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お名前: Hide.
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to 守之助さん
>暫く諸用もあって九州の恩師のの居られる道場へ滞在稽古をしていました。そこで宮本
>武蔵の「活人剣」に対する考え方を探るため、熊本城の近くにある「島田美術館」(熊
>本市島崎4-5-28)を訪ねましたが休館中(今年の9月迄)のため、関係資料の収集だけで
>終わりました。
そうですか、それはご苦労様でした。
さぞかし実りある生活をお送りになられたことと拝察しうらやましく存じます(^^)
新発見の折には、ぜひぜひこちらでお話いただけますようお願いいたしますヽ(^.^)ノ
お名前: 守之助
Hide.さんへ
HNの変更承諾と激励を頂いたのに返信もせず、失礼しました。暫く諸用もあって九州の恩師の
の居られる道場へ滞在稽古をしていました。そこで宮本武蔵の「活人剣」に対する考え方を探
るため、熊本城の近くにある「島田美術館」(熊本市島崎4-5-28)を訪ねましたが休館中(今
年の9月迄)のため、関係資料の収集だけで終わりました。今後もこの「活人剣」の真理を求
めて苦渋された先人の労の一端を肌で感じ、新発見があればカキコさせていただこうと思って
おります。もちろん定例稽古の方も「活人剣」の心がけのおかげで順調です。
お名前: Hide.
URL
to 守之助さん
>HTML方式に変換して送りましたのでこの形式に切り替えていた
>だけれは出されると思いますが 別途テキスト方式でも送信しています。
今度は拝見することができました。
皆さん楽しそうにお稽古しておられますねヽ(^.^)ノ
何度もお手を煩わせてしまいまして申し訳ありませんでしたm(_ _)m
>小生は現在、心新たにして移籍した剣友会の常任指導者に選任されましたので素浪人改
>め守之助に改称させていただきます。
そうですか、それはよかったですね(^^)
HNの変更承りました。ますますのご活躍をご祈念申し上げております!!
お名前: 守之助
以前教えていた剣友会が解散し、子供の親からの進路相談に力を注ぐ事がせめてもの償いと
懸命に対応していた矢先、父兄から私の慰労会をするので出席願いたいと誘いがありました。
しかし、問題になった先生を抜きにしての慰労会なら出席しないことにしました。
問題になった先生は5歳年上で、私よりはるかに長く子供達を長いこと指導されていた人で
すが以前お話ししたように教え方がいささか乱暴で、子供達相手に一方的にしごく教え方で、
引き立て稽古などはほとんどしないため父兄から嫌われていました。(私とも時折稽古をしま
すが、待ち剣になるのでそれだと昇段審査は受からないですよと伝えていますが、高年齢も
あって中々直らない状態でした)やはり教え方も「活人剣」でないと子供も伸びないし、こん
なことになってしまうのかと考えさせられます。
小生は現在、心新たにして移籍した剣友会の常任指導者に選任されましたので素浪人改め
守之助に改称させていただきます。
お名前: 守之助
管理人のHide.さんへ
メールは届いたのですが、なぜか添付ファイルが姿はあれども実体がない状態でして開く
ことができませんでした⇒HTML方式に変換して送りましたのでこの形式に切り替えていた
だけれは出されると思いますが 別途テキスト方式でも送信しています。
お名前: 守之助
管理人のHide.さんへ
メールは届いたのですが、なぜか添付ファイルが姿はあれども実体がない状態でして開く
ことができませんでした⇒HTML方式に変換して送りましたのでこの形式に切り替えていた
だけれは出されると思いますが 別途テキスト方式でも送信しています。
お名前: Hide.
URL
to 素浪人守之助さん
>それともう一つ重要なことは鎬の手の内稽古としても3、5本目は大変有効な稽古で
>あることが、子供達にこれを繰り返し稽古させてから面返し胴や、小手鎬ぎ面が格段に
>上手になって思いもよらぬ収穫となったことでした。
そうですか、愚息の通う剣友会では、そこまでの効果が出ておりませんね。
教え方が悪いのか取り組ませ方が実践的でないのでしょう(^^;
>つまり、剣道形を繰り返し稽古することでただ一方的に強引に打ちまくる戦法から、相
>手の動きを早めに察知して先で打たせてもらう活人剣の理法に近づきやすいことが経験
>から証明されました。
そうですか「証明」されておられるのですね!
