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お名前: 大和民族
示現流とは本来「天真正自顕流」というのが正しい流名であり、常陸国、笠間の神官、郷士の十瀬 与三衛門が流祖→金子新九郎→赤坂弥九郎(善吉和尚)→瀬戸口藤兵衛重位(東郷藤兵衛重位)→石坂久朗と続く(他に重位の息子にも伝わりこちらも薩摩藩で剣術師範として現在まで伝承)。石坂久朗に伝わった方も三代を経て日向国、延岡藩に伝わり延岡藩(牧野家)が1747年笠間に移封、幕末まで続き今も行われている。
[2005/06/11 09:31:55]
お名前: Hide.
URL
To つかこさん
管理人のHide.です。
へ〜、これまた新説ですねヽ(^.^)ノ
情報のご提供、感謝いたします!!
[2004/05/20 08:27:48]
お名前: つかこ
ちぇすと語源
鹿児島出身の大学の教授に、英語の胸部「chest」のことだと聞いたことがあります。
示源流はもともと「きえーっっ!!」という掛け声で剣を振り上げて構えていたのが、薩英戦争のおりに、「chest来い、chest!!」と胸部を敵に広げ、『スキを開けてやるから、かかってこい!だが、chestを狙ってお前が飛び込んできたときには、この剣がおまえの首を跳ねてやる!!』という意味で薩摩藩士が使用したことから、薩摩の居合の掛け声に定着したということです。
[2004/05/20 08:13:25]
お名前: Hide.
URL
To 散歩中のおっさんさん
管理人のHide.です。
へ〜、そうなんですか。情報のご提供、ありがとうございますヽ(^.^)ノ
[2004/01/07 09:54:17]
お名前: 散歩中のおっさん
ちぇすと 1
(感)
試合・演説・詩吟などで、激励する時に発する掛け声。それいけ。〔江戸末期、鹿児島地方から流行したといわれる〕
______________________________________________________________________
だそうです
[2004/01/06 18:57:02]
お名前: Hide.
URL
To タネさん
管理人のHide.です。
う〜ん、なんでしょうねぇ・・。
示現流ってHPがあったような気がします。そこならわかるかも(^0^)
[2003/12/12 11:43:44]
お名前: タネ
示現流の撃込みの際に『チェストー』の気合いを放つのですが、
この『チェストー』の語源って一体何なんでしょう?
あまり日本語っぽくないので気になっています。
解る方いらっしゃいましたら教えて下さい。
[2003/12/11 10:29:54]
お名前: Hide.
URL
To ボサノブさん
管理人のHide.です。
う〜ん、少なくとも私のところには、そうした道場の存在の情報は入っておりません。
ここのトピもだいぶ下のほうに来ておりますので、「情報提供ボード」のほうに新しいトピをお
立てになりまして呼びかけてみてはいかがでしょうか(^_-)~☆
[2003/10/01 11:39:48]
お名前: ボサノブ
はじめまして、ボサノブと申します。(神奈川県横浜市在住)
先日、鹿児島県は示現流資料館を旅行の道すがら訪ねました。
その折り、道場見学や資料や書籍などから
ぜひとも、一度、稽古をしてみたいと思い始めました。
資料館の方のお話しによると、剣道の経験はなくてもあっても良いとの事。
しかし、流儀により鹿児島県にしか道場はないらしく。稽古を見るには鹿児島へ
足を運べなくてはいけません。
関東で示現流を見る・稽古(稽古できる)をできる事を
ご存じの方がいらっしゃいましたら
ご連絡をお待ちしております。
[2003/09/30 12:07:01]
お名前: Hide.
URL
to 神楽秦さん
管理人のHide.です。
残念ながら私は東京の在なもので、お役に立てそうもありません(^^;
ここよりもむしろ、「情報提供ボード」でお尋ねになられたほうがレスが集まるように思
われます。そちらをご利用くださいm(_ _)m
https://ichinikai.com/3/index.html
[2003/08/25 18:18:42]
お名前: 神楽秦
はじめまして
横須賀・三浦で剣術道場をしりませんか?
[2003/08/24 21:51:15]
お名前: Hide.
URL
to おおるさん
レスが遅くなり申し訳ありませんでしたm(_ _)m
>私が 子供の頃 剣道を習っていた道場主の先生で、その先生が子供の頃に
>習っていたのが 示顕流ということを耳にしたので、おたずねしました。
そうですか、さぞかし立派な先生だったのでしょうね(^^)
>最近の剣道は、スポーツ化してしまって、魅力が半減しています。
>古武道の剣術は、やはり教え方がちがうのでしょうか?
