Re: 審判として、教える身として ( No.1 ) |
- 日時: 2024/06/01 08:17:28
- 名前: Hide.◆vm9xYr4tCqk
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- 参照: http://www.ichinikai.com
- 管理人のHide.です。
うーん、拝読致しましたが、なぜ謝ってしまわれたのでしょう? あなただけではなく他の審判員も同じ「有効打突」と判断したわけですよね。 だとしたら、もしあなたが旗を上げなかったとしても、それは有効打突になったのではありませんか? あなただけが審判技量が劣るということにはならないのではありませんか? 負けて審判批判をするなど言語道断だと、なぜ指導者として叱らなかったのでしょうか?
剣道には「打って反省、打たれて感謝」という言葉があります。 また試合は「らしきところを打たれるな」が鉄則です。 「打たれたように見えた」のならそれは「自分の非」です。 それを反省せずして、次に進むことはできません。 彼にはそのように話してあげるべきでしょう。
ただ「打った打たれた」「勝った負けた」だけでなく、「お相手に対する感謝と尊敬」「審判に対する感謝と 尊敬」「敗者に対する労り」なども日頃からきちんと教えてあげる必要があります。 それが「武道としての剣道」「文化としての剣道」ですから
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Re: 審判として、教える身として ( No.2 ) |
- 日時: 2024/06/04 01:11:35
- 名前: 悩める審判
- Hide.様
ご返信ありがとうございます。 やはり謝ってしまったのは彼のためにはならないことでしたね。ダメだとはわかっていたのですが、今は深く反省しています。おっしゃる通りで、私が旗を上げなくても有効打突になっており、行き場のない悔しかった思いを私にぶつけたのかもしれませんね。。指導者としてそこを叱ること、次にどうするべきかを教えるべきだったのを今更ながら理解しました。私自身もまだまだ人として見つめ直すところが多く、指導者にもなり切れていなかったことも含め、反省しております。
「打って反省、打たれて感謝」は聞いたことがあり、日頃から私は心掛けておりましたが、「らしきところを打たれるな」という鉄則は初めて聞きましたが、すごい腑に落ちるお言葉で、今後はそれも指導に加えて行きたいと思います。
こちらではスポーツ化が進んでしまっていると感じる昨今ですが、やはり剣道を練習するには人間形成が大事なのだと、日本の伝統的な武道として、文化としての剣道を教えて行きたいと感じました。
改めて、温かいお言葉とお叱り、本当にありがとうございます。
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Re: 審判として、教える身として ( No.3 ) |
- 日時: 2024/06/04 08:23:14
- 名前: Hide.◆vm9xYr4tCqk
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- 参照: http://www.ichinikai.com
- to 悩める審判さん
剣道は、他のスポーツとは全く異なる条件によって有効打突が決められているのはご存知の通り。 「竹刀の打突部で打突部位を正しく打つ」だけではなく、そこに、 ・充実した気勢 ・適正な姿勢 ・刃筋正しく ・残心 などの要件が揃うことはもちろん、 ・間合 ・打突の機会 ・体捌き ・手の内の作用 ・強さと冴え などの要素が加わります。 さらに、 ・先後の問題 ・攻めの問題 ・居付き ・死に体 ・剣先で制する ・自発か打たされたのか なども有効打突に関わってきます。
これらの多くが、刀での斬り合いをしていた頃の「思想」の名残であり、竹刀剣道になった現代でもそれが生 き続けています。 ゆえに「なぜ一本になったのか」「なぜ一本にならなかったのか」を検証することはとても重要です。 「打って反省、打たれて感謝」も「らしきところは打たせるな」もここからきていると言ってもいいでしょ う。 この辺りが剣道は「客観性がない」「合理性がない」と言われ「極めて主観的」であるとされる要因です。 それは剣道が「スポーツ(競技)」ではなく「武道(武術、文化)だからです。
スポーツの目的は「試合(ゲーム)に勝つこと」ですが、剣道などの武道や芸道(茶道、華道、書道など)は 「自己を鍛錬すること」こそが目的なのです。 剣道における昇段審査も試合も、稽古で培った力を試す場であって、稽古の一環なのです。 「稽古に始まり稽古に終わる」どこまで行っても「稽古ありき」なのが武道であり芸道です。