私どもではそういった検証ができていまぜんねぇ(^_^ メ)
>子供達と活人剣を学ぶ集大成としての剣道形稽古のスナップ写真を
>別途メールで送信しました。
ありがとうございます。
メールは届いたのですが、なぜか添付ファイルが姿はあれども実体がない状態でして開く
ことができませんでしたm(_ _)m
お名前: 素浪人守之助
hide様へ
子供達と活人剣を学ぶ集大成としての剣道形稽古のスナップ写真を
別途メールで送信しました。
これは1ヶ月程前教えていた剣友会の子供達でまだ習い始めて1ヶ月
の子も1年〜1年半の子も一緒にやっています。
いちいち別けて教えられるほど教える先生が居ないのでまとめて2回
程やってみせながら、やらせて間違っている子や判らないでいる子は
ほぼ出来ている子に教えてもらうよう指示しながら自習方式で進めて
います。
もちろん自習中大きく間違っていれば2人の先生が「ちょっと待って
そこは違うんじゃないの?」と考えさせながらけして決め付けの否定
ばかりにならないよう、引き立てながら行なっています。
2004.9撮影(普段着の子を除いて稽古始てから約1年半目)
お名前: 素浪人守之助
hideさんへの 活人剣としての剣道形について返信(その5-最終編)
2本目は最も簡単なようだが子供達にしてみると左斜め後方に引くと同時に
剣先を下げて抜き、大技で右小手を1拍子で打つ動作は容易ではありません。
剣先の狐の奇跡が回し過ぎたり、間合いが悪く右小手を正確に打てなかった
り、抜いて打つのが2拍子になったりで、せっかく打太刀が小手打ちで尽き
た瞬間の隙を作ってくれているのにそれを無駄にするようでは先人が命をか
けて作り上げた「活人剣」にすまないと思って稽古しないといけないよ!と
説明しています。この稽古で一足一刀の間合いと足裁きが良くなりました。
また3本目の左拳の位置や突くときの剣先と手元の位置関係など正しい突
きの所作や右鎬、左鎬での押え等通常の竹刀稽古では鎬が自体が判りづらい
し、これらの所作事は全くといっていいほど使われないで居るのが現状だと
思います。しかし、毎回の稽古に取り入れて半年以上すると確実に少しづつ
ではありますが、受けだけの動作から瞬時に打ち返す動作に変わり、さらに
2年後は鎬技などが試合中に突然のように出るようになり、驚かされます。
私は中学から剣道を始めて大学〜社会人剣道の16年間までの間この剣道形
は昇段審査の3日前に特訓して覚えたぐらい(多くはその様ですが)なので
その流れや形だけを真似して「普段の竹刀稽古には直接役立たない」とたか
をくくっていました。しかし先に紹介した宗辰館道場で毎回の稽古の前に必
ず剣道形を30分程度師範代の説明を受けながら行なってから今までの稽古
何だったのか、あまりにも先人が苦労して作り上げた剣技や理合を軽視し、
何故もっと早く取り入れようとしなかつたのか悔やむ以上に申し訳ない気持
で一杯となりました。
多くの師匠の教えを元に百錬自得することで3年程前に6段錬士をいただ
いて以来,この恩返しと先人達への感謝をこめて未熟ながら「剣道形に生きづ
く活人剣」の理法を伝えていくのが後先短い人生の努めとして居ります。
お名前: 素浪人守之助
hideさん 活人剣稽古の集大成としての剣道形について返信(その4)
どの形も1拍子で打ちに対して受けると同時に打ちこむ動作なので試合稽古でも受けるだけ
の動作が少なくなり、返し、すりあげ、鎬を使った後先というか常に先を読んで瞬時に打
ち返す動きができるようになったことは形の稽古のおかげだと思っています。
つまり、剣道形を繰り返し稽古することでただ一方的に強引に打ちまくる戦法から、相手
の動きを早めに察知して先で打たせてもらう活人剣の理法に近づきやすいことが経験から
証明されました。
<追記>
残心や気位は感謝の表示でもあると前にのべましたが、これは「まだ打つてくるなら、
いつでもうちかえせるので打ってきてもよいが、活人剣で終らせたいのでこれで一時止め
ましょう!ありがとう!」という意味も含まれているのです。と教えていますがいかがで
しょうか?これも「守破離」の一つかとおもいますが--。(^^;
お名前: 素浪人守之助
書込み削除についてのご丁寧な解答ありがとうございます
まだ私の入力が正確敏速でないため一度Wordで文を完成し、改行なども整理して校正
してからこれを書込みにコピーして送信すれば間違いないことがわかりました。
hide.さんへの返信(その3−途中から続き)
意義あることと思います。普段の試合稽古のときでも、少しでも突きの受け方を稽古
しておかないと前にお話ししたように突きをする先生は「指導者として失格」だなどと
