記事タイトル:掛け声の意味 


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お名前: Hide.    URL
To 魔根金さん

少しでもお役に立ちますればうれしく存じます。
でも、基本的には、あまり好ましい方法とは思えません。やはりキチンと「メン、コテ、
ドウ、ツキ」と発声するようにした方がいいでしょうね(^^)

お名前: 魔根金   
なるほど!ありがとうございます。

お名前: Hide.    URL
To 魔根金さん

○×▲◆〜〜」と叫んだ後に「メンだぁ」「小手だぁ」とフォローしえいるのではないで
しょうか(;^_^A

お名前: 魔根金   
Hide.さん、ありがとうございます。

しかし、テレビで全日本の試合とかを見てると、打突部位の名称を言っていない人が
多いように思えるのですが、それは私の気のせいでしょうか?

お名前: Hide.    URL
To 魔根金さん

管理人のHide.です。

このトピの下の方をお読みになるとお判りになると思いますが、剣道では、打突時に打突
部位の名称をいわないと一本にならないんですよ(^^;
面を打って「やー」ですと、あたっていても一本にならない可能性がありますので、損を
しますねd(^-^)!

お名前: 魔根金   
はじめまして、魔根金です。

打突の際の掛け声は、面を打つ時は「メーン!」と言うように、必ず打突部位を言わなければ
ならないのですか?
たとえば、面を打つ時に「やー!」などと言ってはなにか損があるのでしょうか?
かなり気になります。ぜひ教えてください。

お名前: Hide.    URL
To 猫銀さん

へ〜、そうなんですか。
なんか興味深いですね。今後、この方にも注目してみますね(^^)

お名前: 猫銀   
to  Hide.さん

私もつい最近NHK教育の日本語講座で知ったばかりでして、
語感と動作のイメージとの関係性について長年の疑問が氷解したような気分でいます。

六根清浄→ドッコイショ、 誉勇講礼→エンヤコーラ、 宜し候→ヨーソロー
のように意味のあった言葉から転訛した掛け声と違い、「曳曳(えいえい)」で
呼びかけて「応(おう)」で合わせるような力声(ちからごえ)は、日本語の母音に
根ざした古い掛け声のようです。
「えいとう、えいとう」という掛け声は狂言にもあるもので、もしかするとこちら
が直接の語源なのかもしれませんが、漢字を当てると「永当(えいとう)」となり
「幾久しく」という意味の感嘆詞として用いられることもあるそうです。

お名前: Hide.    URL
To 猫銀さん

いやぁ、興味深いお話ありがとうございました!
黒川伊保子さんという方を存じ上げませんでしたので、GOOGLEで調べてみましたところ、
ははぁ、感性アナリストねぇ・・・。
面白い研究をしていらっしゃる方なんですねぇ(^0^)

しかし、勉強になりました(^^)

お名前: 猫銀   
メン、コテ、ドウ、等の打突部位を発声する意義、また発声が生理的に瞬発力を
引き出す効果についてはすでに何度も論じられてきたことと思います。

しかし、伝統的掛け声が何故ヤー、トー、エイであるのか?
最近話題の黒川伊保子女史の著書を読み、言葉の発音構造が脳内の意識に与える影響
という観点からある程度納得のいく説明が可能になりましたので、
ここに書き込みさせていただきます。


まず「ヤー」ですが、元々はイ・アーの母音同士の組み合わせが崩れていったものと
思われます。 「ア」の音は開放的かつ意識を前方に向ける際の音、「イ」とは
さらに意識が先鋭的に対象に突き進む音で、さあこれから相手に向かっていくぞと
自分自身を鼓舞する場合の自然な発声である、と考えられます。

次に「トー」とは、何かモノに当たった時の語感を持つタ行の子音(タッタッ、
チッチッ、ツツー、テンテン、トントン)と口腔を閉じて籠もる母音「オ」と「ウ」
でできており、体を小さく固めたり背中を丸め腹を引っ込める態勢での発声、と
考えられます。 相手の打ちを受け留めたり、迎え突きをくれるような場合に発する
のが適当であり、剣道形において仕太刀が応じる際の掛け声とされているのはこれが
遠因であろうかと思われます。

最後に「エイ」ですが、母音「エ」は下あごをスライドさせるように引き下げて口腔内
に平たい奥行きを持たせる音で、平面的広がりや身を低くするような語感を持つ音で、
(話をしていてよく「え〜」「え〜と」となるのは目上の人間に対してへりくだって
物を言う様子が習慣化したもの)
これが「イ」と合わさることで太刀を力強く切り下ろす場合の発声になる、と考えられます。

お名前: Hide.   
to ODA爺さん
いえいえ、ODA爺さんをはじめ皆さん本当に剣道を深く探求していらっしゃる方々
が多く、私も心の底から勉強させていただいている毎日です。感謝いたしており
ますm(_ _)m


to Fすずのすけさん
>調和とか活人剣とかの段階は、「その前の段階を踏まえた、その先」と考える
>ことはできないでしょうか? 
そうですねぇ。でも、そんなに先のことではないと思います。中高生や大学生が
「勝負・勝負」を求められているのと違い、大人の剣道愛好家は、家庭や家族を
大切にし、仕事との調和を持ちながらお稽古に取り組むことが必須です。その中
から求め、また、生まれてくるものは、「お相手を傷つける剣道」ではないと考
えます(^^) 自分以外の「他人」が問題なのではなく「自分自身の心との勝負(対
話)」こそ「道」を学ぶべき本質ではないでしょうかヽ(^.^)ノ


to 秋水さん
>別にこのトピックで剣道の本質論について、論争をするつもりはありませんの
>で、深く述べるのは遠慮させていただきました。
了解いたしました(^^)

最後に、偉そうな物言いに聞こえるかもしれませんが、きっといつか秋水さんに
も私たちの言いたかったことがおわかりになる日が来ると信じております(^_-)〜☆

お名前: 秋水   
ODAさんへ

  結局のところ、よくわかりませんでした。誠に申し訳ないです。
いろいろと話していただき、ありがとうございました。かさねてお礼申し上げます。

  Fすずのすけ 様へ

  なんだかよくわかりませんが、温かいお言葉をいただき誠にありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。

  皆様へ

 「武道」は即ち「人殺し」。というのは、私にとって必須条件のような物です。
>もちろん私は「人殺し」だけが目的で武道をしているわけではありません。
と、前に書いたとおり、私は「心」の鍛練を無視して武道に取り組んでいるわけでは
ございません。私は「人殺しの練習」を通して、心身の鍛練をし、礼儀を学んでいるだけです。
別にこのトピックで剣道の本質論について、論争をするつもりはありませんので、
深く述べるのは遠慮させていただきました。

