記事タイトル:剣道の審判 


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お名前: Hide.    URL
To ゆう君

はじめまして、管理人のHide.というオヤヂです。

そうですか、それは素晴らしいですね!
たしかに勝ち負けはいろいろあります。納得のいかないこともありましょう。
でも、剣道は「打って反省、打たれて感謝」なんです。
打っても打たれても、お相手に感謝する気持ちこそ大切。日本の剣道とは「目先の勝ち負
けに一喜一憂するのではなく、「勝ち負けを超えてお相手に礼を尽くすこと」と心得、海外でのお稽古を頑張ってほしいと思いますp(^-^)q
[2006/11/13 23:10:03]

お名前: ゆう   
僕は海外で剣道をしている小学生です。
昨日、大きな大会に出て、日本人らしい剣道をしようと試みましたが、
負けてしまいました。
一本の基準が日本とは、少し違う気がして、負けた理由が、納得できませんでした。
このホームページに書いてあることを読んで、
試合の勝ち負けよりも、大切な事があるということがわかりました。
僕もいつか、心を打たれる一本を取られた時、審判が、お相手の技に旗を上げなくても
「参りました。」と言える、潔い人になりたいです。
昨日負けたことは、こういうことを勉強するためだったと思えるようになりました。

ありがとうございました。
[2006/11/13 16:08:43]

お名前: Hide.   
to IMAINGさん

そうですね、私も個人的にはIMAINGさんと同じです。自分の心を打たれたものであれ
ば、たとえ審判員が立っていて不十分だと思ったとしても、また、お相手が「まだま
だ」と思っても「参りました」と言います。しかし、これは、ごくごく実力の近い人
との互角稽古であったり、出稽古に行ったときなど日頃お稽古をしたことのない人と
の場合です。

私はそれほどの高段位ではありませんが、元立ちに立って指導稽古をする機会が多い
のです。そうした場合、実力差のあるお相手で私から学ぼうと思ってらっしゃる方の
不十分な打ちで「参りました」をすると、その方の有効打突の判断を狂わせたり、お
相手の稽古に対する満足感が消化不良を起こすことにもなりかねません。
機会・攻めがよくいいところで技が出たとしても、それが打突として有効打突の条件
を満たすだけのものがないと客観的に判断できるならば、「いいとこですね。もう少
しでしたよ。もう一本お願いします」という言い方をして稽古を継続するようにして
います(^^)
[2000/11/08 08:48:27]

お名前: IMAING    URL
ちょっと脱線するかも知れませんが(^_^;)、一本の考え方について今考えていることがあります。
ドイツ人と稽古をしているときに、たまに一本勝負をするのですがその際、私の考えでは
狙って(しっかりとした攻めの組み立ての結果として)入ったものを一本、また自分が
崩されてしまったときは、相手の打ちが不十分でも自分なら一本だなと思った時点で
一本として考えています。
そこでたまたま私のうちが当たってしまったものを一本としなかったり、相手の打ちが
弱い又は外れたにもかかわらず、私が「参った」とすることが混乱を招いてしまうようです。
Hideさんはこんな時、どうやって一本勝負をされてますか?
私はこれが自分にとっての自己審判だと考えていますが(^_^;)
[2000/11/07 23:21:24]

お名前: Hide.   
to IMAINGさん

全剣連は、一本の基準が明確に決められないものだということがわかっているのでは
ないでしょうか。
つまり、打たれる状況には、基本打ちの場合とは異なる場面の方が多いわけで、強度
を「○kg/cm2」のような強度で表すわけにもいかず、また、「刃筋正しく」も振り
下ろしの角度と打突部位との関係をベクトルで表すわけにもいかず、「何歩すり抜け
て残心」も相手も動いているわけですから、必ずしもそれにあてはまるだけのスリ抜
けができないこともあるでしょう。そこで、あの規則にあるような漠然とした文言に
せざるをなかった。たしかに「充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部で
打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるものとする。」なら、小学生からお年寄りま
で、そのレベルに合わせた有効打突が存在しても問題にはなりません。
元来、客観性を持ちえない剣道の「一本」に客観性を与えようとすること自体が無理
なのです。