親子でとんでもない誤解をすることになってしまいます。
小中学生は試合では使えないことになっていても、栄花選手の「一撃にかける」に出
てくるように本来は立派な技であることを身体で体得しておく為にも3本目の稽古はと
ても大切だと思います。話はそれましたが、3本目の「左鎬でのすり込みながらの突き」
や「なやし入れ突き」にしても子供達には言葉やしぐさだけで分かる筈がなく、自らさ
せて見て、直しながら繰り返し身体で覚えていくしかないと思いました。
理合を長々と話しながら判らなくても良いから大切なことだからと自己満足でおやりに
なる先生も居られますが、これを「なやし」といい「入れ突き」というだけで良いと思い
ます。要はhide.さんも仰るように正しい突きの稽古をできるだけ多く体験すること
で危険な向かい突きに対しても「恐怖のどん底に陥ることもなく」冷静になやして対応で
きる(簡単ではないが何も稽古していないよりは数段に可能)と思います。
それともう一つ重要なことは鎬の手の内稽古としても3、5本目は大変有効な稽古で
あることが、子供達にこれを繰り返し稽古させてから面返し胴や、小手鎬ぎ面が格段に上
手になって思いもよらぬ収穫となったことでした。
4本目を教えはじめる時に従来の一足一刀は必ず左足をひきつけて右足から出て打つ事
が大原則となっていますから左足から出て巻き返して打つなどと言うのはせっかくの基本
原則を破り、子供達がとまどってしまうのではないかと心配しました。
しかし、あにはからん、それは大人の余計な心配で一足一刀でこんな打ち方もあるのか
とすんなり受け止めてしまったのにはこちらが1本とられたような気がしました。
関連して思い出された事で、私がまだ現役の会社員時代に大変おせわになった九州博多
の金子宗辰館館長(武専出の師匠)が一本目の打太刀が左足から出て打ち込む面と同じに
綺麗に面を抜かれていたことを思い出し、「守破離」とはこういう事かと再確認しました。
お名前: Hide.
URL
to 素浪人守之助さん
>5本までしか教えていません。5本目の「面すりあげ面」は普段の稽古でもして居り
なるほど、了解です(^^)
>普段この年代は使えないことになっている正しい突きの基本を教えて突きの難しさを
>知っておかせることで、けして生半可な突きを稽古中にしないようにさせるのも大変
>意義あることと思います。
そうですか。
私は「突きは決して特殊な技ではない」と教えるのに三本目などは役立つと考えておりま
すが、そうした考え方もありましょうね。
お名前: 素浪人守之助
5本までしか教えていません。5本目の「面すりあげ面」は普段の稽古でもして居り、
打ち込まれてから鎬ぐのではなくて振り下ろす寸前の高い位置で鎬がないと打ち遅れ
てしまうことに注意させます。もちろん少し下がっても前に出て1拍子です。
しかし3、4本目はかなり高度な技量が伴うので小学生には無理な面がありますが、
普段この年代は使えないことになっている正しい突きの基本を教えて突きの難しさを
知っておかせることで、けして生半可な突きを稽古中にしないようにさせるのも大変
意義あることと思います。普段の試合稽古のときでも、少しでも突きの受け方を稽古
お名前: Hide.
URL
to 素浪人守之助さん
>もちろん子供達同士でお互いに打太刀、仕太刀を交代させながら稽古させて
>ます。但し始めは全員で打太刀だけ、仕太刀だけを毎回1本だけ反復練習させ
>てからある
なるほど。
私もこの手順をとっておりますが、効果的は覚えさせ方ですね(^^)
>また更に打太刀は打たれる機会を形を通じて身体で知り、仕太刀は打つ機会を
>「身を捨てて作ってくれた隙」の瞬間を逃さず1拍子で打ち止めて残心を示す
>ことで打太刀に感謝の意を表すのが活人剣の理法としています。
なるほど、この部分のくくりに「活人剣」をお使いになるのですね。理解できました(^^)
勉強させていただきましたm(_ _)m
>またつい熱が入って形の時間が長くなりがちですが20分以内に終らせること
>も大切だと思います。
活人剣から離れた質問ですが、子どもたちには小太刀まで教えておられるのですか?
それとも、基本となる1〜3本目まで教えておられるのでしょうか?(^^)
お名前: 素浪人守之助
改行マン剣志郎さん
行長の読みにくい文章直していただきありがとうございます。
また、別途書き込みした文章を直そうと思って戻したらかえって重複文となり
おかしくなった文まで直していただきすみませんでした。
ところで、次のhideさんからのご質問ですが
>日本剣道形の稽古ですが、子どもたち同士ではなく先生が打太刀をさせて打
>たれているのですか? それとも子どもたち同士なのでしょうか?
