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お名前: Hide.
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To 両足が出てはじめて〜さん
ハワイには両足のない方が剣道をされてます。そのかた片腕で移動しながら片手で打ちま
す。車椅子なんか必要としてませんよ(^^)
むろん、車椅子剣道というジャンルが普及すれば、もっと多くの足の不自由な方も剣道を
楽しむことができるようになるかもしれませんが。
私は歳をとって蹲踞ができなくなったとしても、形稽古や居合い(居合いって正座が多い
から膝が悪いと出来ないと思いますが(^^;)ではなく剣道を続けたいなぁと思うわけです。
お名前: 信爺
to Hideさん こんにちわ帰ってきました、
30日の(二日目)全日錬成大会に参加させて頂きましたが立礼、帯刀,抜き刀、
蹲踞、そして始め、の号令によって開始されるしぐさは美しさをも感じられました テーマの蹲踞の必要性についてですが、やはり必要で有り省いてしまえばそれこそ 剣道の求めている一つの内の美しさが欠如されてしまいますね。
ちなみにわが豆剣士たちは4回戦でおしくも〈一本差)敗退しました、でも豆剣士
達は爽やかな笑顔を信爺に微笑んでくれました、その微笑がなによりもの報酬でし た、年齢てきには少し無理があったかな、でも爽やかな疲れです。
三日遅れて疲れが出るのはなぜでしょうね。
お名前: 両足が出てはじめて〜
to Hideさん
>御年寄りでなくとも膝に障害を抱えた方っていうのはいらっしゃいますが、
>そういう方にも「剣道はおやめなさい」とおっしゃるおつもりでしょうか(^_^ メ)
ひざの悪い方が無理に続けた場合、足首など他の箇所に負担がかかりケガをし易くなるのは事実でしょう。そういう方には剣道をやめろというわけではなく、形や居合を中心に稽古をされたらいかがだろうと、思っただけです。
また車椅子を使われている方のために全剣連は“車椅子剣道”を創設できないのかなと考えたりもします。(車椅子フェンシングはあるんですよ)
既にあったら私の無知なだけなんですが。
胴の打突は無理そうですが、片手で竹刀片手で車輪をコントロールし、篭手面突きを
ねらうなんて楽しそうなんですけどね。
お名前: Hide.
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To 信爺さん
管理人のHide.です。ご意見ありがとうございました(^^)
>去年の6月から子供達の指導部員としてお手伝いをさせて頂いてます、
>今月末の武道館に14年ぶりに行くことになってます、
そうなんですか、頑張っておいでですねぇヽ(^.^)ノ
>基本稽古の中の一つとしての蹲踞とは、(剣徳と道徳)
>慢心の気をもって(丹田に)いつつも身体は動けぬ状態。
>と40年ほど前に教えて頂いた事が有ります、
>両膝を曲げ開きながら両踵を上げつつ内側に寄せ体重全てを垂直に掛ける事により >両足のアキレス腱を自ら殺し身体が居ついてる事を互いに視とめ合うしぐさ。
気を溜めるのは最適な動作といえるようですね(^0^)
>福防店の近くで遊んでる信爺。
おやそうなんですか。
それではいつか、ひょいとお店でお会いすることになるかもしれませんね!!
お名前: 信爺
to ZRXさん、初めまして信爺と申します、去年の10月にカキコした時のネームは
(しんちゃん)と名乗りましたが、将来豆剣士になるだろう(期待)子が誕生して
信爺と改名しました宜しくお願いいたします。
>蹲踞の必要性
必要だとおもいます
>蹲踞の意味を知り、理論上から言えば、今の蹲踞の形は正しくはないとも思えますが
蹲踞する事は正しいとおもいます、(蹲踞の意味と足の形は、、、、)
>実際に蹲踞せずに剣道するにはかなり違和感を感じます。
入場,入館の礼,立礼、座礼、間合い、帯刀、蹲踞,試し合い、等を
全て含まれているから剣道なので一つでもはぶけばそれは違和感を感じ るでしょう、
>外国人の方々から見ると蹲踞は不思議な物(しぐさ)に見えるでしょうね。
そう見えるでしょうね,信爺も各国の文化を見た時に不思議だなと見える
しぐさは沢山ありますね、それって文化の違いととらえてみれば良いの
で外国人に理解して頂く前に、剣道そのものが日本の文化の一つと考て
とらえて見れば、多くの先達者が何故蹲踞を取り入れて来たのか良く
そこの所を修業し自得されてから各国の方々に説明出来れば良いですね
to Hideさん
去年の6月から子供達の指導部員としてお手伝いをさせて頂いてます、
今月末の武道館に14年ぶりに行くことになってます、基本稽古の中の
一つとしての蹲踞とは、(剣徳と道徳)
慢心の気をもって(丹田に)いつつも身体は動けぬ状態。
と40年ほど前に教えて頂いた事が有ります、
両膝を曲げ開きながら両踵を上げつつ内側に寄せ体重全てを垂直に掛ける事により 両足のアキレス腱を自ら殺し身体が居ついてる事を互いに視とめ合うしぐさ。
この教えがしっかり伝われば開始線の変更、前の開始線、九歩の間合い、
とだんだん先達者の教えに戻る気がします、それほど深い昔の教え。
高段者の諸先生に期待しつつもHideさんの剣道談義も楽しみです、
話がそれないようにきたいします、福防店の近くで遊んでる信爺。
お名前: Hide.
