし、?と考える人にも物足りないのです。
この原因のひとつはこの形が明治時代に各流派代表が協議して作られたためでしょう。
およそ形は流祖かその直弟子が個人で編むもので、それが流儀の個性を彩り、一貫したバックボーンを持つのです。
日本剣道形と同じ生い立ちに警視流の形がありますが、警視流は鞍馬流など古流各派の形をほぼそのまま採用し、10本にまとめたものです。個々の形には独自の風格があります。
その点、日本剣道形は各派の形を協議で修正して編んでますので、個性に乏しく、全体を貫く思想が見えにくいのです。
中山博道は自らが編集に参加しながら日本剣道形には不満だったらしく、後年、自ら新しい剣道形編成を試みましたが、やはり流祖が命がけのなかから発明した古流各派の形には及ばないといって断念しました。
近くでは私の師匠の師匠である小川忠太郎先生も日本剣道形には不満で、「本当の剣道を身に付けるには技は一刀流で、気合は直新影流法定で、体力は切り返しで」と強調していました。
私自身は以上の疑念を持ちながらも日本剣道形はよく練習していますが、この形だけで満足していては本物に迫れないのではとも感じています。
たいがいの高段者が日本剣道形の一本一本の解釈を考古学でもやるようにこと細かく解説して満足しているのを見ると違和感を覚えますね。
古流では歩数が何歩とかあまりこまかい取り決めにはこだわりません。専門家とか8段くらいになれば日本剣道形にとどまらず、古流を学ぶ謙虚さが欲しいところです。
[2001/12/20 15:43:28]
お名前: Hide.
to 江口さん
>“半身”とは打太刀に対して90度くらいでしょうか?
そうですね、短い刀身にカラダ全部を隠すのですから、私は「完全に半身(横向
き)」で肩越しに目付けが行われると解釈しております(^^)
>足は撞木で千鳥足(というのですか?)になるのではありませんか?
うーん、ああいうのを「千鳥足」って言うのかなぁ・・・。左足を前に出すとき
は、右足にクロスさせるように出しますので、そんなに前には進めないんです。
小野派一刀流で「千鳥がけ」という進み方がありますが、これはまさに、酔っ払い
がフラフラ歩くが如く「右・左」と虚実を確かめながら攻め入る足で、小太刀のと
きの前進の足とは異なるさばきです(^^)
>進む速度は?・・・いつでも飛び込めるように であるためには、早足で、
>とはならないのですか?
本来はそうあるべきなのだと思いますが、剣道形では「気を合わせる」という部分
がありますので、小太刀を持った仕太刀だけが小足で3歩以上出ていいってことに
なりませんでしょ(^^;
>すり上げ、右斜めにすり落とし の時、仕太刀の体は前傾してはいけませんか?
小太刀三本目の話ですね。
私は右鎬での「受け止め→すり落とし」で、今は、「すりあげ→すり落とし」と
なっているところが難しくしている原因だと思います(^^;
「大日本帝国剣道形」原文によりますと、「仕方から打方の晴眼に対し入身になろ
うとすると、打方は上段にかぶり、仕方の正面を打ち下ろしにくる。これに対して
仕方は手の内を右にひねり、切先を右にして手を上に伸ばして受け止め、打方の打
ち下ろす力を利用して左へ摺り落とすと〜」となっています。
つまり、「すりあげるのではなく受け止め、勢いをそらすようにすり流す」という
動作が本来の技のようですヽ(^.^)ノ
よく考えれば、すりあげてしまえば「技の終末」は相互の刀は接点を失うはず。接
点が存在しているのは、「すりあげていないから」なのではないでしょうか。です
から正しくは、「すりあげるようにして受け止め」といった感じなのだと思います(^^)
[2001/12/20 11:52:00]
お名前: 江口
To Hide. さん。
>小太刀の三本目の話ですね?(^^;
はい。スミマセン。間違えました。
>長さで勝る太刀を相手にして両肩を無防備にさらしているのでは隙が多すぎるため、小太刀と>肩のラインを一直線にとり、「小太刀に全身を隠す」感じで「半身」になるわけです。
>小太刀の下段は間合がつかみにくいものであります。間合まで接してし
>まうと。飛び込みながら刀身を上から押さえられ「入り身」となられてしまう
・・・なるほど、のみ込めそうです。(頭では)
“半身”とは打太刀に対して90度くらいでしょうか?
足は撞木で千鳥足(というのですか?)になるのではありませんか?
進む速度は?・・・いつでも飛び込めるように であるためには、早足で、
とはならないのですか?
すり上げ、右斜めにすり落とし の時、仕太刀の体は前傾してはいけませんか?
↑
これ、やりにくいです。
[2001/12/19 23:24:52]
お名前: Hide.
to 江口さん
>剣道形 七本目
>仕太刀の構え、
>下段半身と言われていますが
>「無構え」だとおっしゃる先生も
>いらっしゃいます。
小太刀の三本目の話ですね?(^^;
>その形において、どんな意味をもつものなのか
>教えていただければと思います。
私が最初に教わったころは「無構」といわれ、右手を腰にとりませんでした。で
も、これは、どうやら間違いのようですね。
「大日本帝国剣道形」の解説を見ましても「下段にて半身に構え」になっておりま
す(^^)
小野派一刀流にしてもそうなのですが、小太刀と太刀の対戦では、すべからく小太刀は「半身」をとっています。これは、長さで勝る太刀を相手にして両肩を無防備にさらしているのでは隙が多すぎるため、小太刀と肩のラインを一直線にとり、「小太刀に全身を隠す」感じで「半身」になるわけです。
「無構」でしたら、構えないわけですから、半身になる必要もありませんね(^^;
「下段半身」ですが、打太刀に対し頭部と右肩をさらしておりますが、晴眼のお相
手から見て小太刀の下段は間合がつかみにくいものであります。間合まで接してし
まうと。飛び込みながら刀身を上から押さえられ「入り身」となられてしまう(こ
ういう形は、小野派一刀流に何本か存在します)ので、それを嫌って、長物の威を
かってやや遠間から思い切って斬り込みます。そこを受け止め摺り落とされるので
す(^^)
to はくどーさん
>ですから、今でも「右足から戻る」なんですよ。変でしょ?
ハイ、確認いたしましたら、たしかに「右足から戻る」ですね(^^;
そこで、一つ考察なのですが、「右足から戻る」は「抜き合わせた位置に」にかか
るのではなく「相中段になりながら」にかかるのではないでしょうか?(^^)
つまり、左足前・右足後ろの状態になっていて「前方向」に戻る必要がある場合、
「相中段」になるためには「左足を引く」のではなくて「右足を出す」方が自然で
す。
同じく仕太刀においては、後ろにさがって元の位置に戻りつつ「相中段」になるに
は、出ている左足をさげるほうが合理的と考えたのでは・・・?(^^;
でも、そうすると、なぜ二本目仕太刀は後方にさがるにも関わらず「右足から相中
段に〜」なのか説明しにくいですね(^_^ メ) あ、三本目よりもさがって戻る距離
が短いから・・・なんていうのは・・・だめでしょうねぇ(笑)
to 剣術修行中さん
>こんなすばらしいコーナーがいつの間にかあったんですね。
「剣道形のとき左足は?」の12/13のはくどーさんの私へのカキコを受けてここを
作ったというわけです(^^) お知らせしてませんでしたっけ・・・???(^^;
>小手打ちなら、六本目のすりあげ小手の方がはるかに優れているし、二本目は小
>手を打ちに行くまでにとても時間がかかりすぎると思います。
六本目の小手すりあげ小手は「後の先」、二本目の小手抜き小手は「先々の先」の
理合です。っていうことは、二本目は相中段で間合に接しますが、その過程で仕太
刀の側から打太刀になんらかの働きかけがあるはずです。
私はかすかに剣先を上げるような動作がそれと考え実践しております(^^)
これが仕太刀の「打ち気の発露=打太刀への誘い」となり、打太刀は耐え切れず小
手に出てくるのです。その心と動きを読みきって抜くからこそ、「後の先」ではな
く「先々の先」となるわけですねヽ(^.^)ノ
>剣道形でももともとは突いているなんてことはありませんか?高野・中山両先生
>の形ではどうなっていますか?
