記事タイトル:無心について 


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お名前: 勝寿軍団   
驀直進前というのは、天下の阿蘇高校の剣道部部訓で泉先生の指導テーマであります。
私も泉先生の門下生として三年間お世話になりましたが、あんな指導があったから今社会人になってからも、何事にもくじけず、ひたすら自分の行く道を突き進んで行けるわけです。泉先生があそこまでなられたのには、なみなみならぬ努力のけっしょうの賜物であると思います。
[2005/05/29 19:00:43]

お名前: kimi   
to まささん  Hideさん
うわっ! 難しい話しになってきました〜。

「色即是空」とは・・・(汗
色形のあるものの本質は空であり不変のものではない ???
全て縁起によって生まれたもので、執着すべきものは何も無い ???

般若心経を聞く機会は多いのですが、本質は全く理解していなかったようです。
(「様々な欲を持たない」程度の理解でした:恥)
空は、何々が無いと説明されていますが、イコールではないようです。
世界とか、現世の源とか、バーチャル、宇宙(ものの中の宇宙も含む)と解す人も
いるようです。

ちなみに、「無我」も最近の意味とは異なっていたようです。
輪廻転生(我)から人々を解脱する(無)=無我 ???
何か、凄く哲学的ですね〜!
[2003/07/29 19:43:30]

お名前: まさ    URL
無心の打突とは、毎日の稽古により技を自分のものにして始めて打てるものなのでしょうね。
毎日の稽古により技を自分のものにする+とらわれない最高な精神状態=無心の打突
ということでしょうか。

>どうも我々は「空」と「無」を混同して考えているようなのです。
>まぁ、私も「般若心経」については通り一遍の知識しか持ちあわせておりませんが、
>我々が「無」と考えているものは「般若心経」の中で「空」として説明されているも
>のなのではないかと考えておりますが・・・(^^)

「空」ですか。
すいません、般若心経について、通り一遍の知識も持ち合わせていないもので・・。
般若心経での「空」とはどういうものなのでしょうか。
[2003/07/29 10:25:30]

お名前: Hide.    URL
管理人のHide.です。玉竜旗大会の引率で1週間ほど留守にしておりましたので、レスが遅
くなりまして申し訳ありませんでしたm(_ _)m

面白いテーマですね(^o^)
私は「無心」と「無」「無我」「無欲」「無意識」っていうのはそれぞれに違うと考えて
います。


>勝負にとらわれないことの他、栄花選手は、1999年全日本準決勝での栄花選手の
>「考えた技」(宮崎選手の面を誘っての返し胴)が宮崎選手の捨てきった面(=無心の
>面?)に敗れたということもおっしゃっていたと思います。

これは「無心」の面ですね。つまり、自分のいちばんいい精神状態が放つ素直な技のこと
を「無心」と表現するのです。
これとよく似ているのが「無意識」ですが、これは「反射的に出る動き」であって、場合
によっては「悪い目」に出ることがあります(^^;

「無我」は我がない状態。お相手の攻めや攻撃に身をゆだね、その中から活路を見いだし
て行く境地でしょうか。「我がないから敵もなし」なんて哲学的なことは剣道においては
いってはいけません(^^;

「無欲」は、「こうしてやろう」「ああしてやろう」という余計なことを考えない心です
ね。「無念無想」といったところでしょうか(^o^)

さて問題は「無」です。どうも我々は「空」と「無」を混同して考えているようなのです。
まぁ、私も「般若心経」については通り一遍の知識しか持ちあわせておりませんが、我々
が「無」と考えているものは「般若心経」の中で「空」として説明されているものなので
はないかと考えておりますが・・・(^^)
[2003/07/27 16:06:23]

お名前: kimi   
守破離@様、ありがとうございます。

無心と慢心は紙一重! 本当に気を付けなければいけませんね。  
[2003/07/25 08:51:56]

お名前: 守破離@   
To kimi さん

>車の運転中に時々なりまして・・・これは初心に戻らないと危ないです。

お〜っと、それは危ない・・・・お気をつけて運転なさってください。
[2003/07/24 17:00:13]