  拙い文面で申し訳ありません。
                                                        秋水

お名前: Fすずのすけ    URL
こちらはまた、すばらしい内容のトピですね。外国のかたにも
これぐらいの次元で、剣道を紹介できればと、おおいに学ば
せていただきました。
  ほぼ結論に至った趣きのところで、オマケ的発言なので読み
流してくださってよいのですが、わたしは秋水さんの論に
さほど違和感を覚えません。話をわかりやすくするために
やや極端な言い方をされたまでで、お人柄としてはきっと
コミュニケーションを大切にされる柔和な方ではないかと。
  静岡や宇治の名茶を喫するのに、湯の温度は60度ぐらいが
よいとか。しかし一旦は100度以上に沸騰したお湯でないニ、本当の意味での適温になれません。剣道も三段ぐらいまでは
「打って打って打ちまくれ」と昇段審査前に近しい人から
指導されるのが実態ですし、調和とか活人剣とかの段階は、
「その前の段階を踏まえた、その先」と考えることはできな
いでしょうか?   以上、二段に挑戦中の者からの愚論でした

お名前: ODA爺   
to Hideさん
いつも長文になってしまい、本当に申し訳ありません。
何とか短くまとめようとは思っているのですが、うまく考えがまとまりません。
Hideさんにも共感いただけて、本当に嬉しいです。
to秋水さん
剣道の魅力は、やはり、剣道の修行をとおして、心身の鍛練が出来るばかりでなく、たくさん
の、心を通い合わせる事の出来る、良いお友達に出会えることだと思います。初めてお会いす
る方でも、お稽古を頂戴し、面を取ると、まるでずっと前からお友達だったように親しく出来
るのは素晴らしい事です。
お互い、これからも、そうした数多くの出会いが有りますように。

お名前: Hide.   
おおお、出遅れているうちに、かけ声の話から剣道の本質論へと変化してきておりますね。ODA爺さんと秋水さんのカキコ、たいへん興味深く読ませていただきました。


to ODA爺さん
>恐らく、「コテがあいてますよ」「メンがあいてますよ」「ここに隙がありま
>すよ」という意味で、お相手に教えて差し上げるために発生し始めたのが最初
>ではないかと思います。時代劇でもよく「隙アリ〜」なんてやりますよね。あ
>あ言ったニュアンスだったのではないかと考えます。

このお話を読みまして、ウン、たしかにそうに違いないと確信するところがあり
ます。昔の先生方は「お面だぁ」「ホレ、お小手頂戴だぁ」なんて感じでお稽古
をつけてくださいました。それは、「面を打ったぞ!」「小手を取ったぞ!」と
いう自己顕示的な発声ではなく「教え導き諭す」ための発声でした。
しかしいつの間にやら、私も試合剣道に毒されてきていたのでしょう、「メン・
コテ・ドウ・ツキ」の発声を「自己表現」と曲解しておりました。実によいお話
をいただきました。ありがとうございますヽ(^.^)ノ


to 秋水さん
>私の剣道観は禅とは関わりを持っておりません。「武道」はいきつくところ「人
>殺し」。というのが私の個人的な考えです。竹刀剣道も私にとって「人殺しの
>練習」にほかなりません。そういう意味ですと、私は人を傷付け、あやめるた
>めに剣道をしております。
とするならば、剣道があまり実践的な武術でないことがおわかりいただけるので
はないかと考えますが・・・(^^;

残念ながら、竹刀の振り方で刀を持ったとしてもお相手を斬ることは不可能です。
また、あんな500g程度の竹の棒を器用に操れたからといっても、人は殺せま
せんしね(笑)

まぁ、どんな気構えで剣道に取り組まれてもそれは個人の自由だと思いますが、
おそらく秋水さんと同様のお考えの方は少ないと思われますので、お相手に対す
る礼を失することだけはお気をつけいただいたほうがいいでしょう。

私は「打って感謝」「打たれて感謝」の中から、自分自身の技量の向上が図れる
のが剣道と考えております。一方的に叩き臥すだけの剣道からは、学ぶことが少
ないように思いますね。また、「いいお稽古ができた」という歓びや、お相手と
の「心の交流(=交剣知愛)」も得られないと思います(^^;

剣道は楽しいですよ。剣道は様々なことを自分に教えもたらしてくれます。これ
からのお稽古を通じて秋水さんのお心が、「人を殺傷する」というものから「お
相手とともに生きる」という方向性に変化してくることを、一剣道愛好家として
切に願いたいものです(^^)

お名前: ODA爺   
秋水さんへ

>座禅の修行において、警策でバンバ〜ンと打つ時は無言なのに、なぜ剣道においては
>打ち込みの時に発声するのでしょうか?剣道において竹刀で打ち込まれれば、わざわ
>ざ発声して教えてもらわなくても、隙があったことも迷いがあったことも体でわかる
>と思うのですが。
この秋水さんの疑問は、確か、以前Hideさんからのレスで既に解決されていたのではな
かったですか。
私の言葉で答えするならば。「それは、剣道だから」ということですか。ただ、私も、
いろいろな稽古の仕方が有るのは良い事だ、というより、いろいろ自分に合った方法を
試してみるのは良い事だと思います。必ず、自分に一番合ったやりかたがある筈です。
しかし、剣道の試合では声を出さなければ「一本」と認めて貰えませんし、試合でなく
てもお相手はなかなか納得してくれないと思いますよ。お互いにルールにのっとり納得
の行く稽古を心掛けてこそ、楽しく、自分自身の向上につながる稽古になるのではない
でしょうか。勿論、一人稽古をする時などは発声無しやることはまったく支障無いでし
ょうし、むしろ身体の動きを確認しながらやる時などはその方がいいのかも知れません。
>ODA爺さんの剣道観が禅と深く関わっていることがよくわかりました。
剣道観・・・。特にその様に意識したことは有りませんが、ただ、これまで、お稽古を戴
いた私の師匠、はじめ、諸先生方、先輩方から賜ったご意見への私なりの理解だと思い
ます。剣道と禅との関わりについては、斯界では常識的に述べられていることです。
>竹刀剣道も私にとって「人殺しの練習」にほかなりません。
>そういう意味ですと、私は人を傷付け、あやめるために剣道をしております。
剣道をその様に考えられるのは残念なことです。
ただ、剣道の稽古を続けられればお解りになると思いますが、所詮、スピードとかパワ
ーといった人の運動能力には限界が有るものです。この限界を更に補い、解放してくれ
るのが「心」の部分だと思います。剣道の世界には、年をとられても若い世代に負けな
い能力を発揮される方が大勢いらっしゃいます。私自身、かつて、その前の年の全日本
選手権優勝者が老範士に手玉にとられるのをこの目で見たことが有ります。方法は禅で
あれ何であれ、剣を交えてやりとりされる「心」の部分に着目されるとまた楽しみが広
がるのではないかと思います。
>これは、ODA爺さんが書かれた「真剣勝負と同様にぎりぎりの境涯を求める。」と
>いうことと同じです。
これは違いますね。私の答えはNoです。確かに「真剣勝負と同様にぎりぎりの境涯を求
める」と書かせて頂いておりますが、これは前にも書かせて頂いたとおり、ここで求めているのは「人殺しの練習」ではなく
>「交剣知愛」の言葉にも象徴されるように、剣を交えてお互いを理解しあう、お相手
>を活かし、自分も活かして頂く、そして心と技の切磋琢磨を行う
ということで、これこそ剣道の理想だと考えます。