「高野×中山」でも、突くような動作はありません。剣先を喉元に付けるのみです(^^)
私が思うに、剣道形では「殺さない」のではないでしょうかねぇ・・・???
[2001/12/19 14:11:25]
お名前: 剣術修行中
はじめまして。
こんなすばらしいコーナーがいつの間にかあったんですね。
とても疑問に思っていることがあります。剣道形二本目の理合がどうもわからないのですが。
小手打ちなら、六本目のすりあげ小手の方がはるかに優れているし、二本目は小手を打ちに
行くまでにとても時間がかかりすぎると思います。
あと、もう一つ話題の小太刀ですが、私の流儀の小太刀と剣道形の小太刀は非常によく似ている
のですが、腕を制したあとしっかり突いています(とても小さな動作ですが)。剣道形でももと
もとは突いているなんてことはありませんか?高野・中山両先生の形ではどうなっていますか?
[2001/12/19 13:10:33]
お名前: はくどー
URL
to Hide.さん
>ありゃ、それはマジですかぁ?(^^;
>今は、「左足から戻る」でいいんですよね?
いえいえ、全剣連の日本剣道形解説書(昭和56年12月7日制定)によりますと、小太
刀の形3本目は、「打太刀は右足から仕太刀は左足から相中段になりながら刀を抜き
合わせた位置にもどる」とありますね。
ですから、今でも「右足から戻る」なんですよ。変でしょ?
しかもね、「大日本帝国剣道形」では、戻り方については(註)に書かれているだけ
なのに、「日本剣道形解説書」では、本文にしっかりと書かれています。
なぜなんでしょうねえ。
[2001/12/19 12:46:39]
お名前: 江口
剣道形 七本目
仕太刀の構え、
下段半身と言われていますが
「無構え」だとおっしゃる先生も
いらっしゃいます。
どちらが正しいのですか という質問ではなく
それぞれの構えが
その形において、どんな意味をもつものなのか
教えていただければと思います。
[2001/12/19 01:59:51]
お名前: Hide.
to はくどーさん
>剣道形原文の(註)には、小太刀三本目は、「打太刀ハ右足ヨリ...帰リ」と
>なっているんですよ。
ありゃ、それはマジですかぁ?(^^;
今は、「左足から戻る」でいいんですよね? なんら考えず自然に行なっておりま
したので、なんか自分の剣道形に自信が持てなくなってきたなぁ(^_^ メ)
うん、もしそうならたしかに「誤植」の可能性が高いかもしれませんね(^^)
私もこうして、剣道形の成り立ちの部分から考えてみたことがありませんでしたの
で、勉強になりますねヽ(^.^)ノ
私の「剣道形ストーリー」はあくまで、現在行われている日本剣道形の「動き」を
ベースに、そこに展開されたであろう「心の葛藤」「攻め合い」「理合」というも
のを想像し構築しただけです。はなはだ不都合なところもあろうかと思いますが、
そうでもしないと剣道形に魂が入りません(^^;
まぁ、はくどーさんが「もう少し皆さんのご意見を」とおっしゃるなら、慌てて進
むものではありませんが(^_-)〜☆
[2001/12/18 15:08:28]
お名前: はくどー
URL
to Hide.さん
>>Hide.さんの説に従えば、打太刀の方は小太刀3本目では前足(左足)加重になっ
>>ていなければならないことになります。
>えー、どうしてですか? 私ははくどーさんがこの後お書きになったのと同じで、
>決められてさがらせられたのですから、重心は当然、後ろ足である右足にかかって
>いると解釈しておりますので、「左足から元に戻る」でいいんですけど(^^;
剣道形原文の(註)には、小太刀三本目は、「打太刀ハ右足ヨリ...帰リ」となっ
ているんですよ。
ですから、決められて下がらされた打太刀は、重心がかかっているはずの右足から運
ばなければならないことになり、Hide.さんのおっしゃっていることに反するなあと
思うわけです。他の部分は、Hide.さんのおっしゃるとおり、前足に重心が乗ってい
れば後ろ足からというようになっているのですが、ここの部分だけはどう考えても逆
になっているように思えるんです。ですから、「誤植」だったのではないかと、疑い
たくなるわけですよね。(^^;)
>手首を斬りに行くのに、剣先を下まで振りきる必要があるでしょうか。故にカラダ
>も突っ込まない(^^)
>それに、生徒に説明したときは、「一本目で思いっきりいって体勢が崩れたので、
>二本目はちょっと自重したんだろ(笑)」なんて言いましたが、それはちょっと違
>いますよね(^_^ メ)
前にもどこかに(ん?、打ち手、切り手のトコだったかな?)書いたのですが、実は
私の中で、竹刀の剣道と居合や古流剣術(杖も含む)が、一本の線上でつながったの
は、剣術の刀法を「斬りつけ」と「斬りおろし」に分類して見ることが出来るように
なったからなんです。
そして、剣術は、原則として何らかの方法によって敵の体勢を崩し、一気に間合いを
詰めて確実に仕留められる状況を作らない限り、自らの体勢が崩れやすい「斬りおろ
し」の刀法は使えない。そして、その敵の体勢を崩すための一方法として使われる刀
法が「斬りつけ」である。というのが私の考えです。
ですから、敵の体勢が崩れていないのに、遠間からいきなり「斬りおろし」刀法を使
う剣道形の1本目は、当初どうしても納得できなかったんですね。
で、剣道形をもっと深く勉強してみようと思ったのは、この疑問がきっかけになって
いるわけです。
>たしかにそれもあるかもしれませんが、それでは「先々の先」の説明がなされてお
>りません。
>(中略)
>つまり、私は一本目の教えは「間合」ではなく「気と気位」と理解しています。
そのとおりです。
私が先に書いたのは、1本目の「術理」の部分です。
そして、この「術」を踏まえて、剣道形が本当に教えようとしている「道」の部分を
考えてゆこうとしたときに、この1本目に含まれる「気と気位」が大きな意味を持っ
てくると考えられます。
私としては、そこの部分を解き明かしてゆきたいのですね。
え?、だったら勿体ぶらずにさっさと書けって?、(^^ゞ
ま、もう少し皆様方のご意見もお聞きしたいところですね。
>はくどーさん、また、謎が出てきましたよ(^_^ メ)
はい、白籠手さんにもレスを書こうと思っているのですが、取り敢えず混乱しないよ
うに、1本目から順番に攻めて行こうかなと思いまして。m(_ _)m
ゴメンね、白籠手さん。
なにせ、いつも日剣第二で一緒なものだから、いつでも口頭でお話しできる
ような気がしてしまって。σ(^^;)
[2001/12/17 17:30:09]
お名前: Hide.
to はくどーさん
>Hide.さんの説に従えば、打太刀の方は小太刀3本目では前足(左足)加重になっ
>ていなければならないことになります。
えー、どうしてですか? 私ははくどーさんがこの後お書きになったのと同じで、
決められてさがらせられたのですから、重心は当然、後ろ足である右足にかかって
いると解釈しておりますので、「左足から元に戻る」でいいんですけど(^^;
>私としては、剣道形における残心の場面で、仕太刀の重心がどちらか一方
>の足に偏っているというのは、やや不自然ではないかと思います。
そうでしょうか。
一本目・五本目・六本目の左上段は、真ん中というよりむしろ前足である左足にか
かるべきだと思ってますが(^^)
>審議会において「誤植ではないか」という意見が出され、それについて審議した
>経緯があるにもかかわらず、それを「原本どおり」とした理由が何も示されず、
>更にそれを「審査上の着眼点」にするなんて、なんか変だと思いませんか。
おお、そんなことがあったのですか。それは知りませんでしたね。
そうだとすると、おっしゃる通り、かなり妙な話です(^^;
>こんないい加減なところが、剣道形がしっかりと修練されない原因の一つになっ
>ているのではないと私は思うのですが、いかがなものでしょうか?。
まさに!