私の「自己審判制一本勝負」は、それが前提になっています。選手、観客双方の心の
中に「各自の一本」という明瞭な基準があり、それに照らして試合を行うのです。自
分の心との対峙ですから、心を打たれたときに勝負がつきます。それが、相手選手や
観客の「一本」と合致していなかったとするならば、自分の修業の度合いを見直す糧
となるはずです。イタズラに審判を恨んだり、判定に対する不平不満を口にすること
もなくなり、互いに高めあうといった謙虚な姿勢ができるのではないでしょうか(^^)
[2000/11/03 09:47:22]

お名前: IMAING    URL
うーん、難しくなってきました。
こうなると鶏と卵じゃないですが、はじめに何がありきなのかが
分かりにくいです。
私は前にも書きましたが、自己審判制は剣道を通じて相互に高めあう
つまり勝ち負けに拘らない心を修練するための導入を考えておりますが
そのことと一本の基準とは分けて考えるべきではないでしょうか?
つまり一本を取られても「まだまだ」と続けるのではなく
相手の一本、自分の一本をしっかり認めて高めあうためにはそこに
共通の「あるべき一本」が存在するのではないかと思います。
正しい基本打ちを学んでいく中で、これが一本なんだと認識をして
その状況が理解できる心を養うというのは難しいものでしょうか?
[2000/11/02 22:40:49]

お名前: Hide.   
to himさん&IMAINGさん

>私もそう思いますが、現行の試合でも同じ事は言えるのでは無いでしょうか?
>結局審判の1本の基準が不明確?(と言うよりも不統一)であるために、自分の1
>本と相手の1本、また審判の1本が異なると言うような問題になってきていると思
>います。
>ここを何とかするために、より分かりやすい基準の制定が必要だと思います。

私は一本の基準は当然違ってしかるべきと考えています。いや、違わないほうが妙で
す。
極端な例ですが、小学生低学年の一本と高学年のそれは違いますし、同じ学年でも、
初心者と全国大会レベルでは違いがあります。高校のインターハイクラスの有効打突
と全日本クラスの一般のそれも違えば、全日本クラスと八段選抜や明治村の有効打突
も違うはずです。それを価値観を統一し分かりやすい基準を作ろうとすることが、如
何に困難かおわかりになることと思います。


>別に「相手の打ちを認めない」という意識のないところでも、一本に対するレベル
>認識の違いというのが浮き彫りになって来るのではないか?と思います。

その通りです。それゆえの自己判定制なのです。
私が提唱しているのは、そうした違いをわきまえられるだけ修業した上位者が対象な
んです。相手とのレベルの違いや一本の判断基準の違いをわきまえずに、自己判定制
を戦うことはできません。他人の判定にまかせようとするから「お互い、おかしい?
おかしい?」と思いながら戦うことになるんです。審判にまかせる気持ちがあるから、
お互いの有効打突を主張しようとして見苦しい争いになる。不必要に自分の一本をア
ピールしようとする。反則まがいのことをしてまで、優位性を保とうとする。不本意
な負けを審判のせいにする・・・。謙虚になれないのは審判の存在があるがゆえです。

剣道は他人と優劣をつけ比較するために競技を主な行なうではありません。剣道の技
術を通して、人格の完成をめざすのです(^^)
[2000/11/01 09:40:11]

お名前: IMAING    URL
himさん、はじめまして
そうですね、仰る事は良く分かります。
私もそう思いますが、現行の試合でも同じ事は言えるのでは無いでしょうか?
結局審判の1本の基準が不明確?(と言うよりも不統一)であるために、自分の1本と
相手の1本、また審判の1本が異なると言うような問題になってきていると思います。
ここを何とかするために、より分かりやすい基準の制定が必要だと思います。
しかし、ここで間違えていけないのは分かりやすい基準=簡単な判定方法ではないと言うことです。
剣道の1本(有効打突)とは、全剣連の剣道審判規則にありますように
「充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるものとする。」
となっていますので、これを「〜以上の力以上で打突部に当たった場合」とか
「〜以上の打突音があり、打った後何歩以上抜けたとき」等のように見て分かりやすいものに
簡略化するというのではありません。
あくまでも現状の有効打突の概念を守りながら、中身を吟味してこの意味を噛み砕いていく事が
必要だと言うことです。
そこで、正しい有効打突についての意見を集めていって組み立てる作業が必要でしょう?
現在のままに続けていてはいつまでたっても「わしにとっての有効打突」の押し付け合いになってしまい
進歩がありません、これは現在の審判講習でも言えることではないでしょうか?
ちょっとまとまりませんでしたが、もう少し考えてみます。
ではでは 
[2000/10/31 23:09:42]