古流の剣術は、実際に剣道具を付けて打ち合うようなことはしませんで、形稽古が中心の
ようですよ(^^)
to kissさん
管理人のHide.です。
私は東京在住のため、ちょっとわかりかねます。このトピもだいぶ下の方にきてしまい、
見る人も少なくなっておりますので、もし、情報をお求めでしたら「情報提供ボード」の
方にお書きになられたらいかがでしょうか?(^_-)~☆
[2003/05/04 19:19:40]
お名前: kiss
新陰流や北辰流など特に流派は問いませんが、奈良や京都に剣術道場はないのでしょうか?
もし、ご存知の方がおられましたらどんな情報でも結構ですので教えて下さい。
よろしくお願い致します。
[2003/05/04 16:29:39]
お名前: おおる
私が 子供の頃 剣道を習っていた道場主の先生で、その先生が子供の頃に
習っていたのが 示顕流ということを耳にしたので、おたずねしました。
なんでも 武士の家系で、その練習というのが、武士が練習するような
ならいかたをしたそうです。
最近の剣道は、スポーツ化してしまって、魅力が半減しています。
古武道の剣術は、やはり教え方がちがうのでしょうか?
[2003/04/28 11:52:26]
お名前: Hide.
URL
To おおるさん
管理人のHide.です。
残念ながら、存じ上げません。どのような先生でいらっしゃったのでしょうか?(^^)
[2003/04/28 11:09:26]
お名前: おおる
剣道範士 8段 故柳田左内先生をご存じの方はいらっしゃいますか?
示顕流をならっていたそうなので
生前は愛知県にお住まいでした。
[2003/04/28 04:10:35]
お名前: あああああああああああああああ
夜露死苦
[2003/01/04 10:13:28]
お名前: くに
すません、続きです。
演武が見たければ鹿児島に来いとのことですが、私はもっと前の段階で逡巡してしまいます。
そうしてまで見に行く価値がある武道なのかわからないからです。
これは、ぬーぼさんから見れば「批評や、浅はかな推論」でしかないかもしれませんが、知識がない以上
こうとしか申し上げようがないのです。
幸か不幸か、私の場合は一刀流と直心影流の形を拝見する機会があり、まことにすばらしいと思いました。
私なりにその価値を認められたのです。まぁ、これもご縁というものかも知れません。
現在一刀流のお稽古は公開しております。直心影流も「法定の形」を学ぶものは大勢居ります。
あまり一般公開をされない流派の方から見れば、ご批評やご批判もあろうかと思いますが、私は
そうした流派の方が
今後残っていくのではないかと思っています。
ご無礼な発言があれば、無知故のものでありますので、お許し下さい。
[2002/10/14 01:26:18]
お名前: くに
ぬーぼさん
ほとんど止まっていたかに見えたこのトピにレスつけてくださってありがとうございます。
ぬーぼさんは鹿児島の方なのでしょうか?郷土の武術として、また、薬丸流を学ぶものとして、強い誇りをお持ちのようです。
[2002/10/14 01:15:33]
お名前: ぬーぼ
私は実際に薬丸流を学ぶ者でございます。時代遅れの薩摩芋侍さんがおっしゃる通り、鹿児島という土地は、幕政の時代、薩摩自体が他国と鎖国の状態にあったことで御流義等には閉鎖的で、下手に多くを語るのを嫌います。現在相伝されていない可能性の高い流派もあります(もしくは秘伝として隠して子孫だけに伝えている可能性がある)しかしながら、門下生不足が深刻になり、それを少し緩和しようと、古武道振興会が発足し、毎年、島津家の庭園、仙巌園で大会が開かれています。実物が見たいと申されるのであれば、実際にこられるのがよろしいかと。
薩摩芋侍さんがおっしゃりたいのは、へたにこれはこうである私はこう思うという論議を
習わぬ者が口走ると自分が正当の後継者と心迷う者まで出てくる(勿論一部の私欲の強い愚か者ですが)このITの発達した情報の社会なら自分のHPに示現流の名を使ったり。
時代の悲しさというか、そんなに簡単に鹿児島の文化財を外に持ち出してあれこれやり取りするのが我慢ならないということでしょう。(私もその一人ですが・・)私は、見にくるのこと約定を守って学びに来ることはかまわないと思います、そしてそれを見た感動をここに書くことも。
ただ、批評や、浅はかな推論はお控え願いたいです。
[2002/10/09 17:32:13]
お名前: くに
時代遅れの薩摩の芋侍さん
この辺、しばらく覗いてなかったので失礼しました。
示現流ですが、書物などの知識だけですし、存じ上げている方も居ませんので、入門することはないと思います。
150年前は稽古をのぞき見ただけでも殺されたとのこと、技を見せることは生死に関わった時代ですから、さもありなんと思います。
現在もそうしたことを続けていらっしゃるのでしょうか?時々雑誌やテレビなどで立木を打つ姿などを
拝見するのですが、あれは正統の方がやっているのではないのでしょうか?
