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Re: 道場での飲食について ( No.89 )
日時: 2014/02/18 10:33:59
名前: はくどー 
参照: http://hakudoh.com

こんにちは。

昔剣士さん、いもむしさん、早速に本来の論議に戻っていただきありがとうございます。


さて、「道場」というのはどういう場所のことを言うのでしょうか。
施設の名称でしょうか。
たとえば体育館は道場ではないのでしょうか。

日本武道館という施設がありますね。

日本武道館で全日本を始めとする剣道の大会を行う際、
あるいは全剣連主催の合同稽古等を行う際など、
そこに集う人々は、おそらくその場所に対して「道場」という認識を持っていると思います。

では、芸能人などが武道館でコンサートを開く場合などはどうでしょう。
人々は、そこが道場ではなくコンサートホールだとの認識でいるのではないでしょうか。

海外に指導に行きますと、そこには「道場」という名称の施設がないので、
人々は体育館やダンスホールなどを借りて、そこで剣道の稽古を行っています。
彼らが剣道をしているところは「道場」ではないのでしょうか。

こうして考えてゆくと、
「道場」というのは、そこを使用する人々の認識によって「道場」となるということに気がつきます。

公共の施設であろうが、個人の施設であろうが、体育館という名称であろうがホールという名称であろうが、
たとえ近所の空き地であっても、そこに集う人々が「道場」として使えば、そこが「道場」となるわけです。

>>36 いもむしさんの
>剣道で修行する者は、どこにいてもそこが道場であるという考え方です。

というのは、このことですね。

次に、「道場」というのは、何をする場でしょう。
言葉どおりに取ると「道(ドウ)」を行う場ということになりますね。

ですから「剣道場」ならば、「剣道」を行う場となります。

剣道における「道」というのは、何でしょう。
「剣道の理念」に基づけば、「剣の理法の修練」によって「人間形成の道」を行う場、
最後の部分をもう少し分かりやすく言えば、「人間形成の道」を追求する場と解釈できます。

つまり、剣道における「道場」というのは、

   その場において、「剣の理法」を「修練」するという行為をし、
   その行為によって「人間形成の道」を追求する場である。

ということが言えると思います、

さらに、「剣道の稽古」ということについて考えてみます。

最近では、「稽古=練習」という意味にとって、よく「剣道の練習をする」などと言いますが、
古くから剣道で行われてきたのは「練習」ではなく「稽古」ですね。

「基本練習」「打ち込み練習」「懸かり練習」などと言わず、
「基本稽古」「打ち込み稽古」「懸かり稽古」と言いますよね。

「練習」というのは「習って(倣って)」「練る」ことです。
ですから、習ったことを、何度も練るようにしながら、次第に良いものにしてゆくのが「練習」です。

「稽古」というのは「古(いにしえ)」を「稽(かんが)える」ことです。

全剣連のウェブサイトの「剣道とは何か」という記述を要約すると、

  「剣道」とは、剣の理法を自得するために歩む道を指す。

とした上で、

  剣の操法を厳しい稽古を通じて学ぶことは、その為の一つの手段と見られている。

と書かれています。

そこで、ここまでをもう一度整理しますと、剣道における「道場」というのは、

   「剣の理法」を「修練」することによって「人間形成の道」を追求する場である。
   そして、その場で行われる厳しい稽古は、そのための一つの手段である。

と定義づけられるのではないでしょうか。


今度は、「神聖」ということについて考えてみます。

「神聖」というのを辞書で調べてみると、

  「尊くておかしがたいこと。清浄でけがれがないこと」

と書かれてありました。

「神聖」という語の「神」というのは、文字通り「神様」のことですね。
法律上は、「神」は数ある宗教の中の一つと分類されていますが、
日本人にとって「神」というのは、そんな小難しい概念よりも、
生活の中で、いつも自分を見守ってくれている、何となく「尊いもの」というイメージだと思います。

神棚というのはその象徴ですね。

では、神棚が無い場所は、「神聖」ではないのでしょうか。

この先は、人それぞれの感じ方でしょうが、神棚があろうがなかろうが、
人の心の中で「神聖」と感じれば、その場は神聖なものになりませんか。

今、まさに朝日が昇ろうとする光景を見たとき、あるいは静寂な森の空気に包まれたときなど、
私たちは、その場に「神聖」を感じませんか。

つまり、人々が「神聖だ」と思う気持ちを持ったとき、その場は「神聖な場」になるのではないでしょうか。


もう一つ、「飲食」ということについて考えてみます。

「飲食」は、ある一面では人間の持つ「欲」の一つとされる「食欲」を満たす行為と捉えられます。

先にも書きましたように、「食欲」は、人間が生きていく上で必要不可欠な「欲求」として
「生理的欲求」に分類されています。
言い方を変えれば、「食欲」を放棄したとき、人間は「死」を迎えます。

一方、人間のこの「食欲」を満たすためには、他のものの「死」が必要不可欠です。
殺生を禁じる仏教では、精進料理として植物主体の飲食をしますが、厳密に言えば
植物であっても「生あるもの」であることに変わりありません。

ですから、人間の「生」はたくさんの「死」によって支えられているとも言えます。

こうしたことを考え、教えるのが、いもむしさんがおっしゃるところの「食育」ですね。


最後に、もう一度考えてみます。

「剣道」は、「人間形成の道」です。

その道の上にあるのは、はたして「厳しい稽古」だけでしょうか。