お名前: kimi   
to まさ 様
> 無心の境地も無我の境地も経験できていない私にとっては・・・ただ想像するだけ
> です。(笑)
剣道で考えると難しいですが、仕事における無心は結構あるはずですが?
意識しなくても、手や身体が自然に動く「あれ!」ですよ!
「無我」は禅寺で一度経験される事をお勧めします(厳しいですが)。

to 守破離 様
>剣道のみならず日常生活においても無心って大切ですね。
車の運転中に時々なりまして・・・これは初心に戻らないと危ないです。
[2003/07/24 08:06:44]

お名前: まさ   
守破離@さん

>ある仏師が大木から仏像を彫り上げたときの事、大変すばらしい出来な
>ので人々は仏師の腕を褒めたたえますが、仏師は「仏様は最初からこの
>木の中にいらっいました、私は仏の導くままに手足を動かしていただけで
>す」とおっしゃったそうです。

生きている間にこの心境を理解できることが時がくるのでしょうか・・・。
道ははるかに遠い・・。

kimiさん

>先に挙げた鍛錬による「無心」と、精神的に極めて集中できている時の「無我夢中」
>が重なり「無心の打突」が生まれるのかも知れません。

無心の境地も無我の境地も経験できていない私にとっては・・・ただ想像するだけで
す。(笑)

とりあえず身近なところから・・・栄花選手がおっしゃっていた「試合にとらわれな
い」という心境になることから(愚息に)意識させようと思います。
[2003/07/24 06:59:29]

お名前: kimi   
to 守破離@ 様
ぐずぐずしていたらかぶってしまいました。
[2003/07/22 17:55:15]

お名前: kimi   
先般の放送は、首を長く待っていながら、なかなか始まらないため見逃してしまいました。
再放送については必ずや録画し、じっくり拝見したいと思っております。

さて、その中で紹介されていたとされる「無心の打突」とは、如何なるものなのでしょうか?
剣道の境地ついては分かりませんので、一般の方でも分かりやすいように、視点を変えて考えて
みます。

登山をする方は多いでしょうか?
ハイキングや川遊びなら多くの方が経験されているでしょう。
でこぼこで大石が顔を出している山道や、大石がごろごろとした河原を歩いてみて下さい。
初心者なら、一歩目はここ、二歩目はあそこと言うように、一歩ずつ意識して進まないと踏み外
して転んでしまいます。
また、同じ距離を進むにも、舗装された道よりはるかに疲れますよね。

大ベテランの場合はどうでしょうか?
生命に影響ない程度の場所でしたら、走って通過する事が可能です。
この場合、足の運びは大変スムーズで、一歩一歩の足の運びは意識しておりません。
鍛錬による「無心」と思われます。

一方、禅などの考えに「無我」というものがあります。
かつて剣道を習い始めた頃、僧侶兼指導者から勧められまして、3時間にも及ぶ正座をした事が
あります。
最初は雑念ばかりが浮かび大変でしたが、苦しさを乗り越えた当たり(2時間以上経過)で、や
っと体験する事ができました。
先の、鍛錬による「無心」とは全く異なります。

「無我夢中」の「無我」については、短期決戦の国家試験や大忙しの仕事で経験しております。
精神的に集中して行く内、所謂「ハイ」な状態になりまして、大変効率が良くなりました。
このまま続けて行くと病気(何とか症候群)だそうですが、幸い大事には至りませんでした。

栄花選手と比べようもありませんが、愚息の試合で起死回生の一本が過去に何度かありました。
舞台は上位の大会に繋がる、団体での代表決定戦などです。
帰ってから色々聞くのですが、この時に限って愚息は何も覚えていません。

剣道では、先に挙げた鍛錬による「無心」と、精神的に極めて集中できている時の「無我夢中」が重なり「無心の打突」が生まれるのかも知れません。
[2003/07/22 17:52:00]

お名前: 守破離@   
Toまささん

>8段のレベルになると、自然に無心の打突が打てるようになっておられ
>るのでしょうか。

段位には関係なく緊張とリラックスの中間で集中しきった状態に神懸かり
的に降りてくるものではないでしょうか?たぶん・・・

>あと、よく「捨てきる」ということが言われますが、「捨てきった技」と「無
>心の技」はまた違うんでしょうか?