だから、キチンとした理合の説明ができない。それゆえ、「形」しか教わらないか
ら楽しくない。
剣道形を巡る問題点が浮き彫りになってきますね( -o-) フゥ
>わ!、改行処理するのを忘れてアップしてしまいました。
>再掲載しますので、申し訳ありませんが、Hide.さん、下の方を削除して
>いただけませんでしょうか。
アハハ、私もよくやってしまいます(^^;
このBIGLOBEの掲示板はぽんこつのため、一つのカキコのみを削除することができ
ません。故に、そのままになってしまいますがご了承くださいm(_ _)m
>拳を切るだけなら、何も足下まで切り下ろして前のめりになるよう切り方をせず
>とも、しっかりと身体を起こした状態で、切っ先は拳を切った位置で止めるよう
>な切り付けをすれば良いのじゃないかと思います。
拳を斬りにいったのではなく、拳がらみカラダを真っ二つにする気持ちで思いっき
り斬ったのです。なにせ、最初、仕太刀の左拳は「頭上にあったはず」なのですか
ら。それを、三歩目で拳でグッと攻められた。思わず反応して「虚の隙」である拳
に照準を合わせ突っ込んだものだから、アレ哀れ・・・ってことですよ(笑)
>現に2本目では、打太刀は足下まで切り下ろすようなことはせず、仕太刀の小手
>を切り付けた位置で剣先を止めています。
これは居合をされているはくどーさんとは思えぬご発言(^^;
手首を斬りに行くのに、剣先を下まで振りきる必要があるでしょうか。故にカラダ
も突っ込まない(^^)
それに、生徒に説明したときは、「一本目で思いっきりいって体勢が崩れたので、
二本目はちょっと自重したんだろ(笑)」なんて言いましたが、それはちょっと違
いますよね(^_^ メ)
>すなわち、以下の通りです。
>師の位である打太刀は、弟子の位である仕太刀に対して「間合」の測り方とその
(・・・後略・・・)
なるほど、面白いですね。
たしかにそれもあるかもしれませんが、それでは「先々の先」の説明がなされてお
りません。仕太刀に「誘い」と「読み」がなければ「先々の先」にはならないので
はないですか(^^)
仕太刀は間合を自明し、自らの意志で打太刀に「打ち気」を伝え、打太刀の「気」
を乱して、技を起こさせるのです。故に「先々の先」でしょ?ヽ(^.^)ノ
つまり、私は一本目の教えは「間合」ではなく「気と気位」と理解しています。
>そこで、同じように2本目以下についても考えてみます。
(・・・後略・・・)
二本目も「先々の先」なんですよ。
相中段で三歩入っても、打太刀が小手を打ちたくなる「理」が存在しません。三歩
入ったとき、仕太刀はかすかに剣先を上げて「先で切りかかる気」を見せます。そ
の結果、打太刀が機先を制して小手に出る。だから一本目でも同じですが、「機を
見て」なんです(^^)
むろん、「正中線の教え」については異論はありませんヽ(^.^)ノ
>同じように考えてゆくと、三本目は中心の攻め合い、取り合いですね。
(・・・後略・・・)
これにも異論はありません。
これも「先々の先」ですから、打太刀が仕太刀のみぞおちを突くのに理由がなけれ
ばなりません。あ、蛇足ですが、私の持っている「大日本帝国剣道形」の原文によ
りますと「打方は機を見て右の手の内を左に絞り、諸手にて仕方の胸を突く」とあ
ります。いつから「みぞおち」になったのでしょうか?(^^;
話を元に戻しますが、
下段は守りに強い構えですから、相下段では攻撃できない。で、互いに様子を伺い
つつ相中段になりますが、打太刀の方が一瞬早く戻るのではないでしょうか。上が
りきっていない仕太刀の剣先を見て、「今なら突ける!」と突に出るのでは。しか
し、それが仕太刀の狙いです。打太刀の突きを読みきっており、悠々お相手を引き
込み技を尽くさせます。そこが「先々の先」なんですねヽ(^.^)ノ
こんな解釈でいかがでしょうか(^_-)〜☆
>ですから、「大日本帝国剣道形」という名称は、現在なら「日本人の剣道形」と
>いう意味合いだったのではないでしょうか。
>そこで、この「剣道形」が、私たち日本人に何を教えようとしているのか?。
うーん、そこまで行きますか・・・(^^;
そこまでは読めないなぁ(^_^ メ)
to 白籠手さん
どうやら、「意思及び指導法の統一事項」でそう決まっているようですよ(^^)
「二三歩」ということが引っ掛かったので、「大日本帝国剣道形」の太刀「三本
目」の仕太刀に奇妙な記述を見つけました。切っ先を右におさえられたあとです
が、「仕方は左足右足と位詰にて二三歩左足から進み」と足が指定されています。
しかも、「顔の中心に残心をつける」なんてどこにも書かれてはおりません(^^;
はくどーさん、また、謎が出てきましたよ(^_^ メ)
to くにさん
>ありがとうございます。もちろん、ちょこちょこ参加させていただきます。長文
>にわたりそうなのは、パスさせていただきますが。
くにさんの考察は、お忙しい時期が過ぎてからでかまわないんですが、感想くらい
は書いてくださいね(^_-)〜☆
[2001/12/17 16:35:58]
お名前: くに
to IZAYOHIさん
引用の部分。その通りだと思います。
to ミーシャさん
私もその本を見ていないので、具体的に紹介していただけると勉強になりそうな気がします。
よろしければもう少し紹介していただけませんか?ミーシャさんの、井上見解に対するお考えも
伺いたいです。
はくどーさんと一緒ですね。(^_^;)
to Hideさん
>くにさんがいらっしゃらないのは、「電剣ボード」の灯が消えたみたいにさびしいですので、ちょこっとは存在を示してくださいね(^_-)〜☆
ありがとうございます。もちろん、ちょこちょこ参加させていただきます。長文にわたりそうなのは、
パスさせていただきますが。
to はくどーさん
なかなか興味深い事が次々と出てきますね。
私のやってる中国の古典のほうでもそうなんですが、読めないところがあって、「誤植じゃないかという
意見は、昔よく出ていたのですが、たいていは誤植なのではなく、こちらの解釈が至らなかったという
事でしたので、極力解釈を試みられた方がいいのではないかと思います。ではどう理解すればいいのか
と反問されると、「時間がないんです〜(涙)」と、謝るしかありませんが。
「大日本帝国の国民として」という観念から日本剣道形が生まれ、そのまま伝わっているというのには
ちょっと疑問が湧きますが、やはり反問していられない。みなさまよろしくです〜。
to 白籠手さん
これは、初期の大家の剣道形を御覧になると理解できるのでは?どちらの足から動くとか、何歩歩く
などということは末葉のことであることが理解できると思います。
[2001/12/17 11:42:15]
お名前: 白籠手
私も小太刀3本目の論議に加えさせてください。
3本目は、わからないことが多く、皆さん方の論議をふむふむと聞いています。
特に体のどの部分に重心をおき、どちらの足が始動するのかというあたり、気になります。
解説書原文で「…打太刀がひくので、仕太刀はそのまま攻めて、二三歩進み…」とあります。
これは、何故「三歩」ではなく、「二三歩」なのでしょうか。
今、どの講習会に行ってもどの先生に聞いても、二歩でやめてもいいという方はいらっしゃらないと思います。
二歩でやめると、右足が前になり(姿勢はかなりきびしいですが)、戻るときは後ろ足である左足からとなるのですが。
ちなみに、大日本帝国剣道形でも「二三歩」となっています。
やはり、はくどーさんがおっしゃるように重心は体の真ん中においておくのでしょうか。
[2001/12/16 14:47:53]
お名前: はくどー
URL
わ!、改行処理するのを忘れてアップしてしまいました。
再掲載しますので、申し訳ありませんが、Hide.さん、下の方を削除して
いただけませんでしょうか。
----------------------------------------------------------------
日本剣道形、太刀1本目の話題に戻りますね。
さて、先にも書きましたとおり、1本目の相上段の形には、私としてはいろいろと疑
問点・矛盾点が多すぎます。
特に、打太刀が上段に構えた仕太刀に対し、いきなり足下まで切り下ろすような打突
動作をすることは、剣の理合から言って、どうにも納得できません。
Hide.さんがおっしゃる、打太刀が仕太刀の「虚の隙」に反応して拳を切りに行くと
いう説も、剣道ストーリーとしては面白いのですが、拳を切るだけなら、何も足下ま
で切り下ろして前のめりになるよう切り方をせずとも、しっかりと身体を起こした状
態で、切っ先は拳を切った位置で止めるような切り付けをすれば良いのじゃないかと
思います。