もちろん子供達同士でお互いに打太刀、仕太刀を交代させながら稽古させて
ます。但し始めは全員で打太刀だけ、仕太刀だけを毎回1本だけ反復練習させ
てからある程度流れを覚えたら(始めからあまり難しい理合などは抜きにして
打太刀、仕太刀の動きを先ず覚えたら---一般に大人より覚えるのは早いです)
打太刀、仕太刀に分かれて行ないますが、始め打つ時は寸止め等できるわけが
無いので、しっかり振りを止めることが出来るまでは安全上打つ相手から少し
離してさせます。機を見て打つべき機会と゛起こり゛、゛尽きる時゛等の状態
と打つべき機会とを形の中で説明しながら木刀ならではの手の内で打つしぐさ
も教えやすいと思います。
また更に打太刀は打たれる機会を形を通じて身体で知り、仕太刀は打つ機会を
「身を捨てて作ってくれた隙」の瞬間を逃さず1拍子で打ち止めて残心を示す
ことで打太刀に感謝の意を表すのが活人剣の理法としています。
大人でも難解な理合をあまり長々と子供に説明しても「嫌気」をさすのが落
ちで年代に応じた教え方で良いと思います。またある程度成人してからあーこ
れが「気位」でこれが「なやし突き」ということか-で良いと思いますがいか
がでしょうか。
またつい熱が入って形の時間が長くなりがちですが20分以内に終らせること
も大切だと思います。
気持ちを新にしてフリー(素浪人)の立場で今指導させてもらっている道場
でも父兄はもちろん指導総責任者も賛同し、皆で協力していただいてます。
お名前: Hide.
URL
to 素浪人守之助さん
>日本剣道形の稽古を20分程取り入れて打太刀(師匠)がいかに仕太刀(弟子)を引き
>出してその打つべき機会を教えているかから「活人剣」の理法をわかり易く身体で教え
>ています。
そうですか。それはすばらしいですね(^^)
日本剣道形の稽古ですが、子どもたち同士ではなく先生が打太刀をさせて打たれているの
ですか? それとも子どもたち同士なのでしょうか?
あと、恐れながら、素浪人守之助さんが指導しておられる「日本剣道形における活人剣の
思想」とは、いかなるものでその方法論たるやどのようなものなのかご教示いただけます
ればうれしく存じますm(_ _)m
お名前: 改行マン剣志郎
太田さま。興味深く拝見させていただきました。読みやすく改行いたします。↓
己の剣道に対する精神力や技量はまだまだ未熟の身でありながら次に述べ
る「活人剣」についてはいささか独善的な言い方になりますが、間違いがあ
ればご指摘願います。
この「活人剣」とは剣豪宮本武蔵が晩年になって命がけで体験した幾多の
試合から勝つためには相手を殺傷するしかなかった「殺人剣」の儚さを知り、
新陰流柳生宗徳が提唱した「活人剣」がいかに意義深い「剣」であることを
悟ったのではないかと察せられます。
活人剣は「真剣」から「木刀」→「竹刀」→剣道形に置き換えることで負
けのダメージを少なくし、「再起」の機会を作り、負けた相手をも活かしつ
つ互いに切磋琢磨する事ができます。 つまり、今の世の中は競争の原理で、
相手(これは人であったり社会であったり、自然であったりしますが)を一方
的に倒すことが自分の生きていく必要条件となっているように錯覚しがちで
す。 しかし、相手も活かし自分も活かすやり方(=活人剣)でないと、何
時かは自分が一方的に倒される運命にあるか、それに苛まれて安住できない
という教えです。
環境問題なども正に人が自然を一方的に破壊した結果から来ていると思い
ます。自然循環の原理を活用しながらともに生きるやり方でないと無理が生
じ、人も住めない環境となってしまうことはもう当前の理となっています。
悪い相手(個人や集団)をただ一方的に武力で殺傷しても、また犯罪や戦争
が繰り返されているのは新聞やテレビで何度も実証されているのが実態です。
ただ他人を生かし自分も活かすやり方なんか理想論だというなら世の中は
終わりです。 確かにこれは大変な事ですが例えば水田稲作は自然を活用し
ながら共存して千年以上も人間に必要な食料を獲り続け、保水作用により塩
濃度を高めずに自然をも保全しています。
人はもっとお互いに欲望をスポーツや汗を流す事で発散し、思いやりと我
慢と努力する道を選ばなければなりません。
この思いやりを全く失った最近の悲惨な少年犯罪の激増に伴い、旭川でも
最近剣道に対する認識が見直され、子供達も女子の方で少しづつではありま
すが増えつつあります。
これは剣道特有の古くからの礼儀作法と激しいぶつかり稽古を通して、相
手に対するいたわりの精神や相手も活かしながら自分も活かす「活人剣」の
精神が親子の間にも求められてきたのだと「先生と親子の剣道宿泊研修稽古
会」の時に強く感じました。
お名前: 素浪人守之助
hideさん 読みにくい文章読んでいただきありがとうございます
これからの書き込みは行長に注意して送信し誤りがないか再確認して送信します。
現在小中学生の子供たち7〜8人(一時は30人以上居たのに)を教えている
田舎道場ですが1時間半を週2回稽古している中に日本剣道形の稽古を20分程取
り入れて打太刀(師匠)がいかに仕太刀(弟子)を引き出してその打つべき機会を
教えているかから「活人剣」の理法をわかり易く身体で教えています。継続は力な
りで理合の理解はともかく普段の試合稽古にも少しづつ取り入れられているのを感
じて、64歳の生きがいを感じている昨今です。
お名前: Hide.