お名前: 秋水   
ODA爺様へ

  たくさんのお返事誠にありがとうございました。私はいろいろと誤解しておりました。
申し訳ありませんでした。
ODA爺さんの剣道観が禅と深く関わっていることがよくわかりました。大変勉強に
なりました。ただ少し疑問に思うところがあります。
座禅の修行において、警策でバンバ〜ンと打つ時は無言なのに、なぜ剣道においては打ち込み
の時に発声するのでしょうか?剣道において竹刀で打ち込まれれば、わざわざ発声して
教えてもらわなくても、隙があったことも迷いがあったことも体でわかると思うのですが。

>秋水さんは人を傷つけ、あやめるために剣道をおやりになっている訳ではありませんよね。

  私の剣道観は禅とは関わりを持っておりません。「武道」はいきつくところ「人殺し」。
というのが私の個人的な考えです。竹刀剣道も私にとって「人殺しの練習」にほかなりません。
そういう意味ですと、私は人を傷付け、あやめるために剣道をしております。
これは、ODA爺さんが書かれた「真剣勝負と同様にぎりぎりの境涯を求める。」という
ことと同じです。もちろん私は「人殺し」だけが目的で武道をしているわけではありません。

  なにぶん私の考えなどは粗雑で単純ですから、ご理解いただけないかもしれませんが、
今後ともよろしくお願いいたします。
                                                           秋水

お名前: ODA爺   
秋水さん
はじめまして。こちらこそよろしくお願いいたします。
 
秋水さんからのお問い合わせに答えさせて頂きます。
最初に−
>・・「竹刀剣道」は「立禅」のひとつであるから、礼に始まり礼に終わる。剣道におい>て「掛け声」は「礼」なのです。・・・
、と、まとめていただきましたが、このご解釈は、私が申し上げたいこととは残念ながら
異なります。
今日の剣道は、江戸期以来、禅の影響を多分に取り入れながら形成されて来たものです。
もともと江戸時代の武士階級が曹洞宗や臨済宗に代表されるいわゆる禅宗に帰依する者
が多かったことによる影響も大きかったと思いますが、いずれにしても剣道にはこの禅
の要素が多分に取り入れられて来ました。生と死の間に身を置くという意味において、
剣術の修行と仏教の修行の同一視、合一化が図られて来たのではないかと思います。
今日、我々が剣道を行うのも、また小さな子供たちが剣道を始めるのも相手を痛めつけ
たり、まして、人殺しの技術を学ぶためにやっているのではありませんね。多くは、
健康のため、精神修養のためといった自身の向上の為、平和的な目的のために修行して
いらっしゃる。その意味において現在も剣道の中には禅の心が息づいていると言えます。実際、究極の剣道は技を出さないことに有るという意見さえ有ります。これを「鞘の中」(刀を抜かないこと)などと表現する場合も有りますが、最終的には、お互いに切り合
いなどしないで穏やかに収めましょう。というのが剣道の理想ではなかったかと思います。だからこそ、生と死のぎりぎりの境涯に身を置きながら、正しく身を処することの
出来る判断能力を養うことを理想としたのです。先人たちは、そうした境涯に剣の道と
禅の修業を重ね合わせたのだと思います。
実際、剣をとって立ち会えば解ることですが、ほんの些細な心の迷いや、思い込みとい
った判断の誤りの有無が勝敗を左右します。仰られるように、現在でもこうした心の迷
いを除くために剣と禅の修行を併せて行われている方は少なからずいらっしゃいます。
現在の剣道は仰られるとおり、いわゆる「竹刀剣道」ですから、よほどのことが無けれ
ば傷つき、死に至ることはありません。にもかかわらず、あえて勝負の形をとり、2本
先取した者を勝ちとしています。しかしながら、一本をとる以上はただ手数を頼むので
はなく、真剣勝負と同様にぎりぎりの境涯を求める。即ち、生と死が隣り合わせた擬似
空間を作り出し、その中で、先人たちの学んだ心と技と同じものを修得しようというも
のだと考えます。一本の条件となる気・剣・体の一致というのは正にこの部分にこそ求
められているのではないかと考えます。剣道の試合は一本をとることによって勝負がつ
きますから、ついつい打突することにのみ目が、気持ちが、行ってしまいますが、本当
に大切なのは打突を出すまでのプロセス(ぎりぎりの境涯における決断と正しい剣の操
法そして正しい体の運用、即ち、気・剣・体の一致)ではないでしょうか。
いずれにしても我々は禅による修行の境地に近いものを剣道の修行をとおして実践して
いるということになります。
そうした意味で、
>剣道はこの「立禅」のひとつの形態とも言えるのではないでしょうか。
と申し上げているのであって、「竹刀剣道」(という言葉は好きではありませんが)イ
コール「立禅」と申し上げた訳ではありません。
> 「ここに隙がありますよ。」という意味で、お相手に教えて差し上げることの意味は
>なんなのですか?
これは、先にも書かせていただきましたが、
>座禅の修行においても、心に弛みや雑念が生じた時に後ろから肩をパンパ〜ンってや
>りますよね。
ということで、雑念や、迷いが生じたことをお相手に教えて差し上げるということです。
この結果、お相手は一本とられることになります。これを二度繰り返せば負けになります。生死のぎりぎりの境涯を意識するのであれば、勝負は一本でも良いと思いますが。
>「立禅」のひとつであるから礼に始まり礼に終わると言われる理由はなんですか?
つまり、お相手は自分にとって雑念が生じたり、心の迷いが生じたりしたところを教え
てくれる。禅の師匠のようなものですよね。まして、時には、竹刀でその身を叩かせて
もくれる訳です。これに対し礼をもって遇するのは当たり前ですよね。
>それならば、竹刀などを持って人を叩くような失礼な行いはなさらずとも、すなおに
禅に取り組まれた方がよいかと思うのですが、どうお考えでしょうか?
これは私の
>剣道は人をあやめる手段ではありません。まして今の時代に刀を執ってミサイルに勝
>てると考える人などいません。剣道によって最終的に鍛錬すべきは「心」であり、相
>手を叩き切るためのパワーではありません。
という意見に対するご意見ですね。
こころみに、秋水さんは、人を傷つけ、あやめるために剣道をおやりになっている訳で
はありませんよね。もともとこのトピは剣道を行うことを前提として立てられたはずで
すから。その前提に立って意見を述べさせていただいています。

お名前: 秋水   
Hideさんへ

  Hideさんお疲れのところ、たびたび返信いただきありがとうございました。
私の考えを少しでもわかっていただけて、ありがたく思っております。私もHideさんの
考えられていることが、少しわかってきました。・・・

>誤解なきよう書いておきますが、丸めこもうとして「ルール」を持ち出したのでは
ありませんよぉ

  もちろん、誤解するつもりはありません。筋の通ったご意見だと思っております。
いろいろと話していただき、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。

  ODA爺様へ

  ODA爺さん、はじめまして。お世話になります。いくつか疑問に思う所がありましたので
お便りさせていただきます。

 「ここに隙がありますよ。」という意味で、お相手に教えて差し上げることの意味は
なんなのですか?

  私なりにODA爺さんのお考えをまとめてみましたところ・・
・・「竹刀剣道」は「立禅」のひとつであるから、礼に始まり礼に終わる。剣道において
「掛け声」は「礼」なのです。・・・
となります。間違っていたらすみません。

 「竹刀剣道」は「立禅」のひとつと言われる理由はなんですか?

