記事タイトル:剣禅一致とは? 


書き込み欄へ  ヘルプ
ここは「剣道 いちに会」という剣道専門の個人サイトです!

1.匿名であっても、剣道関係者として気品と礼節あるカキコをお願いします。
2.特定の個人や団体に対する誹謗中傷はおやめください。
3.
個人情報の流出は厳禁です。
  (進路などプライバシーに関わる書き込みは違法行為として罰せられます)
4.書かれた本人や関係者が不快にならないように留意してください。
5.意見と感情論は違います。
  (根拠が明記されていないカキコは意見とは言えません)
6.カキコは書き捨てにしないで最後まで礼節をもってください。

7.ルールを逸脱したトピ・書き込みは、管理人Hide.により削除されることがあります。


お名前: Hide.    URL
To springwoodさん

なんだかわかったようなわからんようなお話ですが、お説を開陳していただきましてあり
がとうございました(^^)

膳の中には善悪の色はないが、「善」という色彩を与えるのが「活人剣」の思想という結
論なんですね。勉強になりました!
[2007/11/23 23:38:32]

お名前: springwood   
そうですね、禅とは何かを定義しないとなりませんね。私が思うに、両親から作られた体という可能性の中に内包された魂という可能性が禅だと思います。
前回書きましたとおり、剣は自分自身の行動であると思います。体はその行動を具現化する媒体が体です。
心を病んで死にたいと思っても、体は元気なら、体は生きたがっています。逆に病気に体が蝕まれていれば、心で生きたいと願っても生きれません。この二つが健康であることが、本人が生きているうえでは非常に大事です。
私が今まで書き込ませて頂いたことには、その先の希望があります。自分ひとりが良いというのでは、他人との繋がりがありません。自分も良く、他人にも良い。このように在りたいです。自分の行動が、他人に良い影響を与えられるように出来ればと願っています。剣禅一如という言葉には、善悪の要素を含んでいません。いや、禅という定義の中に暗黙的に禅=善とあるのかもしれません。これをより明確にする為に活人剣という言葉を使うのではないでしょうか。
[2007/11/23 11:12:05]

お名前: Hide.    URL
To springwoodさん

伺いますが、あなたの解釈でいきますと、「禅」そのものには触れられていないようです。
「禅」はあくまでたとえであって、「選集」とは関わりないものとしておら得ておられる
のですか??(^^)
[2007/11/22 21:58:54]

お名前: springwood   
バカと挟みは使いよう というのは物事を見る上で、結果と道具と道具を使っている人間の関係を表していると思いませんか?
この場合では中間の道具に焦点を絞っています。でも、道具には意思はありません。
バカと挟み の対極の言い回しが 弘法筆を選ばず ですね。
剣禅一如の剣とはモノである剣ではなく、自分の行動ということだと思います。
自分の意思と行動が一致させるということでしょう。バカというのも、挟みというのも、実は自分自身です。
現実には自分の行動は自分の思うようにできないですね。もちろん、体力、技術は大事です。それだけでは剣禅一如という教えは出来なかったでしょう。剣禅一如のつぎに出てくるのが、活人剣になるのでしょうね。
[2007/11/22 09:39:58]

お名前: Hide.    URL
To springwoodさん

それが「バカとはさみは使いよう」ということなんですか??(^^;
頭が悪いせいか、あなたの論法が十分に理解できません。。

剣道の理念は「剣の理法による人間形成の道である」としております。
けっして、剣を持たないときに価値が下がることを「是」としてはいないと考えますが(-_-)
[2007/11/21 23:49:54]