お名前: him   
「自己審判制」の課題というのは、「一本の基準」を何処に置くか?という点でないかと思います。
延いては、試合者同士の価値観の統一ということも必要なのではないでしょうか。
試合者同士の「レベルの違い」というのは、現在行なわれている試合形式の中ではどうしても
発生してしまうことだと思うのですが。それを審判が「ある基準?」をベースに裁くことになって
いるというのが、実態ではないでしょうか。

例えば、七段の人と四段の人が試合を行った場合、スピードで打った四段が「自分は一本を
取った!」と思っても、七段は「当たっただけ」と認めない・・・というケースが、別に意地
を張るということではなしに発生することは十分予想されると思うのですが。
そうなると今度は四段の方も「なんだよ!」と、そこに意地が生じてくる・・・

別に「相手の打ちを認めない」という意識のないところでも、一本に対するレベル認識の違い
というのが浮き彫りになって来るのではないか?と思います。

9月に私の所属する区の剣道大会があったのですが、個人戦はそれこそいろんなレベルの
人たち同士の試合がありまして、親子とまでは行きませんが、剣道自体がぜんぜん噛み合って
いないと感じる試合が多々ありました。お互い「おかしい?おかしい?」と思って試合をして
いるのが、端から見ていてよく判りました。

例えば、熊本の七段選抜のようにレベルも合い、お互い一本というものを十分理解した者同士
の大会であれば可能であると考えますが、「剣道の試合」とは「自己審判制が基本」とするには
乗り越えなくてはならないハードルが相当高いものと思います。
[2000/10/31 18:17:10]

お名前: Hide.   
To IMAINGさん

そうですね。剣道の持つ二面性を、多くの剣道家が認識しながら「しかたがない」と
あきらめているのが現状だと思うんです。やはり、他人に有効打突を判定してもらっ
ているレベルでは、両者の合一は難しいのではないでしょうか。

世界選手権の在り方も問題です。
この先、現行ルールのまま日本がどこかの国に破れるようなことがあり、日本の発言
力が低下し日本への求心力が薄れていったとき、剣道は深い精神性を内在した文化と
しての薫りを維持していられるのでしょうか?
早急に何とかしなければ、剣道競技だけ独り歩きをして行ってしまいそうです。

この「自己審判制」をより具現化するためにも、多くの方のご意見をお待ちしたいと
思います(^^)
[2000/10/28 09:02:23]

お名前: IMAING    URL
こんにちは。
ご意見ありがとうございます。
大変参考になりました。
私も自己審判と言うのは、それぞれがお互いに1本の判定が出来るレベルであることが
前提だと思っています。
このレベルと言うのは、技術的に1本(未だ抽象的な言い方ですが)が理解できること
だけでなく、相手との勝負?のなかでただの「負けず嫌い」ではなく双方に認め合える
という心のレベルも含んだものと考えています。
それが心体ともに出来るようになることが剣道(試合)の一つの目的ではないかと
考えます。
言うのは簡単ですが、教える側では審判講習などよりよっぽど大変なことでしょうね。

でも、詳細はまだ煮詰める必要があるとは思いますがこういった方式になっていくと
「あるべき剣道の姿」に近づいていくのではなんて思います。
そもそも現代の剣道の二重性(競技剣道と審査剣道)の問題は「当てっこ」に起因すると
考えていますので、剣道が本当に意味で当てっこから卒業したときに
剣道日本一=剣道界のトップと言う図式まで行けるような気がしています。
ちょっと飛びすぎましたか(^_^;)
ではまたいろいろ考えてみますね。
あと、段位の話についてもまた来週にでも書き込もうと思います。

ではでは
[2000/10/27 23:37:12]