わたしは、現代では古流の方ももう少しオープンにして多くの方に関心を持ってもらうと共に学んでいただき、
次代に伝えて行っていただけたらと思いますが、これは私の私見ですので、けしからんと思われるかもしれませんが
お許し下さい。
[2002/09/27 17:55:42]
お名前: 時代遅れの薩摩の芋侍
こんにちは、薩摩の古臭い芋侍です。
「おらが国」の御流儀、示現流、その他薬丸流などについてにぎやかにやりとりされていますが、関心ある方はそれぞれの関係者を存じていますので、修行されたい方はメールいただければ、お教えいたします。
ただ、単なる野次馬の方はご勘弁願います。
尚、掲示板上でのやりとりはお断り致します。
古武道とは本来秘すべき性質であり、時代が変わったとはいえ、古いままのすがたをかたくなに伝統武芸として受け継いでいるかたがたがたくさんいらっしゃるのです。ものの考え方までをあえて古いままにしていこうという方がほとんどだと思います。とくに薩摩は閉鎖的社会です。
ほんの150年ほど前までは稽古を盗み見た人は追跡して殺害していたほどです。
どうか御理解の上、問い合わせをして下さい。
薩摩の偏屈侍
[2002/08/11 10:21:29]
お名前: Hide.
to ヨウさん
うーん、剣術の道場ですか・・・。
そうそう、剣術に詳しい方のHPの掲示板でお尋ねになったら、けっこう反響が
あるかもしれませんよ(^^) 「武芸網羅集」というサイトです。
[2001/09/07 10:07:24]
お名前: ヨウ
初めまして、ヨウと言います。実は今、剣術道場を探しています。
神奈川県川崎市の多摩区に住んでいるのですが、できるかぎり近いところが
いいです。我流でも構いませんので、知っていたら連絡下さい。
よろしくお願いします。
[2001/09/06 23:19:19]
お名前: くに
どうも、長いことほっといてすいません。
もうちょっと調べてから書こうと思ったんだけど、調べに行ってる時間がなくて…。
その…。塚原ト伝の略歴は、『国史大辞典』の抜き書きなんですが、出典として、『本朝武芸
ト伝』(日夏繁高)『剣術』(今村嘉雄編)『大日本剣道史』(島田貞一)の名前がありました。
この辺から、私の専門に近くなるのですが、資料批判がちゃんとできているのかなと思うのです。
つまり、根拠のあることなのか、伝説なのか、武道家の伝記って、信憑性はどうなのでしょう?
それと、流派を名乗ったのは、タケミカズチの神以来の剣術を伝える鹿島ではないかと思っていた
もので、IMAINGさんのご見解をうかがいたいと思います。
この時期、日本は連休なので、IMAINGさんもバイクに乗ってどこかへ行ってると思っていたんですが、
ドイツは連休じゃないんですよね (^^;)
[2001/05/02 22:01:11]
お名前: Hide.