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To 両足が出てはじめて場外反則にすべきさん
管理人のHide.です。ご意見ありがとうございます。
>合議の際に立ったまま納刀するのだから
>開始終了との違いを区別するためにも、蹲踞は必要でしょう。
う〜ん、合議の際に立ったまま納刀するのは、「礼法」ではなく「竹刀を納める所作」だから
と思われますので、礼法上の蹲踞のぜひとは別次元ではないかと思われますが(^^;
>また、ひざが悪くて蹲踞できない年配の方には失礼ですが、
>健康上、そろそろ引退を考えるひとつの目安にもなるのではないかと思います。
御年寄りでなくとも膝に障害を抱えた方っていうのはいらっしゃいますが、そういう方に
も「剣道はおやめなさい」とおっしゃるおつもりでしょうか(^_^ メ)
お名前: 両足が出てはじめて場外反則にすべき
合議の際に立ったまま納刀するのだから
開始終了との違いを区別するためにも、蹲踞は必要でしょう。
また、ひざが悪くて蹲踞できない年配の方には失礼ですが、
健康上、そろそろ引退を考えるひとつの目安にもなるのではないかと思います。
ひざが悪いとケガをしやすいわけですから。
お名前: Hide.
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To 羽賀さん
管理人のHide.です。ご意見ありがとうございます(^^)
>蹲踞ー清々堂々と戦いましょうの誓い合いであって、竹刀の先を合わせてから蹲踞する。
そうですね、私もこのご意見に賛成です。
子ども達に教えるときはそんな風に話していますよ(^_-)~☆
お名前: 羽賀
蹲踞の意義について
子供達に剣道を指導している立場上、立礼、帯刀、蹲踞の仕方まで教えていますが、私なりに解釈しております。
立礼ー戦闘意識で礼をするのでなく、謙虚な平常心で挨拶をする。
蹲踞ー清々堂々と戦いましょうの誓い合いであって、竹刀の先を合わせてから蹲踞する。もし蹲踞を省いたら、今の柔道のように飛んで前へ出て行き戦う事になります。剣道と相撲は間合いが必要です。日本古来の武道は気品とか質を重んじ、間合いを大事にしたのではないでしょうか。
お名前: Hide.
to ちょっと失礼さん
>例えばどこでしょうか?多数なのだから少なくとも10個はあげられますよね?
>それが大嘘のデタラメでなければ。
なかなか挑発的お言葉ですが、「大嘘つき」となじられても、どこどこのサイト
の掲示板ですと書くのはやはりためらわれますね。そこのサイトの管理者とは友
人ですし、そのことにいたく心を痛めておいでですから(^^)
でも、ちょっと失礼さんもコムド問題が論議された剣道関係の掲示板をいくつか
はご存じだと思われますが、そこがどのようになってしまわれたか「見たことも
聞いたこともありません」か?(^^;
それとも、「ここ1、2年komdo問題を精力的にwatchingしていました」とのお
言葉がアヤシイとか・・・(^^)
おっと失礼m(_ _)m
それは軽口にしましても、ここはコムド問題を扱ったトピックではありませんの
で、もしコムド問題に関してご意見がお有りでしたら「いちに会剣道談話室」の
「コムドと剣道事情 in USA」の方でお願いいたします。
お名前: 訂正
komdo>kumdo
でした。失礼。
お名前: ちょっと失礼
URL
ほう、そんな数多く目茶苦茶にされた掲示板があるのですか?
ここ1、2年komdo問題を精力的にwatchingしていましたが、
そんな例は見たことも聞いたこともがありませんでした。教えて下さいな。
例えばどこでしょうか?多数なのだから少なくとも10個はあげられますよね?
