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道場での飲食について
日時: 2014/02/03 07:41:44
名前: 菊一文字 

中学校の外部コーチをしているものです。

これまで毎年卒業生を送る会を、顧問の企画で行われてきました。
その中で弁当やお菓子が振舞われ、皆でいただき親睦を深めてきたわけですが、
今年の送る会を企画している際に一人の父兄から道場で飲食するとは何事かとクレームを受けました。
(その父兄は部活のやり方や、練習にもクレームしてくる方です。)

言いたいことは理解できますが、何分部活の中でのことですし、顧問の考え方次第ではないかと思いますが、いかがでしょうか?

私も生徒や父母会との親睦を深めるには、必要かな、良い目的と礼節を持って行えばやってもいいんじゃないのかなと思っているところですが、どう考えればいいか迷っています。

他の道場(町道場、剣友会、クラブ、部活など)ではどのように考えていますか?

よろしくお願いします。
メンテ

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Re: 道場での飲食について ( No.57 )
日時: 2014/02/14 18:46:49
名前: 道心 

つけくわえます。

No.26の昔剣士さんが言っている、
>要は、送り出される方と送り出す方の気持ちが通じ合
う事が重要で場所はそれほど重要だとは思えません。

のことばも踏まえて考えるべきではないでしょうか。
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.58 )
日時: 2014/02/14 19:37:12
名前: 昔剣士 

麦芋剣士さんへ

>バブリック(中学道場)と
パーソナル(個人道場)の道場は、剣道を修練する場所として何が違うのでしょうか?


まさかそこからですか?

個人の所有建物と公共の建物は当然違うでしょう。

大丈夫ですか?

>個人道場はプライベートだから当然なら、個人道場にも通う中学生は、道場での飲食は、あっちは良くて、こっちはだめと使い分けをするという事です。


当然でしょう。

それを混同するらか、クレームがつくのですよ。

本当に大丈夫ですか?

>昔剣士さまの人間形成の道への崇高な実践からいけば、個人道場主にも、道場での飲食は厳禁との意見なら筋が、通ると思えますが、いかがでしょうか。

多分そう思ってらっしゃるのはあなたくらいですよ。

剣道を語る前に、責任と自由、権利と義務プライベー
トとパブリックの使い分けくらいはきちんとされませ
んと社会人として疑われますよ。

ちゃんと理解して書き込みをお願いします。

そうでないのならお返事はしかねます。
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.59 )
日時: 2014/02/14 22:01:17
名前: 麦芋剣士 

昔剣士さま
 
ご返事ありがとうございます。

今回のご返答で昔剣士さまのスタンスを私なりに理解しました。

ありがとうございました。

メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.60 )
日時: 2014/02/14 23:58:02
名前: 昔剣士 

やれやれ

まこだすさんへ

>剣道部が恒例に使うことは顧問の先生が学校側に許可得てるとしたら、野放図ではないと思うのですが・・・

クレームがついた時点で、慣例だとして、その意見に
耳を貸さず、脳天気に進めば野放図でしょう。

そういう有意味で申し上げております。

このご意見以下については、はくどーさん、いもむし
さんが意見されていますので、今回私の意見は割愛さ
せて頂きます。

さて、御自身のようなご意見の良い悪いは別として
そういう保護者もいらっしゃるし、私の意見と同じ考
えの保護者もいらっしゃいます。

この現実を受け止めた場合、仰っている「ルールを決めなくても羽目を外しすぎない、たまの騒ぎなら目をつぶる。」を満足しながら、道場で飲食しないを満足
させる方法は場所を変えるしかないとおもいます。

道場で寛ぐと考えるからおかしくなるのであって、
学校外で顧問、生徒、指導者、保護者が節度を守る
のは当然として、お互いに立場を離れて交流する事が
あっても宜しいのではないかと思います。

学校の道場でなければと拘る事が、私には理解できま
せん。

繰返しに成りますが、実際そういう所も有るのですよ。

そういう現実を受け止めてベストを導き出す事が重要
だと思います。

メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.61 )
日時: 2014/02/15 14:43:10
名前: はくどー 
参照:

昔剣士さんへ


>まさかそこからですか?

ダメですよ、そんな言い方をしては。
いらっ!とする気持ちは分かりますが、せっかく良いお話をされているのに、
そこでグッと耐える溜めがなければ、それまでの攻めが水泡に帰してしまいます。

麦芋剣士さんは、ご自身の論点が最初からズレていることに、まだ気がついていないのです。
そこからしっかり教えて差し上げないと、議論は平行線のままです。

No.11のレスで、麦芋剣士さんは、
元来、武道場での飲食は、厳禁と思っているとした上で、、
学校で大会が開催された場合や運動会等の際には、道場で飲食する場合もあるという事例を挙げて、
この時は許可されるのに、そうでない時の飲食が許可されないということは、
あっちはよくてこっちはダメで、これでは筋が通らないという論を展開されています。

この論理は、元来、自販機を壊すのは厳禁と思っているにもかかわらず、
被災時には自販機を壊してジュースを取り出すのが許可されるのに、
そうでないときに自販機を壊してジュースを取り出してはならないとするのは、
あっちは良くてこっちはダメというので、筋が通らないと言っていることと同じですね。

これこそが非常に硬直した発想だと思います。

こんなおかしな発想に至ってしまったのは、おそらく昔剣士さんの最初のNo.3のレスで

>まず、剣道は武道であり、稽古の場である神聖な道場
>という捉え方をすれば不可でしょう。

という意見を、いついかなる場合でも道場での飲食はダメというように受け取ってしまって
いるからでしょう。

その後のレスの内容を冷静に読めば、そんなことを言っているのではないことは
誰でも分かるはずなのですが、最初の先入観のままで議論を始めてしまっているものですから、
論点はどんどんズレて行ってしまっています。

だからといって、

>本当に大丈夫ですか?

というような突き放した態度を取ってしまえば、結局何も分かっていないのに

>今回のご返答で昔剣士さまのスタンスを私なりに理解しました。

と、何の意味もない不毛な議論のまま終結してしまいます。
せっかく、こんなにもスレッドが伸びているのにもったいないですね。

もっと丁寧に、最後の残心まできちんと取れるような発言の仕方をされていれば、
昔剣士さんの賛同者はもっと増えると思いますよ。

決して間違ったことはおっしゃっていないのですから。

メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.62 )
日時: 2014/02/15 14:55:21
名前: はくどー 
参照:

再び、こんにちは。

「道場での飲食」というテーマで議論をしようとすれば、剣道関係者は、その「当事者」の
つもりで発言してしまうため、客観的な視点に立てなくなってしまうのかもしれません。

別スレで、食品偽装の問題にたとえたように、ここでも別の事例にたとえれば、
論点が分かりやすくなるかもしれません。

たとえば、

学校の授業の際に、教室に携帯電話は持ち込まない、あるいは携帯電話の電源を切る
というのは、一般的な常識として認識されていますね。

剣道場での飲食は避けるべきという、一般的な常識とほぼ同じだと思います。

あるクラスの授業参観の日に、父兄たちが電源が入った状態の携帯を教室に持ち込もう
とした際に、一人の父兄が、授業を行う教室にそのような携帯を持ち込むのは不謹慎だ
直ちに電源を切るべきだとクレームを付けたとしたら、皆さんがその教室を受け持つ
担任の教師の立場でどのように対応しますか?。

ある人は、授業参観への携帯持込みは、これまでも慣例として行われてきたものなので、
その父兄にそれを説明して納得してもらうことが肝要。それでも納得してもらえないなら、
各自粛々と持ち込むしかないでしょうと主張しました。

別の人は、参観日といえども授業の一環だとしたら、電源の入った携帯の持ち込みは
不可でしょう。と主張しました。

さらに、学校での授業以外の行事の時に、教室などに携帯を持ち込むことはありました。
マナーモードなどにしておけばOKの学校もありますよ。
また、私の息子の通っている塾の教室では、携帯を持ち込んでみんなで電話をかけ合って
います。すごく良い雰囲気ですよ。という意見もありました。

一方、なぜ授業時の教室に携帯を持ち込んではならないのか、その父兄に尋ねてみたら?
という意見もありましたね。

また、何事もいちゃもんつけようと思えばつけることもできるでしょうが、
物事はすべて考え方であり、利便性もあっていいと思います。
授業中に携帯持ち込み不可のようなクレームは、笑ってやり過ごす「懐の深さ」を見せることと思います。
という意見もありました。

そして、学校外の公営の施設ではロビーなどがあってそこで電話をかけられるが、
学校にはそういう場所がないので、大会や文化祭などでは教室が待機場所や展示場に
使われることがあり、当然そこには携帯を持ち込むことがある。
元来、教室への携帯の持ち込みは厳禁と思っているが、上記のような場合そこに携帯を持ち込む自分がいる。
大会や文化祭などの時は良くて、授業の時はダメでは筋が通りません。
と言う意見が出てきました。

私からは、授業中の教室に携帯を持ち込むのは不謹慎でないかという世間からの厳しい目が
あることを学校関係者は厳粛に受け止めた上で、なおかつその教室に携帯を持ち込む必要性が
あるのならば、その正当性を納得できるように説明すればよい。として、
「携帯は、情報を仕入れるツールとして活用すべきで、そのことを授業で教えるつもりだった」
というような説明をしたらどうか?と提案してみました。

さらに、今回の話は学校内の教室での授業参観を担任教師の下で行われている。
学校の規則で教室への携帯の持ち込みが過去に問題になっているわけではなく毎年行ってきた。
もし、一人の保護者の意見で授業中への携帯の持ち込みが出来なかったとしたら、
私が他の生徒の保護者であれば、担任の先生にどうして携帯の持ち込みが出来ないのか説明を求めるでしょう。
初めて行う授業参観ならいろいろな意見もあるでしょうが、毎年行われてきたことであれば許容範囲ではないでしょうか。
という意見も出ました。


さて、この先もまだまだ議論が続くことになりますが、もし皆さんが担任の教師だったら、
この時点で、どのように対応されますか。


授業参観時の携帯持ち込みは、今まで慣例として行われてきたことで、学校でも特に問題に
なっていないことです。大会や文化祭の時の行事でも、特に持ち込みを制限していません。、
別に授業中だからと行って特別扱いしませんので、どうぞ携帯を持ち込んで構いませんよ。
と言って、その一父兄のクレームは封殺しますか?

それとも、

授業中の携帯持ち込みに関して、私もうっかりしていましたが、確かにそのご父兄の方の
言われるとおりですね。生徒たちにも教室に携帯を持ち込まないようにと指導しているのですから
ご父兄の方々も、多少不便を感じるでしょうが授業中は携帯の電源を切って、お子さんたちが
勉強に集中できるように協力していただけませんか。
と言って、他の父兄たちの電源入り携帯の持ち込みを制限しますか?


子供たちの教育にとって、どちらの対応が適切でしょうか?

メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.63 )
日時: 2014/02/15 18:36:50
名前: まこだす 

いもむしさん、はくどーさん、昔剣士さん
ご意見ありがとうございます

僕は別にルール違反を目をつぶれと言っている訳ではないんです
今回のことがそれほど目くじら立てて
「けしからん!」
と言うほどでもないのでは?
と思っただけです

公共の施設を占有的に使わせてもらているのを自分たちの空間だと勘違いして使用してはいけない
武道場という神聖な空間では飲食すべきでない

どちらもごもっとも(僕としては前者の方が感謝の気持ちがあって好きですが)
僕の言ってることがルール違反に当たるとしたら完全に僕の認識不足でしょう
もう「使ったらいい」なんて言いません

でも、最後に
こういう意見が出た時に顧問側としたら面倒だからイベントを止めちゃうか「学校ではできない」と言って保護者に丸投げしちゃう場合もあると思うのですが
そうなって自分に問題が降りかかってきたときに今回発言した保護者は率先して動くのでしょかね?