いやぁ、勉強になるなぁ。
しかしくにさんもお忙しいだろうに、よくそんなに調べものをするお時間があり
ますねぇ(^^;
ありがたいことですm(_ _)m
[2001/04/26 08:48:07]
お名前: くに
あれ〜すいませ〜ん。なんかここだけ滞っちゃったようでしたので。
塚原卜伝については、私も調べてみました。結構調べるの、好きなんですよ〜。だから、書誌学
なんかやってるんです。
塚原卜伝(1489−1571)名は高幹。延徳元年2月、常陸国鹿島で、鹿島神宮の祝部・卜部
覚賢(吉川左京)の次男として生まれ、のち、塚原(つかばら)城主・塚原土佐守安幹の養子と
なった。実父から卜部家伝来の古剣法を学び、養父から飯篠長威入道直伝の新当流兵法の相伝を
うけたという。ただし卜伝の兵法の主流は後者の新当流であり、伝統系図では養父土佐守から
義兄新左衛門を経て卜伝にいたっている。卜伝はこれに工夫を加え、教則を整え、一つの太刀
という秘術を極意としたという。これを鹿島新当流卜伝手筋という。一般には卜伝流といわれた。
(以上『国史大辞典』吉川弘文館による)
卜部氏は、天児屋命一二世の孫、雷大臣命を祖とし、藤原鎌足を経て、平麻呂から、卜部氏と
なった。その後裔には、神道家として知られる、吉田・平野の両家がある。
ああ〜、意見を書く時間がなくなった。ではまた。
[2001/04/26 00:09:33]
お名前: IMAING
URL
こんにちは、くにさん。
そんなにせかさないで(^_^;)
こちらはご存知のように資料も時間も十分でないので。
起源についての情報ありがとうございました。
くにさんの書かれたように鹿島の祭神であるタケミカヅチノカミは天孫降臨や神武天皇の
東征に活躍、
また香取の祭神であるフツヌシノカミは国の平定に功績があった武神で
ともに大和朝廷の東国平定時の権威の象徴として存在しているそうです。
Yahooの掲示板でも議論?されていた野太刀と同じように、鹿島でも古代の剣の
技法のようなものが存在していたようですね。
ただこれもやはり流派と言えるようなものではなく、それを体系化したのが
塚原卜伝の養父塚原土佐守の師匠である飯篠長威斎です。
長威斎は鹿島・香取に伝わるいわゆる古流の武術を実際的な理論に基づいた刀法として
完成させた?のが神道流だそうです。
そして塚原卜伝はこの神道流に独自の工夫を加えて新当流を開いたとの事です。
ざっとこんな感じでしょうか?
[2001/04/25 17:22:16]
お名前: くに
○香取神宮
祭神はフツヌシの神。
フツヌシの神のフツは、刀剣によってものを切るときの擬態音からできたものとのことで、刀剣
の、鋭い霊威を現す神であるという。『古事記』には出てこないが、『日本書紀』では、タケミ
カズチと共に、カグツチを切った血潮から生まれたとされ、国譲り、天孫降臨などに活躍している。
香取の名は、楫取りから起こったと考えられ、舟の運航に関係の深い場所であったようだ。
古代には、霞ヶ浦・北浦の辺りの湖水は利根川本流に混じってかなり広がっており、鹿島も、
島だったのかも知れない。
古くから藤原氏の庇護をうけ、春日大社にも、鹿島の大神と共に招請され、二の宮に祀られている。
宮司は、古くは香取連(かとりのむらじ)であったというが、平安時代中期から大中臣氏が占める
ようになり、康治元年(1142)摂政・藤原忠通が、鹿島大宮司・中臣則良の弟、助重を任命
したことから、大中臣氏と内紛となり、室町時代初期に大禰宜・大中臣長房の支配権確立まで
続いた。
社殿は、鹿島神宮とならんで、20年毎に造営される慣わしであったが後に廃れて、現在の社殿
は、元禄12年(1700)年に建立されたもの。
[2001/04/25 16:18:44]
お名前: くに
「はずしつ」コーナーでも質問が出ていたようなので、鹿島大社と香取大社の祭神について
まとめておきますね。
○鹿島大社
祭神は、タケミカズチの神。
鹿島は、元正天皇の時代(奈良時代)以前は香島と表記されていたようで、『常陸国風土記』に
は、「香島天之大神」と書かれ、名前が書かれていませんが、『古語拾遺』により、タケミカズチ
の神のこととされています。
タケミカズチの神は、『日本書紀』によると、イザナミの尊が、火の神・カグツチを産んだ時、
陰部を焼かれて死亡し、夫、イザナギの尊が、嘆き怒って、カグツチを斬り殺した剣から滴る血
から、香取大社の祭神とされるフツヌシの神と共に生まれた神とされます。
武・雷の威勢を神格化したもののようですが、『古事記』では、カグツチを斬った剣が神格化
した神・イツノオハバリの神の子とされ、オオクニヌシの尊に国譲りを迫る話では、出雲の国の
イザサの小浜に降臨した時、波に逆立てた剣の上にあぐらをかいたとか、剣にゆかりのある神
でもあるようです。