それが大嘘のデタラメでなければ。
Hideさんwrote:
>狂信的なコムド反対派がおりまして、その人達に目茶苦茶にされた
>掲示板が数多くあるんです。
お名前: Hide.
to 春海坊さん
>自分は周りの人に聞いただけなので、こちらの事情がこれで正しいのかはわか
>りませんが、ただ、仲良く真剣に稽古いっしょにしようよ、という気持ちを皆
>持っている様です。多分これが一番じゃないでしょうか。
そうですよね。同じ用具を使い、同じ打突部位を打ちあう(発声は少し違うのか
な???(^^;)競技なんですから、あまり線引きはしたくないですねぇ(^^)
むしろ、「コムド独特の理合」なんていうのがあったら、教えてほしいくらいで
すヽ(^.^)ノ
お名前: くに
to 春海坊さん
>自分の様な若輩が言う事では無いかも知れませんが、礼の本質はお互いに対する尊敬
>ですから剣道をやる者もコムドをやる者も、意地の張り合いなどせず、剣士同志尊重
>し合うのが一番です。これは理想論かも知れませんが・・・・・。
まったく同感です。
剣道やコムドをやる人口が少ない外国で稽古をなさっていると、日本にいるより強く
そうしたことをお感じになるでしょうね。
「狂信的なコムド反対派」の方も、その人なりに反対する理由があるのでしょうが、
サイトを無茶苦茶にしたりせず、反対する理由を明らかにして、他の方の批判にも
耳を傾けるようにして欲しいものだと思います (^_^)
私は、無茶苦茶になったサイトを見たわけではないので、書き過ぎたらいかんのですけど。
>もしかしたら、歴史方面のお仕事の方かな、と思いまして・・・・
そうではないのですが、もう20年以上漢籍の研究会に参加して、勉強させて
いただいているものですから、多少は歴史にも明るくなったという程度のことです。
プロでもないのに専門と言うのも変ですが、特に力を入れてやっているのは書誌学で、
扱っているのが漢籍ということもありまして、中国語とハングルは少しわかるように
なりました。
武道に関しては、まったく門外漢だったので、武道史に関して聞かれても困るのですが、
もともと日本の古いモノが好きだったので、興味は湧いてきますね。
>自分は剣道を始めたばかりの者ですが、これからもよろしくお願いいたします。
こちらこそ、よろしくお願いします m(_ _)m
以前お書きになったものを拝見して、すばらしいと思っていたので、また、勉強
させて下さい。
私も剣道は始めて1年2ヶ月。昨年10月に初段をいただいたばかりですよ (^_^;)
お名前: 春海坊
Hide.さん、くにさん、
自分は周りの人に聞いただけなので、こちらの事情がこれで正しいのかはわかりませんが、
ただ、仲良く真剣に稽古いっしょにしようよ、という気持ちを皆持っている様です。
多分これが一番じゃないでしょうか。
自分の様な若輩が言う事では無いかも知れませんが、礼の本質はお互いに対する尊敬ですから
剣道をやる者もコムドをやる者も、意地の張り合いなどせず、剣士同志尊重し合うのが一番です。
これは理想論かも知れませんが・・・・・。
To くにさん、
はじめまして、春海坊です。いつもカキコをROMさせていただいておりますが、
もしかしたら、歴史方面のお仕事の方かな、と思いまして・・・・
自分は剣道を始めたばかりの者ですが、これからもよろしくお願いいたします。
お名前: Hide.
to くにさん
ハイ、よろしくお願いしますm(_ _)m
お名前: くに
to Hideさん
そうですか。それは知りませんでした。何か分かったら、メールででもお知らせします。
お名前: Hide.