URL
To 素浪人守之助さん
はじめまして、管理人のHide.です。
ご意見ありがとうございました。
環境破壊にも活人剣の思想を持ってあたれば解決の道が開けるのですね。いやぁ、勉強に
なりました(^0^)
横長になり少し読みにくいですが、大丈夫ですよ。
この掲示板は、BIGLOBEのお仕着せでして、投稿者が訂正したり削除したり出来ないんで
す。申し訳ありませんm(_ _)m
お名前: 素浪人守之助
先に送った文章が誤って横に長い大変読みにくい文章になってしまい誠に申し訳ありません。
もう通常の行長に訂正することは出来ないのでしょうか?
出来なければ一度削除して入れなおしたいのですが---。
お名前: 太田 守
己の剣道に対する精神力や技量はまだまだ未熟の身でありながら次に述べる「活人剣」についてはいささか独善的な言い方になりますが、間違いがあればご指摘願います。 この「活人剣」とは剣豪宮本武蔵が晩年になって命がけで体験した幾多の試合から勝つためには相手を殺傷するしかなかった「殺人剣」の儚さを知り、新陰流柳生宗徳が提唱した「活人剣」がいかに意義深い「剣」であることを悟ったのではないかと察せられます。活人剣は「真剣」から「木刀」→「竹刀」→剣道形に置き換えることで負けのダメージを少なくし、「再起」の機会を作り、負けた相手をも活かしつつ互いに切磋琢磨する事ができます。 つまり、今の世の中は競争の原理で、相手(これは人であったり社会であったり、自然であったりしますが)を一方的に倒すことが自分の生きていく必要条件となっているように錯覚しがちです。しかし、相手も活かし自分も活かすやり方(=活人剣)でないと、何時かは自分が一方的に倒される運命にあるか、それに苛まれて安住できないという教えです。 環境問題なども正に人が自然を一方的に破壊した結果から来ていると思います。自然循環の原理を活用しながらともに生きるやり方でないと無理が生じ、人も住めない環境となってしまうことはもう当前の理となっています。悪い相手(個人や集団)をただ一方的に武力で殺傷しても、また犯罪や戦争が繰り返されているのは新聞やテレビで何度も実証されているのが実態です。 ただ他人を生かし自分も活かすやり方なんか理想論だというなら世の中は終わりです。確かにこれは大変な事ですが例えば水田稲作は自然を活用しながら共存して千年以上も人間に必要な食料を獲り続け、保水作用により塩濃度を高めずに自然をも保全しています。 人はもっとお互いに欲望をスポーツや汗を流す事で発散し、思いやりと我慢と努力する道を選ばなければなりません。
この思いやりを全く失った最近の悲惨な少年犯罪の激増に伴い、旭川でも最近剣道に対する認識が見直され、子供達も女子の方で少しづつではありますが増えつつあります。
これは剣道特有の古くからの礼儀作法と激しいぶつかり稽古を通して、相手に対するいたわりの精神や相手も活かしながら自分も活かす「活人剣」の精神が親子の間にも求められてきたのだと「先生と親子の剣道宿泊研修稽古会」の時に強く感じました。
お名前: Hide.