僕は「俺は常識人だ」っていうように発言していざ実行のときに動かない人苦手なんですよね
この事例にそんなニオイがしたのでつい発言しちゃいました^^

まぁ子供はみんなで楽しめたらどこでもいいと思います
主さんには話し合いなど設けて問題なく過ごしてほしいものです
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.64 )
日時: 2014/02/15 19:47:50
名前: いもむし 

 まこだすさん

 言わんとしていることはわかります。ルール違反をしてもいいと言っているとは思っていません。

 ただ、この掲示板は子供も見ていると思うのですが、文面から勘違いされたらマズイな。ということで余計なことを書いてしまいました。

 お気を悪くされないで下さい。
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.65 )
日時: 2014/02/15 21:48:11
名前: 昔剣士 

はくどーさんへ

仰る通りです。

しかし、NO50でそういう説明をしているにもかかわ
らず、その時の問いには答えず、あえて同じ質問を繰
り返すというのは明らかに悪意です。

(この「しかし」を始めるから成長しなのだとお笑い
の事だと思います。)

・・・さんにもお答えしている様に、これを超える事
が出来ないうちには、とても指導者とは名乗れないと
思っております。

恥ずかしい事ですが、守破離の破の状態を中々抜け
出す事が出来ずにおります。

お気づかい頂きまして有難うございます。

今後もお気づきの点が有りましたら是非ご指摘頂きた
いと思います。


まこだすさんへ

>今回のことがそれほど目くじら立てて
「けしからん!」
と言うほどでもないのでは?
と思っただけです

そう思われる方が大部分だと思います。
私の意見は少数派だと思います。

この二つの意見は相対していると考えられ、この意見
の間に大多数が入ると思います。

今回の結論付けには欠かせないご意見だと思います。

>僕の言ってることがルール違反に当たるとしたら完全に僕の認識不足でしょう
もう「使ったらいい」なんて言いません

この状況ですから、そう思われるのは無理のない事が
とは思いますが、私以外のお二人はソフトに諭してらっしゃいます。

この掲示板は知名度が高く、剣道関係者以外の方も沢
山ご覧に成っています。

又、子供も観ているとの事ですので、間違いは間違い
と指摘する他ないのです。

そこは是非ご理解頂きたいと思います。

>自分に問題が降りかかってきたときに今回発言した保護者は率先して動くのでしょかね?

私の経験からすると、動く方と動かない方と二通りで
すね。

そういう風に、投げだす顧問も料簡が狭いのではと思
います。

手分けして、みんなで作り上げるというのが良いでし
ょう。

立場を離れてみんなでという事が重要だと思います。

>僕は「俺は常識人だ」っていうように発言していざ実行のときに動かない人苦手なんですよね
この事例にそんなニオイがしたのでつい発言しちゃいました^^

確かにそういう方もいらっしゃいますが、そうで無い
方も沢山いらっしゃいます。

御自身はどちらであること望みますか?

失敗、間違いは誰にでも有る事です。
問題はそこから何を学ぶかだと思いますよ。

私は御自身の書き込みはストレートで良いと思います
よ。
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.66 )
日時: 2014/02/15 23:57:06
名前: 田舎剣士 

公共の施設には設置の目的というものがあり、法律や条令などで定められています。その目的外で使用する場合には、それが公共の福祉の増進に寄与することであれ制限を受けます。
このケースでは学校施設であり、学校教育のため設置された施設です。部活動は学校教育の一環であり、卒業生を送る会はこれを逸脱しているとは言えないと判断できると思います。
また、この施設での飲食を禁止するルールはないようですので、飲食を伴う「送る会」の開催はルール上は問題がないものと思われます。
 次に「神聖な稽古の場である道場で飲食するとはけしからん」という文化伝統に照らしてどうかという問題があります。
 これについてもHide.さんの書き込みの通り、道場で飲食したり、寝泊りする文化伝統が存在しています。飲食はけしからんという文化伝統と飲食してもよいという文化伝統とが存在しており、是非を判断することはできないと思います。
したがって、保護者の一人はクレームをつけても「送る会」の開催を差し止めることはできないと考えられます。
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.67 )
日時: 2014/02/16 09:34:14
名前: 昔剣士 

田舎剣士さんへ

>部活動は学校教育の一環であり、卒業生を送る会はこれを逸脱しているとは言えないと判断できると思います。

この点について、そう判断できなでいます。

御自身の仰るように、その施設について使用のルール
が定められていますよね。

学校の道場では教育見地から飲食禁止とされています
よね。

卒業生を慣れ親しんだ道場で送り出すという事は誰も
否定しないと思いますが、

「それであれば稽古が相応しいのではないか、わざわ
ざ禁止行為を行う会の教育的意義何か、その会を道場
で行わなければならない理由は」

と問われたときに、反論が見つからないと申し上げて
おります。

校長、顧問といえど、その問いに論理的に答える事が
できなければ、教育の一環とは言えないと思います。

権威者が言う事、行う事が全て正しいとは言い切れな
いのが現実です。

端的にいえば、教育的目的で飲食禁止とされている場
所で飲食をするという、矛盾が生じているのです。

であれば、その矛盾を超えるような教育的目的が必要
だと思うのですが如何でしょう。

又、反対意見を真意を見極めず単なるクレームとする
事も良くないと思います。

いやがらせで行ているのか、真摯に違うと言っている
かは話してみないと解らない事です。

一般、剣道関係問わず、色んな保護者がいらっしゃい
ます。

全ては無理としても、一人でも多く賛同できる方法を
探るという行為は、道として間違っているとは思えな
いのですが?
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.68 )
日時: 2014/02/16 10:19:24
名前: 通りすがり 

一人でも多く賛同者を得て事を決するなら
民主主義の原理で投票したらどうですか?
この場合は反対している保護者は一人で
尚且つ普段から
(その父兄は部活のやり方や、練習にもクレームしてくる方です。)
とのことですから何ら問題はなく学校施設で歓送迎会を
開いても良いを思われます。

また剣道の指導者や高段者の方々の崇高な理念は
理解できますが人に押し付けたり上から目線で
持論を長々をおっしゃられても逆に反発されるのが落ちです。

メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.69 )
日時: 2014/02/16 11:26:38
名前: 昔剣士 

通りすがりさんへ

>民主主義の原理で投票したらどうですか?

その原理で選出された議員により、ルールは決定され
ており、それを覆すの有れば選挙をするしかないでし
ょう。

>その父兄は部活のやり方や、練習にもクレームしてくる方です。

だからと言って、ただのクレームだと決めつけるのは
間違いです。

その時の状況が解らなければ判断できません。

>人に押し付けたり上から目線で
持論を長々をおっしゃられても逆に反発されるのが落ちです。

よく読んで頂ければ御理解頂けると思いますが、押し
付けている訳では有りません。

正しく判断するにはどうすればよいかという事を論じているだけです。

校長や顧問が、教育の一環であるとしてろくに話も
せず強行する事こそがそれにあたると思います。

どう感じられるかはご自由ですが反論されるのであれ
ばちゃんと論理を示して頂きたいと思います。

感情論でのやり取りは望みませんので感情論はご容赦
願います。
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.70 )
日時: 2014/02/16 11:41:16
名前: 昔剣士 

追加です。

民主主義は多数決で事を決しますが、少数を全く無視
して良いとはなっていませんので御認識頂きたいと思います。
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.71 )
日時: 2014/02/16 13:03:12
名前: あほ 

そんな暇あったらすぶりしなさい
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.72 )
日時: 2014/02/16 13:32:05
名前: 肥後のオッサン 

昔剣士様

こんにちは。
まず教えていただきたいのですが、
>学校の道場では教育見地から飲食禁止とされていますよね。
とはどういう意味でしょうか。

建物の保守管理上の禁止事項ではないのでしょうか?
また、
>「それであれば稽古が相応しいのではないか、わざわざ禁止行為を
>行う会の教育的意義何か、その会を道場で行わなければならない理由は」

と問われれば、飲食どころか「送る会」そのものすら校内での開催は不可でしょう。
部活動の延長線上ではあっても、レクレーションですから。
「教育的意義」とは、教育指針等に照らして必要不可欠かどうか
ということですよね?
下級生も出席する「卒業式」が別途行われる以上、
少なくとも私は、「教育的意義」を見つけることはできませんでした。
校内で「送る会」なんてとんでもない!ってことになりそうですね。
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.73 )
日時: 2014/02/16 14:54:51
名前: はくどー 
参照:

まこだすさん、こんにちは。

まこだすさんの論点がズレてしまう理由がようやく分かりました。

>今回のことがそれほど目くじら立てて
>「けしからん!」
>と言うほどでもないのでは?
>と思っただけです

こう思ったのは誰に対してでしょうか?

スレ主さんが取り上げているクレームを付けてきた父兄の方に対してでしょうか?

それとも、このクレームを受けて、その対応策を考えた結果、
「道場での飲食はやめた方が良い」という意見を述べた方に対してでしょうか?


まこだすさんの思いが、クレーム主である父兄に対するものであったのなら、
上記の思いをここで述べることはまったく無意味です。

だって、その父兄の方は、この議論に参加していないわけですから。
議論に参加していない、その父兄に対して、
「けしからん!」というほどのものではないのでは?
というような疑問や思いをぶつけてみたところで、
その思いは父兄の方には届きませんから、何の意味もありませんよね。

では、上記の思いが、「道場での飲食」を不可とする意見を述べた方に対してのものだったとするなら、
まこだすさんは、ここで大きな勘違いをされていることに気づいて下さい。

「けしからん!」という意味のことを言っているのは、前記の父兄の方です。
他の誰も、「けしからん!」とは言っていません。

そもそも、このスレッドは、トピ主さんからの

>どう考えればいいか迷っています。
>他の道場(町道場、剣友会、クラブ、部活など)ではどのように考えていますか?

という相談を受けて始まっています。

そういうクレームを笑ってやり過ごせ。という意見もありましたが、
トピ主さんは、笑ってやり過ごすことは出来ないと思ったから、
ここに相談したのでしょう。

ですから、ここでの議論は、そういう父兄からのクレームをいったん受け止めた上で、
それでは、どのように対応したら良いか? と言うことを話合うべきです。

そこで、「道場での飲食不可」の意見を述べている方は、

道場で卒業生を送る会を行う事について、その必然性のある理由が特に無いならば、
何も道場での開催にこだわることはないでしょう。
実際に、別の場所で開催している事例もたくさんありますよ。
という、非常に柔軟性に富んだ意見を述べているわけです。

まこだすさんは、こうした意見を述べている方と、クレームを付けている父兄を同一視していませんか。
同一視してしまうから、本来はその父兄に対して言いたい意見を、道場での飲食不可の主張をしている人
に対して向けてしまっています。ですから議論がかみ合わないのだと思います。

「けしからん!」とプンプンしているのはクレーム主であるところの父兄です。
「道場での飲食不可」の意見は、そのクレームに対する対策論として述べられています。
そこのところをもう一度整理してみていただけませんか。


>僕の言ってることがルール違反に当たるとしたら完全に僕の認識不足でしょう
>もう「使ったらいい」なんて言いません

まこだすさんがおっしゃっていることがルール違反だとは誰も言っていません。

物事を行うには、そこに必ず理由が必要です。これを「理」と言います。
「理」の無い行為は「無理」と言います。
「無理」を押し通せば、それは「道理」に反する行為となってしまいます。
「道理に反する行為」は、しばしばルールに反する行為を招いてしまいます。

ですから、せめて剣道に関係する私たちは、「無理」を押し通さずに、
常に「理」を追い求めるよう努力しませんか。
それが、「事理一致」ということではありませんか?ということです。

そして、今回のケースの場合の「理」とは、道場で飲食をすることの必然性を説明できる「理」です。
そして、もしもその「理」が見つけられなければ、何も道場で飲食することにこだわらなくても、
他の場所で行っても良いのではないか?というのが、昔剣士さんのスタンスです。

>まぁ子供はみんなで楽しめたらどこでもいいと思います

はい、そこがこの論点の一番大切なところだと思います。

メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.74 )
日時: 2014/02/16 15:00:56
名前: はくどー 
参照:

田舎剣士さん、こんにちは。

これまでの議論の要点を、とても論理的にまとめて下さってありがとうございます。
お見事だと思います。

ただ、最後の最後のところで、今回のケースにおける前提条件の混同が見られますね。
そこが少しばかり残念でした。

>公共の施設には設置の目的というものがあり、法律や条令などで定められています。
>その目的外で使用する場合には、それが公共の福祉の増進に寄与することであれ制限を受けます。

ここは、そのとおりです。私も賛同します。

>このケースでは学校施設であり、学校教育のため設置された施設です。
>部活動は学校教育の一環であり、卒業生を送る会はこれを逸脱しているとは言えないと判断できると思います。
>また、この施設での飲食を禁止するルールはないようですので、飲食を伴う「送る会」の開催はルール上は問題がない
>ものと思われます。

これも、賛同します。
道場で飲食を伴う「送る会」を開催する上での、最低限の必要条件が述べられています。

ただし、まだ十分条件には達していませんね。

十分条件に達するには、

>次に「神聖な稽古の場である道場で飲食するとはけしからん」という文化伝統に照らしてどうかという問題があります。

とおっしゃっているように、この問題をクリアしなければなりません。そこで、

> これについてもHide.さんの書き込みの通り、道場で飲食したり、寝泊りする文化伝統が存在しています。
>飲食はけしからんという文化伝統と飲食してもよいという文化伝統とが存在しており、是非を判断することはできないと思います。

と述べ、「道場での飲食」の是非は判断できないという認識を示しています。

これについても賛同します。


しかし、最終結論では、

>保護者の一人はクレームをつけても「送る会」の開催を差し止めることはできないと考えられます。

と、道場での飲食を「是」とする判断に至っています。


では、道場での飲食の是非は判断できないにもかかわらず、その道場での飲食を是とする結論に至ったのは
どういう理由からでしょうか?