お名前: sspringwood   
剣を持っているからその人間の価値が高くなるなら、剣を持っていない時の価値が下がるということですね。道場ではすばらしい人が、道場の外ではすばらしい人でなくなるのは寂しいですね。また、剣を持っていないと、勇気が出ないというのも如何なものでしょうか。私は武道というものは絶対的な価値観を持つことだと思います。相対的な価値観では常に優劣の判断があって勝負です。つまり自分より弱い相手としか勝負しないのです。判断を間違えたときに思わぬ敗北を喫するということです。練習で強くなったということの証明かもしれませんが、これはあくまでも弱いものいじめに通じるところがあります。本当の強さとは自分が正しいと信じることを行う行動力です。相手が強いとか弱いというとはまったく無関係です。ここで問題は自分が正しいと思うことが本当に正しいかどうかです。ここが重要なところです。自分では何が正しくて、何が正しくないかは殆どの場合では判断がついています。しかし、正しいと思っていることを出来ないのです。自分の仕事が大事、家族が大事、親戚や世間の目が怖い・・・言い訳はいくらでもあります。そんな弱い自分を変える為に道場で修業しているのではないのですか。
[2007/11/21 20:16:14]

お名前: Hide.    URL
To springwoodさん

管理人のHide.です。

>私も剣禅一如とは何かと思案しています。『バカとはさみは使いよう』と同義語かなと
>も思います。

アハハ、面白い解釈ですね(^^)
正しい心映えで生きることが「剣禅一致」って解釈でしょうか??
[2007/11/20 08:00:17]

お名前: springwood   
私も剣禅一如とは何かと思案しています。『バカとはさみは使いよう』と同義語かなとも思います。人を殺す道具も、使い方次第では役に立つ。この使い方というのは剣を持っている人です。剣は唯のものです。それを持っている人次第ということですね。道につばを吐いたり、タバコを捨てたりしていませんか?お天道様はお見通しです。
[2007/11/19 09:11:20]

お名前: Hide.    URL
To 無さん

枝葉末節にもかかわらずご説明いただき感謝しております。
とは申しましても、愚鈍な私には無さんの高尚なお考えはほとんど理解できませんでした(^^;


ちなみに、もう、ご病気のほうはよろしいのでしょうか?
どうかお大事になさってくださいませm(_ _)m
[2007/01/12 16:28:14]

お名前: 無   
戦国時代剣術三流
1、念流   (中条流、鐘捲流、一刀流など)
2、神道流  (天流、示現流など     )
3、陰流   (新陰流、柳生新陰流など  )

宮本武蔵は、二天一流…

誰が強いかは誰も知らない…
[2007/01/12 13:37:23]

お名前: 無   
こう言う私の
投稿そのものが
枝葉末節です…
[2007/01/12 12:38:31]

お名前: 無   
今、自分の目の前にあることを現実と言います。
そしてその本質を、無と言います。
その現実と本質の間を、枝葉末節が、
矛盾が被っているため
なかなか本質が見えません…
[2007/01/12 12:26:26]

お名前: 無   
頂点、悟りの境地、慈悲のこころとは,
別な言い方をすると、各宗教の御神体、御本尊、神は
実は、中身は、空っぽなんです。
それが、現実であり、悟りの境地であり、慈悲のこころです…
[2007/01/12 12:20:59]

お名前: 無   
私は、宮本武蔵を、尊敬しています
[2007/01/12 12:14:54]

お名前: 無   
私は、宮本武蔵を、尊敬しています
[2007/01/12 12:14:46]

お名前: 無   
頂点、悟りの境地、慈悲のこころとは,
私自身、知識もなく、たいした教養もなく、表現力がないので
書き込みづらいのですが
私は、精神病を6年前から患っておりまして(うつ、人間恐怖、アルコール依存)
精神病院という地獄に6回入りました
それはひどい世界でした…
その中で今、生きており、申しあげることは
私が、思考螺旋の果てに辿り着いたのが
不思議と仏教、イスラム教、キリスト教の
目指す境地と同じ事に気付きました
それは
唯一神
大日如来
太陽でした…
人間、地球、宇宙を生み出したのは
生命体以外ももつ
願いでした…
[2007/01/12 12:11:42]