to 春海坊さん
西海岸のコムド事情、ありがとうございました。どうやら、アメリカでは心配す
るような状態にはなっていないようですね。ただ、コムドを「精神性や礼法云々
より、現代的なスポーツ競技としてなりたっている」と認識しているという点は
興味深いですね。ということは、コムドと剣道を分けて考えてるっていうことに
なりますよね。同じ道具を使いながら違う狭義として見ているという点に興味を
覚えます(^^;
to くにさん
>Hideさんは、あまり得意分野じゃないようなので、詳しい人に書き込みしてほ
>しいですね。
狂信的なコムド反対派がおりまして、その人達に目茶苦茶にされた掲示板が数多
くあるんです。もちろん、その方々は、真剣に剣道を考えてのことだと思うので
すが、あまりにやり方が凄まじいので、その一派の「詳しい方」によるカキコは
ご遠慮願いたいですね(^^;
お名前: くに
春海坊 さん、はじめまして。くにと申します。
韓国の剣道(コムド)についてですが、剣道道場(コムドドジャン)剣道師範(コムドサボム)
などという言葉も、辞書には載っています。
ルーツとしては、朝鮮古来の剣術があったのでしょうが、日韓併合以後、日本人によって
普及された「剣道」が、韓国の現代剣道(コムド)に、直接つながっているのではないで
しょうか。
このへんは、全剣連に資料があるでしょうが。
中国では、剣法の流派というものは聞きません。「道」といういい方も、日本的なものです。
書道・空手道といういい方は日本でのもので、中国では書法・拳法と言います。
(一海知義「漢語の知識」参照)
ただ、韓国の方は、韓国の方が本家なのだと主張しているやにも聞きます。
Hideさんは、あまり得意分野じゃないようなので、詳しい人に書き込みしてほしいですね。
うちのパソコンは、ハングルが文字化けしてしまうので、韓国のサイトは見られません。
今度国会図書館に行ったときでも、韓国の百科事典をひいてきてみます。
お名前: 春海坊
Hide.さん、皆さん、お久しぶりです。←なんかいつもこれ言ってる様な気がしますが・・(^^)
蹲踞は好いものです。自分にとってエヴァンウィリアムズさんのおっしゃる「よしいくぞ」という気分、
あるいは一種の精神統一だと思っています。すっきりしますから。
蹲踞無しだったら間がぬけてしまう・・・それに蹲踞の時すでに相手と目を合わせてニラミ合って
いるし竹刀を構えてもいる訳だから、戦いへの静かな導入部という感じがして好きですね。
それに、トマトマンさんがおっしゃってましたが、あれはかっこいいです。
かなり日数がたってしまいましたが、以前Hide.さんにアメリカでの「コムド」とは何か、という
質問がありまして、ちょっと周りの韓国の人たちに聞いてみたのですが、「剣道のことだよ、韓国語で
そう発音するんだよ。」とあっさり言われてしまいました。
「強いて言えば、剣道はより伝統的で、礼法を重んじ、自分自身を見つめ鍛えるところから禅に近く、
コムドは精神性や礼法云々より、現代的なスポーツ競技としてなりたっている」と言う人もいました。
剣道かコムドか、はこちらであまり気にしていないみたいですが。と言うか、もともとチョイスが
あまり無いんですよ。我々の状況は「かなり良い」西海岸でも日本とは全く違います。
まず、あらゆる国籍やルーツを持った人たちの集まりですし、剣道人口そのものが微々たるものです。
日本の様に、道場や剣友会がどこの都市にもあると言う訳ではは無いので、稽古できれば何でもいいや、
という節操の無さもあるかな・・・・最寄りの道場が剣道かコムドかなんて、気にせず稽古しているん
じゃないかと思います。SF道場でも韓国人の剣士は多いですよ。
LAには韓国の人がやっている道場が結構あるらしいです。コリアン・タウンの大きいのがありますし。
だだ『コムド連盟』と言うのは聞いた事がないですねえ。ウェブも無かったし。コムドのウェブサイト
にいくつか飛んで見ましたが、韓国語で、剣道を説明している内容でした。「全剣連からの引用です」
とはっきり書いてあったし。
Hide.さん、なんか、全く答えになっていなくて申し訳ないです。もうちょっと具体的な返事が出来ると
良かったんですが・・・・・
お名前: Hide.
to IMAINGさん
>私の周りにも韓国の方は数人見えますがみなさん蹲踞されますよ(^^)
コムド問題は、ものすごい急進的な集団がありまして、私自身が勉強不足を露呈
してしまうのであまりウチの掲示板ではやりたくないのですが、興味と関心は持っ
ているんです(^^;
ちなみに、その韓国の方々は、コムドをされているという認識なのでしょうか、
それとも剣道? もし剣道だとするならば、韓国のコムドをどのようにとらえて
らっしゃるのか、興味津々なんですけど・・・(^^;アブネー
お名前: IMAING
URL
>「全剣連の見解」なるものが必要ですよね(^^)
こういうときこそ、登場を願いたいものです。
ところで、話は変わるかもしれませんが私の周りにも韓国の方は数人見えますが
みなさん蹲踞されますよ(^^)
お名前: Hide.
>確かに蹲踞をしたときに背筋をすっと伸ばすと武道でよく言われる「丹田」に
>力がこもる感じがして良いですね
きっと、そんなことを思った人達がはじめたことなんじゃないんでしょうか。ほ
ら、相撲でも立礼だけだってかまわないと思いますが、蹲踞を礼法としているじゃ
ないですか。単なる礼式としてではなく、なんか、効用があるからはじめられた
ことなのかもしれませんよ(^^)
>私が感じたのは、同じ結論にしても議論無しでこうなるのといろいろ話した末
>でというのは違うかな?程度です(^_^;)
まぁ、ここで話し合っていることがどれほどまでに「議論を尽くした」というこ
とになるか不明ですけど・・・。まぁ、我々レベルではけっこう頑張って考えま
したよね(笑) やっぱ、こうした問題(我々レベルではなく、井上先生と馬場先
生の論戦)には、「全剣連の見解」なるものが必要ですよね(^^)
お名前: IMAING
URL
なるほど(^^)難しいですね。
言われてみるとそのとおりかも?
