Re: 剣道における武士道や倫理観て? ( No.1 ) |
- 日時: 2012/07/26 07:40:37
- 名前: Hide.◆vm9xYr4tCqk
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- 参照:
- 管理人のHide.です。
現代の剣道は、社会において実践されるものがなければ無用の長物です。 そう言った意味で、「武士道」といっていいかどうかわかりませんが、武道全般の思想と 哲学は、現代社会に十分に活用できるものだと考えております。
まずは、礼儀一つとってもそうですね。 未熟者さんは、「礼儀に関しても道場の外に出れば全く無視した言動をする方も居ます」と 悪しき例をあげておられますが、むしろ、道場以外でしっかりと礼のできる人が剣道を学 んでいる人に多いと私は考えています。 お相手に向き合う姿勢というのは、剣道を学ぶ者は自然に身についていくものなのではな いでしょうか
年長者に対する敬意の表し方等も、身についてくる徳目でしょう。 下級生や後輩を可愛がるというのも、武道的な考え方だと思いますが。
武士道というとついつい葉隠的な思想を思い浮かべてしまいますが、現代剣道は「活人剣」 です。 いかに生きるかを模索する哲学なんです。 それは自分の身が生きるのではなく、他人との共生の理念ですね。
>剣道をやって30数年ですが、未だに自分の答えが出ていません。
答えは理屈ではなく、自身の生き方の中に自ずと現れてくるものです。 30年も剣道をおやりになっているのであれば、当然、そうしたこともお出来になっている はずですよ 〜☆
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Re: 剣道における武士道や倫理観て? ( No.2 ) |
- 日時: 2012/07/26 12:34:53
- 名前: だみ声
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- 「剣道と武士道、その倫理感」と言う感覚は大いにあると思いますが、世に立派な人と言われる人には
必ずと言っていいほど武士道に通じる感性をお持ちの方が多いと思いますがいかがでしょう? だからと言ってその人が剣道をやっているとは限りません。 むしろやってない人の方が多いです。 つまり武士道だ倫理感だと言う事を剣道と結び付けて発想し、剣道と切り離した所に武士道や倫理観は ないと錯覚して語られる場合がありませんか? 剣道が特殊なもの、場合によっては他のスポーツより 優れた一面を持つものなどと言う錯覚もあるのではないでしょうか?
武士道であったり、道徳であったり、宗教感であったりと表現は異なりますが、社会秩序を守り、向上 させ、人間関係をより良くするための「考え方」として日本には古来より、「武士道」と言われる倫理観 が根強くあり、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌 等が語られているのではないでしょうか? 従って何も剣道が特別武士道を語るのではなく、あらゆる社会生活(政治経済、産業、情報、スポーツ 等々)の根幹として武士道思想があるととらえるのが日本人の倫理観なのではないでしょうか?
剣道が普通のスポーツといささか異なる面があるとするなら、競技年齢層の「長さ」ではないでしょう か? スポ少などでは、5歳児から正式に剣道部員として稽古させますし、その指導者の最高齢は90 歳代と言う事もさほど稀ではありません。 少なくとも10代〜60代ぐらいの剣士は、同じ会場同じ 道具同じ時間帯で剣道を楽しみます。そしてそれは「試合」ではなく「稽古」なのです。
剣道と武士道等はもとよりセットで存在するものではなく、組み合わせて発想して、言動に生かしてく ことによって、精神面でより高度なレベルになれると言う事ではないでしょうか? だからスポーツ界 で眺めてみても、有名選手と言われる人の言動には、ファンでなくても「すぐれた選手」と言う捉え方 があるのではないでしょうか? 逆に「強けりゃいい」としか考えていない選手には、多くのファンも集まりませんし、いずれ忘れられ て行くのではないでしょうか? 強いだけでは人間的魅力が感じられないからだと思います。
そして人間的魅力を我が身に備わるよう発想と勉強をしながら稽古すると、どんなジャンルに於いても 「優れた人」という評価がついて来るのではないでしょうか?