ニニギの尊の天孫降臨や、神武天皇の東征などでも活躍しています。
『常陸国風土記』の「俗曰(くにひといえらく)」によると、崇神天皇の時、「大坂山」の頂に現れた白い服
を着て白い矛をついた神が崇神天皇に「自分を祭れば、汝が統治しようという国を大小を問わず
従わせてやろう」と言ったので、付き従う者に神託の意味を問いただしたところ、大中臣の神聞
勝命(かむききかつのみこと)が「大八島国は、汝が統治する国にしてやろうと仰有っている、
香島の天の大御神の神託であります」と答えた。そこで天皇は、太刀や武具・馬具などを寄進した。
という話が伝わっています。
御神体は、かつては、271センチの日本一長大な直刀(奈良時代。国宝)。
奈良の春日大社は、藤原氏の氏神で、四柱の神を祀っていますが、主神は鹿島の神(タケミカズチの神)
で、常陸から白鹿に乗って、御笠山に天降ったとされています。それであそこは、鹿を神として
あがめ、御笠山は神域として立入禁止になっているのですね。
長くなったな…。終わりにしましょう。
[2001/04/25 11:13:58]
お名前: くに
to IMAINGさん
なんかレスつけてくださ〜い。ここでの対話は、IMAINGさんが、頼りなんですから。
[2001/04/24 23:06:57]
お名前: くに
IMAINGさん、Hideさん、bigginer kenshiさん、そして、とおりすがりの?さん
レスありがとうございました。おかげさまで、示現流については、かなりわかってきました。
まだ忙しいので、個別にレスつけず申し訳ありません。どなたの書き込みも勉強になりました。
私の質問、野太刀示現流と、示現流の薩摩藩内での地位も、東郷流が上士の剣法であったという
ことで、わかりました。
また、野太刀の方の刀の抜き方が、天に振り上げるように抜くという訳も、そのまま一太刀で
敵を斬り殺す為のものであるという点など、興味深いものです。
守りが無く、敵を斬り殺す為だけにする剣術というのは、おもしろいですね。
他にもそのような考え方の流派があるのでしょうか?
示現流の始祖とされる十瀬与三衛門は、香取神道流3代盛近からの流れと聞きましたが、香取
神道流にも、あるのかな?
とにかく、示現流について書かれたものがこんなにあったことを知っただけでも、このトビを
たてた成果があったというものです。
示現流についても、まだまだお教えいただけることがあれば、お願いしたいのですが、鹿島神道
流についても、ご回答いただければと思います。HPなどあるのでしょうか?
[2001/04/21 22:54:12]
お名前: bigginer kenshi
薬丸野太刀じげん流は、次のような解説がついていました。
<由来>
薩摩肝付家,薬丸家伝わった陣太刀(野太刀)の術に,示現流の東郷重位に学んだ技を加え,七代目薬丸兼武が
野太刀示現流として完成させた。
幕末,門下から多数の志士を輩出し,「明治維新は,薬丸どんでたたき上げた」と言われたという。
桜田門外の変に薩摩から参加した有村治左右衛門,西南戦役における西郷軍の参謀篠原國幹,桐野利秋,辺見十
郎太など主要な面々,日本海でバルチック艦隊を破った東郷平八郎ほかである。
だそうです。
くにさんの疑問に、少しはお答えになるでしょうか?
ここに列挙されている明治維新の有名人物は、薪打ちの方の”じげん流”
で剣を学んだと言う事ですね。
http://www2.justnet.ne.jp/~aira-kgs/kobudou/nodati.htmを御覧下さい。
薪打ちの写真が出ています。
[2001/04/21 13:46:18]
お名前: bigginer kenshi
通りすがりの方の御指摘に従い、ネット検索したら、写真入りのページみつけました。
http://www2.justnet.ne.jp/~aira-kgs/kobudou/kobudou2.htm
御参考までに。
[2001/04/21 13:34:03]
お名前: bigginer kenshi
とおりすがりの方のお陰で謎が解けましたネ。
私が経験したのは、正当派示現流では無く、野太刀自顕流の稽古だったと言う訳ですね。
通りすがりの方、ありがとうございます。
手許の本を読んだら
”一の太刀を疑わず、ニの太刀は負け”
という考え方が”じげん流”の基本的考え方だそうです。
それから、稽古は
”朝に三千、夕にハチの立木打ち”
で、”木刀”は、びわ、か、ゆず、の木を使うと書いてあります。
この本(鹿児島県博学紀行)も、鹿児島市の示現流宗家11代師範、東郷重政氏
にインタビューしております。とおりすがりの方が紹介して下さった道場、
それから吉田さんがいかれた道場、と同一道場だとおもいます。
[2001/04/21 12:27:19]
お名前: ?
