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剣道 いちに会はネチケット強化月間です!
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お名前: Hide.
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To 上野山さん
管理人のHide.です。
居合の門外漢ではありすが、「りつい」でいいのだと思いますよ(^^)
お名前: 上野山 豊己
すみませんが、読み方の質問です。
「立位」は何と読むのでしょうか?
「りつい?」、「たちい?」
すみませんが、ご教示下さいますよう、よろしくお願いいたします。
お名前: Hide.
URL
to 片腰さん
ありがとうござます。
私は図書館勤務ですので、ISBNさえわかれば、手に入れられない書物はありません(^^)
読んでみたいのは山々なのですが、私の机の上には未読の本が山積みになっておりまして、
どうやって時間を捻出するかってことのほうが問題です(^_^ メ)
お名前: 片腰
Hide.さん
渡邉先生は、筑波の名誉教授で日本武道学会常任理事であり
日本思想大系の「近世芸道論」(共著)や「武道の名著」(単著)などの
有名な著作があります。(履歴・業績一覧より)
剣道事典を著された中村民雄先生の執筆(剣道の技の体系と技術化について)など
沢山の先生方の興味深い論文があります。
Hide.さんなら、楽しんでいただける事と思います。
ただ、私の場合、結果的にマニアックな手に入れ方になりましたが、
需要があれば普通に本屋で手に入るはずで
そうで無い現状を考えると寂しいものがあります。
奥付には
第一書房 1995年3月10日印刷 同28日発行
ISBN4-8042-0088-6
とあります。
お名前: Hide.
URL
to 片腰さん
>この夏上京の際、高山書店で
>「武道文化の研究」(渡邉一郎先生古稀記念論集刊行会編)を手に入れました。
>なかなか面白かったです。
へ〜、なんかマニアックな感じの本ですね(^^)
「古書店サイト」で探してみようかなぁ!
お名前: 片腰
「女房は 関口流で 首を締め」
幕末土佐で有名な一刀流の先生は
関口流の柔術をされた旨の記述も読んだ記憶があります。
刀なんてと書くと語弊が在るかもしれませんが
戦では武器の一つのバリエーションに過ぎない気がします。
総合武術の形のままで伝承されてきた竹内流や香取神道流では
演武会等でのバリエーションを拝見するだけでも楽しいです。
竹刀稽古の競技部分の発展から繋がる現代剣道と
古流の形稽古の差異はありますので上手く伝わらないかもしれませんが
楽しむにはいろんな方法があって良いと思いますよ。
Hide.さん
この夏上京の際、高山書店で
「武道文化の研究」(渡邉一郎先生古稀記念論集刊行会編)を手に入れました。
なかなか面白かったです。
※ ※ ※
書き込みは自身の鏡、過去の痕跡を見るたびに恥ずかしい気がしますが
これも距離を越えた現代の交流の一方法と割り切り
お付合い下さいませ。
さて、
深夜になって参りましたので
首を締められないうちに書き込みを終わりたいと思います。
お名前: むささび
猫銀さんのおっしゃるとおり居合と柔術は一如であります..
これは剣術も含め,居合の剣をはしらせる要領もやはらを掛ける要領も同じ
即物的筋力を否定する次元で成立するものですから結果的に同じ事になって
しまうからでしょう.
ですから自分の流儀に於いては特に間合いの遠近で使い分ける発想はありま
せんし,柔術より近い間合いの居合も古来から存在しているのも事実です.
余り形を具体的状況に即した実戦適応性だけで理解するより,鍛練や心法と
して「動く禅」くらいに理解してもいい要素がある様に思いますが.
剣道に居合を組み込む功労者は他ならぬ中山博道先生が筆頭でしょうから,深い
思慮があられたと理解しますし,中山先生がその為に多くの居合流儀を研究され
た結果いまの両輪に出来る居合道に結実したと理解しています.