「道場での飲食」の是非は判断できないから、「道場での飲食は行わない」と言うのならば分かります。
道場での飲食を行わないのならば、そもそも「道場での飲食」の是非を判断する必要が無いからです。

ところが、是非を判断できないにもかかわらず、それを是とするならば、その根拠を示さねばなりません。

ぜひ、そこをお聞かせいただきたく思います。




...と、少々意地悪な質問だったでしょうか?


実は、田舎剣士さんの論法は、個人道場の場合であれば成立します。

個人道場の場合であれば、道場での飲食の是非を判断するのは道場主自身です。
廻りから何を言われようと、道場主が「道場での飲食を是とする」と決めればそれで良いことです。

ですから、その是非を判断できない事由を持って、道場主が決めた方針を覆すことは出来ません。
と、その保護者からのクレームを突っぱねることが可能です。

もしも、道場主の決定に異を唱えるならば、その人はその道場に入門しなければ良いわけです。
道場主も、私の方針に賛同できる人だけが入門して下さいと言うことが出来ます。


しかし、今回のケースは中学校です。(公立を前提とします。私立の場合は原則として個人道場に準じます。)
昔剣士さんがおっしゃるところの「パブリック」の場ですから、常に説明責任がつきまといます。

顧問、あるいは校長などが、個人の意思で「道場での飲食の是非」を決めることは出来ません。
もし、それを決めるのならば、その理由を直接間接に関係する全てに対して説明する義務があります。

個人道場ならば、私の方針に賛同できない人は入門しないで下さいと言えますが、公立の中学校では
顧問、若しくは校長等が個人的に決めた方針に対して賛同できない人は、部活動を行わないで下さい。
あるいは、入学しないで下さい。とは、正当かつ明確な理由も無しに言えないからです。


田舎剣士さんの論法は、

>公共の施設には設置の目的というものがあり、

と、パブリックの場を前提としながら始まっているにも関わらず、最後の結論部分では、

>クレームをつけても「送る会」の開催を差し止めることはできないと考えられます。

と、プライベートな場でしか通用しない論理で終結しています。

最後の部分で、パブリックとプライベートを混同してしまったのですね。


いずれにせよ、このスレッドの論点は、
「飲食を伴って行われる卒業生を送る会を道場において開催することに必然性のある理由」
を明確に説明できるかどうかというところです。

説明できるのならば、それをここできちんと説明すれば良いし、
説明できないのならば、昔剣士さんがおっしゃるように、
開催場所を道場とすることに拘泥することなく、クレームのつかない場所で開催することを選択すべき
という意見に帰結します。

メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.75 )
日時: 2014/02/16 15:50:17
名前: まこだす 

ごめんなさいホントに最後で^^

今「使うべきでない」という意見の方の中で
主さんのところに意見した親御さんが意見を取り下げたとしたら
「それなら使っていい」
という意見と
「公共の施設だからナシ」
という意見があるってことでいいんでしょうか?
違うのかな?

僕にはちょっと堅い言葉が多くて・・・
ただ、今回をやり過ごせたとしてもいつかは使えなくなるだろうなということはわかりました
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.76 )
日時: 2014/02/16 17:53:55
名前: 昔剣士 

肥後のオッサン さんへ

>とはどういう意味でしょうか。

建物の保守管理上の禁止事項ではないのでしょうか?

私は、校則はすべて教育見地より定めれれていると理
解しているのですが違うのでしょうか?

建物の保守管理のみならず、場所を弁える等ほかの要
素も含んで定められていると思いますが如何でしょう


>校内で「送る会」なんてとんでもない!ってことになりそうですね。

表に出てしまうとそういう事になりますね。

(裏でなら良いと言ってるわけではありませんので
念のため)

例えば、卒業に際し担任が教室でケーキを持ち込み生
徒と一緒に食べたとします。

このことが他に知れ、保護者又は別の教員よりクレー
ムがつけばその担任は処分(この場合は注意くらいでしょうが)を受けざるを得ないと思います。

そのような行為は黙認されている状況であり、クレー
ムが付けば中止せざる得ないということです。

保護者もいろんな方がいらっしゃいます。
中には剣道部を快く思っていない保護者もいらっしゃ
るでしょう。
そういう中で慣例、許可が有るで強行した場合、そう
いう方に絶好の攻撃の機会を与えてしまうという事で
す。

子供達、顧問、保護者(クレームをつけた保護者を含む)そして同校の剣道部にとって何が最良なのかを考える事が重要だと思います。

唯一稽古だけは出来ると思うのですがそれではいけま
せんか?


まこだすさんへ

>主さんのところに意見した親御さんが意見を取り下げたとしたら

にしても別の保護者もいますので、今回検討してより良き方向を探るべきでしょう。

多分 肥後のオッサンさんへの返答が答えとなると思
いますが如何でしょう。

メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.77 )
日時: 2014/02/16 20:01:26
名前: まこだす 

昔剣士さま

おっしゃることはごもっともです
なんら反論はありません
たぶんこれからの世の中はすぐ訴訟を持ちだすくらいのクレームのつけかたになりますもんね
こういう先読みして突っ込みどころを回避していく能力が必要だと思います

ただ、リスク回避で今の学校の味気ないことはちょっと残念なんですけどね
まぁこれはこの問題とは関係ないのでここまでで^^
また、別のスレでも稽古つけてください
ありがとうございました
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.78 )
日時: 2014/02/16 20:36:12
名前: いもむし 

 まこだすさん

 またまた横槍です。すみません。

 味気ないかも知れませんが、だからこそ対話がこれまで以上に必要になってくるのではないでしょうか。
 お互いが理解、納得するまで話し合ったり。げんにここの掲示板でそうなっていると思います。

 そして色々な考え方の方がいらっしゃいますね。自分では考えられなかったことを仰られたりしますね。
 とても刺激になると思います。
 
 そうやって見てみると、皆さん当事者でもないのに真剣でとても人間味があると思いませんか。

 これからの世の中、そうなっていってほしいと思います。
 
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.80 )
日時: 2014/02/16 23:46:51
名前: 昔剣士 

田舎剣士さんへ

>当地域の学校施設開放の規定には、飲食禁止の規定はありません。

はい当方でも学校施設開放の規定には、飲食禁止の規
定はありません、しかし、校則では禁止と成っていま
す。

>学校側も問題視はしていませんので、施設自体での問題ではないと思います。

校則で自由に飲食を認めている学校が有るのでしょう
か?

黙認されてきて今まで問題がなかったという事でしょ
う。

今まで一般の公立校として議論してきましたが、菊一
文字さんから違うとのご指摘も有りません。

一般的な学校であり当然飲食禁止と捉える事が自然だ
と思うのですが?

御自身は、

>今回のケースは飲食禁止のルールはない学校の武道場が舞台です。

と断言されていますが、菊一文字さんの学校に確認さ
れたのでしょうか?

最初の2項目を根拠するのであればあまりにも頼りないと思います。

>と書き込むのは、完全に事実誤認です。

事実について明確な根拠を示してください。

それから、私もはくどーさんもさん付けでお返事していますが、御自身は呼び捨てですね。

礼節を重んじる剣道、それも、剣士を名乗るのでしたら礼節は守って頂きたいと思います。

御自身の人間性を疑われますよ。


まこだすさんへ

御理解頂きまして有難うございます。

御自身の意見をストレートに言えるというのは素晴ら
しいことだと思います。

私は、まだまだ指導者の器ではありませんので稽古を
つけるというより、お互いに修業にに励むことにしましょうということでお願いします
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.82 )
日時: 2014/02/17 01:36:13
名前: まこだす 

いもむしさん

そうなるといいですよね〜

でも、掲示板の様にお互いがノーリスクで話し合える状況も実生活では少ないですから、多少の味気なさはいたしかたないのかも・・・とも思います

ご意見ありがとうございました
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.83 )
日時: 2014/02/17 08:39:10
名前: 踏み込み 

削除なさったようですが、No. 79の田舎剣士さまの書き込みが、一番納得できる内容でした

メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.84 )
日時: 2014/02/17 13:18:50
名前: はくどー 
参照:

こんにちは。

まだ、なんか論点が少しズレているように思うのですが...

No.33でもお話ししましたが、

スレ主さんは、

>当地域の学校施設開放の規定には、飲食禁止の規定はありません。
>学校側も問題視はしていませんので、施設自体での問題ではないと思います。

と最初からおっしゃっていますので、

  公共の施設(道場という名称の施設も含む)で、飲食が許可されるか、されないか。とか、
  保護者からのクレームによって施設の利用が差し止められるか、られないか。

などということを議論したいのではなく、

「道場で飲食するとは何事か」とクレームを付けた父兄の考え方を

>言い方が難しいですが、道場は神聖なもの、、、という精神的なことを問題視していたのだと思います。

というように受け止めたため、

>私自身も(中略)道場という場所へのとらえかた、神聖とは何かということを考えてみて

この父兄からのクレームをきっかけに

「道場」という場所のとらえ方、「神聖」とはどういうことか、というようなことを踏まえた上で、

剣道人(剣道に関わる者)として、「道場」という場で「飲食」する。という行為について、

他の道場(町道場、剣友会、クラブ、部活など)では、どう考えているかということを聞きたい

ということなのだと思います。

ですから、飲食が許可されていれば良い。とか、許可されていなければダメ。というような回答ではなく、

もう一歩踏み込んで、

  剣道にとって「道場」とはどういう場所なのか。

  その場所は「神聖」なものなのか。

  では、「神聖」というのはどういう意味なのか。

  さらに、「飲食」というのは、どのような行為なのか。

  その行為は、「神聖」を冒すことになるのか。

というところにまで考えを及ぼして、

私は(あるいは私の道場では)、こう思う(こう考えている)。

というような議論をしなければ、あまり意味がないのではないでしょうか。


メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.85 )
日時: 2014/02/17 23:54:02
名前: 昔剣士 

はくどーさんへ

そうですね、これまでは、学校の道場ではと限定して
論議してきました。

これからは、そこを離れて全体としてとの観点より
論議すべきでしょう。


道場は、稽古をする場で唯一無二といえるので、冒さ
ざる場所として神聖といえるでしょう。

体験する事全て修業であるとの考えも有りますが、そ
れだけでは剣道とは呼べないでしょう。

剣道を修行する場はやはり道場であり、その幅を広げるとの事で、道場を出てもそういう心掛けを常に持つ
ということであり、そのことを道場に持ち込むことは
本末転倒だと思います。

いもむしさんには申し訳ありませんが、食育として
飲食を道場に持ち込むという事は私は違うと感じます


例外が有るとすれば、生活そのものを道場で行い修行
をすることでしょう。

飲食だけでなく、生活そのものを修行とする事です。

道場よりさらに厳しくという事で山籠もりなどがある
のだと思います。

と言葉の意味だけ繋げるとそうなります。

しかし、現実に個人道場で道場以外で飲食する場所が
確保されている所がどれくらいあるのでしょう。

そこは、修行の場たる道場では有るものの、同時に個
人の建物との一面もあるわけですので、時間でけじめ
をつけ別の目的に使う事は許容範囲となるのではと思
います。

しかし、社が置かれている道場で、神前だから飲み食
いが自由にできるというのは違うと思います。

調べたわけではないので正確かどうかは解りませんが
、神事の際にお供え物を神事に参加している人で神事
の後飲食はすることは有りますが、四六時中良いとは
聞いた事も見た事もありません。

つまり、基本的には道場は神聖な場所であり飲食はす
べきでない。
しかし、スペースの都合でで他と区分けできない場合
は時間で区切りけじめをつけるべきである。
という事です。

(学校の場合は更にパブリックですので規則で禁止さ
れていれば勿論不可です。念のため)

如何でしょう。
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.86 )
日時: 2014/02/18 00:26:51
名前: いもむし 

昔剣士さん

 食育を道場で行うと言う事ではなくて、(ん?そういうことになるのか?)
 道場で飲食をするのであれば、捧げてくれる命に対して感謝するといったことなんかを考えさせる場にさせたい。と言うことです。
 家庭でもできますけどね。道場で仮に飲食するのであれば、剣道の本質的なところと絡ませて教育する機会も作れるかな。と思いました。

 壮行会を道場で飲食を伴ってやればの話ですけどね。 
 
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.87 )
日時: 2014/02/18 01:27:27
名前: 昔剣士 

いもむしさんへ

仰りたい事は解るのですが、剣道に専念する場として
道場を位置づけております。

たから唯一無二となり神聖と成るのです。

命を頂く事の重要性は否定しませんが、剣道の道場で
なくてはできないかというと答えは否です。

剣道と切り離し、場所は同じでも時間を稽古とは区切
り食育の場とするのであれば可だと思います。

剣道の修業として食育も取り込み普段の生活で実践す
るのは全く問題ないと思いますが、食育が剣道の稽古
とはならないでしょう。

食育の実践だけでは剣道とは呼べないでしょう。

なにより、剣道の稽古の時間帯は飲食禁止でしょう。

もし仮に道場に講和室等があるのであれば、飲食を
伴う事はそちらになるのではありませんか?