お名前: Hide.    URL
To 無さん

管理人のHide.です。


>そういった枝葉の頂点、悟りの境地、慈悲のこころとは
>すべて無=現実=矛盾では

う〜ん、ここのところが難解です。
どのように理解したらいいのでしょうか?
 慈悲の心=無
 慈悲の心=現実
 慈悲の心=矛盾
っていうことですか?(^^;

このあたりを噛み砕いてお話いただけますようお願いいたしますm(_ _)m
[2007/01/12 11:48:31]

お名前: 無   
剣禅一如とは、やはり単なる言葉だと思います
しかし言葉は又、大事なものでもあると思います。
剣、禅、宗教、思想、哲学すべて枝葉ですが、
枝葉末節も又、大切です。
そういった枝葉の頂点、悟りの境地、慈悲のこころとは
すべて無=現実=矛盾では
なかろうかと思います…
[2007/01/12 09:38:46]

お名前: Hide.    URL
To 通りすがりさん

管理人のHide.です。
ご意見ありがとうございます。


>っていうか、剣がスポーツであるならば、
>そもそも、考える必要の無いことだと思います。
>剣は、相手を切って殺す道具です。

う〜ん、現代剣道は竹刀を媒介にして争う競技になっているわけですが、この場合、剣と
禅の関わり方はどのようなものが望ましいとお考えになられますでしょうか???
[2006/10/21 08:22:00]

お名前: 通りすがり   
切っても剣、切られても剣、
ってことじゃないでしょうか。

努力しなくても世界最強の剣の使い手だったなら、
剣なんぞ、捨てちまうと思います。

っていうか、剣がスポーツであるならば、
そもそも、考える必要の無いことだと思います。
剣は、相手を切って殺す道具です。
[2006/10/20 22:23:25]

お名前: Hide.    URL
To 虚武さん

管理人のHide.です。掲示板での卓越したご意見、ありがとうございましたヽ(^.^)ノ
[2006/07/03 00:13:24]

お名前: 虚式   
初めまして。
突然ですが「剣禅一致とは、所詮は只の言葉に過ぎない」というのが私の考えです。
そもそもこの言葉は、戦国時代末期の剣聖「上泉伊勢守信綱」の拓いた「新陰流」が、
剣の世界では珍しい仏教、とりわけ「禅」の思想を取り入れたことから、
「剣」と「禅」を「一致させる」という発想、ないし思想そのものを指した言葉ではないかと思われます。

なお、禅というものは「己の内に真理を見出す」ことを目的としており、その方法は何も座禅に限るものではなく、
例えば日々の労働であったり、芸事であったりします。無論剣の道も又然りです。
皆さんが想像している「剣禅一致」とは、恐らくこのことでしょう。
ですが「剣禅一致」という言葉は所詮言葉に過ぎません。言葉に囚われる限り真理は見えません。
ぶっちゃけて言えば、理屈だけで分かったような気になっても実際は何にも分かっちゃいないということです。
偉そうなこと言ってる私自身もそんな一人(笑)

剣道で集中力が足りないと言われたなら、剣道で集中力をつければいいのです。
例えば一日素振り五千本とかどうでしょう。小学生でも、前後素振りを二時間もやれば三千六百本はいきます。
これは自身で経験済みですので(笑)
試合用打突技中心の剣道に於いて、基本素振りはナンセンスかも知れませんが、
集中力をつけると言う意味では、このような基本稽古の反復こそ重要かと思われます。
[2006/07/02 16:46:15]

お名前: Hide.    URL
To Keiさん

管理人のHide.です。

う〜ん、ちょっと私にはわかりませんね(^^;
どなたかお詳しい方のカキコをお待ちすることにいたしましょうm(_ _)m
[2005/10/12 08:18:32]

お名前: Kei   
突然すみません。「形は心を作り、心は形を求める」という言葉の出典が気になって調べています。道元の只管打坐というのが関係あるのかどうか。よくわかりません。誰か教えてください。お願いします。
[2005/10/12 00:21:36]