 「立禅」のひとつであるから礼に始まり礼に終わると言われる理由はなんですか?

>剣道は人をあやめる手段ではありません。剣道によって最終的に鍛練すべきは「心」であり、
相手を叩き切るためのパワーではありません。

  それならば、竹刀などを持って人を叩くような失礼な行いはなさらずとも、すなおに禅に
取り組まれた方がよいかと思うのですが、どうお考えでしょうか?

 「剣禅一如」「活人剣」に対する考え方や、「礼」の尽し方や、「心」の鍛練の方法などは、
人それぞれ違うと思いますので、わかりづらいです。無学な私にもわかるように説明して
いただければ幸いです。つたない文面で申し訳ありません。
今後ともよろしくお願いいたします。
                                                         秋水

お名前: ODA爺   
はじめまして。
こちらのトピには初めてお邪魔させて頂きます。
これまでの皆さんのご意見を大変興味深く拝読させて頂いておりました。
少し角度が変わってしまうかもしれませんが、ここで私の意見を少しだけ述べさせて
いただきたいと思います。
「剣禅一如」という言葉があります。
これは、字義のとおり剣と禅はひとつ、との意味を表したものだと考えますが、
この言葉は、剣術が単なる人殺しの技術であった戦国時代以前には当てはまり
ません。
戦国末期に発生した剣術諸流派の祖師たちが、過酷な修行に明け暮れた末にある日
忽然と剣理に悟りを開いた、それは、あたかも神仏の加護によって得られた千載一
遇の悟り、神気で有ったと感じられたことでしょう。そうしたことも手伝い、実際
わが国の剣術の諸流派の名称には「神」「真」他、神様に連なる名称が多いのだと
思われます。しかし、その後、周知のとおり、わが国の剣術の歩みは世界史上にも
希に見る特殊な経緯を辿りました。即ち江戸時代260年間の太平の時代を経て、剣
の修行は禅の道と結びつき、単なる人殺し剣術が、心の修行のための、平和的維持
のための手段としての姿をも整えて行きました。
そして現代、この平成の時代に我々が「剣道」として修行、愛好している武道は、
正にこの禅の要素を取り込んだ「活人剣」の流れです。だからこそ、これは、殺
人の手段としてではなく、「交剣知愛」の言葉にも象徴されるように、剣を交え
てお互いを理解しあう、お相手を活かし、自分も活かして頂く、そして心と技の
切磋琢磨を行う。そのような意識で取り組むのが望ましいのではないかと考えます。
前置きが長くなりましたが、ここから「コテ」「メン」「ドウ」「ツキ」の掛け声の話
になります。
以上のことから、これら掛け声の発生の由来については書き物を見たことが
有りませんが、恐らく、「コテがあいてますよ」「メンがあいてますよ」「ここに隙が
ありますよ」という意味で、お相手に教えて差し上げるために発生し始めたのが最初で
はないかと思います。時代劇でもよく「隙アリ〜」なんてやりますよね。ああ言ったニ
ュアンスだったのではないかと考えます。
座禅の修行においても、心に弛みや雑念が生じた時に後ろから肩をパンパ〜ンってやり
ますよね。
あれと極めて近いものだと思います。
実際、立って行う禅(立禅)も有ります。剣道はこの「立禅」のひとつの形態とも言え
るのではないでしょうか。
なればこそ、剣道は礼に始まり、礼に終わる。自分を磨いてくれるお相手を敬い、立礼
ばかりか蹲踞の礼(わが国の古代、貴人に対して行われた最大限の敬意を表す礼法)ま
で行って立会いに入るのではないでしょうか。
ついでに申し上げさせていただきますと、以上、述べさせていただいたとおり
剣道は人をあやめる手段ではありません。まして今の時代に刀を執ってミサイルに勝て
ると考える人などいません。剣道によって最終的に鍛錬すべきは「心」であり、相手を
叩き切るためのパワーではありません。よって、渾身の力をこめた歯を食い縛っての打
突は必要ありません。
また長くなってしまいました。


すがたを

お名前: Hide.   
to Fitzさん
>より近いと言えば「打突が成功する瞬間」です。野球では「インパクトの瞬間」
>に発声することは有り得ないのに、剣道ではそれが当然とされている。これが
>疑問なわけです。
下にも書きましたが、息を詰めるようにいたしますと力が入ります。さいころさ
んがおっしゃっていらっしゃいますが、剣道はそんなパワースポーツではありま
せん。150キロのボールを外野まで運ぶような力は必要ないんです。そんなに
力を込めて打ったら、痛いですしね(笑)
刀で叩き斬る技術ではなく、竹刀で打突部位を打つ競技なんです(^^)

>その点剣道は特殊なのでしょうか。
特殊ですね・・・とまとめてしまうと話が終わっちゃいますが、私は「メーン」
と発声しながら打突しても、打突の瞬間にはキチンと丹田部分に気の集中を感じ
ますし、剣先にも必要十分なだけのパワーを与えることが可能です。打突の瞬間
に息を詰めていたのでは「呼吸の止まった打突」になってしまいませんか?(^^;

たとえば、連続技を打つ場合の呼吸はどのようにしたらいいのでしょうか? 小
手面などは、小手の直後に力が解放されていなければ滑らかに面の動作に移れま
せんが・・・(^^;


to 秋水さん
>小学生には小学生の技の心があるわけですから、声以外の事柄で感じ取ること
>は可能だと思いますし、声だけを判断材料にするのはどうかと思います。
声だけを判断材料にはしておりません。しかし、声は「技の心」を判断する重要
なポイントになります。意思を表現し、それをより明確に伝える手段が「声」な
のではないでしょうか(^^)

>発声なしで立派に成り立っている格闘技が多いのに、剣道だけがなぜ?と疑問に
>思ってしまう
一流選手になると100分の数秒という短い時間の中で、竹刀が打突部位のたっ
た一点をとらえます。その「技の心」は互いの実力が伯仲していればいるほど見
極めるのが難しくなるでしょう。そこに、「さらなる意思の伝達手段=声」を加
えたのだと考えたら・・・(^^)

なにしろ、当たったら倒れるとか、投げたら転ぶといった明確な「動作上の敗け」
がありませんから(^^;

>最終的に「発声はルール上のものですから・・」と言われてしまうと私として
>は素直に「わかりました。」というしかありませんね。
誤解なきよう書いておきますが、丸め込もうとして「ルール」を持ち出したので
はありませんよぉ(^^;
秋水さんが「声なくして技の心を表現しうる’静かなる剣道’」を提唱し、取り
組まれていかれのであれば、それをルールによって縛ろうなどとは毛頭思ってお
りません。むしろ、声などにとらわれず「気」や「心」を表現しうる(熟達され
た先生方はそうなっておいでですから)ようお稽古していくことの方が、正しい
のかもしれませんしね(^^)

ただ、ルールに則って試合をしなければならない青少年のご指導に携わる場合は、
「元気よく大きな声で」と教えてあげていただきたく存じます(^_-)〜☆

お名前: 秋水   
信之丞さん、親馬鹿一刀流さん、Hideさん、お返事誠にありがとうございました。
アズサさん、Fitzさん、お便り拝見いたしました。

  書き忘れておりましたが、私は打突前の掛け声については疑問を感じたことはありませんし、
批判するつもりもありません。「おおさぁ〜」などと、古風な掛け声を発するのを聞くと、
ウットリしてしまうこともしばしばです。私が疑問に思うのは「めん、こて、どう、つき」
の発声です。

  Hideさんへ

> 秋水さん御本人は、「気」が見えるのですか?たとえば、まだ小学生くらいの子供が
打った技の気を声以外で感じ取ることが可能でしょうか???