URL
To 剣志郎さん
ご意見ありがとうございます。
何度か読み返し、勉強させていただきたく存じますm(_ _)m
お名前: 剣志郎
「活人剣につて記せ」これは今年の東京の四段審査の設問でしたので敢えて答えま
せんでしたが、昨日、審査も終わっていますので、ちょっと私なりの解釈を書いて
みたいと思います。↓
活人剣の由来は古流に様々あり、その解釈も一様でなく、端的な結論には至りません。
一刀流伝書には、敵の太刀筋を殺人刀と称して、その太刀筋を卍に切り結ぶことに
よって己の太刀を生かし、勝に至らしめることを活人剣と称し、刀法の理を説いて
います。この卍はサルマンジといい、一刀流の「一刀が万変し、万変は一刀に帰す」
の哲理にも発展して行く訳ですが、まだまだ心法とは呼べません。しかしこれを書
いても試験としては正解でしょう。
次に「殺人剣は自ら動いて相手を斬ること、活人剣は相手を自らの意志通りに動か
すこと」とする書物や「執着を離れた自由な本性、すなわち不動智が神応すること
を活人という」という意見もありますが、他人に対してまでの働きかけがありませ
ん。まだ「自己」にとどまっている段階です。しかしこれでも試験は正解でしょう。
むささびさんのおっしゃるように、一般的に柳生新陰流の柳生但馬守宗矩の「兵法
家伝書」が活人剣の活字を使った最初の伝書と言えると考えます。確かに師匠であ
る信綱も宗巌の影響多大であると考えられますが、宗巌は道歌しか残しておらず、
またその考えも儒教からくる五常の道徳が基本であり、士道の根幹とは言えますが
剣理と剣徳がまだ「自己」の中にある段階です。
宗矩の兵法家伝書とは「敵をよせぬ心地」を流儀の根幹とし、あらゆる剣技の理法
の総称を殺人刀と称し、(その見合いを確かなものにするために)技術を超越した
究極の心法を活人剣と称し、剣理を追求して行くことにより「兵法とは人を切るに
あらず、悪を殺すなり」という結論が導き出され、三殺法のような相手の至らぬ所
や悪癖を自在に攻め、相手の良いところを殺すことによって勝を得ることを至上と
した剣です。結果、剣を切り結ぶことなく、相手を心服させ降参させることを最終
目的とした剣理を活人剣と称し感があります。
さらに政治家でもあった宗矩はこの対人の剣理を転じて「治世論」発展させ、政治
の悪きとこを絶対的な力で取り除く武断政治の一翼を担い、治世論では「一殺多生
論」をもって活人剣と称した所以もあり、宗矩の活人剣とはしばしば「一殺多生」
を指す場合もありました。
実は「自己」から「他人」へ、その剣徳を及ぼす哲学に変わるキーマンがいます。
それが沢庵和尚との出会いです。正直、宗矩の段階においても剣と禅が合致した形
ではなかったのだろうと考えます。ただその片鱗は丸目蔵人佐との立会い申し合わ
せの際に垣間見ることができ、いわゆる相抜けの形で太刀を合わせることなく蔵人
佐は引き下がります。(その後、それに感化された蔵人佐は自流のタイ捨流で活人
の伝書を残すことになります) 理論的に完成はされていなかったでしょうが、実
践の形で「自己から他人へ」の活人剣の剣徳を示している好例です。
その後、心法会得の為に、参禅して剣技を極めた多くの先人たち(針ヶ谷夕雲や山
岡鉄舟など)は、「自他活人」に思想を展開させることになり、剣禅一致した「剣
修行による人格完成を究極とした剣のあり方」に発展し、ついには兵法家としての
勝ちも負けも否定した相和する精神で帰結する活人剣が成立するのです。何故そう
なるのか?↓
習得した剣技を流露無碍に繰り出すには無念無想という心の落ち着き(迷いのない
心、執着のない心)を持たなければならない。これを剣技のみによって会得するの
は難しい。なぜなら命あるものとして実際の生死を超越する死生観を会得しなけれ
ば無念無想などは机上の空論に過ぎないからである。それを得るために白井亨のよ
うに難行苦行に身をおき、悟りを得ようとするが、「生きたい」という気持ちから
は抜けられない。(白井亨はその後、白隠禅師と出会い開眼する)
この心を悟るにはまず「自分(人)が何であるか?」という本性・仏性という「根
源的な心」を理解(悟)しなければ、心が定まらないからである。
その為には禅で言う「十牛の図」に示される心の修行の過程を踏んで行く訳だが、
その修行は尋牛から始まる「自己を習う」ことの追求であり、それにより心の定ま
りが出来るようになるのです。(生死を超越する観念が生まれてくるのです)
究極の剣を求めてゆくと、用いる者が人間である故に必ずその先に心法が存在し、