現に2本目では、打太刀は足下まで切り下ろすようなことはせず、仕太刀の小手を切
り付けた位置で剣先を止めています。
そこで私が考えたのは、この剣道形の1本目というのは、剣道における相上段の攻防
や上段からの打突の方法を教えているものではないのじゃないかということです。つ
まり、1本目は、剣道の「技」としての上段を教えているのではなく、剣道における
大切な「何か」について、それを上段の攻防のかたちに現して教えているのではない
か考えたわけです。
そして、このような視点で剣道形の1〜3本目を見つめ直してみて、そこから私が導
き出した結論は、剣道形一本目における「何か」は、実は「間合」であり、この「1
本目」は、「間合」の大切さを教えているのではないだろうかということです。
すなわち、以下の通りです。
師の位である打太刀は、弟子の位である仕太刀に対して「間合」の測り方とその大切
さをを教えます。そのために、打太刀はわざわざ剣先を合わせることのない上段に構
えて仕太刀が間合を測りにくい状況を作ります。同時に仕太刀に対しても中段の構え
からそのままの気位で真っ直ぐに振りかぶらせ、互いに剣先を合わせて間合を測るこ
とをしないように要求します。
この状態で一足一刀の間合になるまで歩み寄り、そこから打太刀は、大きく右足を踏
み出し、同時に剣先を遠くに振り出すようにして足下まで切り下ろし、仕太刀に対し
て剣先が届くその最大の間合を教えます。ここで間合の最大値を教えるので、打太刀
の体勢は思い切り踏み込んだ前屈みの姿勢になります。一方の仕太刀はその剣先をぎ
りぎりのところで見切る間合を知り、更にそこから踏み込んで自らの剣先が打太刀の
頭上に届く間合を知ります。
このように考えれば、打太刀、仕太刀が相上段に構えること。打太刀が右足を踏み出
して大きく足下まで切り下ろす刀法をすること。仕太刀が右上段の構えから後ろに下
がって抜き、前に出て打太刀の面を切ること。等々、さまざまな疑問や矛盾にたいし
て説明がつくような気がしませんか?。
そこで、同じように2本目以下についても考えてみます。
2本目が教えようとしているのは「正中線」ではないでしょうか。師の打太刀は、小
手打ちという技をもって、実は自らの正中線を切って見せます。弟子の仕太刀は、そ
の正中線切りを横への体捌きによってかわし、更に仕太刀自らの正中線を切ります。
結果、これが小手打ちという技としてかたちに現れます。
同じように考えてゆくと、三本目は中心の攻め合い、取り合いですね。剣道における
突き技の打ち方を教えているのではなく、中心を取ることの大切さとその攻防の様子
をかたちに現していると考えれば、打太刀の突きを仕太刀がなやして入れ突きに突き
返してゆくという、実戦ではちょっと考えられないような不思議な突き技の応酬も理
解できてきます。
そして、上記のような「間合」「正中線」「中心攻め」が、剣道の基礎的術理として
大切なものであるということを教えるのが剣道形1〜3本目だと理解すれば、上段や
突き技など、小中学生で禁止されている技が入っているにも関わらず、これを初心者
が修練すべき剣道形としていることも、どうにか納得できます。
...というわけなんですが....
実は、ここまで書いてきたことは、あくまで剣道形の表面に現れている術理の部分で
す。単に「間合」「正中線」「中心攻め」ということを教えるだけならば、何もわざ
わざ剣道形に託して教え伝えるまでのことはなく、通常の竹刀稽古の中で基礎練習と
して教えてゆけば良いことだとも思いませんか。
「剣道談話室」の「剣道形のとき左足は?」のトピにも書いたとおり、「日本剣道形」
の元になっている「大日本帝国剣道形」が、大正の始め、まだ「武道」という言葉が
一般化していなくて現在の剣道も「剣術」と呼ばれていた時代に制定されたにも関わ
らず、「剣術形」ではなく、あえて「剣道形」となっているのは、そこに「術理」を
越えた、人間としての「道理」を表現しようとしたのではないかはと考えられません
でしょうか?。
もっとも、この時代は「人間として」という観念よりも「大日本帝国の国民として」
という観念の方が強かったかもしれません。今風の感覚で言えば「日本国民として」
というよりも「日本人として」というニュアンスに近いものと思われます。
ですから、「大日本帝国剣道形」という名称は、現在なら「日本人の剣道形」という
意味合いだったのではないでしょうか。
そこで、この「剣道形」が、私たち日本人に何を教えようとしているのか?。
このあたりのことを考えようとしたとき、剣道形1本目で仕太刀がわざわざ上段で残
心を示すあたりに、何か大きな鍵があるような気がするのですが...。
というわけで、もう少し考えてみてから、以下続けます。(^^ゞ
[2001/12/16 14:20:19]
お名前: はくどー
URL
日本剣道形、太刀1本目の話題に戻りますね。
さて、先にも書きましたとおり、1本目の相上段の形には、私としてはいろいろと疑問点・矛盾点が多すぎます。
特に、打太刀が上段に構えた仕太刀に対し、いきなり足下まで切り下ろすような打突動作をすることは、剣の理合から言って、どうにも納得できません。
Hide.さんがおっしゃる、打太刀が仕太刀の「虚の隙」に反応して拳を切りに行くという説も、剣道ストーリーとしては面白いのですが、拳を切るだけなら、何も足下まで切り下ろして前のめりになるよう切り方をせずとも、しっかりと身体を起こした状態で、切っ先は拳を切った位置で止めるような切り付けをすれば良いのじゃないかと思います。
現に2本目では、打太刀は足下まで切り下ろすようなことはせず、仕太刀の小手を切り付けた位置で剣先を止めています。
そこで私が考えたのは、この剣道形の1本目というのは、剣道における相上段の攻防や上段からの打突の方法を教えているものではないのじゃないかということです。つまり、1本目は、剣道の「技」としての上段を教えているのではなく、剣道における大切な「何か」について、それを上段の攻防のかたちに現して教えているのではないか考えたわけです。
そして、このような視点で剣道形の1〜3本目を見つめ直してみて、そこから私が導き出した結論は、剣道形一本目における「何か」は、実は「間合」であり、この「1本目」は、「間合」の大切さを教えているのではないだろうかということです。
すなわち、以下の通りです。
師の位である打太刀は、弟子の位である仕太刀に対して「間合」の測り方とその大切さをを教えます。そのために、打太刀はわざわざ剣先を合わせることのない上段に構えて仕太刀が間合を測りにくい状況を作ります。同時に仕太刀に対しても中段の構えからそのままの気位で真っ直ぐに振りかぶらせ、互いに剣先を合わせて間合を測ることをしないように要求します。
この状態で一足一刀の間合になるまで歩み寄り、そこから打太刀は、大きく右足を踏み出し、同時に剣先を遠くに振り出すようにして足下まで切り下ろし、仕太刀に対して剣先が届くその最大の間合を教えます。ここで間合の最大値を教えるので、打太刀の体勢は思い切り踏み込んだ前屈みの姿勢になります。一方の仕太刀はその剣先をぎりぎりのところで見切る間合を知り、更にそこから踏み込んで自らの剣先が打太刀の頭上に届く間合を知ります。
このように考えれば、打太刀、仕太刀が相上段に構えること。打太刀が右足を踏み出して大きく足下まで切り下ろす刀法をすること。仕太刀が右上段の構えから後ろに下がって抜き、前に出て打太刀の面を切ること。等々、さまざまな疑問や矛盾にたいして説明がつくような気がしませんか?。
そこで、同じように2本目以下についても考えてみます。
2本目が教えようとしているのは「正中線」ではないでしょうか。師の打太刀は、小手打ちという技をもって、実は自らの正中線を切って見せます。弟子の仕太刀は、その正中線切りを横への体捌きによってかわし、更に仕太刀自らの正中線を切ります。結果、これが小手打ちという技としてかたちに現れます。
同じように考えてゆくと、三本目は中心の攻め合い、取り合いですね。剣道における突き技の打ち方を教えているのではなく、中心を取ることの大切さとその攻防の様子をかたちに現していると考えれば、打太刀の突きを仕太刀がなやして入れ突きに突き返してゆくという、実戦ではちょっと考えられないような不思議な突き技の応酬も理解できてきます。
そして、上記のような「間合」「正中線」「中心攻め」が、剣道の基礎的術理として大切なものであるということを教えるのが剣道形1〜3本目だと理解すれば、上段や突き技など、小中学生で禁止されている技が入っているにも関わらず、これを初心者が修練すべき剣道形としていることも、どうにか納得できます。
...というわけなんですが....