道場においては、純然たる剣道の稽古が最優先だと思
うのですが、如何でしょう。


メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.88 )
日時: 2014/02/18 03:24:22
名前: いもむし 

昔剣士さん

 道場においては純然たる剣道の稽古が最優先なのは同じ意見です。それに、食育は家庭でできますね。

 今回は稽古とは別に飲食を伴った壮行会を実施した場合の提案をさせて頂いております。話し合いの結果実施することもありうるのですよね?

 壮行会をやると決まっても、一度は反対のご意見があったわけですから。それならば、ただ飲食を共にするのではなく一興を凝らしてもいいのかなと思いました。

 もちろん稽古しながらの飲食はいけません。最近は飲み物に関しては寛容でしょうが。

 道場で壮行会をやることについては、当事者同士がよく話し合って決めたのであれば、特例として認めてもいいのではないかと思います。
 年末の稽古納めとか、飲食を伴ってやっているところは結構多いと思いますよ。
 私は、あまり違和感を感じませんが、それは先に書いたことが理由です。

 道場は大事な所で大切にしなくてはいけませんし、礼などもきちんとするべきですが、ことさら神聖と強調することは私自身はないです。子供に神聖な場所なんて言っても実感ないですしね。

 
 
 
 
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.89 )
日時: 2014/02/18 10:33:59
名前: はくどー 
参照:

こんにちは。

昔剣士さん、いもむしさん、早速に本来の論議に戻っていただきありがとうございます。


さて、「道場」というのはどういう場所のことを言うのでしょうか。
施設の名称でしょうか。
たとえば体育館は道場ではないのでしょうか。

日本武道館という施設がありますね。

日本武道館で全日本を始めとする剣道の大会を行う際、
あるいは全剣連主催の合同稽古等を行う際など、
そこに集う人々は、おそらくその場所に対して「道場」という認識を持っていると思います。

では、芸能人などが武道館でコンサートを開く場合などはどうでしょう。
人々は、そこが道場ではなくコンサートホールだとの認識でいるのではないでしょうか。

海外に指導に行きますと、そこには「道場」という名称の施設がないので、
人々は体育館やダンスホールなどを借りて、そこで剣道の稽古を行っています。
彼らが剣道をしているところは「道場」ではないのでしょうか。

こうして考えてゆくと、
「道場」というのは、そこを使用する人々の認識によって「道場」となるということに気がつきます。

公共の施設であろうが、個人の施設であろうが、体育館という名称であろうがホールという名称であろうが、
たとえ近所の空き地であっても、そこに集う人々が「道場」として使えば、そこが「道場」となるわけです。

>>36 いもむしさんの
>剣道で修行する者は、どこにいてもそこが道場であるという考え方です。

というのは、このことですね。

次に、「道場」というのは、何をする場でしょう。
言葉どおりに取ると「道(ドウ)」を行う場ということになりますね。

ですから「剣道場」ならば、「剣道」を行う場となります。

剣道における「道」というのは、何でしょう。
「剣道の理念」に基づけば、「剣の理法の修練」によって「人間形成の道」を行う場、
最後の部分をもう少し分かりやすく言えば、「人間形成の道」を追求する場と解釈できます。

つまり、剣道における「道場」というのは、

   その場において、「剣の理法」を「修練」するという行為をし、
   その行為によって「人間形成の道」を追求する場である。

ということが言えると思います、

さらに、「剣道の稽古」ということについて考えてみます。

最近では、「稽古=練習」という意味にとって、よく「剣道の練習をする」などと言いますが、
古くから剣道で行われてきたのは「練習」ではなく「稽古」ですね。

「基本練習」「打ち込み練習」「懸かり練習」などと言わず、
「基本稽古」「打ち込み稽古」「懸かり稽古」と言いますよね。

「練習」というのは「習って(倣って)」「練る」ことです。
ですから、習ったことを、何度も練るようにしながら、次第に良いものにしてゆくのが「練習」です。

「稽古」というのは「古(いにしえ)」を「稽(かんが)える」ことです。

全剣連のウェブサイトの「剣道とは何か」という記述を要約すると、

  「剣道」とは、剣の理法を自得するために歩む道を指す。

とした上で、

  剣の操法を厳しい稽古を通じて学ぶことは、その為の一つの手段と見られている。

と書かれています。

そこで、ここまでをもう一度整理しますと、剣道における「道場」というのは、

   「剣の理法」を「修練」することによって「人間形成の道」を追求する場である。
   そして、その場で行われる厳しい稽古は、そのための一つの手段である。

と定義づけられるのではないでしょうか。


今度は、「神聖」ということについて考えてみます。

「神聖」というのを辞書で調べてみると、

  「尊くておかしがたいこと。清浄でけがれがないこと」

と書かれてありました。

「神聖」という語の「神」というのは、文字通り「神様」のことですね。
法律上は、「神」は数ある宗教の中の一つと分類されていますが、
日本人にとって「神」というのは、そんな小難しい概念よりも、
生活の中で、いつも自分を見守ってくれている、何となく「尊いもの」というイメージだと思います。

神棚というのはその象徴ですね。

では、神棚が無い場所は、「神聖」ではないのでしょうか。

この先は、人それぞれの感じ方でしょうが、神棚があろうがなかろうが、
人の心の中で「神聖」と感じれば、その場は神聖なものになりませんか。

今、まさに朝日が昇ろうとする光景を見たとき、あるいは静寂な森の空気に包まれたときなど、
私たちは、その場に「神聖」を感じませんか。

つまり、人々が「神聖だ」と思う気持ちを持ったとき、その場は「神聖な場」になるのではないでしょうか。


もう一つ、「飲食」ということについて考えてみます。

「飲食」は、ある一面では人間の持つ「欲」の一つとされる「食欲」を満たす行為と捉えられます。

先にも書きましたように、「食欲」は、人間が生きていく上で必要不可欠な「欲求」として
「生理的欲求」に分類されています。
言い方を変えれば、「食欲」を放棄したとき、人間は「死」を迎えます。

一方、人間のこの「食欲」を満たすためには、他のものの「死」が必要不可欠です。
殺生を禁じる仏教では、精進料理として植物主体の飲食をしますが、厳密に言えば
植物であっても「生あるもの」であることに変わりありません。

ですから、人間の「生」はたくさんの「死」によって支えられているとも言えます。

こうしたことを考え、教えるのが、いもむしさんがおっしゃるところの「食育」ですね。


最後に、もう一度考えてみます。

「剣道」は、「人間形成の道」です。

その道の上にあるのは、はたして「厳しい稽古」だけでしょうか。

メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.90 )
日時: 2014/02/18 23:32:01
名前: 昔剣士 

いもむしさんへ

>今回は稽古とは別に飲食を伴った壮行会を実施した場合の提案をさせて頂いております。話し合いの結果実施することもありうるのですよね?

今回は学校を離れてとの事で論議していると思ってい
いるのですが、学校まで含まれての事でしょうか?

学校で有れば、如何繕おうともルール違反です。

私の意見は変わりません。

菊一文字さんには申し訳ありませんが、学校のという
ことではなくそれ以外の道場として論議させて頂きま
す。

あくまで参考とされてください。


>道場は大事な所で大切にしなくてはいけませんし、礼などもきちんとするべきです。

どうして大切なのか、何に対しての礼でしょう。

特別という証拠ですよね。

私も建物自体でなく、その心により、道場にもサロン
にも成るのだろうと思います。

ですから、道場と認識しているのであれば神聖であり、飲食は禁止だと思います。

しかし、同じ場所でもサロンと認識していればサロンになり飲食自由だということでしょう。

私は、道場たる建物にサロン等他の用途は期待してい
ませんので、やはり飲食するべきでないと思います。


>子供に神聖な場所なんて言っても実感ないですしね。

剣道は武道と導くのとおなじで、稽古中に関しては神聖な場所でしょう、そう導くべきだと思いますし、
実際はそう指導されているのでしょう。

稽古の前に悪ふざけしていたら叱りますよね。

宗教めいた文字ですので、構えてしまいますが、実は
そういう扱いをされらっしゃるとと思いますよ。

武道と道場は切り離せませんよね。

はくどーさんへ

>その道の上にあるのは、はたして「厳しい稽古」だけでしょうか。

確かに「厳しい稽古」だけでは無いと思いますが、
逆も真なり、「厳しさが無くて良いのか」と問われれ
ば否です。

ではどこまで厳しく、どこまで甘くとの議論に成りそ
うですが、わたしはそこには与しません。

逆に、厳しいから稽古になりうるということです。

剣道の道場であれば、当然剣の理法の習得によりと
有りますので、竹刀を剣と思いそれで稽古をし、
それにより、道を知るという事ではないかと思います。

道を知るだけで良ければ、華道、茶道、弓道、柔道
等々他にたくさんあります。

剣道であれば、剣たる竹刀を使い修行をするというの
が基本であり、その他については付属として良いと思
います。

日常竹刀を振り回し叩くという事は暴力と成ります
が、道場はそれが日常当たり前の行為と成ります。

つまり、剣道の道場とは非日常を行う場であるので、神聖であると言えると思います。

その非日常を考えも無く日常に持ち込むから、一般
から非難されるのだと思います。

道場とされるのであれば、飲食禁止であり、その他
思われるのであればその思いのままにというこになり
そうですね。
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.91 )
日時: 2014/02/19 00:25:54
名前: いもむし 

はくどーさん 昔剣士さん

 はくどーさんの書き込みは丁寧でわかりやすくて感服します。はくどーさんと私の違いは、自分で考えたことを文章にしているかしていないかですね。私なんかは思ったこと等を手帳に殴り書きしますが、人に伝える文章にはしていませんからね。
これからは文章にしてみようと思います。

 昔剣士さんのご意見は、ごもっともです。校則で飲食禁止であればルール違反になります。事情にもよりますが(災害等)例外は認めるべきではないと思います。飲食する場所は他にもありますからね。菊一文字さんの書き込みでは校則で禁止とはなっていなかったので...

 道場が特別な場所である証拠というよりも、行動の規範を示すべき場所と思っています。神聖な場所であるから大切にし、礼をするとは考えていません。
 宗教は私も重んじます。私の宗教観からしても道場(稽古場)が特別神聖な場所とはしないほうがいいと考えています。

 私は息子に説教をする時、それは学校のことであったり、普段の生活のことであったりしますが、剣道の稽古を絡めて説教することが多いです。学校にいる時も、家にいる時も、友達と遊んでいる時も、剣道の稽古をする時と同じ心構えでいないといけない。と言います。
 簡単に言えば、道場では挨拶は大きな声でするのに、学校では挨拶しないなんてことはあってはならないのです。
 漢字の書き取りを素振りに例えて、話したこともあります。
 友達に何か言われて喧嘩した時も、辛くて苦しい掛かり稽古をやめたい、休みたいという気持ちに打ち勝って、我慢して最後までやり通すことができるんだから、腹が立っても我慢できるはずだ。と話したこともあります。
 逆の場合もあります。学校の勉強は宿題があって、予習復習をやっているけど、剣道の稽古も先生に教わったことは、予習復習をして稽古しないといけない。同じ事は指摘されないといった気持ちで次の稽古に臨めと言います。 

剣道で道を求める者は、どこにいても道場ということはこのようなことですが、 子供たちをよく観察すればわかると思いますが、稽古では大きな声で挨拶できるのに、普段挨拶出来ない子って多くないですか?これは道場、稽古、普段の生活を知らず、知らずのうちに分けてしまっているからだと思うのですが、道場を神聖な場所としてしまうとそういった気持ちにさらに滑車をかけるのではないかと思います。

 私の息子も道場が神聖で特別な場所で「道場と学校は違う」という屁理屈を言われたらげんこをのさなければならないという困った事態になります。そういうことで特段神聖なものとは思っていないのですが、だからといって道場(稽古場。ややこしい)を蔑ろにしているわけではありません。(5年間、一番乗り清掃を欠かしません。)
 はくどーさんや昔剣士さんの言われる気持ちの問題なのだと思います。

それと、神棚を飾ってあるところもありますが、それは良いとして。そこに手を合わせて、怪我がありませんようにとか、剣道が上手くなりますようにとか、試合で勝てますように等とお願いするのは間違いだと思います。こういったことを子供にやらせると他力本願の考え方を植え付けることになります。こういったことは自分が気をつけて、努力して成し得るものです。神棚にはあくまで先人や色々ないわゆる森羅万象に感謝の気持ちで手を合わせるべきだと思います。
 神聖とするならばここを理解しておくことも大切だと思います。