その心法を極めてゆくことが、鍛えたれた剣技と合致し、至上の剣を生み出すこと
に成る訳ですが、その修行の過程において、剣理の追求が禅の修行の目的である「
自己を見つめ、高める(人格修行)」と目的が合致する訳です。(道元は「仏道は
自己を習うこと」といっています)これが「剣禅一致」と言われる所以です。
したがって、活人剣を求めること自体が、結果的に人間形成を養うことと同意義語
になる訳です。宗矩があてた「活人」という文字は、「活人」という文字のイメー
ジもさることながら、「この剣の修行によって得られる剣徳を指す言葉である」と
理解できます。
その昔の剣術の段位免状は現代の段位免状とは違い、先生が弟子に次の課題を与え
る公案の要素が含まれた伝書になっています。 最終的にその全てを繋げると極意
書のようになり、允可状と一対になって免許相伝(皆伝)と呼ばれるのです。「兵
法とは人を切るにあらず、悪を殺すなり」が宗矩の公案であり、それを我々がどう
解釈するかが、後人の剣理の理解度につながってくるのだと考えます。したがって
、その答えは一様でなく、真の実力者にのみ正伝されて行くものだと思います。
現在の私にとって「活人剣は剣禅一致による剣道即生活の剣理」で、剣道理念の
「剣の理法の修練による人格形成の道」の基盤となる思想であると理解します。
さてさて、こんな難儀な問題、四段の試験にはかなり難しいと思いますよ…(゜O゜;;
お名前: むささび
通りすがりさんの仰るとおり剣技を窮めた上手の
者と未熟の者が立ち会えば手の内のままに挫かれるの
は必定です.石舟斎の無刀取りにしても窮めた者が
如何に自在の境地にあるかを判り易く形に示したもの
と言えます.近くは高野佐三郎先生の剣も相手をまる
で自由にあしらわれておられたと聞きますし.
そこで無住心剣術の逸話にある「相抜け」も成立
する訳があるのです.窮めた同士が立ち会えば殺生に
至らずとも互いの伎倆を知る境地になり斬りあう必
要も失せます.真理谷円四郎の立ち会いも数歩進んで
只打つのみで数多の剣客を退けた程ですから,師一雲
と相抜けするも打ち負かすも自由だった訳です.
前半生を果たし合いに生きた武蔵も小次郎との究極
の勝負を経た後には伎倆が誘なう精神性に至り,指南
と多藝に腕を振るう後半生を生き,五輪書や遺稿「独
行道」にみる大道の前に畏(かしこ)まる処に窮ま
る訳です.
殺生の技術にはじまる剣技が結局窮まれば大道に人を
導く.これこそが活人の剣の本義だとおもいます.先人は
何と素晴らしい遺産を遺して戴いたのかと日々感謝が深
まります.
お名前: 通りすがり
一般に「殺人剣」「活人剣」とは道徳的な理解のされ方をしていますが、実は「殺人剣」は自ら動いて相手を斬ること、「活人剣」は相手を自らの意志通りに動かすことによって斬ることを言うの
です。
この活人剣の極意に達した者であれば、その誘い方はその当人の個性に合ったもので結構というこ
とになります。事実、幕末の剣聖島田虎之介は剣を上段に構えただけで、相手はスーと引き寄せら
れ斬られてしまったそうです。
お名前: Hide.
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To むささびさん
現代剣道は、先人が命のやり取りの中から見出したそうした崇高な理念からかけ離れて、
単なる「当てっこ」に堕ちようとしております。
我が師は「哲学としての剣道」を考えておられましたが、私も少しでも「文化としての剣道」
を後世に残すべく、斯道の端っこで頑張りたいと思います(^^)
To 元立ちマシーンさん
>上泉伊勢守信綱が竹刀を考案したのも、ある意味「無刀」に通じているのかと、
>思いを馳せました。
おっしゃるとおりです(^0^)
「蟇肌撓」という、竹の先端を細かく割って馬革を被せたもので、これが現代剣道の竹刀
の原型といわれていますね。
これこそ「殺さず活かす」の具現化といえるでしょう(^^)
お名前: 元立ちマシーン
このトビを見て
上泉伊勢守信綱が竹刀を考案したのも、ある意味「無刀」に通じているのかと、
思いを馳せました。
竹刀と防具は、何度でも私達にチャンスをくれますからね。
真剣や木刀では、こんなにチャンスをくれませんよね。
これこそ正に、「活人剣」じゃないかとおもいました。
お名前: むささび
Hide.さんの仰るとおり上泉伊勢守信綱(秀綱)に既に無刀,
活人剣の表現が存在します.柳生流の方で伊勢守に請われ石舟斎
が編み出すとありますが,活人剣は丸目蔵人佐(タイ捨流)への
伝書目録等にもありますので伊勢守に帰するのが自然でしょう.