実は、ここまで書いてきたことは、あくまで剣道形の表面に現れている術理の部分です。単に「間合」「正中線」「中心攻め」ということを教えるだけならば、何もわざわざ剣道形に託して教え伝えるまでのことはなく、通常の竹刀稽古の中で基礎練習として教えてゆけば良いことだとも思いませんか。
「剣道談話室」の「剣道形のとき左足は?」のトピにも書いたとおり、「日本剣道形」の元になっている「大日本帝国剣道形」が、大正の始め、まだ「武道」という言葉が一般化していなくて現在の剣道も「剣術」と呼ばれていた時代に制定されたにも関わらず、「剣術形」ではなく、あえて「剣道形」となっているのは、そこに「術理」を越えた、人間としての「道理」を表現しようとしたのではないかはと考えられませんでしょうか?。
もっとも、この時代は「人間として」という観念よりも「大日本帝国の国民として」という観念の方が強かったかもしれません。今風の感覚で言えば「日本国民として」というよりも「日本人として」というニュアンスに近いものと思われます。
ですから、「大日本帝国剣道形」という名称は、現在なら「日本人の剣道形」という意味合いだったのではないでしょうか。
そこで、この「剣道形」が、私たち日本人に何を教えようとしているのか?。
このあたりのことを考えようとしたとき、剣道形1本目で仕太刀がわざわざ上段で残心を示すあたりに、何か大きな鍵があるような気がするのですが...。
というわけで、もう少し考えてみてから、以下続けます。(^^ゞ
[2001/12/16 14:16:26]
お名前: はくどー
URL
to Hide.さん
なるほど、体重のかかり方、重心の位置をもって、どちらの足から動くかという考察
はなかなか面白いですね。
ただ、仕太刀ばかりでなく打太刀の足の運び方も決められていますから、Hide.さん
の説に従えば、打太刀の方は小太刀3本目では前足(左足)加重になっていなければ
ならないことになります。
ところが、打太刀は腕と太刀を押さえられて、そこから逃れようとして下ったところ
を追い込まれて剣先をのど元に着けられます。
普通に考えれば、もし重心がどちらかに偏っているとしたら、打太刀の方こそむしろ
後足(右足)に体重がかかっていると考えた方が自然ではないでしょうか。
(ま、この辺はそれぞれの「考え方」の相違でしかないかもしれませんが)
そもそも、私としては、剣道形における残心の場面で、仕太刀の重心がどちらか一方
の足に偏っているというのは、やや不自然ではないかと思います。やはり重心は原則
として真ん中にあるべきだと思いませんか?。
実は、私は、この小太刀3本目の足の運び方については「誤植」ではないかと疑って
います。
大正元年に制定された「大日本帝国剣道形」の原文に着けられた「註」を見ますと、
2本目は、(註)打太刀ハ左足ヨリ仕太刀ハ右足ヨリ刀ヲ抜キ合シタル位置ニ帰ル
^^^^
3本目は、(註)打太刀ハ右足ヨリ仕太刀ハ左足ヨリ刀ヲ抜き合シタル位置ニ帰リ
^^^^
となっています。2つの「註」の違いは、左右の足が逆になっているだけで、全く同
じような文章になっています。
ここで、2本目と3本目の打太刀の足の違いを見てみると、2本目では左足が後ろ、
3本目では右足が後ろになっています。ですから原文に素直に従えば、どちらの場合
も後ろ足から運ぶように定めたと見ることが出来ます。ところが、2本目の打太刀と
仕太刀ではどちらも後ろに下がって元の位置に帰りますが、3本目の位置ですと、打
太刀は前に出て元の位置に帰らなければなりません。ここで、表記上の混乱が生じた
のではないでしょうか?。本来は3本目も2本目と同じように書くべきだったのに、
何かの勘違いで左右が逆になってしまって、それが本文ではなく(註)という小さな
文字で書かれた部分だったので、そのまま見過ごされてしまった。....と考えら
れなくはないでしょうか。?
実際に、全剣連の剣道形解説書によりますと、その「解説書が出来るまで」という項
のところの、小太刀3本目の説明の部分に、
(4)刀を抜き合わせた位置にもどる、仕太刀の足の運び(左足から)について
誤植と思われるので「右足から」とすべきである
との意見もあったが、審議会の審議で原本どおり
となった。
という、記述があります。
昭和56年に、全剣連が旧来の表記を現代語にあらためて「剣道形解説書」を作成した
際に、この部分について「誤植ではないか」という議論がされていたことになります。
しかし、結局これは審議の結果「原本どおり」との採決がされ訳ですね。
ただ、文章から見る限り、左足から下がることの理合についてはなんら深く検討され
ることもなしに、ただ単に「原本どおり」ということで決められてしまったように見
えるのは私だけしょうか?。
しかもですね、昭和60年に作成された「日本剣道形審査上の着眼点」では、小太刀3
本目の仕太刀に対する着眼点として、「残心を示した後、左足から刀を抜き合わせた
位置に戻っているか」ということが、しっかりと書かれています。
審議会において「誤植ではないか」という意見が出され、それについて審議した経緯
があるにもかかわらず、それを「原本どおり」とした理由が何も示されず、更にそれ
を「審査上の着眼点」にするなんて、なんか変だと思いませんか。
こんないい加減なところが、剣道形がしっかりと修練されない原因の一つになってい
るのではないと私は思うのですが、いかがなものでしょうか?。
[2001/12/16 12:38:39]
お名前: Hide.
to くにさん
>本業が忙しい上に、来週の木曜日にレポート発表です。私は当分ROMに徹します
>ので、みなさんいろいろ教えて下さい。
了解しました。
でも、くにさんがいらっしゃらないのは、「電剣ボード」の灯が消えたみたいにさ
びしいですので、ちょこっとは存在を示してくださいね(^_-)〜☆
>「高野×中山」「持田×斎村」のビデオ見たいなぁ…。どなたか貸してくれませ
>んかネェ。(^^;)
勝手に「日本剣道形比較研究」というビデオを編集してありますので、今度お貸し
しますよ(^_-)〜☆
あ、あと、「昭和の剣豪」というDVDに「高野×中山」「持田×斎村」の剣道形が
入っていると書いたのは勘違いでした。夕べ見たら、そんなものは「持田×斎村」
の部分しかありませんでしたm(_ _)m
to IZAYOHIさん
>二本目の仕太刀が入身とならんとする呼吸及三本目の打太刀が正面に
>飛び込み來るを摺り落として胴に變るを押へて入見となる所作は頗る
>難物だ。餘程熟練せないと出來ないのだ。
まさにしかり・・・。また、打太刀もその呼吸がわかっていないとうまくできませ
ん(^^;
なにしろ、剣道形の小太刀をまともにできる人を見たことがありませんで(^_^ メ)
to ミーシャさん
>私としては、今現在の全剣連が講習会などで指導している形よりも井上論の形の
>方が理屈としては通っているような気がしますが・・・。
全剣連は「普及のため」の解説をし、井上正孝先生は、純粋に理合を述べようとし
ておられる。そのあたりの差ではないかと思われます(^^)
でも、その本も、ミーシャさんがご指摘のように、細かい部分は問題にされていな
いんですよね(^_^ メ)
[2001/12/15 15:23:08]
お名前: ミーシャ
toはくどーさん
>よろしければ、それを読んでミーシャさんなりに感じたことや思ったことを、カキコ
>していただければありがたいですね。
そうですよね、本の紹介だけでは全く「素朴な疑問」にもなにもなりませんね。
申し訳ないです。
今までの形の本もしくは剣道の教本のおまけ(形の部分)よりも、攻防の理論や技前などが
細かく説明してあります。従来の形の流れをなぞって行くように写真と文章があるだけのものより
納得しながら読み進めることが出来る反面、著者(井上先生)の私見や疑問点が多々あるため
結果としては(全剣連流)の剣道形とは異なるものになってしまうような気がします。
私としては、今現在の全剣連が講習会などで指導している形よりも井上論の形の方が
理屈としては通っているような気がしますが・・・。
ただ、ここの板で議論されているような細かいこと(小太刀2・3本目の足の引き方等)までの
説明までは流石に載っていませんでした。
[2001/12/15 00:38:37]
お名前: IZAYOHI
例によって少し。
『武之世界』1912年p92
武徳会での剣道形講習会の反省 大正元年11.8〜19
略
次は小太刀だが、元來小太刀は入見を主とするので、構も半身でやヽ
前方に軆を傾けて前進する場合も小足にて小刻に走り入る様にする。
二本目の仕太刀が入身とならんとする呼吸及三本目の打太刀が正面に
飛び込み來るを摺り落として胴に變るを押へて入見となる所作は頗る
難物だ。餘程熟練せないと出來ないのだ。略
[2001/12/14 20:47:22]
お名前: くに
to Hideさん
>もう一人の管理人が、なぜか出てきませんねぇ。あの人も剣道形のネタは好きなはずなんだが(笑)
>漢籍の方で「剣道ばっか」とお叱りを受けていらっしゃるようですから、そっちにガンバってるのかな?(^^)
すいませ〜ん。おっしゃるとおりです〜。
本業が忙しい上に、来週の木曜日にレポート発表です。私は当分ROMに徹しますので、みなさんいろいろ
教えて下さい。
「高野×中山」「持田×斎村」のビデオ見たいなぁ…。どなたか貸してくれませんかネェ。(^^;)
[2001/12/14 18:14:29]
お名前: Hide.