>礼儀に関しても道場の外に出れば全く無視した言動をする方も居ます。 結局は『剣道の時だけのも の』なのでしょうか? 礼儀忠節等々と耳にしても「全くの飾り」みたいに思うのです。 その逆の感覚を思わせる方に出合っておられないのではないでしょうか? 口にするしないも関係な く、礼儀忠節を身を持って実践している場面に出合っておられないから、「言動が違う」「単なる絵空事」 としか映らないのではないでしょうか? もちろん剣道と武士道を関連付けないでいる人もおります から、仕方ないと思いますが、「立派な人物(剣士に限りません)」と評判の高い方にはけっこう「優れ た人材」として自己の生活の中に武士道をしっかり実践しておられると思いますがねえ。
余談ですが… 剣道の理念は「剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道」と言われておりますが、ここには大きな飛 躍があると感じております。 つまり剣の理法のみを追及しているだけでは、一向に人間形成は進行しないと思います。 僕はあくま で剣技の追求と人間形成追求とは意識してかからないと同時進行しないものだと認識すべきではないか と常々思っております。
一例ですが、僕は野球選手はゴルフもうまいと思っております。 つまり野球の技術を追及すると、ゴ ルフ技術と相入れる所が多いから、自然とゴルフの腕も上がる… と言う事です。 所が剣道の打突技術をいくら磨いても、人間形成に直結したものはほとんどなく、これは「意識して」 同時進行させる必要があると言う事です。
「剣の理法」と「人間形成」は当時(昭和27年?)GHQから剣道解禁の許可を得るための、苦肉の 策だったのではないでしょうか? しかしいったん理念として成文化した時(昭和50年?)この二つを融合し、実践する事は個々の剣道 家に任されたのではないでしょうか? 僕はそんな風に解釈して日々稽古に取り組んでいるつもりです。
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Re: 剣道における武士道や倫理観て? ( No.3 ) |
- 日時: 2012/07/26 18:02:41
- 名前: ずんべらぼん
- 子供の頃を思い出すだけでもいくらでもあります。
中学剣道部で部員の一人が小さな校則違反を犯しても、部員全員の気のたるみ、 部員のお互いの緊張感のなさを指摘され、 先生に全員ボコボコに稽古頂きました。
また、人に対する心配りができない時も 全員ボコボコに稽古頂きました。 心配りが出来るようになるには、 人の気持ちをいち早く察することが 必要となりますが、 日々そういうアンテナを張った状態で生活して ると、それが自然になりました。
この2つの例だけでも剣道です。 校則は、自己抑止が効かないと守れません。 自己抑止が効かない者は剣道部員とは認めない。 「打ちたい」「当たるかも」で打って出ては 墓穴を掘りますよね。 まんまと引き出されることに繋がるわけです。
心配りも「先」ですよね。 相手の気持の先回りしないと心配りはできません。 常に気を切らないことが自然にならないと、相手に先を取られます。
剣道即ち生活、生活即ち剣道。
剣道から仕事を考えたり、仕事から剣道を考えたり。
竹刀を持ってなくても、仕事中でも、 家族との生活でも 剣道をしているつもりです。
良い師に巡り会えて感謝しております。
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Re: 剣道における武士道や倫理観て? ( No.4 ) |
- 日時: 2012/07/27 16:19:02
- 名前: 未熟者
- Hide先生
確かに自分の周囲の者も礼儀正しい方が多いのは感じます。 「元々、その様な方々が剣道を…」、なるほどそうかも知れません。 個人の資質の問題かも知れませんが、先生と言われる地位・呼称の方の中に相反する言動の方が居るのも事実。 正直、この現象などを観て「何なんだろうか?」と感じた次第です。
他人との共生の理念ですか。 簡単に言えば「社会常識の習得、周囲との協調維持の術の習得」と言うことでしょうか。
年月ばかり取っており精神面での修行が足らず、この様なスレを立てました。 自分自身でも日頃の生活の中でも教えに沿った言動をすべく注意しております。 決して他人様を卑下する気ではありません。 剣術を指南する先生方を見かけながらも、精神面を説かれるのを見る機会が少なかったものですから。
だみ声先生
剣術のみの追求が決して人格の向上に直結しない…よく理解できます。 先にも記しましたが人格剣術共に優れてる方を周囲に見ます。 その辺の感想は重複しますので割愛させていただきますが、それらに反する方に対して「何ら糧になってないなぁ」と。 出来てる方と出来(て)ない方の比較に関しての疑問でした。
ずんべらぼん先生
「集団責任制」の是非に関しては、判断が付きかねます。 決して先生の文言を否定するのではありません。 誤解なきようにお願い致します。 個人の失態を集団で責任を被る(被らせる)事が、その本人にとって如何にプラスになるのでしょうか。 問題点の解決はその個人に対して行うのが簡潔で、集団責任に傾くと「他人に迷惑をかけてはいけない」の部分に行き着くと思うのです。 本来は校則違反をしたのは本人にであって、周囲の部員は無関係だと思うのですが。 ならば違反した本人に対するペナルティーが妥当な気がします。