  ここで問題になってくるのは「気っていったい何??」ということなのですが、私の中で
「気」は「心」という結論が出来上がっておりますので、それに沿って私の思うところを
述べさせていただきます。
  「気」は「心」という意味では、私は「気」が見えますし、感じられます。としか言いようが
ありません。・・といいますか、普通の人なら誰でも見ることも、感じることも、伝えることも
できるでしょう。
次の御質問の「技の気」は即ち「技の心」となり、これを声以外で感じ取ることは十分可能だと
思います。「技の心」というのは「視線」「声」「動作」など、いろんな事柄から伝わってくる
物なのではないでしょうか?ですから、小学生には小学生の技の心があるわけですから、
声以外の事柄で感じ取ることは可能だと思いますし、声だけを判断材料にするのはどうかと
思います。

  なにか論争が二極化して、私の言いたいことがなんであったのか、わからなくなって
きそうなので、もう一度率直に私の思うところを書いてみます。・・・
私はここまで「発声」について、いろいろと意見を述べさしていただきましたが、べつに
「発声」が非合理的だからいらない。とか、やめてください。とか申し上げるつもりは
全くありません。Hideさんの言われたとおり「剣道は自己表現」ですから、発声も
剣道の表現だと思います。ただ私は、発声を行わないのも剣道の表現の一つだと思うので、
静かなる剣道もあってもよいのではないかと思うのです。
そして発声なしで立派に成り立っている格闘技が多いのに、剣道だけがなぜ?と疑問に
思ってしまうのですが、最終的に「発声はルール上のものですから・・」と言われて
しまうと私としては素直に「わかりました。」というしかありませんね。「それじゃあルール
を変えてください。」とかいう、聞き分けの悪い人じゃありませんから。

  いつも拙い文面で申し訳ありません。今日ばかりは、私は脳ミソがトロけそうになりました。
今後ともよろしくお願いいたします。
                                                        秋水

お名前: Square   
to さいころさま
いえいえ、私も無言で打突はちょっとしません(^^;)
今回の質問のきっかけはお若いスピード&パワー剣道のお相手と稽古させていただいた
時に相手のスピードに自分がついていくために(既にここで負けなんですね)、頭が白く
なり訳の判らん「うわー」だの「しぇー」だの叫びながら掛ってしまったことが恥ずか
しく、またこれがきっかけであれがいつもの癖で「め〜ん」と言いつつ打ち掛かってい
たら、ルール上どうなるのかと言うのが趣旨でした。

to 皆様
質問の言い出しっぺが尻込みしつつ出てきませんで申し訳ありません。
実は上述のように限定された状況での掛け声の効用とルールの解釈に
ついての質問と言う程度にしか自分の中に考えが無かったもので今回の
掛け声そのものの本質に関する論議にはお恥ずかしいかな参戦できるだ
けの考えが無いことが露呈してしまいました。本当に良い勉強になって
ます。これからもよろしくお願いいたします。

お名前: さいころ   
ウワー、今迄そんなことを深く考えた事が無かったので、悩んでしまいました。
ただ、日頃剣道をやっていて じゃあ声を出さないでやってみて といわれたら
多分ちぐはぐになってしまって出来ないと思います。
それが自然になってしまっているんですネ。
Squareさんは、声出さないで打ったりするんですか?
「ワン」に「ワンワン」ってなる時ありますよ。(*^.^*)
それは打つときじゃないですけど、お互い気合入ってるて言うような感じで。
私は掛け声を出すときは口開いてます。そんな大きく開けてるわけじゃないですけどネ。
ちょっとあいた状態でお腹の方から声を出してる…つもり。(^.^)
奥歯を噛み締めちゃったら、体によけいな力が入っちゃいそうです。
他のスポーツもわからないのに言うのもなんですが、
剣道ってそんなにパワースポーツでも無いように思うんですよね。
その辺もちょっとは関係ないかしら?

変な文章ですみません…。

お名前: Fitz   
Hideさんへ

お忙しいところお返事頂きまして、本当にありがとうございます。私の考えを書かせて頂きま
す。

>奥歯を噛みしめるよりも口を開けて発声したほうが、余分な力が抜け
>て親馬鹿一刀流さんやアズサさんのように「カラダ(や技)の抜けがよくなる」

うーん、そういうものなのでしょうか。正直まだ体感したわけではないので、直ぐにはい解り
ましたとは、言えないです。ただ、初心者が理屈ばかりで突っ張っていても始まりませんので
、「そういうものだ」とお教えいただいたことを大切して稽古に励みたいと思います。

>Fitzさんは高校時代の格技の先生のおっしゃった「剣
>道における厳粛」を持ち出されておいでですが、それは理想論にしか過ぎません。
>長年修業を積み重ねてはじめてそういう境涯に到達するのであって、最初から「相
>手を恐れず」という具合にはいきません

はい、この点は私なりに承知しているつもりです。私がその境地に達している、達す
ることができるなど、「まさか」考えているわけではありません。私の文章にそう思われる点が
ありましたでしょうか。

>「ワン」と言われて「ワンワン」と吠えたって、それで精神の安定が図れるなら
>よろしいのではないでしょうか? むしろ気取って無声を貫き「自己満足の気力」
>におわってしまうよりよほど素直です

お相手や他の方がそうしておられるのを見て、「ワンワン」と吼えている。などとそういう目で
他の方の剣道を見ているわけでは、絶対にありません。我ながら誤解を招く文章が多いようで
す。申し訳ありません。「状況」を解りやすく「表現」してみただけなのです。

>剣道でも、一足一刀の間合に入ってからみだりに大声で掛け声をかけたりしませ
>んよ(^^; そこは、呼吸ひとつすら読み合いをしている間合。声を出し終わって
>息を吸い込む瞬間に隙が出来ますから、声なんかかけません

確かに声をかけてらっしゃらないよう見えます。おっしゃるところ、よく理解できます。ただし、私のいう「イチロー選手」の「ヤー」「ウォー」というのは、野球で言う「間合いを計って
いる状態(投手が投球動作に入る前)」を指しているのではなく、「インパクトの瞬間」です。
剣道ならHideさんのおっしゃる「振り下ろしの瞬間」、より近いと言えば「打突が成功する瞬
間」です。野球では「インパクトの瞬間」に発声することは有り得ないのに、剣道ではそれが当
然とされている。これが疑問なわけです。

