記事タイトル:上席について 


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お名前: Hide.    URL
まぁ、信仰の問題というのはいろいろと厄介ですので、あまり深く追求すると思わぬトラブル
に発展したりすることもないとはいえません。同様のものに「日の丸問題」もありますね(^^;

子どもたちには、思想や宗教というものを離れて、純粋な心で道場に立ってほしいと考えます。
[2003/07/01 12:27:07]

お名前: 八つ頭   
剣志郎さん、ヒデジーノさん、Hideさん
ご意見ありがとうございます。

私の育った家には神棚もありましたし、仏壇もありました。
自分が現在ここにいるのは先祖のおかげと祖母に教えられ、今日の無事を神様にお願いしなさい
と父に教えられた様に思います。

友人が言いたかったのは 公共の建物には有形の神仏は本来奉るべきではない ということのよ
うです。
勿論いろんな考えがあると思います。
このような話題に関して深く考えたことがなかったものですから、歴史的背景があるのだろう
としか言えませんでしたが、私も皆さんと同じように日本文化の習慣的なもの 感謝の気持ちを
「礼」という形で表しているという風に考えます。
おそらく彼にはもっと違う面からの考えがあるのでしょう。
私もここまでにしておきます。これ以上の考えを求められても今言った事以上のことはことばが
出ません。皆さんありがとうございました。
[2003/07/01 00:18:37]

お名前: Hide.    URL
管理人のHide.です。

公共の建物だって、建築するときには、ちゃんと「建前」などのお祓いの儀式をしてるん
ですがね(笑)

別に特定の宗教を強制しているわけでもあるまいし、「剣道の神様が祭ってある」「みん
ながケガのないように見守っていてくれる」で解決がつかないのでしょうか?(^^;

人間困ったら、神様だろうが仏様だろうが、どこの宗派だろうがすがりたくなるのが心情。
「頑張りを誓う対象」として神殿があってもなんら不都合はないと考えますがねぇ(^_-)〜☆
[2003/06/30 18:55:06]

お名前: ヒデジーノ   
>「何で武道館に神様が祭ってあるのか」と言うことです。
公共の建物なのに神仏を祭るのはおかしい
 
昔の人(日本人)ならそんな質問、疑問を持つ人は居なかったんだろうなと
想像してしましました。
 「公共の建物だからおかしくて、個人の道場なら」というのもなんか納得が
いきませんね。その友人という方の中では納得できるんですかね。

 私の意見としては、日本の歴史の中に武道を司る神様が居てその神様に
道場に居てもらい、自分を見守って頂いている。とういことです稽古中に
怪我が無く、一生懸命努力しますので上達を祈願する。という意味で神棚に
礼をしています。道場では神棚がありますが、体育館とか中学の武道場では
神棚を置いていません。しかし、気持ちとしては、上座に神棚があるという
ことに仮定して礼をしています。子供たちにも何で上座に礼をするかという
説明は上記のように言っています。

 人の気持ちはそれぞれでだと思います。自分が納得してそれをしているか
が大切なのではないでしょうか。そして、そこに自分を納得させれるだけの
理由があるかだと思います。何となく流されて、みんながしているからという
だけの理由だと、気持ちは不安定になってしましますよね。私なんて不安定だ
らけですけどね。
[2003/06/30 08:08:41]

お名前: 剣志郎   
ひさかたぶりの登場です…-y(^o^)..oO○

八つ頭さんへ☆
「上席」「上座」「壇上」「正面」「神前」といろいろ呼び名がありますが、上席への礼は
歴史的日本文化と理解するのがよろしいのではないでしょうか?

私の独学的意見を申しますと…
「剣道場」が「道場」と呼ばれ始めた理由には「禅」の考えを取り入れた歴史的背景があり
ます。 そもそも「人を斬る」という行為は「並々ならぬ精神力」を必要とするはずです。
(近年フォクランド紛争でナイフによる白兵戦が展開されたとき、それに参加した兵士全員
が精神に異常をきたしたという例もあります…)
その精神力を得るため、先人たちは「山篭り」「五穀絶ち」等の自然と対峙して「野生」を
取り戻す行為を行いました。また、その過程で行われた行為が「修験者」「神官」「佛僧」
などの宗教家のが精神を鍛える行為に類似し、また真似る(取り入れる)ことによって「必
要な精神力」を鍛錬してきました。こうした鍛錬の行為を仏教用語から「修行」と言います。

そして、人間はそうした行為を行うと自分の中に神を見出すそうです。それを「悟り」と言
います。古流の創始者の殆どがこうした修行を積み、悟りを開き、兵法を極めて行きます。
そして、そうした修行の場所を「道場」といい、「俗世にあって深山の如く、心を鍛えるた
めの神聖な場所」と言う考えから、神棚を奉り、場を清めました。

また、日本における神道は自然崇拝の宗教であり、感謝の対象でした。一方、仏教は平和や
幸せをを願う哲学宗教であり、武力のものを否定する傾向にありました。したがって、どの
道場も神棚を奉る傾向が多い様です。しかし、日本の面白い処は神棚を奉ったりしている一
方で、「道場」や「修行」など仏教用語も多く、神仏混在しているところがもはや宗教とい
うより、習慣性の文化のように思います。

また昔は「宗教」と言うのは唯一の「社会道徳」であり、現在のような「オカルト」や「超
常現象」の類ではありませんでした。寺や神社は唯一の教育機関であり、道徳と共に学問を
学ぶところでした。ですから、自然と仏法や所作は民間に広まり、特定の宗徒でなくとも、
普段の生活の中に溶け込んでいました。ですから、現在の感覚とはまったく違っていたと思
います。

現在はその精神と所作だけが引き継がれ、特定の宗教色を廃したものに変わっています。で
すから呼称も「正面」「上座」などの言葉に変えれています。あまり私は宗教めいている様
には感じませんが…。

そもそも、道場があり、仲間がいるから稽古が出来るわけであって、その感謝の気持ちを「
礼」という所作で表しているに過ぎないと感じています。大きな大会などでは「相互に挨拶
を交換します。正面に!礼!」なんて感じですよね? 歴史的経緯はともかく、そうした気
持ちの現れってことでよろしいんじゃないでしょうか?
[2003/06/29 17:04:30]

お名前: 八つ頭   
はじめて投稿します。
書いて善いものやら迷いましたが、友人に聞かれたことで返事に困ったことがあります。
管理人さんのhideさんのご判断で削除いただいて結構ですが、出来ましたらアドバイスください。

題名の上席ということに関してですが、「何で武道館に神様が祭ってあるのか」と言うことです。
公共の建物なのに神仏を祭るのはおかしい というのです。
個人の道場ならともかく いくら古い武道館だからといってもおかしいと言うのです。
私は気にしたこともなかったのですが、確かに私の住む市の武道館には神札のようなものと達磨が祭ってあったように記憶しています。
上席に礼 との掛け声で当たり前のように一礼していましたが、言われてみれば・・・・というところです。
歴史的背景があるのだろう としか言えませんでした。
私は何の知識も持っていませんで、単純に剣道が好きだからやっているだけなんですが、考えなければいけないことなんでしょうか。

私の練習場所は体育館で神様はいませんが その時間だけ上席に会旗を祭り「上席に礼」をしています。この会でお世話になっていますから当然のことだと思っていました。

うまくまとまりませんが ご意見お願いします。
[2003/06/28 15:33:01]

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