意図した以上に活発な論議が起こりまして、管理人としましても嬉しいかぎりで
す。でも、もう一人の管理人が、なぜか出てきませんねぇ。あの人も剣道形のネタ
は好きなはずなんだが(笑)
漢籍の方で「剣道ばっか」とお叱りを受けていらっしゃるようですから、そっちに
ガンバってるのかな?(^^)
さて、はくどーさんがあらかたレスをつけてしまっておりますので、今さら私の出
番もなさそうですが、まぁ、お勤めですからさらってみてみますかヾ(・_・;)オイオイ
to こうさん
おっしゃる通りですね。私も常々、疑問に思っていた部分です(^^)
はくどーさんもお書きになっていらっしゃいますが、「剣道形の運側の法則(前に
進むときは前の足、さがるときは後ろの足)」に反する特別な足遣いですね。とく
にこうさせる「何か」があったのではないかと思われます。
残念ながら、職場ですので、「高野×中山」「持田×斎村」の映像を確認するわけ
にはいかないところが歯がゆいのですが、これに関しては、私はひとつの推論を
持っております。
ただし、これは、はくどーさんの「二本目」「三本目」の解釈とまったく異なると
ころからスタートしなければなりません(^^;
まず「二本目」ですが、左手で打太刀の右腕を上から押さえたとしても「関節」を
決めることは不可能です。腕の動きを抑えるのみですね。
「二本目は「顔面割り」ですから、はくどーさんがおっしゃる通り「一本目」とち
がって「絶命(もしくは致命傷となる深手)」はしていないと思われます。
しかし、額を割られているのですからかなりの出血があり、抵抗する気力は「かな
り削がれている」と思われます。そこで、腕を上から押さえただけで動きを制すこ
とができ、切っ先を喉に付け残心を示すことによって勝ちとなるのだと思います。
このときの重心は、左腕の力によって制しているためより左足にかかっていると思
われますので、動きやすい「右足から戻る」でいいのだと考えます(^^)
さて「三本目」ですが、こちらはお相手になんらダメージを与えず、ただただ、立
ちの間合から小太刀の間合に詰め切っただけの状態です。
「下段」で全身をさらしながら打太刀に気力をもって「入り身」になる攻めを効か
せながら間を詰めます。その気に押された打太刀がやおら大きく切り込むわけです
が、仕太刀は慌てず「受け止め」「すり落とし」、さらに返す太刀で胴に来たもの
を「すり流し」、「すり込んで入り身」となります。打太刀に十二分に技を尽くさ
せてからの勝利ですので「草の勝ち」というわけですね(^^)
しかし打太刀はなんら傷を負っておらず、もちろん、そこからの逆転の展開を考え
ております。それを制するのですから、太刀共々完全に制する必要性が出てくるわ
けです。それで左手で「横から」腕を取りこれを引き上げるようにすると同時に、
小太刀では鍔元を下方向に押さえます。このことによって、左肘の関節が完全に決
められ、カラダが浮き上がりそうになり、思わず打太刀は逃げようとさがるわけで
す(^^)
これを仕太刀が追い込んでいきますが、右手でもった小太刀で鍔元を引き下げてお
ります関係上、詰め切った最後には、やや右足に重心が乗っているはずです。その
体勢のまま慎重に切っ先を喉に付け残心としますので、動きやすいのは「右足か
ら」ということになりますねヽ(^.^)ノ
いかがでしょうか?(^^)
to はくどーさん
>剣道の基本は中段にありとするならば、本来なら「形」の1本目は相中段である
>方が自然だと思いませんか?。
たしかにおっしゃる通りですが、「一本目」〜「三本目」に共通する理合は、
1.互いに先の気位
2.仕太刀は先々の先で勝つ
という部分です。
上段は、気攻めをもっとも発動しやすい構えですので「先の気を発しやすい」、下
段は防御に強い構えですので「先の気を発しにくい」。そこで初手が上段と考えて
はいかがでしょう(^^)
位の上でも負けないため、左上段を見て「中段の構をスッと上にあげた」というの
が私の考える「剣道形ストーリー」でのお話なんですが(^_-)〜☆
>更に、この相上段、打太刀は剣道でも普通に行われる左上段なのに対し、仕太刀
>は右上段です。なぜ、打太刀と仕太刀の上段の構えが違うのでしょうか?。
形には表されておりませんが、私はこの部分をこう解釈しております。仕太刀は3
歩前進した最後にホンの少しですが腕の構をグッと前に着き出すのです。このこと
により、その打ち気を制すべくその「虚の隙」である仕太刀の拳を斬りにいってし
まい、結果抜かれて空を斬ります。心が躍らされているため体勢はつんのめり、身
も心も「空」の状態を晒すわけです(^^)
しかし、仕太刀は殺さないのです。お相手に深手は負わせましたが、命まではとろ
うと考えておりません。打太刀は、様子をうかがうべく半歩引くが仕太刀は眉間の
真ん中に切っ先をつけそれを許しません。さらに、打太刀はさらに悪あがきをして
さがってみますが、いよいよ仕太刀は左上段にとり、眼下に見下ろしこれを制しま
す。よって、勝負は完結です(^^)
>余談ですが、上記の中山先生の生き方、Hide.さんに似ていると思いません?。
いったいどこが似通っているとおっしゃるので?