活人の剣を殺人の剣と対比し必要悪の殺生を超克し,無刀と
平常心に至る大平の世の武士の道を示した意義,それが御典
儀にして歴代将軍殊け家光に絶大の信任のあった宗矩がしたた
めた兵法家伝書にある事が後々まで与えた影響が一番の功績だ
と言えましょう.沢庵和尚と宗矩,家光の縁も剣禅一如の思想の
確立,普及にとって幸運な邂(めぐ)り逅(あ)わせでした.
日本武道を貫く心身一如,剣禅一如(禅とは本来精神統一,ヨガ
と同義です)の思想はつまり優れた技術の体現は優れた精神を
もたらし,亦優れた精神にてしか真の伎倆の体得もないとする
もので,その真実味は決して疑いのある物ではないと思います.
未熟の者が幾ら目先の勝ち負けの技術にとらわれても,数多の
先人達の存在がそれを挫きます.
ですから日々の御稽古の内に一本打たれては自らの未熟を教え
られたと感謝し,一本入れたら感謝,反省の心で臨む姿勢は参禅(
座禅の行)にも似た修行なのだと思います.その意味で活人剣とは
日々の「打って反省,打たれて感謝」〜は将しく至言です.
お名前: Hide.
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To むささびさん
補足のカキコありがとうございます。
>「活人剣」の典拠由来は柳生宗矩の「兵法家伝書」とする
>のが一般的だとおもいます,
上泉伊勢守信綱から新陰流兵法を継承した柳生石舟斎宗厳は、師である信綱から「無刀取
りの工夫をするように」との命を受けて、新陰流のお家芸たる"無刀取り"の術技を考案し
ていますが、これが理念としての"活人剣"を具体的な術技として現した見本であるといえ
るでしょう(^^)
無刀捕りの技法そのものは、実際は新陰流以外の様々な流派に一般的に伝承しているもの
であって、石舟斎が初めて創始した術技ではないのですが、理念としての活人剣と事理一
致した点に意義が認められるのではないでしょうか。
で、石舟斎の息子で将軍家指南役にして江戸柳生開祖となった柳生但馬守宗矩が著した
『兵法家伝書』には、そのような心法の術技としての新陰流兵法について書き遺されたっ
ていうわけです(^_-)~☆
>技術の極まる先に心法を見い出す理想は先人からの大切な遺産です.その為に今日も
>「打って反省,,打たれて感謝」だと思います.
おっしゃるとおりですね。
「打たんかな」のお稽古をされる方がおられますが、こうした方にこそ「活人剣」の思想を
しっかりと勉強していただきたいものです(^^;
お名前: むささび
蛇足ですがHide.さんの実践の道に併せて学ばれる御参考
になればと思いまして〜
「活人剣」の典拠由来は柳生宗矩の「兵法家伝書」とする
のが一般的だとおもいます,無刀取りを以て至上の位を示す
日本武道の精華を拓いたと言えます.家康をして感服せしめた
石舟斎がその後の剣術の方向性に与えた影響は量り知れません.
その後に続く柳生十兵衛の「月の抄」にも無刀の位に至極の
活人の剣の境地を詳しく語っています.
新陰流から発展した無住心剣術の「夕雲流剣術書」には兵法
を超克し天理に合なう事で極める境地として「相抜け」が説か
れています.これも人を斬らぬ境地をひたすら目指す剣術の先駆
として重要な意義が見出せます.
一刀流の流れですと一刀斎や小野忠明らは虚飾を嫌い活人より
無心を専らに説いたやに見えますが,時代を下ると唯心一刀流の書
や有名な「猫之妙術」と心法への傾斜がみられ,遂に幕末の剣聖白
井享の心法で極めた剣の境地を「兵法未知志留辺(みちしるべ)」
に見出せます.明治にかけての山岡鉄舟の心法の剣,一刀正伝無刀流
も現代剣道に多大な影響のあった流儀です.
いずれにしても心法で殺生を超越しようとする境地にむけ日々
絶えざる実践の精進を続けるのが日本剣道ですし,技術の極まる先
に心法を見い出す理想は先人からの大切な遺産です.その為に今日
も「打って反省,,打たれて感謝」だと思います.
お名前: Hide.
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管理人のHide.です。
う〜ん、端的に言うなら「互いに正しく生きていく道を模索する剣道の学び方」ってこと
ではないでしょうか(^^)
お相手を尊重し、「打って反省、打たれて感謝」、お相手との一期一会を感じながら自分
の全力を尽くすこと。これこそが「活人剣の実践」といえましょう(^_-)〜☆
お名前: さとみ
hideさん
「活人剣」って?
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