お名前: 猫銀
補足します。 座位の稽古は居合、立位の稽古は立合と呼ぶのが一般的です。
『居捕り』は柔術で、座った状態で技をかける形のことです。
座った状態であれば立位よりも落差が小さいので、崩されたとき床や地面に
叩きつけられ大怪我を負う危険性が少なくて済みます。
昔の柔術では畳を使用するなど贅沢なことはしませんし、受身から親切に教える
こともありません。 初心のうちは居捕り稽古で転がされるうちに受身や加減を
自然に覚え、慣れたら立ち稽古に移っていったものと思われます。
居合術の起こりは、そもそも林崎甚助の伝承の通り「剣とやわらの間にいま一つ」術
を創ろうと思い立ってのことで、剣術の一形態である「抜刀術」とは別のものです。
居合道を成している主要な古流は、殆ど全てといっていいほどかつては柔術と併せて
稽古されていましたし、その稽古法や思想、間合いのとりかた、仮想敵を考えると、
むしろ柔術の一形態と考えたほうが妥当です。
剣道人、あるいは一般人からみて不可解な点がある場合、居合の相手が太刀を構えた
剣士ではなくやわら使いだと仮定すれば氷解することが多々あると思います。
また、「剣道と居合は車の両輪」という考え方にも、以上の理由から賛同しかねます。
剣道には小太刀術という立派なものがあり、居合の部分はすでに補完していますから。
昔の先生方が居合と剣道を同時に稽古するのを嫌ったのは、そのことをよく理解して
いたからでしょう。
to Hide.さん
久しぶりに覗いてみたら書き込まずにいられませんでした、もう遅いですが。
お目汚しすみません。
お名前: 語聖
補足ですが、文献によると座位で行う『居合術』の他、立位で行う『抜刀術』
が存在した様です。だって、『居合』の『居』って、古流柔術で使われる『居
捕』の『居ですよ』。(笑)
お名前: 語聖
剣道=抜いて構える。
居合道:抜き様に斬り付ける。
では無いですか?! 剣道家は抜刀して居ない時に居合の達人に襲撃される
のは大変危険なので、体術の心得も多少在った方が体捌きの面で役立つと
思われます。(笑)
お名前: 片腰
続けて書きます。
日頃、剣術や居合の形稽古をしていますが、
同門として剣道や他武術の経験者が居たり入門してきます。
体の使い形の違いは感じる事もありますが
既に経験された武術の分野での稽古が進まれた方ですと
理解が早く業などの説明時に言葉の意味が伝わり易いように感じます。
未経験、真っ白で来て”良く”稽古をされる方の上達は言わずと知れたことですが
真っ白で来られた方が他武術を習い始めると
其処ではその方は他武術経験者となります。
夫々に個性がある同門のライバル達を興味深く眺めて過しています。
お名前: 片腰
URL
日本刀が現役だった頃、それを明治の廃刀令以前程度とすれば
(明治の廃刀令以後も戦争等で使われた事実はあるようですが)
少なくとも竹刀稽古をする者は
戦の道具としての刀の扱いを良く知っていたのではないでしょうか。
現在、竹刀稽古と形稽古は全く別物の様な状況もあり得るように思いますので
日本刀とはと考えて現代の竹刀稽古を主にする者が
刀の扱いに慣れる事を目的に居合の稽古を行う事も意義があるように感じます。
(仮令、木刀で形稽古を行っていてもそれは同じです。
木刀も稽古の為の日本刀の代用品です。)
竹刀稽古をささえる者が武士ではなくなって時代も変わり戦を前提としていないので
竹刀稽古の形態も変わってきています。例えば組討ちが無くなりました。
(鍔ぜりからの引き技の展開もそれと同時に起こっているようです。)
日本刀が現役だった少なくとも江戸時代以前では
竹刀稽古者も体術の心得があった様に感じます。
(現代でも古い先生に於かれては柔道と剣道を修めた先生がいらっしゃる様に思います。)
現代に趣味として楽しむ分では、
己が好みの一分野をだけを稽古するだけでも十分ではないかと思います。
ただ其処で一分野ですら歴史を紐解いてみようとすれば、
武術の他分野やその歴史・時代風俗などのへの興味が生まれるのでは無いでしょうか。
お名前: Hide.