>さらに、「面」と声を出しながら打ちに行っていないはずです。とくに、振りか
>ぶりの時に声を出すことはありません。たいがい振り下ろしといっしょですよね。

振り上げの時に声を出すのはおかしいと思いますが、振り下ろしの時に出すのもどうか
と思います。他のスポーツなどを見ていますと、やはり動作の途中(振り下ろし)ではなく、動
作の終了(打ち込み動作の終了)と同時に声を出すことが多いように思います。

その点剣道は特殊なのでしょうか。私は剣道も打突の動作が終了した時に、詰めていた息を開放
するように発声する方がいいように思います。

以上です。いつもいつも長文で本当に申し訳ありません。

お名前: Hide.   
東京を留守にしている間(昨日は軽井沢におりましたので(^^;)に、すっかり出
遅れてしまいましたが、たいへんな論争になってますねぇ(笑) 失礼しました。

さて、私の見解を書かせていただきますと、剣道は刀で斬る競技ではなく竹刀で
打つ競技だってことです。つまり、刀でもって人を切り倒す場合のように刀を振
り抜くことがありませんで、打突の瞬間には逆に止めてさらに「押し切り」する
わけですから、「力や気は開放のベクトル」に向かっていると考えられます。
そのため、奥歯を噛みしめるよりも口を開けて発声したほうが、余分な力が抜け
て親馬鹿一刀流さんやアズサさんのように「カラダ(や技)の抜けがよくなる」
わけですね(^^) 

大人からはじめた方で、なかなか発声がうまく行かず「メンンンンン」と食いし
ばるような発声をされる方がいらっしゃいますが、明らかに肩に力が入ってしま
いカラダが前にでない欠点を抱えているようです(^^;

たしかに、その場に踏みとどまるなら、無声でも構わないんじゃないですか。事
実、小野刃一刀流の「切り結び(切落し)」は無声でなければ出来ません(^^;


また、打突前の掛声の効用ですが、
 1.自らの精神を鼓舞する
 2.お相手に自らの気力・気迫を表現する
などが主なところでしょう。Fitzさんは高校時代の格技の先生のおっしゃった「剣
道における厳粛」を持ち出されておいでですが、それは理想論にしか過ぎません。
長年修業を積み重ねてはじめてそういう境涯に到達するのであって、最初から「相
手を恐れず」という具合にはいきません(^^;

「ワン」と言われて「ワンワン」と吠えたって、それで精神の安定が図れるなら
よろしいのではないでしょうか? むしろ気取って無声を貫き「自己満足の気力」
におわってしまうよりよほど素直です(^^)


>目に見えない「気」を声で表現するということが理解できません。ほんとに
>「気」は目に見えないのでしょうか?感じられないのでしょうか?

と秋水さんはご質問されてますが、秋水さんご本人は、「気」が見えるのですか?
たとえば、まだ小学生くらいの子供が打った技の気を声以外で感じ取ることが可
能でしょうか???(^^;
私は30年以上剣道をやっておりますが、今でも気の表現を声でもって行なうこ
とに疑問を感じておりませんし、実際声を出すことによって気の充実を図ること
が可能ですよ(^^)


>イチロー選手が「ヤー」とか「ウォー」などと言ってボールを打たないのは、
>ボールを打つ行為そのものに集中しているため

Fitzさんのこの疑問はもっともでしょう。150キロものスピードで飛んでくる
ボールを打つのに叫んでいたのでは集中できませんね(笑)
剣道でも、一足一刀の間合に入ってからみだりに大声で掛け声をかけたりしませ
んよ(^^; そこは、呼吸ひとつすら読み合いをしている間合。声を出し終わって
息を吸い込む瞬間に隙が出来ますから、声なんかかけません(^^)

さらに、「面」と声を出しながら打ちに行っていないはずです。とくに、振りか
ぶりの時に声を出すことはありません。たいがい振り下ろしといっしょですよね。
空手の瓦割りも、振り下ろしの瞬間に声を出すのであって、その前にも「ウォー
りゃー」とか声をかけますが、あれは、振り上げの瞬間ではなくむしろ、上記1
の「精神の鼓舞」の表現と考えることが出来そうです(^^)

「メン・コテ・ドウ・ツキ」の発声はルール上のものですから、これはもう無条
件で受け入れてください(^_-)〜☆

お名前: Fitz   
秋水さん、信之丞さん、親馬鹿一刀流さんはじめまして。
お三方ともお返事いただきまして、本当にありがとうございます。

皆さんのご意見を伺って、私なりに今思うところを書いてみます。

まず、掛け声をかける事が実戦的かどうかということに関しては、恐らく掛け声をかける事の利
点もその逆もあっただろうと思います。掛け声をかけることで恐怖心を紛らわすことができるが
、自らの斬撃の機会を相手に知らせることにもなりかねないので、場合によってあるいは人に
よって使い分けていたと想像しています。

掛け声を出す方が力が入りやすくなることというのは、初めて知りました。
実体験から想像していたので、声を出さない方が力が入ると考えていました。非常に勉強に
なりました。ただ、一方で声を出さず、歯を食いしばる方が力が出るという話も聞いたことが
あるので、正直どちらが本当なのか迷うところです。

次に、更に出てきた掛け声についての私の考えや疑問点を書かせて頂きます。

まず、よく掛け声は自分の恐怖心や抑えること、相手を威嚇するための手段として用いられることもあると聞きますが、この点が少し疑問です。私の高校時代の格技の先生がおっしゃっていた
ことに「剣道での厳粛」というのがありました。「厳粛」つまり、みだりに騒いだり取り乱した
りしないこと。

少し言葉が悪いですが、相手が「ワン」と吼えたからこちらは「ワン、ワン」と吼え返す、とい
うのは少しおかしいと思います。自分の心を鍛えて弱さに克つというのであれば、そこは怖くと
も黙って耐えみだりに騒がないことこそ強調されていいように思います。

この「剣道での厳粛」というのが非常に印象に残っていて、黙っていても相手を威嚇できる、相
手が騒いでもこちらはぐっと耐えて動じない。というような剣道ができたらいいなぁ、と思っ
ています。実現できるかわからない、遠い遠い先のことですが。

他にも色々皆さんのお話の中で、勉強させて頂いた部分があるのですが余り長くなるといけませ
んので、本投稿を終わりにさせて頂きます。今後ともご教授よろしくお願いします。

お名前: アズサ   
中学生剣士のアズサというものです。
私は今中学生ということもあるんですが、大きな声を出して打つことに大して疑問をもったことはありません。
逆に、大きな声を出して打ったほうがよいと思っています。
中学に入ってから剣道をやりだした私としては、強そうな相手と当たると、恐怖心がでてくるんです。
私の場合はそんな恐怖心を打ち砕く意味でも大きな声を出しています。
確かにフッと息を吐くようにする方法でも、力が入りますが、気持ちの面からみると、
声を出したほうのが、自分の気持ちを高める意味では効果的だと思います。
(勝てる試合でも、気持ちの持ち方によっては変わってきてしましますから。)
剣道は気持ちの持ち方が重要になってきますからね。
確か、実力2・運1・気迫(気持ち)7だという話を聞いたことがあります。
中学生だと、気迫はもう9割くらいを占めているとも聞きました。