とおりすがりです。
示現流の関連WEBは以下のとおりです。
(老婆心ながら少なくともネット上でお話するのなら
検索くらいされたほうがよろしいのでは?)
http://www2.justnet.ne.jp/~aira-kgs/Jigenryu.htm
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=SP&action=m&board=1834944&tid=bba7ke0bca88bdnaea4n65a4a8a4f&sid=1834944&mid=1&type=date&first=1
[2001/04/21 09:46:37]
お名前: bigginer kenshi
ここで紹介されているのは立ち木うちですね。
私が子どものころよく見たのは、長めの細い薪の木のようなものを束ねて
横にしてテーブルの高さくらいに置いて(両側をまた木で支えます)、
それに打ち込むものです。大人たちは、私に、これが示現流の稽古だと
教えてくれましたが。これは、道場のようなところではなく、
屋外で、たとえば、神社の境内とか、雑木林の中などで、行われていた記憶が
あります。。
もっとも、これは、もともと下級武士の自己流稽古だったのかもしれません。
幕末の郷中(ごぢゅう)教育の資料では、よく、この“薪打ち”
(正式名はしりません)が紹介されていたような気がします。
子供心によく覚えているのは、“とにかく気合!!!”です。
一息で、ちぇすとー、と叫びながら打ちまくる(息継ぎしない)、
だったような。
[2001/04/21 09:23:43]
お名前: Hide.
示現流の話が出てきましたので、いちに会のメンバーの吉田先生が先日示現流を
体験してきた旨をメールしてくれましたので、みな様にもお読みいただこうと思
いアップします。いいよね、吉田君?(^^)
--------(前略)-----------------------------------------------
しかし、もっとお話したいのは、なんと薩摩藩の御家流の示現流に触れること
ができたことです。帰り道に鹿児島へ渡って市内を石碑巡りをしていて、通りか
かった一隅に「示現流兵法所」という看板を見つけ、次の目的地をキャンセルし
て見学しました。中は示現流開祖東郷重位(ちゅうい)の資料の展示と道場があ
りました。
他に1名の先客がいて、見学の後に道場で門弟の方と話をしているところに合
流しました。そこで立ち木打ちを体験してきました。道場は教室程の広さで、板
の間ではなく砂地でした。そして四方に4本の椎の木が立ててあります。その立
ち木は丁度人の肩の高さ位の所が打ちこみで削られています。左右からの袈裟斬
りで削られたためです。私も門弟の方の手ほどきで蜻蛉(とんぼ)の構えから左
右の打ちこみをしました。足は左足前で、つま先が少し開き気味で、一般的な剣
道の足の構えとは逆でした。そして蜻蛉の構えは、八相の構えと似ていました。
そこから左右に打ちこみます。木刀は椎の木の枝を切って乾燥させたもので、長
さは三尺八寸前後、太さは直径4cmから5cmくらいで、普通の竹刀や木刀と
は比べ物にならないほど太いです。
重さも1kg前後くらい、そして道着や防具は一切なく、普段着のまま稽古をす
るそうです。
実際打ちこみをしたところ、長くやっている剣道の癖が出て細かいところで注
意をうけました。竹刀剣道故か切っ先の動きに違いがあったり、腰の据え方が悪
かったり(私自身の癖かもしれませんが)と違いを感じました。今の自分の剣道
と考えるところが多く、とても良い経験をしたと思います。この経験を次の稽古
に生かしたいと思います。翌日は手のひら、腕と少し筋肉痛になりました。この
ところ筋肉痛ばかりです。(笑)
と、博学の井上先生を前に調子に乗って講釈をしてしまいました。普段経験で
きないことを体験し、書物などでしか見ることができない古流を実体験したもの
ですからつい興奮してしまいました。いつものメンバーや先生との稽古では直せ
ない癖が、他の流派を通しての違いから発見・確認を少しでも出来たことは嬉し