URL
to 名無しのごんちゃんさん
むささびさんのカキコにもありますが、剣術を修めていても居合いを習っていなかった方
もおられるようですね。
その逆は難しいと思われますが(^^;
お名前: むささび
所謂(いわゆる)武芸十八般の項目に「居合」が独立して挙げられて
います.居合は江戸期に独立した項目と看做されていたと言えましょう.
しかし当時の武士の習いとして居合だけを必修とするには無理がありま
す.武藝者として生きるならば別として一般の武士の生業としては剣術
と併学するか,居合に剣術の要素の多く含まれる流儀を修める事になり
ましょう.
更に当時は藩各とに「お留め流儀」の対象に居合が入る場合もあり,藩士
の資格として特定の居合に精を出したものでしょう.(土佐藩の「英心流
」等が有名です)つまり藩の事情で流儀の選択がある程度定まるのも珍
しくない事でした.
剣術のみの武士から見て居合の心得のある者は「居合遣い」として警戒す
べき対象であったでしょう.居合で免許の腕前ともならば「猫でも斬れる」
抜き付けの冴えを憶え畏れたはずです.しかし,江戸期には実際に用いる以上
に心法の鍛練として居合に取り組む者が多くいたはずで,第一現実には大刀
を差したまま武士が坐る習慣はありません.稽古はあくまで鍛練の形で練る
主旨といえます.
結局の処,伊達でない実力の免許ともなれば居合であれ各剣術であれ,常人
の想像を超えた術儀に達していますから個別に有利不利や優劣を争うもの
ではなかったと思われます.居合も突き詰めれば剣術の一形態ですし,独り
稽古のし易さから居合を徹して剣儀を極めんとして江戸期に居合が興隆し
たとの説もあります.
現在であれば剣道の一貫として居合道に取り組まれるのは意義深い事ですし,
独立に居合道を心の鍛練に生涯武道として取り組まれるのも敬服に値します..
亦,古流の居合と剣術流儀を学ばれるのも剣道や居合道とは毛色も歴史も違う
日本の伝統武藝に触れる素晴らしい機会だと思います.
お名前: 名無しのごんちゃん
>>むささびさん
>>Hide.さん
レスありがとうございます。
では昔のお侍さんは剣道と居合い二つを習得していた。
という事でしょうか。
それとも「居合い派」、「剣術派」という風に分かれていたのでしょうか。
重ね重ねで申し訳ありませんが、お答えいただければ幸いです。
お名前: Hide.
URL
管理人のHide.です。
浅学者の意見ですが、剣術が「刀を抜いて構えあってからの技法」であったのに対し、居合
は「抜きつけからの技法」である点が異なると考えます(^^)
お名前: むささび
う〜ん,「別物」の主旨がいまいち定義にこまりますが・・
幕末までの,つまり明治期剣道成立の以前であれば諸流儀
各藩で事情が分かれます.剣術に居合の含まれるものも,
居合が独立であるものもあります.
あと古流に於ける居合と剣術の関係は,剣術に居合は必須
ではありませんが,居合は剣術なしに成立は難しいものと
いえましょう.ここは現在居合道を剣道とは全く別に学ぶ
事の珍しくないのと異なります.
本来居合は剣術と一体で完成しますから,剣術の流儀の理合
いと相性の悪い居合流儀では稽古出来ません.その為流儀に
よって居合を指定したり含めたりする訳ですね.(例えば
一刀流と新陰流では構えや足の踏み,太刀筋の真っ向と袈裟
の遣い方など各々違いますから居合流儀の選択もそれに
従うのが道理です)
その意味から剣道の方には制定や中山博道先生の夢想神伝流
の諸派が多く学ばれる事情も判ります.
お名前: 名無しのごんちゃん
剣道と居合いの違いは…
まぁわかるんですが
刀を使用する武術である所は同じだと思います。
そこで、剣道と居合いは日本刀が現役だったころから別物だったんでしょうか。
どなたかお教え下さい。お願いします。
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