記事タイトル:恩師を偲ぶ 


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管理人のHide.です。

ご恩師のご逝去、衷心よりお悔やみ申し上げます。

残念ながら私は斉藤敏男先生のことをまったく存じ上げませんが、小兵衛さんのカキコで、
おぼろげながら、その人となりを知ることができうれしく思います。
また、剣道界は大きな星を失ってしまったということなのですね。まことに残念です。
そうしたすばらしい先生にご指導いただいた小兵衛さんたちお弟子さんが、いつまでも先
生の遺徳を語り継ぎ、その剣の心を伝承していくことこそ、先生に対するご恩返しと考え
ます(合掌)
[2004/02/13 17:48:11]

お名前: 小兵衛   
皆様、こんばんは小兵衛です。
2月8日(日)に、我が母校福井県立藤島高等学校でご指導を賜った、斎藤敏男先生がご逝去さ
れました。91歳の、まさに大往生でした。PAPAさんも、私と同じく先生の薫陶を受けた剣
友であります。ここに、先生の遺徳を偲び一言のカキコをお許し下さい。

恩師は、京都帝国大学で哲学を専攻し、母校で教鞭を取られました。常に「五輪の書」を座右に
置き、二刀流を深く研鑚しておられました。我々が高校生の頃は、60歳になろうとする頃でし
たが、大変お元気で、よくお稽古をつけて戴きました。
恩師は、「正二刀」の構えを取られました。当時、私も若く元気一杯の頃でしたので、ひたすら
掛かっていきました。しかし、どれほど打ち込めたでしょうか。実際、高校生で打ち込むことは
殆ど無理でした。今覚えておりますのは、恩師の静かなる面立ちと、気迫に満ちた「先の技」で
す。

当時の母校には、斎藤先生と高野先生のお二人がいらっしゃいました。高野先生は、福田武道具
の福田先生の友人でいらしゃいます。
当時の思い出の一つです。斎藤先生に掛かっていった後、高野先生に掛かっていきました。ひた
すら高野先生に打ち込むのですが、触りもしない。剣道場の隣は、バレー部のコートで、これを
しきる「防球ネット」ありました。体当たりで吹き飛ばされ、巧みにネットの反動を利用して、
掛かるのですがもう全く出す技がありませんでした。その時、朦朧とした意識のなかで、思わず
「諸手突き」にいきました。斎藤先生は、静かにご覧になっておりました。技が決まったかどう
か、もちろん覚えておりません。ただ、記憶にあるのは、斎藤先生の「その気迫だ!」の大きな
声です。あの「諸手突き」は、私が初めて出した突きでした。

もうひとつ、これは高野先生から聞いたお話です。高野先生は、日体大ご卒業で、福井国体の時
日体大、早稲田、国士舘の同期の先生方と共に、福井にいらっしゃいました。国体は、優勝でし
た。
「福井に来て、国体の強化練習では、斎藤先生とよくお稽古したよ。当時は、我々も大学卒業し
たばかりで血気盛んなころ。随分掛かっていったが、先生の腕の強さは並外れていた。二刀で竹
刀を上からパッと押さえられると、技が出なかった。」
斎藤先生は、もちろん剣道の専門家ではありませんでした。しかし、その気迫で、若き勇者と対
等にお稽古をされたそうです。

私は、大学進学後、郷里に帰省の折には、また斎藤先生に掛かって参ることになります。この時
には、度胸もついた私は、斎藤先生に「諸手突き」を出すわけです。が、同じくパッと押さえら
れた私は、右手太刀による「片手突き」を頂戴致しました。
後年私は、長野県にて荒関富三郎先生に、足掛け4年ご指導戴きましたが、戸惑わずお稽古でき
たのも、恩師斎藤先生のご指導があればこそです。但し同じく打ち込めませんでした。

今ごろ恩師は、天国で宮本武蔵と「二天一流の形」を打っておられるのでしょうか。それとも、
「五輪の書」の解釈に関して、宮本武蔵と対談されているのでしょうか。
                                         合掌
[2004/02/12 21:31:15]

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