お名前: Hide.    URL
To 剣志郎さん

おひさしぶりです(^_-)~☆

いやぁ、悟れない人は何をやっても悟れないでしょうし、悟れる人は禅などの形にこだわ
らなくても悟れるものなのではないでしょうか。「自分自身を見つめ、自分自身に打ち克つ
」難しいことではありますが、日々、それを意識して生活(稽古のみではない)していく
ことによって、少しずつでもその境地にたどり着ければいいなって思っております(^^)

とはいえ、煩悩に振り回される自分ゆえ、なかなかですが( -o-) フゥ
[2004/07/16 08:18:37]

お名前: 剣志郎   
Hide.さんへ

どうも。お騒がせの剣志郎です(苦笑)。

熱くなりすぎる性格の私にとって、ちょうどタイムリーな話題でしたのでカキコいた
しました。あれ以来、しばらく心の勉強に勤しんでおりました(苦笑)。
なかなか、カキコのような心境になれないのが未熟なところです。本来無一物と思え
ば何も熱くなることはないのでしょうが…そこが私の未熟なところです。m(__)m

そういえば座禅の座は本来「坐」と書くそうです。坐とは「土の上に人が向き合って
すわっている姿を現している」のだそうです。その向き合う相手が「己の心」「鏡に
映る自分自身」なのだそうです。「座る」「立つ」「静動」など、さまざま形はあり
ますが、要は「自分自身を見つめること」を指しているのでしょう。つまり最終的な
勝負は自分自身の中にあるということなのだと感じます。「克己の精神」とも取れま
す。「色即是空」「空即色是」…剣禅一致とは意味深い言葉ですね。
[2004/07/15 19:36:16]

お名前: Hide.    URL
To GENさん

>ちなみに立って行う禅なら、立禅というのもありますが

なるほど、そうなんですか。ありがとうございます(^^)
[2004/07/13 08:05:40]

お名前: GEN   
to Hide.さん
小川忠太郎先生の著書、「剣道講話」、「不動智神妙録」、「剣と道」で語られていましたね。

ちなみに立って行う禅なら、立禅というのもありますが
[2004/07/12 13:32:19]

お名前: Hide.    URL
To GENさん

小川忠太郎先生などは「剣道は立ち禅だ」と説かれておられたのではありませんでしたで
しょうか(^_-)~☆
[2004/07/10 09:26:57]

お名前: GEN   
座って座禅なら、稽古は「動く禅」ですね!
[2004/07/09 12:27:32]

お名前: Hide.    URL
To 味玉さん

拙サイトがお役に立ちますればうれしく存じます。
私などはものぐさ&いいかげんですから、わざわざ座禅なんか組まなくたって「お稽古の
中から悟りが開ければ・・・」なんて虫のいいことを考えてしまいますが、味玉さんはえ
らいですねヽ(^.^)ノ

もし、禅をはじめられるようでしたら、その効果のほどをご報告いただけますようにお願
いいたします(^_-)~☆
[2004/07/08 07:47:49]

お名前: 味玉   
Hide.さん、覗き見剣志郎さんありがとうございました。
「剣禅一致」、確かに凡人にはしょしょう難しいお話でありますね。(笑)
一時期本気で禅の修業をしようとしたことがありましたが、足はしびれるし、退屈だし、辞めてしまいました。外人が日本の方と混じって座禅をしているのも不思議だったでしょうね。(笑)
自分でもいろいろ工夫して勉強してみようともいます。
[2004/07/07 22:54:18]

お名前: Hide.    URL
To 剣志郎さん

「剣禅一如」の詳しいご説明、ありがとうございました。
たいへん勉強になりました(^_-)~☆
[2004/07/07 08:02:52]

お名前: 覗き見剣志郎   
道なかばの私の回答があっているかわかりませんが「剣禅一致(一如)」とは簡単な
解釈では…

剣道はその一瞬で生死をわかつことから「剣術とは生死を明らかにする術」であり、
道元禅師(曹洞宗の開祖)の「生を明らめ、死を明らむるは仏家の一大事の因縁なり」
という教えに共通することから「剣と禅は同じだ」という高等な解釈から生まれたも
のだそうです。

