記事タイトル:戦国時代の美濃国 


書き込み欄へ  ヘルプ
ここは「剣道 いちに会」という剣道専門の個人サイトです!

1.匿名であっても、剣道関係者として気品と礼節あるカキコをお願いします。
2.特定の個人や団体に対する誹謗中傷はおやめください。
3.
個人情報の流出は厳禁です。
  (進路などプライバシーに関わる書き込みは違法行為として罰せられます)
4.書かれた本人や関係者が不快にならないように留意してください。
5.意見と感情論は違います。
  (根拠が明記されていないカキコは意見とは言えません)
6.カキコは書き捨てにしないで最後まで礼節をもってください。

7.ルールを逸脱したトピ・書き込みは、管理人Hide.により削除されることがあります。


お名前: 剣心   
確かに美濃は名将を多く輩出し、地理的に見ても京を目指すには要所です
さらに、国力も十分な可能性があったと思われます
では何故、美濃を押さえただけでは天下を取れなかったのでしょうか
まず斉藤道三という人物から話さなければなりません
美濃守護代の斉藤家を乗っ取り、美濃国主の土岐家を追い出して美濃国主に納まった人物で、下克上を戦国時代の初期にやってのけた人物です
戦国時代は下克上が当たり前のように思っている人も多いですが、実際はタブー視されていたようです
「蝮の道三」「乱世の奸雄」と、彼の評価を見ればお分かりかと思います
そのような国主の下で、忠誠を誓う配下は少なかったと推測されます
また国力を充実させるにも、度重なる内紛で民衆は疲弊し、内政は不安定であれば、天下取りどころではなかったはずです
道三が息子の義龍に討たれ、義龍が病死、その子の龍興が家督を継ぎます
明智光秀は元々土岐家に仕えた武将で、道三にも仕えましたが、道三没後は一家離散したそうです
半兵衛が斉藤家に仕えたのはこの頃で、あまりに政務を顧みない龍興に謀反を起こし、たった1日で稲葉山城を陥落させます
最終的には道三の息子長龍が信長に通じ、信長の美濃入りを手助けします
美濃と謀反・内紛は切っても切れない縁があるようで、この為にいくら美濃を押さえても、人心を掌握するのはかなり難しかったようです
美濃に入った信長もそれを忌み嫌ったのか、地名を岐阜、稲葉山城を岐阜城と改名します
後に楽市楽座を布き、美濃は大いに栄えたといいます
時代の流れを考慮しなければ、美濃を押さえた信長に天下を取る可能性は高かったと思いますよ
信玄に関しても同じことが言えるんですけどね

お名前: kk.   
美濃が本当に国力があったら、土岐や斉藤といった頃には、ずいぶんと強い勢力を畿内にもたらしたのではないのでしょうか?

お名前: 剣心   
信玄存命の時代であれば、いかに信長であっても勝機は無かったと思われます
戦の采配、配下の人材、兵の質等々、当時最も京に近い武将と言われた信玄は、負ける要素が見当たりません
信長も信玄を恐れていたらしく、贈り物をしたり、婚姻による同盟を結んだりしていたそうです
ただ、信玄には京を目指すだけの国力が不足していたのと、背後に謙信がいた為に、甲斐から出るのは困難な状況でした
鉄砲の普及・信玄の死・信玄配下の老衰化、この全てが揃わなければ、長篠の戦いで武田軍が敗れることはなかったでしょう

お名前: Hide.    URL
管理人のHide.です。

ちょっと話題についていけそうもありませんので、ROMに徹したいと思いますm(_ _)m

お名前: あら部課   
特に剣術が盛んだったらしく、斉藤道三のような曹操ばりの天才奸雄や
明智光秀のような韓信ばりの名将や、竹中半兵衛といった諸葛孔明ばりの
名軍師がこの美濃兵を率いていれば天下を取る位は容易い事だったらしい。

当方、若輩浅学の身であるが故に事の真偽は測りかねるが
もし、これが事実だとすれば、美濃を押え、彼の地の精鋭を手中にした
信長に、甲斐の武田信玄は勝てたのだろうか?

このテーマについての発言をどうぞ。
氏名
E-mail URL


半角カナは使用しないようにしてください。文字化けします。
記事一覧に戻る