私はどちらでも良いと思いますが、確かに蹲踞をしたときに背筋をすっと伸ばすと
武道でよく言われる「丹田」に力がこもる感じがして良いですね
>「剣道独特の作法(礼式)」と位
>置づけちゃうっていうのは乱暴な論法なのでしょうか?(^^;
別に乱暴ではないと思います。
私が感じたのは、同じ結論にしても議論無しでこうなるのといろいろ話した末でと
いうのは違うかな?程度です(^_^;)
お名前: Hide.
今の剣道界でだれも明確な答えを出すことができないことに対する警鐘・・・、
たしかに言わんとすることはわかりますが、これだけ定着している蹲踞に対する
いいがかりともとれます(^^; たとえば、井上先生にしても、お若いころから蹲
踞に疑問を持ていらっしゃったとか、ご自身では蹲踞を省かれることを実践して
こられたというわけではないようですし・・・。
高齢になられて尊教がきつくなってこられたときに「はて、蹲踞とは・・・?」っ
てな感じなのではないでしょうか?
それを、先生以下の見識しか持っていない現代の剣道界に投げ掛けるのは、先達
としていかがなものかと思います(^^; さすがに馬場先生もこうしたことは雑誌
上では言えなかったでしょうね(苦笑)
エヴァンウィリアムズさんにも同意していただけましたが、「蹲踞の精神的効用」
って大きいように思えます。S−1さんがおっしゃるように「礼を失する行為」
でもなく、くにさんもおっしゃるように「勝負をするぞという雰囲気を高める様
式美」があるとするならば、ルーツ探しよりも「剣道独特の作法(礼式)」と位
置づけちゃうっていうのは乱暴な論法なのでしょうか?(^^;
お名前: くに
蹲踞の必要性については、今は、理由を考えればこんな事かな、という事しか分からない
のでは?
何故蹲踞をするようになったのか、その前はどのような立ち会いをしていたのかは、武道史
を研究しなくてはわからないでしょう。
伝統の話ではないかもしれませんが、以前先生からこんな話を聞いたことがあります。
外国の方が(偶像崇拝を否定する、イスラム圏の方だったのかもしれません)日本の
お寺に見学に来られて、多くの仏像を見てこう言ったそうです。
「あなた方は、こんなものが無ければ信仰ができないのですか?」
お坊さんはこう答えたそうです。
「こんなものあっても無くてもいいんです。だからあってもいいでしょう」
「だからあってもいいでしょう」という発想が大切なんだということが言いたくて、
その先生は話されたのです。
蹲踞も、あってもなくてもいいものなら、あってもいいのではないかと、思います。
これから勝負するぞという雰囲気を高めたり、様式美としても遜色がないのなら、
なおさらです。
意味がよく分からないものはなくす、のではなく、伝統として伝えてもいいのではないかと
思います。
中国の辞書の話ですが、蹲踞という座り方についている解説で、宮廷などで使われる正式な
礼法ではないという事のようです。これは中国人の発想なので、日本でどう考えようと
関係ないのですが。
お名前: IMAING
URL
私は井上先生の「剣日」での記事しか読んでいませんので、詳しくは分かりませんが
井上先生が言いたかったのは(私の解釈では)、蹲踞の必要性がどうこうとか廃止しようとか
言うことが主体ではなくて、「蹲踞の必要性を説明できない剣道界」(しっかりとした説明が
出来る人を知りませんが)への警鐘ではないかと理解しました。
剣道の文化的側面において、形骸化を防ぐためにはやはり由来や意味を明確に知っている必要が
あると思います。(特に指導者は)
前にドイツ人から神棚の意味について質問されたときにも思いましたが、剣道=文化ととらえて
技術だけでなく、そういった部分の指導もしていくことが本当の「文武両道」では?なんて
思いました。(^^)
段位審査の学科試験もそんな内容にした方が良いかも?