いことです。きっと何かの役に立つことがあるはずです。また稽古に励むことが
できます。
--------(後略)-----------------------------------------------
私も小野派一刀流を師匠から教えていただきましたが、古流の体験は竹刀剣道を
一新させてしまうほど強烈なものがあります。順序は逆だと思うのですが、小野
派一刀流を学んだことで、日本剣道形の理合もすんなりと理解できるようになり
ましたし(笑)
多くの剣道愛好家に、古流に取り組んでほしいですねヽ(^.^)ノ
[2001/04/21 08:31:10]
お名前: bigginer kenshi
bigginer kenshiです。。。
私も、こちらに飛んできました。
よろしくお願いします。
いやしかし。。。皆さん、本当によくかきこされますね。。。
皆様の、剣道への真摯な愛情ゆえなのでしょうね。。。
私、もう、しばらく自粛しようとしていたのですが。。。示顕流の話が出てきたので。。
実は私、薩摩藩出身です。全く由緒のない家の出ですが、
自宅が中村半次郎の生家のすぐ側で、また、小学校が南洲神社の側でした。
あ、南洲神社というのは西郷隆盛と、西南戦争の時の薩摩軍の墓地のあるところです。
小学校5年生以降、女子が性教育を受けている間、男子生徒は南洲神社の掃除をさせられる
という小学校です。いまはどうかしりませんが。
IMAINGさん、もしかしてあなたも薩摩ですか?
話がずれました。
地元から見た示顕流ですが、むづかしいことはさておき、木の枝を束ねたものに向かって、
木の枝を刀に見たてて(木刀でもありません)、ひたすら左右袈裟切りを繰り返し、
”チェストー”の気合をいれる、、、というのが基本練習ですね。
この基本練習は、まず、全くお金がかからない。特別な道場も要らない。
故に、下級武士にもとてもよかったのだと思います。また、子供たちにもとても
いい運動(?)になったと思います。
八相の構え(ですよね?)から、ひたすら左右切り返し、これで百錬自得、力も付く、
ということでしょうか。動かぬ木の束向かって、守りなし、ただひたすら切り返し。
いまでも、地元では、時折この基本練習をやっているようです。
不思議なのは、アメリカで剣道をやっていると、
”チェストー”って、面を打ち込んでくる方がいるんです。
私は、はずかしくてできませんけど。。。
[2001/04/21 04:23:10]
お名前: IMAING
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おおくにさん
中々勉強されてますね。(^_^;)
一度に聞かれると混乱してしまうので、1つずつ。
(間違いもあると思いますが、気づかれた方は教えてくださいね。)
今回は示現流のお話をしましょう。
示現流の創始者は第十六代島津義久公の家臣,東郷重位ですが、京都にて天真正自顕流の修行をし
奥義の相伝を受け,さらに心技を練って編み出した薩摩独特の剣法です。
当時薩摩には野太刀術(野戦術ともいう、鎧を着ての剣法)があり、東郷重位はこの野太刀流を
田中雲右衛門に習い、元来の天真正自顕流に「抜き」の技も加え、示現流としたそうです。
くにさんのご質問の野太刀自顕流は別名薬丸流ともいい(正式名称は薬丸野太刀自顕流らしいです。)
東郷重位の弟子の薬丸兼陳が東郷家を宗家としている示現流兵法に、薬丸流野太刀の型を加えたもので、
当時上級武士しか習えなかった示現流を下級武士向けに改良し、幕末まで下級武士と上級武士と
で稽古の方法は違えど、同じ示現流として他流の影響を受けることなく存続しました。
タイ捨流については、本家が熊本というより丸目蔵人佐その人が熊本の人で、武者修行に出た折に
上泉伊勢守に負けて弟子入りし、新陰流を修めた後熊本に帰り、タイ捨流を開いたという流れのようです。(^^)
今日は週末で時間があまり無いので鹿島の話はもう少し整理してからにします。(^_^;)
[2001/04/20 21:43:46]
お名前: くに
すいません、続きです。
そもそも、鹿島と香取の両大社の違いが分かっていないのですが、どちらも武神ではないのですか?
