Re: 黙想の時の手について ( No.1 ) |
- 日時: 2013/06/02 01:54:57
- 名前: だみ声
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- 本当ですね。 僕も今、同じ資料を見て確認しました。 「太ももの上に置くだけで組まない」とあえ
て明記していますね。 剣道やるものにとって、「黙想」は全員が手を組んでいると思いますが、これ はどうした事なのでしょう?
あくまで僕個人の推測ですが… 文部科学省としては、「宗教色は持ち込めない」事による判断ではないでしょうか? 「手を組む」と言う事は、仏教では「印を結ぶ」事になるし、キリスト教でも組みますし、神道では手 を合わせます。 無難な所で「太ももの上に置く」となったのではないでしょうか?
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Re: 黙想の時の手について ( No.2 ) |
- 日時: 2013/06/02 08:20:38
- 名前: Hide.◆vm9xYr4tCqk
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- 参照: http://ichinikai.com
- 管理人のHide.です。
学校教育に関してはだみ声さんのおっしゃる通りなのだと思います。
ただ、剣道は文化ですから、そうした部分も含めて本当は教えていかなきゃいけないんで すが(-_-)
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Re: 黙想の時の手について ( No.3 ) |
- 日時: 2013/06/03 12:48:32
- 名前: でんでん
- だみ声さん、Hide.さん、お答えありがとうございました。
「宗教色を持ち込めない」、そういうことだったのですね。 でも、それ自体は十分理解できるのですが、だから省くとなると、とても大切なものが抜け落ちてしまっているようで違和感を感じます。
「動く心を抑える」手を組んだ黙想時のあの感覚がとても好きです。 太ももの上に手を置いては感じられないように思います。
学校教育は難しいですね。
ありがとうございました。
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Re: 黙想の時の手について ( No.4 ) |
- 日時: 2013/06/04 10:33:04
- 名前: Hide.◆vm9xYr4tCqk
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- 参照: http://ichinikai.com
- To でんでんさん
少しでも拙サイトがお役に立ちますればうれしく存じます。
別に特別な宗教を想起させるわけでもあるまいし、そこまでしなければならな理由がわか りません。
形を歪めてまでやらなきゃならない授業でしたら、むしろ、正課に取り入れていただかな くてもいいように思えます(-_-)
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Re: 黙想の時の手について ( No.5 ) |
- 日時: 2013/06/04 22:48:34
- 名前: 初心
- 黙想の折に、手を組むようになったのは、何時の時代からであるかは、重要なことだと思います。
手を組む(法界定印)は、坐禅のときの作法で、正座のときに手を組むのは、本来の作法ではなく、正座の時の作法は、手を組まず、ももの上におくことである。と、剣道雑誌で、おっしゃている先生がおられました。
それゆえ、期せずして、元の作法にもどったのかもしれません。(江戸時代かな)
作法や言葉もそうですが、時代とともに変化するものなので、正座のときに、手を組むというような作法をしていた時代があったといわれるときがくるのかもしれません。 私個人としては、さみしいですが。
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Re: 黙想の時の手について ( No.6 ) |
- 日時: 2013/06/05 01:39:40
- 名前: いもむし
- 皆様
こんばんは。
正座の時には、法界定印はせず手は太ももの上に自然に置くものと思います。剣道形の座礼でも手は太ももの上に置きますね。
黙想は正座ではなく、いわば坐禅と同じものと思います。左手は理性の手、右手は感情の手でしたっけ。そんな意味もあると聞いたことがあります。理性で感情を押さえ込んでいる形になります。剣道の左手、右手と同じですね。 親指は、円相を表現していて、全てのものは繋がっていることを表現しているようです。
さて、今回の報告書で全剣連の先生がお一人事務局となられておりましたので、どういった経緯でこのようなことになったのか、全剣連にお伺いしました。
結果はだみ声先生の言われる通り、「宗教色を出すのは教育上好ましくない」とのことでした。「政教分離ということもありますし」とちょっとよくわからない解答もありました。 対応してくれた方は、全剣連はあまり関わりたくないようなことも言っておられました。
あまり突っ込まずに、話は終えました。
私個人の考えでは、剣道と禅は剣禅一如と言われるように同じものを追求し修行するものと解釈しております。不動智神妙録なんかを読みましても理解できると思います。 そして、現在では「人間形成」ということで剣道修行するのですが、禅などの教えが随所にちりばめられていますね。法界定印をしないことで「政教分離?」にはならないと思います。
こういうことは、子供なんかは意味もわからず言われたままにやるのですが、疑問に思う時ってあると思うのです「なんでこんなことするんだろう」とそれで剣道の奥深さを知ることにもなりますが、やらなかったら疑問に思う事もないわけです。
今回の研究の委員には、色々な有識者といわれる方達が入っておりますので、「ちょっと宗教くさくね」いうことで「やめましょう」ということになったのでしょう。事務局にはがんばってもらいたかったですが。
指導要項でもないですし、絶対従えということでもないようなので、指導者がどのように考えるかということでしょう。
しかし、こういった伝統を安易に変えてしまうことの代償って大きいと思います。 試合の時の左手提刀も、多数決で決めたということをきいたことがあります。(本当かどうかわかりませんが)剣道形やる時は右手提刀なのに、子供に説明しづらいんですよね。
私もHIDEさんと同じように、意味のある伝統を変えてしまうようなら、正科にしないほうがいいと思います。こんなことやっていたら、もはや剣道ではないですからね。
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Re: 黙想の時の手について ( No.7 ) |
- 日時: 2013/06/05 07:34:54
- 名前: Hide.◆vm9xYr4tCqk
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- 参照: http://ichinikai.com
- 管理人のHide.です。
私たちはその意味を知りそれを教えられてきました。 座礼にしてもしかりです。
左手、右手と床に着き、礼をして戻ってくるときには右手、左手と正座に復する…これも 「両手同時」などと勝手に変えてしまいました。
黙想にしても座礼にしても、「なぜそう変えるのか」という説明もなく一方的にそうして しまうところが、全剣連の罪です。「お役所お上」的感覚なのかなぁ。
末端の指導者は、子どもたちに説明しなければならないのです。「全剣連がそう決めたから」 では説明にならんのです(-_-)
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Re: 黙想の時の手について ( No.8 ) |
- 日時: 2013/06/05 09:16:35
- 名前: くろ
- こんにちは。
私の通っているクラブでは手は太ももに上に自然に置いています。 逆に手を組む姿に違和感を覚えます。(周辺道場は組んでいますが。) 足を組んでの座禅の姿ではしっくりきますが正座ではなんとなく違うなと思っています。 又、聞いた話では禅宗でも宗派により組み方も違うとあり、親指を合わせるのは特定の宗派の組み方だそうです。(宗派は解りませんが) そういうところが宗教色の表れではないでしょうか?