お名前: エヴァンウィリアムズ
↓すいません。二重書きこみしちゃいました。
お名前: エヴァンウィリアムズ
私もHideさんに賛成です。蹲踞をなくす必要はないと思います。私は蹲踞をすると気持ちが高鳴ります。蹲踞とその立ち上がりである程度の相手の強さが見えます。蹲踞が貧弱であったり、立ちあがったときにグラつく相手ですと、「あれ?」と、思います。蹲踞から立ちあがったときに相手の強さを判断し、「よし、行くぞ」と思う私にとってはあってほしいものです。
お名前: エヴァンウィリアムズ
私もHideさんの意見に賛成です。
蹲踞をなくす必要はないと思います。
実際、私は蹲踞をして気持ちが高まります。
試合や稽古のときの蹲踞とその立ち上がり方でだいたいの
その人の強さ的なものが分かります。やっぱり蹲踞が貧弱
であったり、立ちあがったときにグラつくような方は「あれ」
っと思います。蹲踞から立ち上がったときに「よし、行くぞ」
と思うのは私だけなのでしょうか。
お名前: エヴァンウィリアムズ
私もHideさんの意見に賛成です。
蹲踞をなくす必要はないと思います。
実際、私は蹲踞をして気持ちが高まります。
試合や稽古のときの蹲踞とその立ち上がり方でだいたいの
その人の強さ的なものが分かります。やっぱり蹲踞が貧弱
であったり、立ちあがったときにグラつくような方は「あれ」
っと思います。蹲踞から立ち上がったときに「よし、行くぞ」
と思うのは私だけなのでしょうか。
お名前: Hide.
私も、高齢者や膝を壊した方が「失礼」とお断りになって蹲踞を省略されるのを
何度も目にし、また、お相手もいたしましたが、それはS-1さんと同様、礼を失
している行為とは思いません。だからと言って「なくしてしまえ」は少々乱暴で
すが・・・(^^;
エヴァンさんの「獅子の構え」もいいですね。戦いの前に「形式的な構え」があっ
てもいいのではありませんか(^^) 相撲も蹲踞してから仕切りますし・・・。
試合の中段時に蹲踞をしないのは、S−1さんの「大カッコ〜」説が的を射てる
と思います(^^)
>礼は、相手に心こちらの思いやりが響くようにすることが目的ではないでしょ
>うか?
>単に形だけに捕われれると勘違いのはじまりのような気がします。
今、この蹲踞をするという形に、高齢者などで不自由を抱えている人たちを除け
ば、大方の剣道愛好家が「礼法」のひとつとして認識し、これに心を配ることで
「礼の心」を表現しうる現状ですから、あえて「蹲踞廃止論」で世間を騒がせる
必要もないと思いますが・・・(^^;
お名前: S-1
真剣な議論も、真剣な剣道と同様わくわくしますね!!!
>蹲踞というのは、野蛮無礼な者の座り方 byくに さん
これが、座り方の一種の解釈のような気がします。
百科事典には、膝に肘をかけるのが普通と書いてありましたので
>高齢者に蹲踞は負担 by 井上正孝先生?
確かに、そうだと思います。私は、高齢の方が足の具合で
立ち礼で行われても、決して礼を失しているとは思いませんし
むしろ、修行を続けていることに尊敬を感じます。
御遠慮なく立ち礼をしていただいて良いと思います。
>蹲踞は獅子の構え by エヴァンウィリアムズ さん
そう言う意味もいいですね。
ただ、仕切り線の導入で、距離を取ることになりましたので、若干近代剣道は
方向を変えているかもしれませんね?
>試合中の中断時(竹刀の破損や、防具の乱れ等)は、立ち礼はなぜ
なぜでしょうか?
個人的には、一時的な中座ですので、略式でも良いような気がします
最初の礼が 大カッコ、蹲踞が中カッコ、立ち礼が小カッコな感覚でしょうか?
私見ですが。
よくHideさんが、相手の心を打つことを主張されていると思いますが
礼は、相手に心こちらの思いやりが響くようにすることが目的ではないでしょうか?