捨てるとは「恐れ」や「迷い」を強い精神力で吹き飛ばし文字通り身を捨てて
打突する事だと思います。
無心とはその一歩先にある自分が意識しない心の領域にあるのではない
でしょうか?

ある仏師が大木から仏像を彫り上げたときの事、大変すばらしい出来な
ので人々は仏師の腕を褒めたたえますが、仏師は「仏様は最初からこの
木の中にいらっいました、私は仏の導くままに手足を動かしていただけで
す」とおっしゃったそうです。

きっと仏師の技術と無心の状態との相乗効果ですばらしい仕事が出来た
のですね。邪心の固まりの私が彫ったら出来損ないのトーテンポールみ
たいになっていることは必須(`ε´)

剣道のみならず日常生活においても無心って大切ですね。
[2003/07/22 17:08:53]

お名前: まさ    URL
守破離@さん

>試合中相手に隙が見えたとき
>にはすでに勝手に体が動き捨てきって打突している状態をいいます。

>「勝手に打ちが出た」とか
>「なにを打ったか覚えていない」という感じのようですよ

勝とうと意識があれば、そのような技がでないのでしょうね。、
もちろん、栄花選手も日本代表として勝たなくてはという思いがあったでしょうが、試
合に臨まれた時点で、そういう思いや思考を捨てきっておられたのでしょうね。

8段のレベルになると、自然に無心の打突が打てるようになっておられるのでしょうか。
あと、よく「捨てきる」ということが言われますが、「捨てきった技」と「無心の技」
はまた違うんでしょうか?

余談ですが、「無心」というのは実生活にもつながるような気がします。
少なくとも、大事を成し遂げた人は、自分の利益や目先の利益にとらわれないという
意味で「無心」というものを中核にもっていたように思います。

少しでも無心の境地に近づきたいものです。(笑)
[2003/07/22 07:18:18]

お名前: 守破離@   
To まささん

>ところで、無心とはどのような精神状態なのでしょうか。

煩悩の固まりのような私ではありますが、少しだけ無心に付いて考えてみ
たいと思います。

「驀直進前」(ばくちょくしんぜん)という言葉がありますが、迷わず、一直
線に前へ突き進むという意味があります。試合中相手に隙が見えたとき
にはすでに勝手に体が動き捨てきって打突している状態をいいます。

言葉で表現するのは簡単ですが、技で表現するのは多くの修練を積み
心の迷いをはらしていなければ出来ません。「勝手に打ちが出た」とか
「なにを打ったか覚えていない」という感じのようですよ、一生かかっても
そんな境地を味わってみたいものです。

余談になりますが、栄花選手が道場で雑巾掛けをしているシーンがありま
したよね、四つん這いになって雑巾掛けをしている時、人間は小難しい事
は考えることが出来ないと言われています。

自分も経験した事がありますが、複雑な計算や文書を組み立てる等の作
業は見事なくらい出来ませんでした。

栄花選手は雑巾掛けをすることで、身体のトレーニングと無心になるトレー
ニングの二つを同時にしていたのかもしれませんね?
[2003/07/21 18:23:57]

お名前: まさ    URL
先日のNHK人間ドキュメント(再放送は8月1日(金)午前1時10分かららしいで
す。)で、1999年の全日本選手権の準決勝で宮崎選手に敗れた栄花選手が、勝負に
とらわれない無心の打突が最高の打突であるということを悟ったということが紹介され
ておりました。

ところで、無心とはどのような精神状態なのでしょうか。

勝負にとらわれないことの他、栄花選手は、1999年全日本準決勝での栄花選手の
「考えた技」(宮崎選手の面を誘っての返し胴)が宮崎選手の捨てきった面(=無心の
面?)に敗れたということもおっしゃっていたと思います。

様々なご意見があるのではと思うのですが・・・いかがでしょうか。

TV放送で、「打って反省・打たれて感謝」という剣道の理念が紹介されておりまし
た。その理念に、剣道の目的が単に試合に勝つことではなく、修行を通じて道を追求す
ることにあるということが凝縮されているように感じました。(そこが、スポーツとの
違いなんでしょうね。)
[2003/07/21 12:42:35]

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