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Re: 黙想の時の手について ( No.9 ) |
- 日時: 2013/06/05 11:40:47
- 名前: いもむし
- 特に禅の宗派等は関係ないと思いますよ。昔の人が剣禅一如の精神から坐禅を剣道バージョンにアレンジしたものと推察いたします。
そして、その精神や教えを後世に伝えようと、形に残したのだと思います。
剣道で何を学ぶかが大事なことですので、違和感がある、納得がいかないということであれば、やらなくてもいいと思います。
膝を痛めていて、正座できなかったりする方もいらっしゃいますが、修行はできますからね。
個人的には、大きな意味があると思って、子供たちにも少しずつ教えていっています。
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Re: 黙想の時の手について ( No.10 ) |
- 日時: 2013/06/15 21:20:38
- 名前: 相生の剣きち
- 小生の道場では、正座の状態で黙想致します。つまり、自然に膝の上に手を置いた状態(正座をして手を下ろし、肘を曲げ掌を自然に膝の上に置いた状態で、股の付け根に引きつけたり、膝頭に持ってくることなく。)のままです。気持ちを落ち着かせる事が出来るので有れば、手を組もうが太股の上に置こうが拘る必要はないと思います。黙想することの意義さえしっかりと理解しておけば、難しく考える必要は無いのではないでしょうか?Hihoさんのいわれる通り、全県連が、説明を抜きに一方的に上意下達することが混乱を招く大きな原因と思っております。 これについては、別項に記載して皆様のお考えを拝聴したく思います。
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Re: 黙想の時の手について ( No.11 ) |
- 日時: 2013/06/16 08:16:20
- 名前: Hide.◆vm9xYr4tCqk
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- 参照: http://ichinikai.com
- 管理人のHide.です。
もちろん「形」ではありません。 元々我々日本人は「形を作って魂を入れる」ということを大切にしてきた民族ですから、 「魂=思想=考え方」が間違っていないのであれば、形は変容しても問題はないはずです。
ただ、「どうして先達がその形を残したのか」まで無視していいかどうかは疑問が残る点 でありますm(_ _)m
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Re: 黙想の時の手について ( No.12 ) |
- 日時: 2013/06/16 20:31:21
- 名前: 相生の剣きち
- Hideさんの仰る通り「先達が何故法界定印の形を残したのか」といわれることは十分に理解致します。 ただし、瞑想するのに端座しただけで出来ないということではないと思いますし、法界定印を否定しているものでは決してありません。 子供たちには、稽古に入る前と終わった後に心を落ち着かせるための作法であることを教えており、禅宗のお坊さまは手を組んで瞑想し心を落ち着かせておられることも伝えております。
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Re: 黙想の時の手について ( No.13 ) |
- 日時: 2013/06/17 00:39:17
- 名前: いもむし
- 心を落ち着かせるためだけであれば、法界定印は必要ないでしょうね。
心を落ち着かせる以上に大事な事があるので、形に残しているのだと思います。
なぜこのような形を取るのか。何を残したかったのかを考えさせるために残したとも言えると思います。
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Re: 黙想の時の手について ( No.14 ) |
- 日時: 2013/06/17 09:15:02
- 名前: Hide.◆vm9xYr4tCqk
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- 参照: http://ichinikai.com
- 相生の剣きちさんのお話もよく理解できますが、私はいもむしさんの意見に近いですね。
立ち会いの礼法にしても、子ども達には「おねがいします」「ありがとうございました」 と元気良く言わせますが、高校生以上には「心の中でその言葉を言い、それを形に表しな さい」と教えます。
正座の形にとらわれるものではありませんが、特に初心者には「形を作って魂を入れる」 の方が指導しやすく、かつ学びやすいのではないかと愚考する次第です
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