単に形だけに捕われれると勘違いのはじまりのような気がします。
心を打つ剣道と 心に響く礼法が、 剣道の神髄と思うのですが
お名前: ZRX
みなさん、はじめまして。
自分は、大阪で剣道の稽古に日々励んでいる、27歳の男です。
さて、今回は私の質問にHideさんをはじめ、沢山の方々の意見をうかがえて大変
うれしく思っております。また、こちらにこられる方々は、みなさん剣道につい
て本当に真剣に考えておられるのだという事がよくわかりました。
これからも、いろいろと勉強させて頂きたいとおもいます。
蹲踞については、本当にいろんな意見があるんですね。エヴァンウィリアムズさん
のご意見も、大変興味深かったです。蹲踞の件でもう一つ気になることがあります。
それは、試合中の中断時(竹刀の破損や、防具の乱れ等)は、立ち礼のまま竹刀を
おさめますよね?蹲踞しなおさないのなぜでしょうか?試合をスムーズに進める為
かなとも考えましたが、高校生の試合などでもやりかたがわからずに戸惑っている
風景をよく目にします。この件に関しましても、皆さんのご意見を聞けましたら幸
いです。質問ばかりですいませんが、お願い致します。
お名前: エヴァンウィリアムズ
はじめまして。いつもROMでしたが、面白そうな話なので混ぜて下さい。
この話は今月号の剣道日本にも出ていました。(確か外国の方からの投書で)
この方もHideさんの書かれていた通り最初に礼をとっているため重複している
との意見でなくした方が良いとの事でした。
私は縁あって今警視庁師範の先生から教えて頂いていますが、
その先生曰く蹲踞とは「獅子の構え」だと教えて頂きました。
獅子が獲物を狙いに行くときは必ず低姿勢から獲物を狩る。
その教えを私はすごく共感しました。
ならば、蹲踞を構えた時点から試合が始まっているのではないでしょうか。
礼節の一部との意見も多数あると思いますが、私は少し違うと思います。
礼をしてからの変換の機会を頂いているのではないでしょうか?
そしてまた、試合を終えた時点で蹲踞をし高ぶっている気持ちを押さえ
相手への尊敬を忘れない本来の形に戻す機転であると私は思います。
(若輩ものが偉そうに書いて申し訳ありません。)
お名前: くに
私見ですが、蹲踞って坐礼の省略形ではないでしょうか。
庶民に土下座を強要していた時代の武士の礼法として、蹲踞して片手をつくというような
礼があったように思います。
終戦後しばらくは、屋外で出会った立礼だけでは失礼だと思う方に、膝を屈して膝頭に
手をついておじぎをされていた方(女性ですけど)があったような…。私が知っているのは、
昭和30年代ですけど。
江戸時代には、坐礼が正式の礼で、立礼は略式の礼という感覚があったんじゃないでしょうか。
日本剣道形では、最初に坐礼をしてその後立礼、蹲踞もしますが、この時代(明治の後半)
になると、そうした意味合いが、すでに失われてしまったのではないかと思います。
自分の専門分野ではないので、想像ですが。
お名前: Hide.
to S−1さん
おっしゃる通りと考えます。
参考までに、井上正孝先生が「蹲踞不要論」を掲げておられるのですが、その論
旨は、
1.蹲踞は礼法ではない
2.礼法と考えるなら、重複礼法である
3.高齢者に蹲踞は負担
ってなところだったと思います。もし違ってたら、どなたかご訂正ください(^^;
お名前: S-1
馬場先生の主張が勉強不足なので、充分な議論ができないのですが、
礼法か否かは、別にして蹲踞はすでに定着していますし、
蹲踞が、精神的に集中する機会になるのは、私でも感じることができます。
蹲踞が礼以外の意味合いを持たせることが許されるのなら、そうするのが良いような気がします。元来、礼法は尊敬、思いやりの手順と解釈していますので、そのことによって、本来の意味が損なわれないなら、問題ないと思うのですが?
P.S.
この議論は、おそらく、座礼の時の、右手左手と同じように、
いろいろな解釈があるのだと思うのですが、礼儀として失しない解釈を
見つけることがよい方向性のような気がします。
お名前: Hide.
to くにさん
このあたりの考察は、『剣道時代』で馬場欽司先生がされていたと思います。
私は、蹲踞の歴史について調べたことがありませんので必要性についての意見は
述べられますが、それ以上はあしからず・・・(^^;
お名前: くに
百科事典が出てきたので、一言。
現代中国で出ている辞書「漢語大詞典」には、蹲踞というのは、野蛮無礼な者の座り方、
として載っています。
中国武術でも蹲踞はしないように思うのですが、礼法として入ってくるのは日本の武術
独特のものなんですかねぇ?
お名前: Hide.