お名前: Hide.   
To IMAINGさん

お訪ねいただき、新しいお題を提供してくださりありがとうございます。
しかし、「あ、やられたぁ」というのが正直なところです(笑) IMAINGさんも書か
れているように、これは『HIde.剣道研究室』で展開しようと目論んでいたネタだから
です(^^; でも、ここで意見交換したものをまとめれば、さらにいいものが書けるか
もしれませんね。よろしくお願いします(^_-)〜☆

私がそもそも「自己審判制一本勝負」を考え出したのは、INMAINGさんの書かれてい
る精神修養が第一番の理由です。
そもそも、打った打たれたを他人の判定に委ねようとするから、勝負に対して謙虚に
なれないのです。また、反則ぎりぎりの行為をしてでも試合を有利に進めようという
卑屈な試合が許されてしまうのです。
有効打突の判定を戦う両者に任せることは、同時に周りの観客の目が審判になること
を表しています。「あんな程度でまいってしまうのか?」「あれだけ打たれているの
に、認めないのか」「反則をとられないからといって、つばぜりで逃げているぞ」と
周りから評されることが、勝ち負けよりも最も厳しくなってきます。
故に、日頃からの正しい稽古や修練の仕方までが問われることになるのです。

第2番目の理由は、本来剣術における真剣勝負は他人の審判に勝負を委ねるような性
質のものではなかったということです。かすり傷を受けただけでも負を認める人がい
れば、片腕を切り落とされても相手に対する闘志をむき出しにして打ち勝ってしまっ
た剛の者もいたはずです。
要は、戦っている両者にしか、勝ち負けの判定・判断がつかないと考えるからです。
実際、相打ちなどになったとき、審判の旗が自分の方に上がったとしても「今のは打
ち負けてたな」と感じることがありますね。面と出小手の場合や面応じ返し胴、小手
すりあげ面などでも、「逆だったな」ということが多々あります。
両者にはわかっているが、肝心の審判がわからずに勝ち負けが逆になってしまうこと
も、自己審判制にすることによって回避できるはずです。

補足ですが、一本勝負とするのは、武術であったころの名残りを取り戻すためです。
刀で斬りあっていた当時は、致命傷を受ければ次の太刀はなかったわけですから当然、
一本勝負でしたね。
昨今の試合は「打ったもの勝ち」になってしまっていて、攻めやタメなど「技前」の
工夫なく勢いにまかせて打ってしまうことが多いようですが、一本勝負になりますと
おいそれと打ちに行くわけにはいかなくなると思います。

審判は昇段審査における立会い程度の役割しか考えていませんでしたが、膠着したつ
ばぜり合いの別れや場外反則の裁定くらいの機能を持たせないと、試合が慣れあいに
なってしまうかもしれませんね。

むろん、これらは、ある程度剣道を修業した上位者でなければ難しいでしょう。
どこで線引きするかは判断がつきかねますが、小中高校生ぐらいまでは現行の通り審
判が有効打突を示し「一本」の基準を学ばせる必要があると思いますし、三本勝負も
教育的視点からやむを得ないかと考えます。
[2000/10/27 10:12:24]

お名前: IMAING    URL
みなさんこんにちは。
Hide.さん、こちらでは初めてですね。
いつもいろいろなところでご意見拝聴して勉強させて頂いております。m(_)m
かねてから思っていたことですが、剣道の審判と言うとどうしても「質の問題」とか
「ビデオ導入」とかの話になりがちですが、私の持論は自己審判です。
Hide.さんも剣道研究室に話題を準備してあるようなので、きっと同じ考えかななんて
思ってスレッドをたてさせて頂きました。
剣道がスポーツであるとか、試合の功罪に及ぶと話が複雑になりますので
単に審判に限りたいと思います。
そもそも剣道の目的の中に「精神の修養」だとか「相互に高めあう」等がある以上
1本についても「取った」「取られた」が自己判断できるように修行することも
一つの方向性ではないでしょうか?
そこで、試合でも「頂きました」などの状況があってもいいのではないかと
考えておりました。
そこでの審判の役割と言うのは、時間管理・反則の処置・わかれ等の指示および
相打ち時等の判定に限ると言うのでは如何でしょうか?
幕末時や明治の撃剣試合なども、そんな風であったのではないかと考えます。
みなさんのご意見を聞かせてください。<(_)>
[2000/10/26 17:45:24]

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