 現時点では、私はこのような考え方ですが、いろいろな方の意見を聞いたりしてもっと修行を積めば考え方も変わると思います。

 
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.92 )
日時: 2014/02/19 11:47:50
名前: いもむし 

昔剣士さんの書き込みを繰り返し読んでみて、竹刀を日本刀としての心構えで稽古するならば、仰るように神々しさというのも必要かも知れませんね。

 日本刀でということであれば自然の摂理に逆らって人を斬るわけですから、それなりの場所でなければならないと思います。
 それで思ったのですが、私は子供達と稽古をするのとは別に、範士8段の先生のところに稽古に行かせて頂いているのですが、やはり雰囲気はまったく違います。先生はなんというか凡人を超越しているとでもいいましょうか、まさに神々しい雰囲気があります。
 
 修行の段階によって、神聖と感じるところも違ってくるということでしょうか。自然に心から沸き起こってくるというか。

 先の書き込みでは、子供達との稽古を念頭に書きましたから、神聖というよりも人としてあるべき姿の規範を学ぶところとして書きましたが、修行が進んで行けば、神聖な心構えが出来てくるのかなと思いました。

 
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.93 )
日時: 2014/02/19 18:06:20
名前: はくどー 
参照:

こんにちは。

>>90 昔剣士さんへ

>>その道の上にあるのは、はたして「厳しい稽古」だけでしょうか。
>
>確かに「厳しい稽古」だけでは無いと思いますが、

>逆も真なり、「厳しさが無くて良いのか」と問われれ
>ば否です。

なるほど、私が書いた「厳しい稽古」という言葉の中の「厳しい」という形容詞の方に、
反応されてしまったのですね。

そういうつもりではなかったのですが、誤解を招くような書き方で申し訳ありませんでした。

>>89の、
「厳しい稽古」というのは、その上の方で、全剣連のウェブサイトの記述として紹介した
「剣の操法を厳しい稽古を通じて学ぶことは、その為の一つの手段と見られている」
という内容の省略形のつもりでした。

つまり、あの部分を再度正確に書くならば、

   最後に、もう一度考えてみます。

   「剣道」は、(「剣の理法の修練」による)「人間形成の道」です。

   その道の上にあるの(=手段)は、はたして「剣の操法を厳しい稽古を通じて学ぶこと」だけでしょうか。

ということになります。


やはり、このような掲示板は、それを読む人の立場や視点が様々に違っていますので、
自分だけが分かっているようなつもりで、表現を省略してしまうと誤解を招いてしまいますね。

誤解を招く書き込みは、誤解を招くだけの理由(理)がある。。。
分かっていたつもりでしたが、今回はつい「これくらいなら」という思いで書いてしまいました。
私も、まだまだ「事理一致」を貫くには修行不足です。

これからは出来るだけ誤解を招かないような書き方にするよう心がけたいと思います。
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.94 )
日時: 2014/02/19 18:21:40
名前: はくどー 
参照:

あらためてこんにちは、昔剣士さん、いもむしさん。

これまでのやりとりから、昔剣士さんも、いもむしさんも、「剣道の理念」すなわち、

   剣道は、
   剣の理法の修練による
   人間形成の道である

の実践を目指している方々だと拝察します。

また、「いちに会の部屋」にあった「フェイスブックでこんなやりとりがありました」の
スレッドのNo.20 管理人のHide.さんによる

>ちなみに、昔剣士さんの「武道の定義」を教えていただけますか?

という問いかけに対して、昔剣士さんは、同スレッドのNo.22にて、

   剣道とは、
     日本の武士が剣(日本刀)を使った戦いを通じ、
     剣の理法を自得するために歩む道を指し、

   剣道を学ぶということは、
     この剣の理法を学ぶことを意味します。

   敢えて言えば、
     剣の理法の奥にある武士の精神を学ぶことが重要で、
     剣の操法を厳しい稽古を通じて学ぶことは、
       その為の一つの手段と見られています。

   これが剣道の目的が『人間形成の道』と言われている理由です。

という全剣連HPから抜粋した一文を紹介し、さらに、

   [有効打突]
    第12条
    有効打突は、
      充実した気勢、適正な姿勢をもって、
      竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、
      残心あるものとする。

という、全剣連の「剣道試合・試合規則」の条項を示した上で、

>以上2項目について遵守されている状態であれば門外
>漢にも抗弁出来るでしょうし、第三者にそっぽを向か
>れる事もないでしょう。

と、ありましたので、上記2つの要件を遵守した状態で行われる剣道こそが、
昔剣士さんが言うところの「武道たるべき剣道」であるとの認識を示されているのだ
と理解しました。

これについて、そういう理解でよろしいでしょうか。

それでよろしければ、私もこれに同意いたしますので、これが昔剣士さんと私の共通認識であるという前提の下、
その記述に沿ったかたちで、「道場における飲食」についての、私の考察を始めてみたいと思います。
いもむしさんも、よろしければおつきあい下さい。

その前に、今回のこのスレッドにおける「道場での飲食」というテーマですが、
実は、私自身も今までに、それほど深く掘り下げて考えたことはありませんでした。
しかし、せっかくここまでスレッドが伸びてきたテーマです。
この際、ちょっと気合いを入れて、とことん深く掘り下げて考察してみたいと思います。

ただ、地中に深く穴を掘ろうとすれば、当然その穴の入口は、穴の深さに比例して広がってゆきます。
それゆえ、直接・間接に渡って、「道場での飲食」というテーマ本来の論旨から一見外れているように見える記述や
これまで、ここ「いちに会の掲示板」で何度も語られてきたような内容との重複、
更には私個人のホームページ「はくどー庵」に記載している内容の再掲などが増えてくるかと思います。

また、誤解を招かないような表現に終始しようとすれば、やや「くどすぎる」と感じられる表現も
多々あろうかと思います。

どうか、「またその話かよ」「何度も何度もしつこいな」などと思わずに、
以降の長文に、もう少しの間、気長におつきあいいただきますよう、よろしくお願いいたします。



もう一度、いったんページを改めます。

メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.95 )
日時: 2014/02/19 18:48:01
名前: はくどー 
参照:

再び、こんにちは。

まずは、先のレスにも書きましたとおり、剣道における「道場」というのは、剣道の理念に従って、

  「剣の理法の修練」を行うことによって、(手段)
  「人間形成の道」を追求する場である  (目的)

と定義してよろしいでしょうか。

つまり、

  私たち剣道家が、「人間形成の道」を追求するために、「剣の理法の修練」を行う場が
  いわゆる「道場」であるということです。


そして、全剣連HPの文章によると、

   剣道とは、
     日本の武士が剣(日本刀)を使った戦いを通じ、
     剣の理法を自得するために歩む道を指し、

   剣道を学ぶということは、
     この剣の理法を学ぶことを意味します。

とあることから、ここで言う「剣の理法」というのは、

   日本の(昔の)武士が、日本刀を用いた戦いを通じて、自得した理法である。

と理解できます。

言い方を変えれば、

   日本の(昔の)「武士でない者」が、
   「日本刀を用いていない」「戦い」を通じて「自得した理法」

というのは、「剣道の理念」で述べている「剣の理法」ではないということになります。

これを、もっと分かりやすく言えば、

   現代に生きる「武士ではない」私たちが、
   「竹刀」での「戦い」のみを通じて、その操法等を研究し工夫したとしても、
   それによって「自得された理法」は、あくまで「竹刀の理法」であって、
   「剣道の理念」が求めている、日本刀を用いた戦いを通じて自得された「剣の理法」ではないので、
   たとえ、それをいくら修練したとても、それは本来の「剣道」を学ぶことにはならない。

ということだと思います。

少々、話が広がってしまいましたが、ここまでは、了承していただけますでしょうか。


では、現代に生きる「武士ではない」私たちは、「剣の理法」をどうやって「自得」すれば良いのでしょう。

再び全剣連HPの文章を読みますと、「敢えて言えば」という記述の後に、

   剣の理法の奥にある武士の精神を学ぶことが重要で、

   剣の操法を厳しい稽古を通じて学ぶことは、その為の一つの手段と見られています。

とあります。すなわち、

   日本刀を用いた戦いを通じて、自得された「剣の理法」を、
   現代に生きる私たちが、直接に自得することは出来ないので、
   まずは、その「剣の理法」の奥にある「武士の精神」というものを
   (様々な手段を通じて)学ぶことが重要である。

と説いた上で、さらに

   「剣の操法(剣の技)」を厳しい「稽古」を通じて学ぶことは、
   その為の「一つの手段」であると見られている。

と言っています。

この記述の中で見落としてならないことは、

 (1)ここで言っている「剣の操法」というのは、「日本刀の操法」であること。
 (2)その「操法」は、「稽古」を通じて学ぶものであるということ。
 (3)そして、その「操法を学ぶ稽古」は、あくまで「一つの手段」であるということ。

だと思います。これを、もう少し詳しく書いてみます。

 (1)学ぶべき「剣の操法」は「日本刀の操法」ですから、稽古の課程で、竹刀や木刀あるいは模擬刀などを
    使用することがあったとしても、その操法は「日本刀の操法」に適っていなければならないということです。
    したがって、竹刀独特の防御のための操法などは、学ぶべき「剣の操法」ではないわけです。

 (2)この「剣の操法(技)」は、「稽古」を通じて学ばなければなりません。
    「稽古」というのは、先にも書きましたとおり「古(いにしえ)を稽(かんが)える」ことです。

    「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」という書物には、、
    「稽古」について、「古今の理(ことわり)なり。これをよくわきまへしるを稽古といふ」とあります。

    つまり、古(いにしえ)に日本の武士が日本刀を用いた戦いを通じて工夫してきた「剣の操法(技)」の在り方をよく考えて、
    現代における「剣の操法(技)」のあるべき姿のすじ道を正確に知る。というのが「稽古」ということだと思います。
    ですから、現代の私たちが、現代で通用する「剣の操法(技)」を新たに工夫し開発したとしても、
    それは、「剣道の理念」が求めている本来の「剣の操法(技)」ではないと言わざるを得ないでしょう。

 (3)「剣の操法を厳しい稽古を通じて学ぶ」ということは、「武士の精神」を学び、先人たちが自得した「剣の理法」に
    近づくための「一つの手段」ではあるが、言い換えれば、それはあくまで「一つの手段に過ぎない」ということです。

    日本の武士が、日本刀を用いた戦いを通じて自得した「剣の理法」を、そうした戦いの無い現代に生きる私たちが学ぶためには
    剣の操法を厳しい稽古を通じて学ぶばかりではなく、その他の様々な手段を持って、その「剣の理法」の奥にある「武士の精神」
    を学ぶことが重要だと言っているのだと思います。


以上、とりあえず、今日はここまでとさせて下さい。

なんか、当たり前のことを、少々「くどい」文章で書き綴ることになってしまいましたが、
私の言いたいことは伝わっておりますでしょうか。


次回は「剣の理法を修練する」ということについて考え、そこから「道場での飲食」というテーマに迫ってみたいと思います。

メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.96 )
日時: 2014/02/19 22:58:27
名前: いもむし 

はくどーさん

 「操法を学ぶ稽古は、あくまで一つの手段」ということで、私にはいい感じで伝わっています。流石です。
 今後の展開を期待しております。
 お手数おかけしますが、よろしくお願い致します。
 
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.97 )
日時: 2014/02/20 01:23:25
名前: 昔剣士 

いもむしさんへ

>学校にいる時も、家にいる時も、友達と遊んでいる時も、剣道の稽古をする時と同じ心構えでいないといけない。

仰る通りです。

「稽古をするときと同じ」

ここが重要です。

厳しい(言い換えれば尊い)稽古をしたから日常生活
に活かせるのですよね。

まず、稽古で高めてからしか日常に活かせないのです
よね。

稽古は日常を超えたものでなければならない訳です。

たから、稽古を日常に持ち込むのは可なのですが、稽
古に日常を持ち込んではいけないと思うのです。

その稽古を行う空間と時間を道場と位置づければ、そ
こは尊くて冒さざる場と考えられるのではないかと思
うのです。

神聖

尊くておかしがたいこと。清浄でけがれがないこと。特に、宗教・信仰の対象などとして、日常の事柄や事物とは区別して扱われるべき特別の尊い価値をもっていること。
デジタル大辞泉より

宗教によらずとも神聖としても良いと思われます。

神聖という言葉を使うか使わないかだけで、お互いに同じ事をさしているのだと思います。

辞書で確認しましたが、いもむしさんのなさっている
事は一般的には神聖と御認識されてことだと申し上げ
ても良いのだと思うのですが如何でしょう。

はくどー さんへ

>それでよろしければ、私もこれに同意いたしますので、これが昔剣士さんと私の共通認識であるという前提の下、
その記述に沿ったかたちで、「道場における飲食」についての、私の考察を始めてみたいと思います