そんなこと、天国の中山先生が聞いたら、気を悪くしますがな(笑)
to PAPAさん
やっぱそれだと、「二本目」もそうしたほうがいいと思われます(^^)
to おおすぎさん
>小太刀3本目の最後って,打ち太刀の刀を押さえながら離れるって教わりました
>がこれは残心ではないでしょうか
大日本帝国剣道形の解説書によりますと、「切先を打方の咽につける。相晴眼とな
り、元の位置に復す。」とあります。これは「一本目」にも共通した記述であるこ
とから、本来は切っ先を付けた後、はなれて相晴眼となってから元の位置に戻るの
が正しいと考えられます(^^)
to 江口さん
ミーシャさんがおっしゃる「高野×中山」「持田×斎村」は「昭和の剣豪」という
DVDにも収録されておりま〜すヽ(^.^)ノ
to 凪さん
「構を解く」動作ですね。
これは、徐々に剣先を開きながら下げていきます(^^)
最終的な剣先の高さは、お相手の左膝くらいです。左の握りを緩めて木刀を手の中
で回してしまう人がいますが、これはいけません。
to IZAYOHIさん
毎度、フォーローありがとうございますm(_ _)m
to ミーシャさん
>高野・中山両先生の形は 今、昇段審査でやったら確実に「×」を頂くだろう
>な!と思う位別物のように、私には見えます。
おっしゃる通りです。
私が小学生のころ(30年以上前(^^;)に教わったときは、「二本目」にも残心が
ありましたし、「二本目」「六本目」の打太刀・仕太刀とも踏み込んで打っていま
した。実は「高野×中山」はそうなってました(^^;
[2001/12/14 13:57:12]
お名前: はくどー
URL
to PAPAさん、
早速のご意見ありがとうございます。
>脳天も腕も切り落としていない相手からは、まず右半身の構えに戻るのが理屈にあっている
>のかな、と考えました。
なるほど、一理あるかもしれませんね。
でも、小太刀の形の2本目を見ますと、3本目と同じように剣先を咽喉部につけて
残心を示したあとの所作について
「その後、打太刀は左足から、仕太刀は右足から相中段になりながら刀を抜き合わ
せた位置にもどり...」
となっています。
PAPAさんの理論によるとすれば、2本目の場合は、似たような体勢から「無防備な
左半身の状態を相手にさらけだし」ながら戻っていることになりますね。
これは、どのように説明すれば良いことになるのでしょう?。
あ!、決して「意地悪」を言ってるのじゃありませんよ。
ここのトピの趣旨に従って、どんな小さな疑問も疑問で終わらせず、
みんなで考えてみようという主旨ですから。>PAPAさん、&ALL
重箱の隅をつっつくような話は、本来は私もあまり好きじゃないの
ですが...ここだけはご勘弁下さい。m(_ _)m
to おおすぎさん
>小太刀3本目の最後って,打ち太刀の刀を押さえながら離れるって教わりましたが
>これは残心ではないでしょうか
ここで「日本剣道形」の研究をするにあたっては、「残心」ということの定義という
か、その意味の示すところについても、しっかりと話し合ってゆかなければなりませ
んね。単に「敵の反撃に備える」という意味だけだとすれば、先にも書いたように、
1本目の上段に振りかぶる残心は、矛盾してしまいます。
>それと,関節を極める人と極めない人がいますけど.
これについては、IZAYOHIさんが「蛇足」として書いてくれている中に、
「入り身トナリ打太刀ノ二ノ腕ヲ押ヘテ刀尖ヲ咽喉部ニ着ケ」とありますね。
これは、大正元年に制定された「大日本帝国剣道形」の原文でして、その後、大正6
年に、これに註釈が加えられていますが、そこには「間接ノ上ヲ稍々横ヨリ制シ」と
あります。
一方、小太刀第二本の場合には、「(仕太刀が)面ヲ打チ打太刀ノ二ノ腕ヲ押ヘ」と
いう原文に対して、「間接ノ上ヲ上ヨリ押サヘテ腕ノ自由ヲ制ス」と加註されていま
す。
つまり、わかりやすく書けば、
押さえる位置 押さえる方向 制し方
○小太刀の形 2本目 (間接の上) (上より) (腕の自由を制する)
○小太刀の形 3本目 (間接の上) (やや横より) ただ単に(制する)
となるわけですね。
ところが、昭和56年に制定されて、現在の私たちが「日本剣道形」の教科書として
いる「日本剣道形解説書」になりますと、この部分の「註」が、
2本目「間接よりやや上部を「上から」押さえて、腕の自由を制す」
3本目「間接よりやや上部を「やや横より」押さえ腕の自由を制す」
となっていまして、2本目と3本目の違いは、「上から」押さえるのか「やや横より」
押さえるかの違いでしかなくなっています。
さて、ここからは私見ですが、
小太刀2本目の形は、仕太刀が打太刀の額を切り付けてはいますが、打太刀はまだ死
んではいませんね。額からだらだらと血を流しながらも、まだ反撃の機会を狙ってい
る状態です。(ちなみに小太刀1本目の形では、脳天を打ち割って絶命させています)
ですから、仕太刀はすかさず剣先を打太刀のノドにつけて「それ以上抵抗するなら、
とどめを刺して命を奪うぞ」という気持を現すと同時に、打太刀の二の腕を押さえて
その反撃を封じます。いつでもノドを突いて殺せる体勢を作った上で、更に反撃を封
じるのですから、その二の腕の間接上部を上から押さえて「ややひねるように」しな
がら「間接を極め」て「腕の自由を制する」のではないかと思います。
小太刀3本目の形は、仕太刀は打太刀を全く傷つけてはおりませんね。つまり打太刀
は無傷なわけです。この無傷の打太刀に対し、腕の自由を制したぐらいでは、すぐに
反撃されてしまいます。すなわち、腕ばかりじゃなく、打太刀の体勢そのもの、そし
て打太刀の心までをも制さなければ、打太刀は「参った」とならないのじゃないかと
思います。
そこで、仕太刀は小太刀による打太刀の鍔元へを押さえと腕に対する「やや横より」
の押さえとの相乗効果によって、打太刀の体勢全体を制してしまいます。太刀と腕の
相互の作用によって制するのですから、無理して腕単独の「間接を極め」て、腕だけ
を制する必要はないかと、私は思います。
体勢を制せられた打太刀は、身体を後ろに引いて、なんとかそこから逃れようとしま
すが、仕太刀は「逃さじ!」とばかりに、体を制したままで打太刀を追って攻め込ん
で行きますから、二三歩下がったところで、打太刀は「これは逃れられない」と知っ
て「参った」となります。そこで、仕太刀は小太刀での押さえを解いて、その剣先を
ノドにつけ、「分かりましたね」と敵を諭します。
小太刀の2本目と3本目は、同じように小太刀の剣先を相手のノドにつけますが、前
者の場合は「抵抗するなら突くぞ」という強い意思が込められていて、それによって
相手が「参った」となってしまうのに対し、後者の場合は、すでに体勢を制せられて「参った」となってしまった相手に対し、その「制した状態」を解除した上で、ノド
に剣先をつけるのは、単に「来るなら突くぞ」ではなく、「こうして争うこと自体が
無駄だということに気づいていただけましたか」という諭しと、「今後は争わずに、
仲良くやって行きましょう」という祈りが込められているように、私個人は思ってい
るのですが、いかがでしょうか?。
皆さんのお考えをいただければ幸いです。
to 江口さん
私も、古い時代の剣道形の映像というのは、ミーシャさんがご紹介下さったものしか
知りません。
特に、斎村五郎先生と持田盛二先生の形の映像は有名らしく、いろんなビデオに収録
されていますね。屋外(どこかの庭か?)で撮影されたもので、なぜか風がもの凄く
強いのが印象的です。どなたか、あの映像が撮影された経緯や場所等をご存じの方は
いらっしゃいませんでしょうか?。>ALL
to ミーシャさん
>高野・中山両先生の形は 今、昇段審査でやったら確実に「×」を頂くだろうな!と
>思う位別物のように、私には見えます。
>そういえば、故大野操一郎先生は「今の形と昔の形は全然違うよ!」と仰って
>おられましたよ!
「中山博道剣道口述集」(株)スキージャーナル刊
という本の45ページ、「形を保存せよ」という項目のところに、
「剣道形一つをもって一切とする剣連は、斯道を甘く、浅く、余りにも簡単に見過ぎ
ているがそんなものではない。この点で私は旧武徳会でも手厳しく主張し、申請もし
協議も依頼もあらゆる方法をとったが、全然手応えがないので、私は私だけの道を行
くとして、それ以後他に主張することを中止して、自大正9年至昭和19年迄の間、
この形や居合や異種に努力を捧げ、自分でも竹刀練習以外に精進して来た結果、次第
に修行者も増加し、今日を迎えるに至ったのである。」
という記述があります。
どうも、大正元年の「大日本帝国剣道形」制定あたって、中山先生自身が深く関わっ
たにも関わらず、出来上がったものが、その後伝えられてゆく課程で、ご自身の主張
する内容とかけ離れていったらしいことが、なんとなく見て取れますね。
高野・中山両先生の形が、現代の日本剣道形と大きく違うのは、この辺にも理由があ
るような気がします。
余談ですが、上記の中山先生の生き方、Hide.さんに似ていると思いません?。
>井上正孝先生の「日本剣道形理論と実際」にも
>色々と私見や疑問点が書いてありますよ。
よろしければ、それを読んでミーシャさんなりに感じたことや思ったことを、カキコ
していただければありがたいですね。
[2001/12/14 12:29:26]
お名前: 江口
To ミーシャ さん。
江口です。よろしくおねがいします。
早速、ありがたいお知らせ 深謝!!