小野派一刀流では「太刀配り」というのがありまして、まず、互いが使う木刀を第三
者が切っ先を合わせて置くんです。そこに組み太刀を打つ両者がやってまいりまして
座礼をしてから太刀をとります。しかし屋外の場合、これを蹲踞の形で礼を行うよう
です。つまり、蹲踞が礼法ではなく蹲踞の形で頭を下げる礼法が存在するってことで
すね。
S−1さんのおっしゃることもよく分かります。「剣道の蹲踞を、自分の竹刀を見せ
ることによって、まやかし等を行っていない表示として解釈し・・・」というのは面
白い見解ですね(^^)
私もそれに加えて考えてみたのですが、蹲踞の姿勢というのは、いきなり立ち上がっ
て打突するには難しい姿勢ですよね。つまり「不意打ち・だまし討ちはしませんよ」
という意味が込められてはいないでしょうか?(^^)
前にカキコの繰り返しのようになりますが、礼の後三歩入り、「さぁ、いよいよこれ
からこのお相手と真剣勝負だ!」という気持ちをグーーーッと高めるのに、蹲踞はい
い効果があると思うんですけどねぇヽ(^.^)ノ
お名前: S-1
こんにちは。失礼します。
雑誌の論点は、蹲踞が必要かどうかというよりも、必要であるという理念が曖昧であることが問題である、いうことだと理解しております。
礼を2回してはいけないということはないと思いますが、
やはり冗長といえば冗長とも思われます
そういう論点で考えるに、もし蹲踞が相手に対する礼であるならば、
すでに行った礼をなぜ重ねてする必要があるのか? という疑問が生じるのは
当然だと思います。
私は蹲踞の由来等分かりませんので、取りあえず、百科辞典で調べてみたところ
蹲踞には3つの意味が記されていました。
1. 座り方の一種
剣道の蹲踞というよりも、路上にしゃがみ込む座りかたに近いようです
2. 貴人に対する礼法
図解がなかったのですが、どうやら剣道の蹲踞とは形は少し違うようです。
3. 相撲の蹲踞
とありました。蹲踞が2。の意味だとすると、確かに
礼を重ねて行うことになってしまいます (^^;)
一方、相撲の蹲踞の目的をネット検索したところ
相手への尊敬をしめす
武器等を持っていないあかし(手を広げるところ)
などと記されていました。
もし、剣道の蹲踞を、自分の竹刀を見せることによって、まやかし等を行っていない
表示として解釈し、正々堂々のための所作とすれば礼を重ねて行うという矛盾は
解消される愚考します。
ただ、修行を充分につまれた先生でさえ、蹲踞の本来の意味を
理解しかねているということはその裏に、いろいろな議論があって、
いわゆる統一見解を示せないでいるということが
本当の問題点かも知れませんね。
では、
お名前: トマトマン
僕は蹲踞はしたほうがいいと思います。
だって昔からの決まりなんでしょう?
それともう一つ「かっこいい」じゃないですか。
こんな格好のことは考えるべきではないかもしれませんが。
お名前: him
相撲にも蹲踞がありますよね。
土俵に入る時にも一礼しておりますが、あの辺りの考え方も知りたいですね。
お名前: Hide.
「切返しについて」のトピックから、勝手にZRXさんのカキコを転載してしまい
ました(^^;
これについては、『剣道時代』『剣道日本』両誌にまたがって、昨年から井上正
孝先生と馬場欽司先生の間で論戦が行われていますね。私も興味深く両先生のお
話を拝読させていただきましたが、はっきりいってどちらの意見に軍配を上げる
べきなのか判断がつきません。それで、ZRXさんのご質問にトピックを立てて、
広く皆さんからのご意見を伺おうと考えたわけです(^^)
私の個人的見解ですが、蹲踞はしたほうがいいと思います。ただ、理由の方がた
いへん稚拙なものなので笑われそうですが、蹲踞をしたときの方が気が丹田に溜
まる感じがするからです(^^)
輪転での打ち込みや技の稽古など、「立ち納め(蹲踞をしない礼法)」で相手を
換えることがありますが、やっぱ、気の入りが違います。礼をして三歩前進し、
抜刀しながらグーっと腰を下ろすと「やるぞぉ!」という気力がみなぎってきま
すし、戦い終わった後、結果の如何に関わらず蹲踞をすることによって高ぶった
気を落ち着かせることができますヽ(^.^)ノ
たしかに、礼法としてはおかしなところもあるのでしょうが、「剣道独特の礼式」
と判断すればいいんじゃないですか。ただでさえ形骸に陥りやすいのに、蹲踞を
なくしたら、さらに礼法が粗雑になるような気がいたします(^^;
お名前: ZRX
ところで、Hideさんにもう一つ質問があるのですが。
自分はこのページを『剣道日本』で知ったのですが、その『剣道日本』の中で剣道の新世紀
を語るという企画についてです。いわゆる蹲踞の必要性ということが論じられているのです
がHideさんは”蹲踞の必要性”についてどのようにお考えでしょうか?
自分は今までにそのような事は考えた事もありませんでしたが、蹲踞の意味を知り、理論上
から言えば、今の蹲踞の形は正しくはないとも思えますが、実際に蹲踞せずに剣道するには
かなり違和感を感じます。
確かに、外国人の方々から見ると蹲踞は不思議な物に見えるんでしょうね。参考までによろ
しければご意見、お聞かせ下さい。よろしくお願いします。
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