同意いたします。

>それはあくまで「一つの手段に過ぎない」ということです。


剣の操法のみならず、そこを広げてとの事だろうと
解釈しますが、まずは操法を極める際に会得できる
真理を理解してからではと思います。

その真理が高ければ高いほど、操法のほかについても
より深く理解できる気がしますが如何でしょう。

※操法は単なる動きだけでなく、思考錯誤の末に創りだした技というような解釈に基づいた意見です。


>次回は「剣の理法を修練する」ということについて考え、そこから「道場での飲食」というテーマに迫ってみたいと思います。

先の問いにたいする答えに成ると思いますので、是非お願します。

長文にてのご指導感謝いたします。
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.98 )
日時: 2014/02/20 08:05:46
名前: いもむし 

昔剣士さん
 
昔剣士さんの仰られることよくわかります。私が道場をあえて神聖としない、いや神聖としているかもしれないけど特別神聖としない理由といいましょうか、それは日本の宗教事情やそれに伴う習慣に問題を感じるからです。
 神聖というと一般には、道場には剣道の神様がいて、その神様に礼をして神様に失礼があってはならない等という認識になると思いますが....なりませんか?そのような認識が人間形成には障害になります。
 ですから、神聖と言う言葉は使わないのです。

屁理屈をこねているわけではないので、そこは了解して下さい。
デジタル大辞林の文言にもピクッと反応してしまうのですが、
「尊くておかしがたいこと。清浄でけがれがないこと。特に、宗教・信仰の対象などとして、日常の事柄や事物とは区別して扱われるべき特別の尊い価値をもっていること。」

尊くておかしがたく、清浄でけがれがないことを、宗教、信仰の対象としてしまいますから、迷いが生じるのですが、こういったことは人間が本来持っているものですね。それを自覚させていくのが「人間形成」なのだと思います。人間が誰でも持っているのに外に求めるのは、それを自覚していないからです。そしてそれを自覚しないと人間形成は完成しないと考えています。
  剣道は、その自覚をさせるための一つの手段です。剣の理法はなんといいましょうか、人の意思で操作してはいけないものと思います。ただ振り上げて振り下ろすだけなのですが、それが難しいのは、本来尊くて清浄でけがれがない人間ですが、欲望等邪に覆われているのでその心が剣の理法を蔑ろにした、欲望による操作をするので難しくしているのだと思います。
 無心、不動心といった教えはここを改めることを言っていると思います。

 大辞林でいう神聖とは、本来人間が持っているもの、それを自覚させるのが剣道ということですが、人間だけでなく森羅万象すべてが人間と同じに、それを持っていると考えられます。そうすると究極全てのものは同一、一つのものということになり全て平等となるわけです。 
 こういった考えから、修行するものはどこにいても道場となるわけで、本来は道場と日常は分けて考えるべきではないのですが、人間の日常は汚れが多いですね。ですから昔剣士さんの言われるように人間形成を目指して稽古をする場には邪魔になるでしょう。そういうことだと思います。
 
しかしながら、ここを理解しておけば、あえて日常を持ち込むというのも、まあたまにはいいかなと思いました。私は今回、食育を提案しましたが人間の罪な部分を見つめさせて、自分たちの存在を考えさせる機会に出来ればいいかなと。

 こういったことを文章にするのは、難しいです。はくどーさんに期待します。
 



  
  



メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.99 )
日時: 2014/02/20 21:33:50
名前: はくどー 
参照:

こんにちは。

今日の話題も「剣道の理念」から入りたいと思います。

   剣道は、
   剣の理法の修練による
   人間形成の道である

まずは、この中の、「剣の理法」を「修練」する。
ということの意味を考えてみたいと思います。


最初の「剣」というのは、昨日も書きましたように、「日本刀」であるということは疑いないところだと思います。

では、その日本刀の「理法」とは、どういう意味を持つものでしょう。

理法の「理」、すなわち「理(ことわり)」は、「事割(ことわり)」が語源とされています。

「事割」というのは、

   「物事を割って、中身を調べ、その筋道をはっきりさせ、是非を判断する」

というような意味です。そして、是非を判断することによって「断る(ことわる)」という行為も生まれます。

このことから、「理(ことわり)」というのは、

   「物事の筋道。条理。道理。人の力では支配し動かすことのできない当然のすじ道。その理由」

というような意味になります。

次に、「理法」の「法」は「法(のり)」です。語源は「乗る」から来ているといわれます。

   「ある事象について、その上に乗っている、守るべき規範、おきて、手本、模範など」

というような意味です。ここから、「規」「矩」「憲」「則」など、様々な「のり」という言葉が生まれます。


そこで、これらのことを総合すると、「剣の理法」というのは、

   日本の武士が剣(日本刀)を使った戦いの中に生じる、あらゆる事象について、
   そこには、人の力では支配できない当然の道理、筋道、理由というものがあり、
   これを守るべき規範やきまり、手本として捉え、それに従った行動をすること。
   または、そのように行動するための方法、法則。

というような意味に解釈できるのではないかと思います。

もう少し簡単に言えば、

   「剣」を扱う上で、「当然の結果を生み出す方法や法則」が「剣の理法」である

ということです。言い換えれば、

   「理に基づいた当然の法則」に起因しない行動や方法によって生じた結果は、
   その成否にかかわらず、あくまで偶然の結果であるから、、
   それは「必然」を求める「剣の理法」とは言えない。

ということでしょう。

たとえば、スポーツでは「フェイント」は高度な技として位置付けられています。
サッカーやバレーボールなどでは、相手の心理の裏をかき、その意表をつく鮮やかなフェイント攻撃は
戦略上の花形で、観客の喝采と感動を大いに誘います。

ところが、剣道においては、「面と見せて小手を打つ」などのフェイント技は、段位が上がるに従って
あまり評価されなくなります。なぜなのでしょう。

フェイントの成功というものは「偶然の結果」でしかありません。どんなに素晴らしく高度なフェイント技も、
相手に見破られてしまっては、その結果は「当然」のものになりません。

スポーツならば、一か八かのフェイント技が失敗しても、次にはそれを取り返すチャンスがあります。
ある意味、高度なフェイント技はそれが失敗することも想定に入れて仕掛けることもしばしばあるでしょう。

しかし真剣を用いた戦いにあっては、技の失敗は即自分の死を意味します。つまりフェイントが失敗した時点で
ゲームエンドとなってしまうのです。

昔の武士にとって、剣道の修練というものが、命をかけた真剣勝負において確実な勝利をもたらすことを目的に
行われていたものであるならば、「偶然の結果」に頼った「技」の修練をすることは全く無意味です。
ある戦いで、たまたま偶然の結果により勝利を勝ち得たとしても、その技はいつ誰にでも通じる「理に適った剣の技」
ではありません。

そのため、日頃の剣道の修練においては、どんな場合でも常にそこに生じる事象の「理」を正しく見定め、
「その理に適った必然の行為」の積み重ねによってのみ得られる「勝利」を大切にしたのだと思います。

これが「事理一致」の修行を目指すという、「剣の理法の修練」の在り方ではないかと思います。


ここで、少々蛇足ですが、「修練」ということについて考えてみます。

「修練」というのは、読んで字のごとく「練って修める」ことです。
「練る」というのは、練り歩くともいうように、あっちへ行きこっちへ戻りなどを繰り返す様子で、
ものを何度もこねまぜたり伸ばしたり固めたりしながら、しだいに使えるもの質の良いものにしてゆく
という意味があります。

そして、「修める」というのは、「受け取って自分のものとして整え正す」いう意味を持ち
「学問、技芸などを身につける」ことを言います。

ですから、「修練」というのは、

  「学問や技芸などを、何度も繰り返し経験を積んでより良いものにしながら身につけてゆく」

ということです。

昨日は、「剣の操法」は「稽古」によって学ぶという話をしました。
「稽古」というのは、「古(いにしえ)」を「稽(かんが)え」ながら行います。

「剣の理法」は、「稽古」ではなく「修練」します。
理に適った、いわゆる「事理一致」の修行を、繰り返し繰り返し練るように行なって
それを次第に良いものにしながら、身につけてゆくということが大切なのだと思います。


だいぶ長くなってきましたので、ここでいったんまとめてみます。

「剣道の理念」では、

 1、剣道は、「剣の理法」を「修練」する。
 2、剣道は、「人間形成の道」である。

という2本の柱が示されています。前者は「手段」であり、後者は「目的」です。

さらに、ここに全剣連のHPの内容を加えると、

 1、剣道を学ぶ手段として、
    ○剣の繰法は、厳しく稽古するものである。
    ○修練するのは、剣の理法である。
    ○剣の理法は、武士が日本刀を使った戦いを通じて自得したものである。

 2、剣道を学ぶ目的として
    ○ 学ぶべきものは、剣の理法の奥にある武士の精神である。
    ○ 学び得た武士の精神をもって、人間形成の道を追求することが剣道の目的である。

となります。

こんなこと、大仰に「まとめ」なくても、当たり前のことじゃないか。
と思われた方も少なくないかもしれません。

でも、もう一度よく考えてみて下さい。

 ・私たちは、「剣の繰法」を「修練」してはいませんか?。
 ・そして、「剣の繰法の修練」が「剣道の目的」になってはいませんか?

もう一度整理しますと、

 ・「剣の繰法」は「修練」ではなく「稽古」によって学ぶものです。
 ・そして、「修練」するのは「剣の繰法」ではなく、「剣の理法」です。
 ・さらに、「剣道の目的」は、剣の理法の奥にある「武士の精神」を学んで「人間形成の道」を追求することです。

ここのところをきちんと理解していないと、剣道の方向性が違ってきてしまいます。

もしも、この最も大切なことを誤解したままの人が、子どもたちの指導に携わってしまえば、
日本の剣道はどんどん違った方向に向かってしまうかもしれません。

ですから、このスレッドの本来のテーマからはちょっと逸脱しましたが、
とりあえず、いったんここで整理してみました。




ついでに、ページも改めます。

メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.100 )
日時: 2014/02/20 21:47:48
名前: はくどー 
参照:

再び、こんにちは。

またまた、全剣連のHPより、

  剣道とは、日本の武士が剣(日本刀)を使った戦いを通じ、
  剣の理法を自得するために歩む道を指し、

という記述に着目してみます。

日本の武士が、日本刀を使って戦えば、それはケガ程度では済みません。
その戦いは、常に命をかけたものになります。

剣道というのは、常に死と隣り合わせに在った当時の武士たちの体と心の修養から始まりました。、
ですから、そこで自得された「剣の理法」というものには、必ず「生と死」の問題がつきまといます。

「武士道とは死ぬことと見つけたり」
これは、武士道の根幹を一言で表す言葉とされています。

武士の文化は恥の文化ともいわれます。
武士たちは、名誉を非常に重んじました。
武士の名誉は、死を賭しても守らなければならないものだったのでしょう。

そのため、武士たちの生きる目的は、「いかに名誉ある死を迎えるか」というところに集約されてゆきます。

常に「いつ死ぬか分からない」という状況におかれていた武士たちにとって、
突然襲い来る死によって、自らの名誉を汚されることを一番恐れました。

そのため、死を迎えるまでの「生き方」が武士にとって非常に重要なものになりました。
なぜなら、生前の「生き方」こそが死後の名誉を左右するからです。

今日死ぬかもしれない。明日死ぬかもしれない。こういう状況の中にあって、
いつ死んでも自らの名誉が汚されないよう、一日一日の生き方に細心の注意を払うようになりました。

死に臨んで、名誉が汚される状況になれば、現世に「悔い」を残すことになります。
いつ死が訪れても悔いを残さぬようにするには、毎日が悔いの無い生き方をせねばなりません。

悔いの無い生き方は、「無理」の無い生き方でした。
「無理」というのは、「理が無いこと」つまり「理に反することをすること」です。

生き方の中に「無理」があれば、その生き方に歪みが生じます。その歪みは死に臨んで悔いとなります。
その悔いは、死後に不名誉となって現れます。

そのため、武士は「義理」を重んじました。

「義理」というのは「物事の正しい筋道」という意味です。
現代では、「付き合い上、仕方なくする行為」という意味に使われることが多いですが、
本来は、「人として守るべき正しい道」というような意味です。

前スレでも述べましたが、あらゆる事象には、必ず「そうなるべき」あるいは「そうであるべき」
「必然の理」というものがあります。

その「理」に反しない行いをすることを「義理を通す」あるいは「道理を通す」となどと言い、
一貫して義理・道理を通すことを「事理一致」を貫くと言います。

つまり、日々「事理一致」を貫き通すことが、武士の生き方でした。

以上のようなことから、非常におおざっぱではありますが、
剣道によって学ぶべき「武士の精神」というのは、この「事理一致」の生き方である
と、私は思っています。


話は翻って、Hide.さんは、よく

  「剣道は、捨て所を探すもの」

という言い方をされます。

  剣道における打突時には、心の中に抱えている「恐懼疑惑」を捨て去って、
  心に迷い無く「無心」で打ち切りなさい。

というような意味だと思いますが、武士の生き方も、正にこの捨て所を探す生き方だと思います。

死に臨んで、あるいは打突時に、
  全ての悔いを捨て去って、心置きなく命を捨て去る
  あるいは恐懼疑惑を捨て去って、心の迷い無く打ち切る

このためには、生前の生き方、そして技前の作り方(攻め方)が重要です。


というわけで、本来ならここから、具体的な「攻め」の話に行きたいところですが、
あまり穴の入口を広げてしまっても肝心の「道場での飲食」というテーマにたどり着けなくなってしまうので、
今回はここまでとさせて下さい。