剣道を「試合に勝つこと」のみを中心に考えると、負けたことは悔しいでしょう。 負けは「己の未熟さ」が原因であって、他に原因はありません。「負けを審判の判定のせい」にするなど言語 道断。武道としては恥ずべき行為であると知らなければいけません。 「次に負けないために、精進すればいい」 これが武道的な考え方です。
試合で出てきた「弱点や欠点」を改善しなければ、次も同じように負けます。 そのためには「どこが弱かったのか」「どこがダメだったのか」という「自分の弱いところを認識」すること が必要であり、打たれないために「どう対応すべきだったか」を知り、それを改善していく稽古が求められま す。 さらに、自分が負けたお相手が負ける(打たれる)ところを見ることによって「どう攻めれば良かったのか」 を知ると同時に、そこを打てるように精進しなければなりません。
自分よりも強いお相手は五万といます。 どこまで行っても剣道は「修行(=稽古)」しかないのです。
剣道など武道や芸道が辛いのは「弱い自分」「ダメな自分」を否応なく認識させられるからです。 「強い人にお稽古をお願いしないと強くなれない」と言われるのも、強い人に打たれることによって「自分の 弱いところを認識できる」からです。 これが「打たれて感謝」です。 そして「弱点・欠点」を削ぎ落としていくことにより、「強靭な肉体と精神力」を養うことができ、ひいては 「人間形成(=人格の完成)」へと繋がっていくのです。
文化の違う異国の人には難しいかもしれません。 いや、日本人であっても日本の文化を大切にしない若者には難しいことだとは思いますが、剣道指導者として そんなことを教えてあげて欲しいですね
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Re: 審判として、教える身として ( No.4 ) |
- 日時: 2024/06/06 00:58:31
- 名前: 悩める審判
- to Hide.さん
一本への詳細な要素を書き出していただきありがとうございます!私の中で感覚としてしかなかったものが言語化がされたような、それに加え知らない要素もあるのでとても勉強になります。
古人が残された武道はやはり奥が深く、その思想の意味をしっかりと汲み取り、理解し、日々精進せねばと思う毎日です。私の中で勝ち負けに固執した剣道は形骸化されたものと感じてしまい、剣道の本当の楽しさがなくなってしまう気がします。私は社会人剣士になるにつれ、思い悩むことが非常に多くなりましたがこれも剣道の一環で自分が次へと成長するための悩みなのだと思っています。剣道を通して根気強く自分と向き合う事、それをできるだけ多くの若者に広めたい、教えたいと感じます。
剣道は人間形成、本当にぴったりなんだと常々思います。挑戦、失敗、嫌な思いは勝負事だけでなく、生きていくにあたって毎日起きるような現象。剣道を通して自分の弱さ、ダメなところを知り、それの改善に向けて試行錯誤をしながら人としての厚みを付けていく。私も毎日自分を見つめ直しながら未来の剣士を育てていきたいと思います!
お悩み聞いていただき本当にありがとうございます!とても腑に落ちました!
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Re: 審判として、教える身として ( No.5 ) |
- 日時: 2024/06/06 07:53:22
- 名前: Hide.◆vm9xYr4tCqk
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- 参照: http://www.ichinikai.com
- to 悩める審判さん
少しでも拙サイトがお役に立ちますれば嬉しく存じます。 私もあなたへのレスを書きながら、改めて思考を整理することができました。 ありがとうございます。
未来に向けて遺していかなければいけないのは、「競技としての剣道」ではなく「文化としての剣道」「武道 としての剣道」だと考えています。
その気持ちから、お稽古の最後には拙いながらも子ども達に訓話をするのを常にしています。 私が育ってきた道場では稽古ごとに老師範が訓話をしてくださいました。 そのほとんどが難しく、小学生だった私の理解が及ばないことばかりでしたが、数十年の時を経て「あ、あの 時、師範が仰ったことはこういう意味だったのか」と天啓のように閃くことが幾度もありました。 「今はわからないかもしれない」と思いながらも、そうした話をしていくことは決して無駄にはならないと信 じ、行っております。
日本にいても大変ですが、異国の地でそれ以上に難しいことも多々ありましょうが、どうか「文化としての剣 道」「武道としての剣道」の普及発展にご尽力ください。 微力ながら応援致しておりますp q
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