>心配りが出来るようになるには、人の気持ちをいち早く察することが必要となりますが。
まさに核心を突いたお言葉ですね。 剣道にかぎらず日頃、常に思い浮かべることが重要だと再認識致しました。 ※有難い御意見を頂きながら先生のご気分を害すような書き込みになり、他意の無き事と併せお詫び致します。
早々に愚問にお答え頂きました各先生方には、改めてお礼を申し上げます。 今後も自分に厳しく、精神面の修行を行なって行く所存です。 本当にありがとうございました。
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Re: 剣道における武士道や倫理観て? ( No.5 ) |
- 日時: 2012/07/27 17:42:53
- 名前: ずんべらぼん
- いえいえ。
当時、私も集団責任には「そんな理不尽な」 とおもいました(笑)。 しかし、まさに「他人に迷惑をかけてはいけない」 をたたき込まれたと思います。 いつの間にか部員の結束が非常に固くなり 30年近く経つのに今でも師を囲んで全員が 集まって酒を交わしたりしております。 剣道では理不尽なことが多々ありますが 社会に出たらもっとありましたが お陰で道を外さずにおります(笑)。
こちらこそ有り難うございました。
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Re: 剣道における武士道や倫理観て? ( No.6 ) |
- 日時: 2012/07/27 19:58:17
- 名前: him
- ちょっと視点が違いますが・・・
武道・武士道という言葉にある【武】という文字には、「矛を止める」という意味があると聞きます。 つまりは【争いを避ける】という意味だと解釈しています。
今年の正月に、NHK-BSで「サムライ・スピリット」という海外に日本の武道を紹介した番組を日本向けに再編集したものが放送されました。 侍=武士の精神構造を作り上げている武道とは如何なるものなのか?・・・というアプローチです。 剣道・柔道・合気道・居合道・空手・弓道・古武道・相撲を一つ一つ紹介して行くシリーズ番組でしたが、その中でほぼ共通した武道の概念として【争いを避け、戦わずに勝つ】ということが背骨のように表現されていました。 そしてどうしても戦いを避け得ない時に【伝家の宝刀】として抜ける・・・その裏付けがあるのが【武道】であると紹介しておりました。 とても良く出来た番組で、武道を知らない外国の方にも非常に分かりやすく作られていると思いました。 中学校の武道必須化など、打ち合いや投げ合いなどを教えるよりも、この番組を一連で見せたら十分ではないか(笑)・・・との印象を持ちました。
争い戦えば、血が流れ、どちらかが死に、たとえ勝ったとしても自分が無傷である保証はどこにもない・・・出来るだけ争いを避け、なおかつ自分の考えや理想・利益を押し通す・・・その手段を模索して来たのが人間の歴史であると思います。
争いを避ける手段にはいくつかあって・・・
相手より強大な力を持ち、戦うことで失うものが大きいことを相手に誇示する・・・つまりは相手を威圧することで戦いを避ける手段・・・現代でいえば、核兵器や強大な軍事力を保有することでの【抑止力】と言うことが出来るでしょう。しかしながら、【力はより強大な力に屈する】訳ですし、力が拮抗した者同士の間では「もしかしたら勝てるのではないか」という欲を生み出し、争いの種に際限はありません。
もう一つは、相手と協調し共存することで戦いを避ける手段・・・「この人を敵に回すに忍びない」「共に生きたいと願う」という気持ちを起させる・・・あるいは、「自分の考えに相手を同調させる説得力・納得性を持つ」・・・ここに「人間形成」や「人徳」「倫理観」などという概念が含まれて来るものと考えます。
戦国時代、相手より強大な武力を持つことで勝利を収め、相手を従属させることで世の中を平定して来た武家社会も、江戸期になると「如何に相手と戦わずして我が身の生きる道を探すか」という方向に進み、その過程の中で剣道の源流となる武道(武術)が確立して行ったと考えます。 江戸時代には、むやみに刀を抜けば罰せられましたし、我が身は切腹・家は断絶という破綻をもたらすことにも繋がりました。 従って、武家社会における「争いを避ける手段」としては、【威圧・抑止力】よりも【強調・共存・説得性】が重んじられてと考えられます。 その考え方の中で【戦いに勝ち抜く技量の修練】の先に【争いを起さぬ心の鍛錬】が修行の目標に置かれていた・・・ということでしょう。