このページでは、

  「武士の精神」と「剣の理法」は、共通の死生観を持って互いにリンクしている

という「まとめ」で締めさせていただきます。

メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.101 )
日時: 2014/02/20 22:48:36
名前: 昔剣士 

いもむしさんへ

神聖にに対するアレルギーをお持ちみたいですね。

礼をするのは、宗教的にでなく、尊いものだと感じる
からだと思いますよ、試合会場の体育館でも礼をして
入る方もいらっしゃるではありませんか。

ま、人其々ですので嫌いだと仰るのであれば仕方ない
事だと思います。

>人間だけでなく森羅万象すべてが人間と同じに、それを持っていると考えられます。そうすると究極全てのものは同一、一つのものということになり全て平等となるわけです。

お言葉を返すようで申し訳ありませんが、であれば御
自身が8段先生との稽古は如何なのでしょう。

その論でしたら上位者と稽古する必要は有りませんよ
ね。

どうしても、稽古と日常を同じにしてしまうと矛盾
が生じます。

理であればそういう事に成らないと思いますよ。

やはり、稽古は日常では無く、心身を鍛える事で
真理を得るものであり、その心理に則って日常を過ご
すという事が修行ではと思います。

何度も繰り返しますが、道であれば華道、茶道等々
他でも知る事ができます。

剣道であれば、剣(竹刀)を使う稽古にて道を知ると
いう事ではないでしょうか。

人間形成は剣道だけが出来ると言う訳でなく、別(た
とえそれが野球等のスポーツ)であっても可能であり
本人の心がけ次第という事だと思います。

その根本は極めるということが必要で有り、そこに妥
協が有れば極められるものではないと思います。

その強度は各人の程度に合わせる必要が有りますが
志はそうあるべきだと思います。

そういう志の者同士で稽古を行う場である道場はやは
り非日常だと思います。

人格者と呼ばれる人は、極めたるがこそ、人当たりが
良く、人間性に優れられていますが、そこに至るまで
は苦行の連続ではなかったかと思います。

そこを差し置いて、他に目を向ける事はけして良い影響はないと思います。

剣の技量を上げるだけの目的であれば、それは練習
であり稽古では有りません、稽古で有ればそこに思考
が加わります、そでこそ森羅万象を理解するヒントが
有るのだと思います。

それのみに非ずというのは充分理解しているのですが
、剣道であればやはり剣をとうしてというのが基本だ
と思います。
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.102 )
日時: 2014/02/20 23:54:52
名前: いもむし 

昔剣士さん

 神聖という言葉が誤解を生むのではないかとの思いから、使わないというだけです。誤解を生まないのであればそれはそれでいいのです。

 8段の先生と稽古をするのは、そこまで理解、実感がいかないからです。私も修行の途中ですから。
 色々な文献、先人の言葉などからそのようなものなのだろう。それがどういうことなのか追求している。ということです。
 そして、修行の先に分け隔てがない、道場も日常も同一というようなことになるのではないか。ということです。
 修行の段階で、道場と日常がを分けるべきということは先の書き込みで理由を述べたつもりですが...

>>やはり、稽古は日常では無く、から以下は昔剣士さんの考え方に同意いたします。
 
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.103 )
日時: 2014/02/21 00:16:00
名前: はくどー 
参照:

こんにちは。

肝心の「道場での飲食」というテーマになかなか行き着けなくて申し訳ないのですが。。。


今回は、「有効打突の要件」について考えてみます。

   [有効打突]
    第12条
    有効打突は、
      充実した気勢、適正な姿勢をもって、
      竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、
      残心あるものとする。

これは、全剣連の「剣道試合・試合規則」の条項です。


剣道が、「剣の理法の修練」を行うものであるならば、その剣道における「試合(ためしあい)」は、
競技者同士の「打突の成否」を判定するのではなく「剣の理法の是非」を判定するものでなくてはなりません。

  注)私は、剣道の試合は「競技(技を競うもの)」ではないと思っていますので「競技者」という
    言葉は使いたくなかったのですが、ここでは分かりやすいよう便宜的に「競技者」と表現します。

「剣の理法」というのは、これまでに述べてきたとおり、武士の精神にも共通する死生観を伴って
競技者それぞれの内面、すなわち「心の中」に存在しているものです。

しかし、審判は競技者の内面を見ることは出来ません。
ですから、競技者の外面に現れる現象を持って、その内面の理法を判定しなければなりません。

ここで気をつけなければならないのは、審判は競技者の外面に現れた現象を判定するのではなく
外面に現れた現象を判断材料として、その内面の理法を判定するということです。


そういう前提の下で、有効打突の要件を見てみます。

  要件1  充実した気勢、適正な姿勢をもって、
  要件2  竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、
  要件3  残心あるものとする。

この要件を、私は、

  要件1 は、打突前(いわゆる技前)の理法の判定要件
  要件2 は、打突時(捨て所)の理法の判定要件
  要件3 は、打突後 の理法の判定要件

と理解しています。(もしかすると、人によって異論があるかもしれませんが)


順に説明しますと、まず要件1ですが、これは「攻めの理法」の判定です。

打突前に「攻め」が必要であるということは、ある程度剣道を経験された方なら分かると思います。
あえて簡単に言うなら、本番の「打突」に備えて、前もって行う準備行動と捉えて良いと思います。

たとえば、学校の試験に臨む場合、あるいは仕事で重要なプレゼンテーションを行う場合など、
人は、前もって受験勉強をしたり、説明に必要な書類を整えたりする下準備を行うはずです。
そして、この下準備が十分であればあるほど、それは自信となって、その人の気勢や姿勢に現れます。

審判は、打突の直前の現れる競技者の充実した気勢や適正な姿勢を判断材料として、
打突前の攻め、いわゆる「技前」が、剣の理法に則った合理性のものであるかを判定します。


次の要件2は、「捨て所・捨てきりの理法」の判定です。

「打ちたい」とか「打たれたくない」という我欲を捨てて、自らの技前の理を信じて無心になり
厳しい稽古によって学び得た「剣の操法」の基本どおりの打突ができているかどうかを、
打突時の竹刀の打突部や打突部位、刃筋などを見て判定します。


要件3は、「残心の理法」の判定です。

すべてを捨てきった渾身の打突の後に、わずかに残る心を持って油断なく次の攻めへとつなぐ
残心の理法を、打突後に現れる自然な動作と姿形から判断し、これを判定します。


これら、3つの要件すべての理に適った打突が、「剣の理法に合致した理想の一本」であり、
私たち剣道家は、おしなべてこの「理想の一本」を追求すべきものと思います。

しかし、現実には、たとえ範士八段の大先生であっても、常にこの「理想の一本」を打ち続けることは
難しいだろうと思います。それほど「事理一致」は難しいことです。

特に、剣の理法を十分に習得できていない子供たちや初心者同士の試合で、この「理想の一本」を判定基準に
してしまうと、いつまでたっても勝負の決着がつかないことになってしまいます。

そこで、審判は「勝者の理」ではなく「敗者の理」をもって、理法の判定を行います。

本来ならば、すべてが理に適った打突が理想ですが、現実にはしばしば理に適っていない「偶然の打突」が
勝負を決めてしまうことがあります。特に真剣勝負であれば、理に適っていようが適っていまいが、
刀刃が一定の破壊力を持って相手の体に当たれば、相手に致命傷を与え勝利することができます。

偶然に頼った技を修練することは無意味ですが、真剣勝負の世界では偶然の技も有効打突となり得ます。

偶然の打突は、打った側からすれば「理のない打突」ですが、打たれた側は、打たれたなりの「必然の理」が
そこに必ずあります。

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」とも言います。

実は、剣道における「試合稽古」の意義は、競技者に「勝利の理法」を教えることではなく、
「敗北の理(負けた理由)」を自得させることが大切なのだと思います。

刀鍛冶が鋼を鍛えて不純物を追い出すように、私たちの剣道も、日々の鍛錬によって「敗北の理」を
一つ一つ丹念に無くしてゆくことが、結果として「勝利の理法」を身につけることになるのだと思います。

したがって、剣道の試合というのは、他のスポーツ競技のように、結果としての勝利を追い求めるものでは無く
勝負の過程における「敗北の理」を打突という行為によって互いに教え合うものだと思います。

ですから、剣道の試合では「打って反省、打たれて感謝」が大切です。


私は、剣道の試合は、スポーツ競技ではないと思っています。

「剣道は武道か?、スポーツか?」という議論になりますと、
「剣道は、スポーツの側面を持った、あるいはスポーツの要素を含んだ武道である」とおっしゃる方がいます。

しかし、私は剣道にスポーツの側面も要素もないと思っています。

剣道の試合は、その意義を知らない人の目から見れば、スポーツ競技のように見えることもありますが、
上記で説明しましたように、勝利を至上命題とするスポーツ競技とは根本から異なるものです。

これには、いろいろ異論・反論があるかもしれませんが、ここはとりあえず私の「私論」ということでご了承ください。

全剣連のHPにも、

  剣道は、剣道具を着用し、竹刀を用いて一対一で打突しあう、運動競技種目とみられますが、
  稽古を続けることによって、心身を鍛錬し、人間形成を目指す「武道」です。

とはっきり書かれています。




と言うわけで、なかなか、本論の「道場での飲食」というテーマにたどりつけませんね。

このテーマには、考えれば考えるほど様々な要素が込められていることに気がつきました。


周りから少しづつ固めてゆかないと、理論構成ができなくなってしまいそうなので、
申し訳ありませんが、もう少し長文におつきあいください。


今日のところは、これで終わります。


メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.104 )
日時: 2014/02/21 13:47:58
名前: はくどー 
参照:

こんにちは。

これまで、本来のテーマとは直接関係ないようなことをだらだらと書き綴ってきてしまいましたが、
そろそろ本題に向かって駒を進めたいと思います。


先ずは、「道場」です。

ここで議論すべき「道場」というのは、施設の名称でもなければ、施設の形状や設備等でもなく、
「剣道を行う場所」という意味での「道場」であるということを確認しておきます。

ですから、体育館であろうが、ダンスホールであろうが、サロンであろうが、会議室であろうが、
そこで「剣道」を行えば、そこが「道場」です。

つまり、「道場」というのは、その場所を使用する人たちが、そこを「道場」と認識するかどうか
にかかっているわけで、あえて言うなら「道場は剣道家の心の内にある」ということでしょう。


次に、「剣道」というのは、何をすることでしょう。
剣道の理念に従えば、剣道とは、「剣の理法の修練」をすることです。

この「剣の理法の修練」の中には、「剣の操法を厳しい稽古を通じて学ぶ」ことも
「剣の理法の奥にある武士の精神を学ぶ」ことも「試合稽古で負けの理を学ぶ」ことも、
その他もろもろの「剣の理法の修練」のために行うことは全て含まれます。

ですから、「剣の理法の修練」のために具体的な何をするかというのは、
その「剣の理法の修練」をしようとする「剣道家の心の内にある」ということが言えます。

そして、この「剣の理法の修練」をする場所は、全て「道場」であるということにもなります。


今度は「神聖」ということです。

ここの議論においては、「神聖」という言葉に含まれる宗教的概念は、いったん排除しておきます。
ですから「神聖」というのは「尊くて冒しがたいこと」というような意味であるとします。

「道場」は、なぜ「尊くて冒しがたい」のでしょうか。

それは、「道場」という場所自体が「尊くて冒しがたい」のではなく、
その「道場」で何かを行おうとする人々が、自らのその行為を「尊いこと」と認識しているため、
その行為に反するような行為や状況に対して、その「尊さを冒すこと」と感じるのではないでしょうか。

たとえば、「道場」で「剣の操法を厳しい稽古を通して学ぼう」としている人たちにとって、
その行為は「尊くて冒しがたい」ものであるから、その行為をする場所である「道場」を
「神聖」なものと認識するのだと思います。

そのため、「剣の操法を厳しい稽古を通じて学ぶ」ことをしないで、ふざけて遊び回っていたりしていると、
その「道場」で行うべき「尊い行為(稽古)」に反することをしていることになりますので、、
それは、「道場の神聖を冒す行為」として、厳しく叱られます。