禅の修業(公案禅)によって生死得脱の大悟を得た山岡鉄舟の「無刀流」の命名の理
由を書いた書物によれば…

「無刀とは心の外に刀なしと云事にして、三界唯一心也。一心は内外本来無一物なる
が故に、敵に対するとき、前に敵なく、後ろに我なく、妙応無方、朕迹を留めず。」

とあります。凡人には難しい言葉です。
当時すでに江戸三大道場を荒らしまわる程の鉄舟だったのですが、中西派一刀流の
達人、浅利又七郎に出会い、立会いをしたところ、剣を構えられただけで手も足も
出ず、恐れ入って弟子入りを申し出ます。そして毎日毎日、稽古をお願いするので
すが、蛇に睨まれた蛙のように、どうにも出来ませんでした。そこで鉄舟は武人の
たしなみとして行っていた、禅を行い、心の修行に専念しました。そして禅師に参
禅し「剣とは何か?禅とは何か?」と尋ねたそうです。すると禅師から「本来無一
物」という公案(解答のヒントのようなもの)をもらいます。

この「本来無一物」というのは禅の真髄を表す言葉なのですが、この言葉の意味を
解くことが「剣とはなにか?の答えになるのだよ」と禅師は応えたわけです。禅の
原語は「ディヤーナ」というそうですが、意味は「心を静める」という意味です。
禅の思想をまとめられた慧能禅師という人の言葉に「坐禅とは…外、一切の境界に
於いて心念起こらざるを名づけて坐とし、内、自性を見て動ぜざるを名づけて禅と
す。」という言葉があります。つまり、「自分の周囲の環境に惑わされず心を静め
ることが坐であり、自分の心を見つめ、そこに清らかな心が宿っていると信じて、
動揺しないことが禅である。」と言っている訳です。そうやって無我の境地に至り
悟りを得るわけですが、宮本武蔵も似通ったことを書いています。

「敵に向かって生を忘れ死を忘れ、敵を忘れ我を忘れ念動せず意を為さず、無心に
して自然に委ねるときは、変幻自在、応用無碍なり。」

つまり「無」というものを媒介して「剣と禅」は一致をするわけです。剣道の究極
論も「無心」であり、禅の究極論も「無心」である訳です。そしてその応用も「な
にもない無」ではなく互いに「充実の極み」が「無」であるとも結論づけています
。その辺りに「剣」と「禅」の親近性や一致を感じるのだと考えます。

とは言え「イワシの頭に念仏」状態の私には到底至れぬ境地ですがね(苦笑)。
[2004/07/07 02:38:21]

お名前: Hide.    URL
管理人のHide.です。

集中力のつけ方にはいろいろ方法があると思われますが、禅もその中のひとつなんだと思
います(^^)

別に座禅という形にこだわらなくても、自分なりの方法を見つけられるのがベストだと思
いますが、禅寺で実際に座ってみると、その雰囲気も手伝ってくれて早く集中できるよう
に感じますね(^0^)

そういえば、警視庁武道館が冨坂にあったころは、朝稽古で週に何回か座禅の日がありま
したが、今でもやっておられるのでしょうか??
って、ぜんぜん味玉さんへんのレスになってませんね。シツレイシマシタm(_ _)m
[2004/07/03 08:20:14]

お名前: 味玉   
以前お世話になった味玉です。

「剣禅一致」とはどういうものなんでしょうか。
集中力が足りないと監督に言われ、どうにか集中力をつけようと思っているのですが、
集中することと剣禅一致という言葉は関係があるのでしょうか?
[2004/07/02 18:02:39]

このテーマについての発言をどうぞ。
氏名
E-mail URL


半角カナは使用しないようにしてください。文字化けします。
記事一覧に戻る