自分が一番気迫を高められる方法が一番ベストだとは思います。
なので、声を出さなくとも、別にいいとは思います。
しかし、なぜ声を出すかというと、最初のころは、そのほうが高めやすいのではないのでしょうか?
そんな気が私はします。

話が全然まとまっていませんが、以上が中学生剣士としての私の意見です。

お名前: 親馬鹿一刀流   
to Fitzさん、秋水さん

お二人のご意見はある意味正解と考えています。
掛け声は、上達の段階、稽古の場面によって変わると思います。
気迫がほとばしって掛け声として出る場合もありますし、息を詰めるような攻めあいで声を出
さない(出せない)場合もあると思います。

私の経験上、初心者の子供に打ち込みをさせた場合、声を大きく出させた方が打ちが強くなり
ます。重量挙げの時に声を出して、体を痛めない様に自然に働く人間の防衛本能を開放するの
と同じ効果があるのではと考えています。
あと、自分で面を打った場合、メーーーンのように伸ばした方が打突後の伸び、体の抜けが良
い様に感じます。

逆に掛け声を出すよりムーンとか、ンーンとか腹に溜めるような声にならない声の方が気が入り
易い事も感じています。腰を決めて打ちきるような場合も力が入り易く感じます。
お二人がおっしゃっている事と同じと思います。

ある領域まで達した方は無声に近づくと言われています。

ある先生のご説明がご回答になると思いますので参考にして下さい。
高段者である領域まで達した方は、立っても座っても腰、腹が決まっているので、声を出さな
くても良くなる。
そこまで達していない方は、声を出した方が腰が決まる。

お名前: 信之丞   
疑問について私の思うところを述べさせていただきます。といってもとても満足のできる返答
ではないと思いますが。

>「鬨の声」や「瓦割りの声」と剣道の発声をいっしょにしてよろしいのでしょうか?
これは、一つ前の秋水さんのトピに答えたつもりで、剣道と一緒に考えてはいけませんね。

>「現実的」という言葉に何らかの裏付けがあるのでしょうか?
私だったらきっと大声をだします。自分では相手を威嚇するつもり、それと恐怖から自分を
奮い立たすためです。これは剣道の試合とかにも通ずる所が有ると思います。

>他の武道と比較されましたか? =(イコール)を簡単に使ってしまって
よろしいのでしょうか?
んんんん・・・人によって武道の定義が様々なところがあるので、私の個人的な考えを言わせて
もらいます。
剣道に限らず相手をたおす、負かすとかいった勝負になった場合、私は臍下丹田に気を納め
体の力をぬき自然体になった状態が一番最強の状態と思っています。そのときには当然声など
いりません。しかし、そこへたどりつく修業段階では声は必要だと思います。
腹から声を出すと臍下丹田に気を集中しやすいです。
秋水さんの言われることもわかりますが、あの状態は道を極めた達人の領域の気がします。
説明わかりにくいとおもいます。もう少し上手く説明できたらいいのですが。
「他の武道との比較には」の答えになりませんでしたが、居合道にも有声と無声の居合いが
あります。ここら辺に詳しい人で有ればもう少し明快な答えが出ると思います。

お名前: 秋水   
信之丞様へ

  信之丞さん、はじめまして。お世話になります。いくつか疑問に思う所がありましたので、
お便りさせていただきます。

>合戦では声を出さないといくさにならないのではないのでしょうか?

  合戦でほとんど声を出さずに斬撃を行った人もたくさんいたと思いませんか?

 「鬨の声」や「瓦割りの声」と剣道の発声をいっしょにしてよろしいのでしょうか?

>斬る瞬間はウォリャーとか言って戦うほうが現実的だと思います。

 「現実的」という言葉に何らかの裏付けがあるのでしょうか?

>武道の世界では、腹から声を出す=腹に力を入れるとなり・・・

  他の武道と比較されましたか? =(イコール)を簡単に使ってしまって
よろしいのでしょうか?

  つたない文面で申し訳ありませんでした。今後ともよろしくお願いいたします。
                                                 秋水

お名前: 信之丞   
Fitzさん、秋水さん初めまして。

実際の戦闘に参加したことはないので正しくないかもしれませんが、戦闘中、特に戦国時代の
合戦では声を出さないといくさにならないのではないでしょうか?
まあ声と言っても動物の咆哮のような物だと思いますけど。よく時代劇とかで鬨の声をあげて
戦っているではありませんか。
幕末にあった数人での斬り合いでも、斬る瞬間はウオリャーとかいって戦うほうが現実的だと
思います。
これは以前テレビで見たのですが、力を入れる瞬間声を出すのと出さないのでは、声を出した
ほうがよく力が入るそうです。
イチローが打つとき声を出さないかもしれませんが、例えば空手家の瓦割りでは割る瞬間に皆
さん声を出していますし、両手で棒を折ろうとしたときエイ!と言って折った方がおれそうだ
と思いませんか(笑)
武道の世界では、腹から声を出す=腹に力を入れる(又は溜める)となり、インパクトの瞬間
に何らかの関係があるように思います。

お名前: 秋水   
話を蒸し返すようで申し訳ないですが、私もFitzさんとまったく同じ意見です。
発声することは五感のさまたげになると思います。つまり、常に変化する戦闘の場において
敵を知り、己を知り、どう戦うかを速やかに判断し行動しなければならない時に、いちいち
発声していると戦いに集中できないと思うのです。
  そもそも「気・剣・体」を一致させる為に、目に見えない「気」を声で表現するということが
理解できません。ほんとに「気」は目に見えないのでしょうか?感じられないのでしょうか?
私はそうは思えないのです。
  剣道初心者の私がたびたび失礼な質問を並べて申し訳ないですが、こうゆう質問は初心者
にしかできないと思いますので、あつかましく発言させていただきました。ぶっちゃけた
ご意見を聞かせていただければ幸いです。
                                                        秋水

お名前: Fitz   
何度も投稿して非常に恐縮ですが、前の内容に補足させて頂きます。

何度も野球の話が出てきて笑われそうですが、実は私は小学校から大学まで野球に親しんできま
した。
打撃練習の時などは奥歯がへこみそうな感覚、もっとひどい時はあごが疲れてガクガクのした状
態によくなりました。

これはよく言われる、「王選手のインパクト」と同じだと思います。スポーツ選手が競技中に
奥歯をかみ締めるのは、実体験からよく分かります。

この「奥歯をかみしめる」のと「ヤー」「メーン」と大きな口を開けるのとは、実に大きな違いがあるように思います。前の投稿で申し上げた「気の充実」と「散逸」のほかに、
「物理的な力」を得るという意味でも、口をぐっと閉じて奥歯をかみ締めて打突した方が、より
「物理的な力」において「ヤー」「メーン」と口を開けるより勝っているように思います。

剣道では打突の瞬間よりその後に発声するほうがより効果的のように思います。
ぐっ押し黙り、打突を終えた時に声を開放するというほうが、自然のような気がします。

声を発する(私は開放すると考えたいです)頃合についても、ご意見を頂きたいです。
何分剣道を始めたばかりの未熟者なので、頭でっかちになっていると思いますが、考え違いなど
ありましたら、ご指摘ください。よろしくお願い致します。