太古には、鹿島・香取の地は、大和朝廷の武器庫があったのではないかという説があるようですが、
軍団の所在地であった所に祭られた武神、或いは東夷との戦いに死んだ英雄の御霊を祭ったもの
であったのかと、漠然と思っているのですが…。
そも、流派としての剣道が最初に生まれたのは鹿島ではなかったのかと思っていたもので。
タイ捨流の語源は、そうだったんですか…。上泉信綱は、鹿島神流の剣も学んだように聞いて
いたものですから、そちらから来たのかと…。
示現流については、なぜ薩摩に伝わったのでしょうか?また、野太刀自顕流も薩摩で維持された
ようですが、薩摩人にとっては、この流派はどういう位置づけになるのでしょうか?
なんか、変な聞き方かな。タイ捨流のの本家は、熊本だったようですね。
この3流は、九州を中心に繁栄したように思うのですが、同じ藩内で維持されてきた示現流と
野太刀自顕流は、例えば、藩主が学ぶべき剣法として、どちらが採用されていたのかとか、ある
のでしょうか?
あいかん、時間が…。
続きはまた。
[2001/04/20 17:26:29]
お名前: Hide.
おおお、この分野は私の弱いところですので、しっかりと勉強させていただきたいですね。
IMAINGさん、くにさん、ボードリーダーとしてトピを引っ張って行ってくださいm(_ _)m
[2001/04/20 08:41:53]
お名前: くに
ははは、本当に始めちゃいましたね。
ありがとうございます m(_ _)m
いや〜、詳しいですね。うちの先祖は、鹿島大社の末社の神主をしていたらしいので、鹿島は
まんざら御縁がない訳じゃないので、違う意味でも勉強になります。
>これは神様が武神である香取神宮が鹿島の太刀を体系化したものらしいです。
体系化するということは、幾つかの流れができていたのでしょうか?
また、天真正伝神道流の飯篠家直は鹿島で流派を起こしたのですか?香取でですか?
まだいろいろ書きたいんですが、今日はちょっと時間がないので、後でまた書きます。
本当は、こちらでいろいろ調べてお送りしなくちゃいけないような内容ですね。
まったく、感謝です。
[2001/04/19 22:10:11]
お名前: IMAING
URL
くにさんのご要望にお応えして(^_^;)
>ついでだから、お聞きしちゃおうかな。剣術の流派って、その起源に鹿島大社が深く関わって
>いるように思うのですが、何故なのでしょうか?
>香取神道流も、まぁ一緒くたにしてのことなのですが…。
新当流で有名な塚原卜伝の実家は鹿島神宮の神主さん?でその前をたどっていくと
国摩大鹿島命の子の雷大臣命に始まるそうです。
この4代あとの国摩真人が鹿島の高天原に作った祭壇で祈りつづけて「神妙剣」という刀術を
授かったというのがそもそもの起こりだそうです。
これが神官の間で鹿島上古流、鹿島中古流として伝わったのが原始的な剣のテクニックだと
されているそうです。
今の剣道につながるものとしてはずっと後、14、5世紀の念流・陰流・中条流そしてこの鹿島の流れを
組む天真正伝香取神道流などがあげられます。
これは神様が武神である香取神宮が鹿島の太刀を体系化したものらしいです。
(今の鹿島はアントラーズでサッカーの町ですが^_^;)
この辺の流れはHide.さんの小野派一刀流の「一刀流極意」という本にも詳しく出てます。
一般の書店で買えるので良かったら探してみてください。(宣伝してるわけではないですが)
>丸目蔵人佐の「タイ捨流」なんかも、鹿島か、香取の「大社」流かと思います。
丸目蔵人佐が上泉伊勢守の弟子で「新陰流」を修めたのはご存知ですよね。
だが、蔵人佐はその稽古に「しない」でなく「木刀」を使うタイ捨流を開いたのです。
「タイ捨」の意味は「体捨」「対捨」「待捨」などいろいろな意味をこめて、あえてカタカナに
したそうですよ。(^^)
ゆくゆくは示現流を開いた東郷重位もこの「タイ捨流」を学んだそうです。
こんなところでよろしいでしょうか?
>資料をお持ちなのですか?
>何か調べたくても、ドイツの図書館を利用するのでは大変だと思いますが…。
ドイツでそんな文献は絶対に見つかりません。(T_T)
主にインターネットやこういう所で教えていただいたり、文献を出版社のHPで探して
日本から取り寄せたり・・・・(^_^;)
すぐ入手したり聞く先生がお近くのみなさんが羨ましいです。
[2001/04/19 18:45:38]
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