ですから「道場」では、常にその道場で行うべき「尊くて冒しがたい行為」をしなければなりません。
剣道にとって、道場で行うべき「尊くて冒しがたい行為」というのは、その手段は様々ありますが
究極的には「剣の理法の修練」に他なりません。

言い換えれば、剣道にとって「剣の理法の修練」は「尊くて冒しがたい」いわゆる「神聖な行為」であるから
その「神聖な行為」である「剣の理法の修練」をする場所ならば、そこは、どこであっても「神聖な道場」である
ということにもなります。

体育館でも、ダンスホールでも、サロンでも、会議室でもです。

つまり、道場の神聖さということも、突き詰めれば「剣道家の心の内」の問題であると言えます。



ここで、今回の「道場での飲食」というテーマの発端となっている、

 中学校の剣道部で、父兄を交え、飲食を伴った「卒業生を送る会」というのを顧問の企画で行う

ということを改めて考えてみましょう。


この「卒業生を送る会」の趣旨について、顧問はどのように考えているのでしょう。

単に、生徒父兄を交えて互いの親睦を深めるということのみが目的であるのならば、
これを道場で行うのは、やはり問題があるでしょう。

互いの「懇親を深める」ということ自体は、決して悪いことではありませんし、
剣道部としてのチームワークを形成してゆくという意味では大事なことだとも思います。

しかし「剣の理法の修練」するべき「道場」において、「親睦」を目的とする会を開催する
必然的理由は、あまり無いように思います。

昔剣士さんの、「別の場所で開催しても良いのでは」という意見は十分に理解できます。

しかし、顧問が、この「卒業生を送る会」に対して「剣の理法の修練」のための指導的意義を
持っていたとしたら、どうでしょう。

生徒たちは、中学校での3年間の厳しい剣道の修行を終え、この「送る会」を境に、
新たな世界に旅立ってゆくのです。

生徒たちそれぞれの心の中には、様々な不安や迷いもあるでしょう。
また、その生徒たちを育て見守ってきた父兄それぞれの胸にも去来するものがあるでしょう。

しかし、3年間生徒たちが血のにじむ思いでその道場で学んできたこと。
それを誇りとし、それを自信に変えられれば、
それは、全ての不安や迷いを捨て去って、生徒それぞれが新たな未知の世界へ飛び込んでゆく
正にその「捨て所」に、この「送る会」を位置付けることが出来るはずです。

こういう発想が出来れば、剣道の指導者ならば、さらに様々な指導的意義を付加することによって
この「送る会」を立派な「剣の理法の修練」の一環として開催することが可能だと思います。


ただ、ここで勘違いしていただきたくないのは、上記のような屁理屈を付けて、
懇親会を剣道の修行の一環にしてしまえ。ということではありません。

指導者が、剣道に対してどのような思いを持って、その自分自身の剣道をどこまで掘り下げて考え
それを指導にどう生かすかということを、常にきちんと考えていることが大切なのではないか
ということを申し上げたいのです。


別スレで話題になった、体罰・暴力の問題でも。

剣道の厳しい稽古というのは、剣道の意義をよく分かっていない第三者や、経験の浅い一部の剣道家からは、
それが体罰や暴力に見えてしまうことが往々にしてあります。

しかし、指導者がその厳しい稽古の意義をしっかりと把握して、それを第三者にも正しく説明することが出来
かつ、責任を持って行うことが出来るならば、それは体罰や暴力にはなりません。

指導者自身がその厳しい稽古の意義を分かっておらず、ただ昔から行われてきたことだからとか、
他の道場でもやっていることだからと言って、その稽古の意義を検証すること無しに続ければ、
それは、ある日突然、体罰や暴力の問題として浮上し、指導者を襲ってくるかもしれません。

それを回避する方法は、指導者自身がその意義を分かっていない稽古は行わないということと、
自分が指導上行っている稽古に対しては、その意義を、剣道を知らない第三者に対しても
分かりやすく説明できるようにしておくことだと思います。


また、剣道の試合稽古というものが、剣道の意義をよく分かっていない第三者や、経験の浅い一部の剣道家からは、
それがスポーツ競技と見えてしまうことがあります。

しかし、指導者が剣道の試合の意義をしっかりと把握して、それを第三者にも正しく説明することが出来、
かつ、責任を持って参加させることが出来れば、それはスポーツ競技ではなく、剣の理法の修練のための
稽古の一つになります。

多くの指導者が、剣道の試合稽古の意義をよくわかっていないまま、ただ試合での勝利を目的に参加し続ければ
剣道は、いつの日かスポーツ競技になってしまうかもしれません。
(スポーツ競技を卑下しているわけではありません。剣道はスポーツ競技とは違うということを言いたいだけです)


道場での飲食を伴った会の開催は、剣道の意義をよく分かっていない第三者や、経験の浅い一部の剣道家からは、
それが、単なる懇親の会と見えてしまい、不謹慎な行為と思ってしまうかもしれません。

しかし、指導者がその会の意義をしっかり把握し、第三者に対しても、それが「剣の理法の修練」の指導の一環で
あることを分かりやすく説明でき、かつ責任を持って開催するならば、神聖な道場を冒涜することにはならないと思います。




というわけで、今回のテーマに対する、私の結論としては、

スレ主さんが、一番最初におっしゃっているとおり、

>顧問の考え方次第ではないかと思います

>良い目的と礼節を持って行えばやってもいいんじゃないのかなと思っているところです

ということだと思います。

ただ、大切なことは、その顧問の先生が、ご自身の考えを正しく父兄の方に説明し、
「卒業生を送る会」を道場で開催することの意義をしっかり理解してもらうことですね。



なんか、「大山鳴動してネズミ一匹」でした。

長い間おつきあいいただき、申し訳ありませんでした。m(_ _)m

メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.105 )
日時: 2014/02/21 17:35:53
名前: いもむし 

 はくどーさん。

 大変ありがとうございます。目から鱗の説明もありとても勉強になります。やはり剣道の本質的なところを説明しようとするとこのぐらいのボリュームになりますよね。
 もっと詳しくせつめいしたらボリュームは何倍になるのか。

 私も先生の話を聞いたり、色々な書物を読んだり、稽古で色々試したりして剣道とはなんぞ?人間形成とは?と常に自分に問うてるつもりですが、何分頭の中が整理できていません。

 今回の書き込みも行き当たりばったり感満載ですしね。

 一度自分の頭を整理するつもりで。紙に書いてまとめてみようと思います。



 
メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.106 )
日時: 2014/02/21 21:51:00
名前: 昔剣士 

いもむしさんへ

御理解頂き有難うございます。

文章が論戦調になった事をお詫びします。

道場で一般まで対象としている所は少なく、殆どが
中学生以下だと認識しております。

子供が対象である場合やはりけじめは必要で有り、
まずは、稽古を正しく認識させる方が先だろうと
の思いより、非日常は譲れませんでした。

昨今の試合偏重も「これ位は」から始まったのでは
無いかと推測しております。

今は中庸より厳しめというのが良いのだろうと思いま
す。

はくどーさんへ

長期にわたるご説明有難うございました。

その殆どは同意いたします。

しかし、中学校の道場の場合はやはり第三者の視線で
理解できるものとする必要があり、

>剣道の意義をよく分かっていない第三者や、経験の浅い一部の剣道家からは、
それが、単なる懇親の会と見えてしまい、不謹慎な行為と思ってしまうかもしれません。

と思われてはならないと思います。

やはり、稽古であれば、剣道着着用は当たり前であ
り、当然物理的な稽古も必要だと思います。

その上で、水分及び栄養補給のための物は飲食可能
であり、その際に車座になって剣道を語り合うという
のであれば、顧問が校長より許可を得て開催する事
は可能だと思います。

そこまでして、やっとパブリックでも開催できるの
だろうと思います。

「何処をどう捉えても稽古だ。」といえるところまで
しなくては、第三者に対抗できないでしょう。

所詮、修行はプライベートであり、パブリックには理
解できない事でしょう。

長きにわたりご説明頂き感謝申し上げますが、やはり
会を行う事は不可であり、稽古で有れば許されるとの
私の結論は変わりません。


メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.107 )
日時: 2014/02/22 10:38:14
名前: はくどー 
参照:

こんにちは。


>>105 いもむしさんへ

長い間、おつきあいいただきありがとうございました。

>一度自分の頭を整理するつもりで。紙に書いてまとめてみようと思います。

そうですね。剣道に対する思い、考え、理解というものは、剣道家一人一人によって
全て異なるものと思います。
私がここで述べてきたものが、必ずしも正解というわけではありません。

しかし、自分自信が今取り組んでいる、その「自分の剣道」に対して、それぞれが矛盾を
抱えないように、すなわち「無理」がないようにしておくことが大事だと思います。

どんな小さなことでも、そこに矛盾を感じたら、それをそのままにしておかないで、
とことん追求し、自分なりに「無理」を解消する答えを持っておくべきだと思います。

それが、「剣の理法の修練」ということなのだと、私は思っています。

一緒に頑張りましょう。お疲れ様でした。



>>106 昔剣士さんへ

>長きにわたりご説明頂き感謝申し上げますが、やはり
>会を行う事は不可であり、稽古で有れば許されるとの
>私の結論は変わりません。

はい、了解いたしました。

最後はやはり、その場における指導者の考え方次第ということになると思います。

指導者自身が、その指導に対する確固たる信念を持ち、剣道を知らない第三者の視線に対しても
きちんと説明責任を果たせるのならば、自信を持って堂々と行えば良いと思います。

そして、もしそれが第三者の視線で理解できるものとすることが難しいと考えた場合には、
それを行わないと判断するのも、また確固たる信念だと思います。


さて、ここからは、少々蛇足になりますが。。。

このスレッドへの参加をきっかけに、周辺のスレッドもいくつか拝見させていただきました。

そこで述べられていた昔剣士さんのご意見は、私としてはおおむね賛同できる内容のものでした。

しかし、その意見が他の方々にはなかなか受け入れられていないのも事実でした。

おそらく「剣道」に対する視点が違うのだと思います。

多くの人は、クジラは黒くて横に長いものだと思っています。

昔剣士さんは、クジラを真下から見て、白くて縦に長いものだと主張します。

ですから議論がかみ合いません。そして議論がかみ合わなくなると、
「私は事実を述べています」「それが分からない人とは議論できません」と切り捨ててしまいます。

なんか、天動説を信じている人の前で「それでも地球は回っている」と地動説を唱えるガリレオ裁判を
思い描いてしまいました。

昔剣士さんが、海中に潜って真下から見たクジラを知っているということは、
それ以前に、海上から見た黒くて横に長いクジラの姿も知っているはずです。

だったら、海上から見たクジラしか知らない人にも分かるように、
海中から見たクジラのことを丁寧に説明すれば良いのです。
それをしていないから、互いの意見の言葉尻を捉えての批判の応酬になってしまっています。

表面に現れる言葉尻に惑わされることなく、その意見の真意を探ることが大切だと思います。
これは、外面的な「当たった当たらなかった」という現象に惑わされることなく、
競技者の「内面の理法」を見極めて正しく判定するという
「剣の理法の修練としての試合稽古」における審判の在り方にも共通するものがあるように思います。

いずれにせよ、主張が通らないのは、通らないなりの理由があるはずです。
「負けに不思議の負けなし」ですね。


と、余計なことを申し上げてしまいました。決して他意はありません。
「私は、昔剣士さんの意見におおむね賛同し、応援していますよ」
ということを申し上げたかっただけです。


最後に、他の皆様も、長々と私個人の「私論」におつきあいいただきありがとうございました。

また、議論の論点を引き戻すためとは言いながら、皆様の書き込みの一部を皮肉っぽく引用してみたり、
やや挑発的な内容を書き込んだりしてしまったことを心からお詫び申し上げます。

特定個人を攻撃するような意図は全くなかったのですが、後から読み返してみると
不適切な表現があったなと反省しています。申し訳ありませんでした。

また、この掲示板をお貸し頂き、暖かく見守って下さったHide.さんに感謝します。
内心は「自分の掲示板でやれよ!」と思ったかもしれませんね。(笑)

ありがとうございました。m(_ _)m


メンテ
Re: 道場での飲食について ( No.108 )
日時: 2014/02/22 14:46:04
名前: 昔剣士 

はくどーさんへ

>最後はやはり、その場における指導者の考え方次第ということになると思います。

仰る通りです。

責任を持って御判断いただければと思います。


>なんか、天動説を信じている人の前で「それでも地球は回っている」と地動説を唱えるガリレオ裁判を
思い描いてしまいました。


私なりに説明はしたつもりなのですが、伝わらない
のは力不足でしょう。

>「負けに不思議の負けなし」ですね。

仰る通りです。

>余計なことを申し上げてしまいました。決して他意はありません。


まだまだ、この性分と格闘する事に成りそうですが、
修業を続けていきたいと思います。

鋭いご指摘ありがとうございました。

メンテ

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