>そういえば、故大野操一郎先生は「今の形と昔の形は全然違うよ!」と仰って
>おられましたよ!
これはぜひ、見てみなければならない ですね。
[2001/12/14 00:54:49]
お名前: ミーシャ
追加です。
井上正孝先生の「日本剣道形理論と実際」にも
色々と私見や疑問点が書いてありますよ。
前のカキコでの剣道方は剣道形の誤りです、間違えました。<(_ _)>
[2001/12/14 00:17:33]
お名前: ミーシャ
江口さん、はじめまして。
福岡の田舎で細々と稽古しているサンデー剣士です。(笑)
さて、映像としてのこされている日本剣道形のいちばん古いもの
か どうかは判りませんが、私が存じているところでは
昭和初期の高野佐三郎先生と中山博道先生の剣道方の映像が
ありますよ。
昭和天覧試合ビデオ(3巻物)の第1巻に入っていたと思います、
ちなみに第3巻には斎村五郎先生と持田盛二先生の形が入っています、
こちらはたしか昭和30年代(うろ覚えです)位だったと思います。
高野・中山両先生の形は 今、昇段審査でやったら確実に「×」を頂くだろうな!と
思う位別物のように、私には見えます。
そういえば、故大野操一郎先生は「今の形と昔の形は全然違うよ!」と仰って
おられましたよ!
[2001/12/14 00:01:46]
お名前: IZAYOHI
蛇足でここにも。w
小太刀
第三本
略
入り身トナリ打太刀ノ二ノ腕ヲ押ヘテ刀尖ヲ咽喉部ニ着ケ
後相晴眼トナリ刀尖ヲ下ケ元ニ復ス。
[2001/12/13 23:25:21]
お名前: 凪
どもです。
ぜんぜん関係ないっすけど、刀を下ろして離れるとき、刃を斜めにしてから下ろすのか、
あるいは下げながら徐々に斜めにしていくのかな?いまいちよくわかりません
お願いします。
[2001/12/13 23:14:21]
お名前: 江口
お世話になっております。
江口です。
映像としてのこされている
日本剣道形の、
いちばん古いもの
(原型またはそれに近いもの)は
いつ(何年の)のものか
ご存じでしたら教えてください。
できれば どうすれば目にすることが
できるのかも教えていただきたいです。
[2001/12/13 21:50:28]
お名前: おおすぎ
小太刀3本目の最後って,打ち太刀の刀を押さえながら離れるって教わりましたが
これは残心ではないでしょうか
それと,関節を極める人と極めない人がいますけど.
はくどーさん,教えて下さい.
きっとこのトピは大にぎわいになりますよ.
[2001/12/13 19:27:33]
お名前: PAPA
生徒その1
はい、小太刀を右手に持っているから! でしょうか? 3本目は剣術と柔術をミックスした
ような技で、相手の右腕を殺してはいますが、相手はまだ生きています。右足から引くと
無防備な左半身の状態を相手にさらけだし、元の位地に戻ることになりますので、不合理。
脳天も腕も切り落としていない相手からは、まず右半身の構えに戻るのが理屈にあっている
のかな、と考えました。見当違いでしたらお許しを!
[2001/12/13 14:57:01]
お名前: はくどー
URL
いやあ、Hide.さん、早いですねえ。
夕べ、日剣の忘年会から帰って、酔っぱらった勢いで書いたら、
もうトピが立ち上がってて、レスまでついてる。(笑)
と言うわけで、早速1本目からいってみますか。
「剣道談話室」の「剣道形のとき左足は?」のトピに江口さんが書いてくださった
情報によると、どうやら「日本剣道形」の1〜3本目は、明治44年に旧制中学校の
正科に撃剣柔術が加わって、その折りに文部省主催武術講習会用として制定された
形が元になっているそうです。
当時の旧制中学の生徒は、現在でいう高校生に相当するとIZAYOHIさんが教えてくだ
さっていますが、その高校生向けの「形」の1本目が相上段というのは、どのよう
な理由からなのでしょうか?。
剣道の基本は中段にありとするならば、本来なら「形」の1本目は相中段である方
が自然だと思いませんか?。
相上段の試合なんて、高校生どころか、一般成人の試合だって、滅多にありません
よね。しかも、現在は昇級審査や昇段審査をうける小中学生も、この1本目の形か
ら始めなければなりません。小中学校では、上段が禁止されているにもかかわらず
です。
更に、この相上段、打太刀は剣道でも普通に行われる左上段なのに対し、仕太刀は
右上段です。なぜ、打太刀と仕太刀の上段の構えが違うのでしょうか?。
更に更に、この相上段から、打太刀が面を切りに行くのはなぜなのでしょう?。
わざわざ、刀によって守られている面を切りに行かなくても、空いている胴なり、
左右の小手なりを切った方が、合理的だと思いませんか?。
そして、更に更に更に(笑)、打太刀が仕太刀の面を切りに行って抜かれたあと、
前屈みで頭を差し出した無様な体勢になるのはなぜなのですか?。
剣道では、打突後に体勢を崩してはならぬと教えられますね。たとえ思いっきり
切り下ろしてそれを抜かれたとしても、前屈みにならず腰を入れてしっかりとした
体勢を作るのが正しいのじゃありませんか?。ましてや打太刀は師の位ですよね。
でもって、最後の最後、仕太刀が打突後に上段で残心を示すのはなぜなのでしょう。
「形」ですから、切られた打太刀はそこに立っていますが、本来ならば絶命して
その場に倒れているわけでしょ。もしも完全に息の根が止まっていないで、反撃さ
れる場合に備えるというのであれば、むしろ上段に構えずに下段に構えて、下から
足を切られる場合に備えた方がいいのじゃありませんか?。
...と言う具合に、「日本剣道形」って、ちょっと考えると矛盾だらけですよね。
この矛盾を上手く説明する方法はないものでしょうか?。
皆さんも、一緒に考えてみませんか?。
to こうさん
いきなり鋭いところを突いてきましたね。さすがです。
小太刀の形3本目は、全剣連の日本剣道形解説書(昭和56年12月7日制定)により
ますと、「打太刀は右足から仕太刀は左足から相中段になりながら刀を抜き合わせ
た位置にもどる」とあります。
ですから、これに従えば、打太刀は右足から前進しながら抜き合わせた位置に進み、
仕太刀は左足から後退しながら抜き合わせた位置に退くことになります。
でも、これもなんだかおかしい気がしませんか。仕太刀が小太刀を右腰にとって
残心を示したとき、両者の足の位置は、打太刀も仕太刀も、それぞれ左足前の右足
後となっていますね。ということは、打太刀は後ろの足から進み、仕太刀は前の足
から下がることになります。
ここで、この小太刀3本目以外の形を思い出してみてください。他の形の全ては、
進むときは前足から、退くときには後足からというのが基本になっていませんか?。
小太刀3本目だけが違うのはなぜなのでしょう?。
[2001/12/13 14:10:39]
お名前: こう
URL
早速質問です!
小太刀の三本目なんですが離れる時はどちらの足からでしょうか?左足、と認識しているのですが、はっきりしません。是非教えて下さい!
[2001/12/13 12:17:01]
お名前: Hide.
「第2回剣道形の会」を来年の4月(予定)に催すにあたり、皆様方が日ごろ日本
剣道形に対して「疑問に思っていること」をここに一挙に集めてみようではない
か、というご提案がはくどーさんより持ち上がり、このトピックを立てた次第です
(^^)
疑問・質問をその都度ここでお答えしていくか、また、「剣道形の会」までの宿題
とさせていただくか、などの方針は決定しておりませんが、まぁ、とりあえず、動
きだしてから考えようと思います(^^;
ちなみに、「剣道談話室」の「剣道形のとき左足は?」で非常に熱く深い考察が行
われている最中ですので、電剣会のみな様、ぜひぜひご覧くださいm(_ _)m
あ、「剣道形を大切に」も合わせてどうぞヽ(^.^)ノ
[2001/12/13 11:43:14]
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