前述の「サムライ・スピリット:空手編」の中で、沖縄空手を修行している女性が暴漢に襲われ、空手の技を使うことで難を逃れたという事例が紹介されましたが、彼女は今でも空手の技を使ったことを後悔し「なぜそういう場に自らを置いてしまったのか?なぜ争いを避け得なかったのか?」を考え続けている・・・と紹介されました。 また他の方は、空手を修行することで「逃げる勇気」「一歩引いてごめんなさいと言う勇気」が持てた・・・とも話しておられました。 こう話される方々の体は巌のような筋肉に鎧われ、拳は石のように固い・・・つまりは、戦うことで傷つけられることが怖いのではなく、逆に傷つけてしまうことが怖い・・・だから「一歩引ける」「ごめんなさい」と言える・・・そう言えるまで自分の体と心を鍛えている・・・そういうことだと理解しました。 突き詰めると、これが争いを起さぬ武道の鍛錬の結果なのですが、心だけを鍛えることは出来ず、体や技術の修練を積む中で心も鍛えられて行く・・・と私は思いました。 そして、厳しい体と技の鍛錬を行いながら、それを心の鍛錬で制御し、決して「使わない」「使わなければならないような場に身を置かない」ことを極意としていると感じました。 これは、居合道・合気道にも共通の考え方として息づいています。
ではそれを、自分がやっている剣道とどう繋げて考えるか?・・・というのが今の自分の課題でもあるのですが、一般的にはどうしても【剣道の競技性】ばかりに目が行ってしまい、本来【武道】として持っているべき【矛を止める心の鍛錬】をどう理解するか?という部分が置き去りになっているのではないか・・・と思うことがしばしばあります。 相手より速く・強く打つこと・・・それを探求し続けた結果が、今の【競技としての剣道】を形作っていると思いますが、本来はそこに【矛を止める心の鍛錬】が伴っていなければならないはずです。
しかし【打ち合うことを前提とした競技としての剣道】の中で【矛を止める=争いを避ける心の鍛錬】を表現することは難しく、結局は最後に抜いた【伝家の宝刀】の威力を競うだけになってしまっている・・・競技だけしか念頭になければ、クルマの両輪であるべき【矛を止める心の鍛錬】は意識されなくなってしまうかも知れません。
しからば、剣道が武道として持つ【矛を止める=争いを避ける心】を表現する場はどこにあるのか?・・・それは逆にいえば、自らが存在する一般生活の中にしかあり得ないのではないか・・・と思うことがあります。 【争いを避け、共に生きる】・・・これこそが、私たちが一般生活の中で求められる極意であり、それを剣道というものからどうやって学ぶか・・・ということかな?と思います。
これを自分の日常に照らし合わせてみますと・・・
営業でお客様を訪問した際、単に自社の商品の優位性のみを押し付けるのではなく、お客様の要望・困っていることが何なのかを聞く・・・その中で自社の商品がどうお役に立てるのかを共に考える・・・「お客様もハッピー、自分もハッピーという共存点がどこにあるのか?を追求する」ということ・・・いわゆる【提案型営業】ということです。
また、最近まで内部監査という仕事(社内の仕事のやり方をチェックする仕事)をやっておりましたが、これもただ「相手のミスやアラを探してやろう」という気持ちでは、内部監査を受ける側の反発を生むだけ・・・ここでも「改善すべき点があれば共に考え、共に改善する」というアプローチでの取り組みが必要になります。 間違った箇所があれば、それをどう改善すべきかを考え、その考えで相手を説得し納得させる・・・そういう仕事のやり方をして来ました・・・中にはなかなか納得してくれない人はいましたが(笑) そういう時は【伝家の宝刀】・・・「社長に聞いてもらって、どっちが正しいか判断してもらいましょ」でケリをつけて来ました・・・まあ、最後は「虎の威を借りる」ということにもなりますが(笑) もちろん、その時には「どう考えても自分が正しい(これが【倫理観・常識】というところに繋がりますし【理合】ということだと思います)」という理論構築が出来た上でのことでありますが。
営業にしても内部監査にしても、仕事のスタートはどれも【まず相手の声を聞く=相手が何を考えているか・どういう思いでそれを行っているか⇒それを引き出す】ということが必要で、私はそれを剣道で学んだと思っています。 竹刀を構え合って、そこから【相手が何を考えているか】を察する・・・相手の動き・剣先に掛る力具合で何をどうしようとしているか?を想像する・・・これが剣道を離れた仕事の場面で約に立っていると感じています。 ただ、私は人の話を聞き過ぎる(笑)・・・剣道でも初太刀に弱いです(笑)
幸いにして私たちは、先達が探求した武道というものの目標が【争いを避け、戦わずに勝つ】ことにあることを教えられています。 ですから、逆にそこを出発点として、自らが行う剣道(=武道)をそこへどう繋げて行くことが出来るのか?を考えながら修行している・・・そんな気がしています。
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Re: 剣道における武士道や倫理観て? ( No.7 ) |
- 日時: 2012/07/27 20:07:08
- 名前: 未熟者
- ずんべらぼん先生
そうですか。 当時既に、違和感をお感じになられていたとは露知らず。 でも、結果は後世に続く部員間の結束に結び付かれたのですか。 私の了見の狭さ、ここに反省するのみです。 主観で物事を判断するのが欠点だと自覚しておりましたが、改めて痛感致しました。
Hide先生もお書きの通り、この世は自分一人では活きて行けず他人との協調が必須ですね。失念しておりました。 自己中心的発想や解釈がまだ、分かり切ってないのだと思います。
今後共、相談させて頂くこともあると思いますが、何卒、ご指導ご教示を宜しくお願い致します。
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