お名前: Fitz   
突然割り込みの質問で申し訳ないのですが、一つお教え頂きたいことがあります。
私は剣道を始めたばかりの初心者です。よろしくお願い致します。

質問は同じく掛け声についてなのですが、そもそも何故掛け声をかけなければいけないのでしょ
うか?
ここで言う掛け声というのは、打突部位の発声のみではなく、試合開始時の「ヤー」とか「キ
ャー」などの掛け声も含みます。
私が考えるには、掛け声は本人の集中力を削ぐ行為だと思うのです。
むしろ無言で押し黙って、打突した方がより集中できて、
効果的な打ち込みができるように思います。

また、他の話題にもありましたが、「ああいう掛け声にしてみよう」とか「あの掛け声はいい
かもしれない」というのは、打突に対する集中が幾分かでも「掛け声をかけること」に向いて
いて、「打突に対する集中力」が乱されているように思うのです。

野球のイチロー選手などがよくバッティングのインパントの時に、「フッ」とか「ウッ」とい
う言葉にならない声のようなものを発しますが、あれこそが集中して瞬間的に動作した時の
「声」だと思うのです。また、柔道の田村選手なども同様の声を発しています。

「ヤー」とか「キャー」などの掛け声は、意識的に発声されている方がほとんどだと思うのです
が、この「意識的」というのが曲者だと未熟者ですが、思うのです。つまり「気」の散逸を招く
行為だと思います。
他競技と比較するのはナンセンスかもしれませんが、イチロー選手が「ヤー」とか「ウォー」な
どと言ってボールを打たないのは、ボールを打つ行為そのものに集中しているためで、逆にその
ように発声していたら正確なインパクトは得られないと思うのです。

さらに言うと、ハンマー投げの室伏選手の掛け声も、正確にはハンマーを投げ終えた後に
発せられるものであって、投擲の瞬間には発せられていないようです。投擲の瞬間は、ぐっと
歯を食いしばって「気」が散逸いないようにしていると思います。

剣道でもこの「フッ」とか「ウッ」というような、言葉にならない声のほうが「ヤー」とか
「メン」などのような意識的な発声よりも、気持ちは充実しているように思います。私はそれ
を勝手に実践している(というか意識しなければ自然とそうなるもの)のですが、先生方には
「うーん、君はどうも元気がたりないな。もう少し大きな声で発声してみたらどうだろう」と
言われてしまいます。私はこの「気の充実した打突をえるための意識的な発声」というものが
どうしても納得できないのですが、皆さんはどのようにお考えでしょうか?
私自身の感じたところでは、「気の充実した打突をえるための意識的な発声」よりも「フッ」
とか「ウッ」のような息の漏れる声、あるいは無言で打突した時の打ち込みのほうが、前者
のそれよりも勝っていたように思います。

よろしければ、ご意見をお聞かせください。よろしくお願い致します。(長々と要領を得ない文
章ですみません)

お名前: Square    URL
to Hide.さま
うっく!過去ログもあさらずに未熟な質問で申し訳ありませんでした。
これですっきりいたしました。気剣体の一致と発声は繋がりを存じておりましたが
発声に気を現出させているのですね。
本気で判らないのに聞けないこと、そんなことでも聞ける板があるのは本当に心強く
思いました。ありがとうございます。
追伸:proxyを通すと書き込めないのでレスポンスが悪く失礼しております。

to  Fすずのすけさま
特に若くて元気なお相手に稽古をお願いしている時など、もう必死で気がつくと
「いぇー」だの「うわぁー」だのなんだか咆哮のようなことしか言えてない自分
に恥ずかしさを覚えた瞬間キッパリと面を頂戴することが最近何度かあり、
少し真剣に考えてみたくご意見頂戴しました。これからもよろしくお願いいたします。

お名前: Hide.   
これについては、「なぜ剣道は自己申告制なのですか」「素朴な疑問」という
トピックが「剣道Q&A」にあり、同義の質問がされてますので、そちらを参照し
てみていただけますでしょうか? その後、なお、不明な点がありましたら、再
度ご質問ください。あ、けっして手抜きをしているわけではありませんよぉ(^^;


>逆に「メーン」と言って小手を打った場合、一本にならないとか有るのでしょ
>うか?

一本になりません。
剣道の有効打突は「気剣体」の一致が原則です。小手を打って「メン」と発声し
たということは、「本人の気は面にあった」と判断されるから一本にならないの
です(^^)


>何をするにも「メーン」とか言っていたら注意されるのでしょうか?

一本にならないのだからそれは本人が損をしているだけで注意は受けないと思い
ますが、お相手に対しては失礼ですね。審判も「相手を侮辱する行為」として反
則を適用するかもしれません。


>話がずれそうですが自分にとって一番気合の掛けやすい発声ではいけないので
>しょうか?

試合の場合「一本になりにくい」ことさえ認識していれば、かつ、お相手に失礼
にならない範囲であると判断されるならば、何を叫ぼうがお好みだと思いますけ
ど、やめたほうがいいですね(^^;

お名前: Fすずのすけ    URL
to Squareさん
  はじめまして、わたしも何となく気にしないまま、よく知らないでいたテーマですね。
この春に京都大会で七段戦を見物してきましたが、
コテ、メンと明確に発音される先生は少なかったようでした。
ドッコイショーとか、ほとんど会話調のものとか、色々きけました。
  あと、うちの道場で今度三段を受ける女子高生の子がいますが、
メンを「エー」、コテも「エー」、ヤーすらも「エー」と、
子音をはずして全部エーで済ませている子がいますが、とくに
違和感はないですね。矯正しろといった指導もでてません。
   ゴルフの中島常幸のウ則ブデオを見たことがあるんですが、
パターの打ちを成功させるコツとして、普段から何メートル
のショットか、都度考えて打っておくと、試合で5メートルの
場面があった時「5メートル」と数字を頭に浮かべると、その通りの
強さのショットが打てる、とのことでした。
  面打ちには面打ちのフォームがあり、それを練習する時は
この動きが「メン」だ、と言語的認識を自分に植え付けておけば、
  とっさの場面でその言語をキーワードに動作記憶が再現しやすいのではないか、
というのが、ニワカ剣士のわたしの仮説です。
   ですから、もうキーワードが必要ない、剣道が体に染みついた
人なら、何と叫んでもよいと思います。ただ、他の部位を想起させる
ようなかけ声は、まぐれあたりと混同されて、ジャッジがからく
なるとは思います。

お名前: Square   
大きな声についてのトピを読んでいて思いだしました。
昔から明確な答えを知らないので教えていただければ幸いです。

打ちに行く時に掛ける掛け声、「メーン」「コテー」などですが、
この声を掛ける意味は何なんでしょう。
発声する事で普段以上の力が出るなどの効用は理解しているつもりなのですが
なぜ打突部位を声に出すのでしょうか?
逆に「メーン」と言って小手を打った場合、一本にならないとか有るのでしょうか?
何をするにも「メーン」とか言っていたら注意されるのでしょうか?
話がずれそうですが自分にとって一番気合の掛けやすい発声ではいけないのでしょうか?

うむー?ばかりですみません、何方かご教示ください。

このテーマについての発言をどうぞ。
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